遅牛早牛

時事雑考「2023年5月の政局観-総選挙への助走と維新-」

(台風2号が異常発達と聞く。ふと皐月台風と維新が重なる。ところで解散総選挙の予想が、浜辺に浮かぶ軽石のように目につきはじめた。時期は秋という。しかし、千人がそう予想してもこれだけは分からない。それを承知の上で、筆者も予想に走る。当たり外れと同時に、予想の筋つくりが頭のなかを整理するのにちょうどいいのである。だから、時期と同時に得票動向にも政治の真実をもとめて妄想を重ねている。

 G7広島は成功であったと思う。核兵器削減・廃絶を主目的とするならば失敗と批難されてもしかたがないが、先進国サミットの流れを前提にするかぎりここまでという判断は尊重されるべきであろう。限界があったとしても前進であったと思う。

 ゼレンスキーだけでなくプーチンの参加も、との声が聞こえてくるが、G7では無理筋であろう。対ロシア非難国、制裁国が中心のウクライナ支援国会議であるから、プーチン非難の流れは変えられない。また、直ちに停戦をと主張するのが平和主義者の作法であるかのごとき意見もあったが、その停戦ラインが事実上の国境線となることを承知の上での発言なのか、そうなれば侵略優位の発言であるから平和主義とは矛盾するではないか。ここに大きな悩みがあるといえる。立場や考え方に差があったとしても、ここは侵略者に痛打を与えなければならない。でないと侵略が繰りかえされるであろう。

 さて、国内では日本維新の会が台風の目になりつつある。支持率が大きく回復しているキシダ政権ではあるが、不思議なことに勢いは守勢である。維新vs立憲の争いに漁夫の利をねらっているのか。うろんな話である。

 好感度が低いからといって立憲たたきに奔走し、リベラル退治に熱中しすぎると思わぬ反撃を受けるかもしれない。政権批判票の受け皿であるはずの維新が野党第一党取りに熱をあげすぎると、くるはずの票がこなくなるかもしれない。多少なりとも選挙調整をやらなければ、キシダ政権のガードマンではないかと思われるぞね。これが今回の主題である、例によって敬称略の場合あり。)

さて、国会は残り4週をきり、終盤へ

 連休があけると後半国会である。今年は延長がなければ6月21日に閉会をむかえる。また、残り会期が4週を切るころになると、法案処理のラフスケッチをまえに、与野党の国対(国会対策委員会)は思惑と駆けひきの空間に閉じこもる。

 さて、政局の焦点である解散総選挙である。その話の前提には「G7広島」の成功が必須条件となっているが、今のところ成功というべきであろう。まずは順調といえる。

 さらに、G7後の内閣支持率の動向に注目があつまる。ちなみに、今月20、21日におこなわれた毎日新聞の全国世論調査によると、岸田内閣の支持率は45%で、4月15、16日実施の前回調査36%から9ポイント上昇したと伝えられている。なお不支持率は46%で10ポイント下げている。〈毎日新聞2023/5/21/15:54(5/22/11:09)〉他の調査においても支持率は上昇していると思われる。私見ではあるが、内閣支持率は照度計であって評価計ではない。感染症の収束が世の中を明るくしているだけのことで、G7も大過なくうまくいったことへの安心感の反映であろう。後述する物価上昇による生活圧迫や増税、負担増をキャンセルするほどの威力などは、もとからないというべきであろう。

 ということで、G7が首尾よくおさまったからといって、解散総選挙の青ランプが点灯しているかといえば、そうはならない。なぜなら支持率を紡ぐ民意には奇矯なところがあって、一筋縄ではとらえられないというよりか、G7は食べたい餅ではなかったということではないか。

 では食べたい餅とはどんな餅なのか。それが分かれば苦労はないわけで、おそらく総選挙の勝敗を決する「食べたい餅」をめぐり各党それぞれに悩むところであろう。とくに、立憲民主党は結党(2020年9月)以来の最大の危機を迎えているから、もしアベ流であるなら、立憲にとって最悪のこのタイミングでの解散総選挙こそが、立憲を押しつぶすチャンスであると考えるであろうが、維新の隆盛が報じられるなかで、立憲から維新への野党第一党の移動がキシダ政権にとってどんな利益となるのかについて冷静に考えれば、リスクの割にえるものが少ないことにたぶん気がついているのであろう。また、別のリスクとして自公の選挙調整が難渋していることもあり、解散総選挙へのふみだしがむしろ鈍くなっているように思われる。とくに、このタイミングで立憲をつぶす意味はない、つまり代表がないがしろにされ、求心力を欠いた弱い立憲にはむしろつづいてほしいのに、わざわざつぶしにいくことはないというのが、常識的な論理なのである。

 

 もちろん、ここは呼吸が整えばうってでるのが自民党流だと断言すべきであるが、G7後の情勢の好転に、自信を深めているのかもしれない。党内世論は秋以降に移りつつある。政局からいえば、国会会期を延長してでも解散総選挙にもちこむことが上策だと筆者は思う。が、政権の応援団ではないので、声をあげることもない。ところで立憲の泉代表は野党が一致しないかぎり不信任案を提出してはならない、どこを向いているか分からない銃の引き金を自分でひくことはない。さいごまで、党再生の道を探るべきであろう。

「倒閣ののろしは台所から」と「物価の恨みは投票所で」

 ところで、連休があけてから2回ばかり上京したところ、8か月の間になにもかも高くなっていた。まことに年金生活者には過酷ともいうべき物価上昇がニューノーマルとなりつつある。くわえて医療費なども窓口での支払いが増えているようで、理屈は分かっていても気分はよろしくないのである。

 日々の生活を背負う身にとって物価上昇は敵であり、さらにやみくもに物価をあげようとする日銀はそれ以上に敵であるから、毎日が「反日銀的気分」に満ちあふれている。くわえて、定期預金の利息での旅行を楽しみにしていた高齢者の不満が感染症規制解除をきっかけに芽吹く季節がやってきた。こういった気分が分かるかな、分かんねえだろうな。

 「倒閣ののろしは台所から」はじまるのだ。だから、G7の成功とは関係なく高齢者のむかっ腹のほうが選挙にははるかに効くだろうというのが、筆者の実感である。(消費増税の怖さは身に覚えがあるのだろうが、物価上昇の怖さは覚えすらないのであろう。秋の選挙は与党の異次元の敗北をよぶかもしれない。)ということから年末あたりまで実質所得減がつづくようだと生活者の不満がたかまり、政権にとっての解散総選挙のタイミングが失われるのではないかと思っている。つまり岸田総理にとっての好機(解散)は考えられているよりももっと前で、6月が最終ラインではないか、世間でいうボーナスをもらっていい気分のうちに、と思う。

解散権は制限した方がいい

 筆者は、いわゆる7条解散(天皇の国事行為にかこつけた解散)には反対であり、制限すべきと考えている。なぜなら、真正な選挙で選ばれ憲法上は4年の任期と定められている衆議院議員を一方的に解任する権限は、内閣不信任案可決時のみであり、それ以外については法には明記されていない。もちろん高度な政治性と累積された経緯から、直ちに憲法違反とはいわないが、政治的には衆議院議員の地位を不安定にする意味で不健康であり、また過度に選挙を意識させることから議員をして構造問題を考える時間を滅失させているという意味で有害であると考えている。

 たとえば、政権が専制色をつよめた時に、たたみかけるように解散を連発すれば、政敵あるいは対抗政党を消耗させることも可能になるが、そういった事態において有権者が投票行動で対抗措置をとるのかといえば、おそらくそうはならないと否定的に考えざるをえない。

 このような議論になると、とかく有権者の判断が全面的に正しいとする主張がでてくるのであるが、正しいときもあれば流行熱に浮かされるときもあり、事は単純ではない。衆智を集めればかならず正しい結論に到達するともいえない、さらに衆愚の危険もあって、そういう意味で民主政治には何重もの安全装置がひつようであろう。

 つまり行政権への牽制策として、一人の総理大臣に、国民の代表である国会議員を瞬時に解任できる権限を無条件で与えるべきではない、ということである。三権分立において総理に権限を与えすぎると、衆議院が行政府と参議院に対し劣位においやられて、そうこうしているうちに民主政治が劣化していくのではないかと、危惧している。

 

解散総選挙にこだわるのは、来年9月の総裁選挙の地ならしのため

 さて解散総選挙であるが、議論があるにしても現実には年内実施が確実のようで、おそらく早まることになると思われる。そこで、年内に解散総選挙をやる狙いはひとえに岸田氏の覇権確立であり、それは来年の自民党総裁選の仕切りをどうするのかということで、具体的には有力な対抗馬の無力化であろう。次期総裁選をのりきれば都合6年であるから、在任期間としては結構なものといえる。

 ではそういった目論見どおりにことが運ぶのかといえば、ふつうはいくつかの関門がまちかまえているはずであるのだが、それが「凡の非凡」というか下世話にいえば「ついている」のである。なにがついているのかよくは分からないが、不思議なことに関門のほうから逃げていく。こういうのは人智を超えた事象であるから、まことに論の対象外つまり論外であって、不思議なことというしかないのである。

岸田総理のツキは立憲から

 岸田総理の最大の「ついている」点は、なんといっても立憲民主党の不調であろう。同党が、2020年9月の合流をなしてからも、なお不調というのは支援者に対して恥ずかしいことであろう。いつまで続くのかという不安感がひろがっている。この立憲民主党を取りまくもやもや感こそが、キシダ政権にとって理想的な環境といえよう。

 この立憲民主党の不調の原因については、弊欄時事雑考に「2020年真夏日からの政局」(2020年8月14日)、「2020年、秋の政局の始まり」(2020年9月1日)、「2020年秋、総裁選と代表選の競争」(2020年9月9日)、「二大政党制は幻影か?立憲民主党に贈る花束」(2020年9月29日)として詳しく分析し、その後を予想したつもりであったが、残念なことに不調のほうに傾いているようである。なかでも、9月29日のものは花束に棘があったようで、また皮肉もまじっていたことから今さらながら決まりの悪さを感じている。

日本維新の会が自力で100議席を超えられるのか

 さて、今を盛りの日本維新の会であるが、焦点は自力で100議席を超えられるかであろう。多くの人は「微妙」であるとみているのではないか。たしかに、春の統一地方選と国政補選では破竹の勢いであったことはまちがいない。また、その議席なり勢いを外延すれば驚くほどの躍進が予想され、期待感が高まるのは自然ではある。しかし、政権選択を前提とする衆議院選挙において、雪崩現象をおこすほどの「起爆力」を今の維新がもっているのか。さらに地力と政策に対しても筆者はすくなからず疑問をいだいているのである。

 その一つは、新自由主義についての評価であり、自己責任の位置づけである。弱者に辛口なのが売りとは思っていないが、リベラルを攻撃するあまり、勢いがすぎて弱者批判に流れやすいといった癖があるのではないか。そういうところはしっかり整理をしておかないと国民政党にはなりえないということである。

 くわえて政治手法についても、たとえば、自民党との関係でいえば安倍・管時代と岸田時代とではなにがどう違うのか、ずいぶんと疎遠になったのではないか。逆に、安倍・管時代はなにが理由であんなに仲がよかったのか。合理的な説明にはついぞお目にかかれなかった。それはそういうものだということなのか。それにしても人的つながりが、機関よりも優先されすぎると組織の安定性をそこなうのではないか、という指摘である。ということで、公党間の関係や諸団体との交流についてどういう流儀で仕切っているのか、よく分からないのである。とくに、個別の人間関係を優先することについてとやかくいうことはないが、そういう作風であると世間からの認知をえておかないと、いらぬ誤解がうまれるのではないかと心配している。(よけいなお世話であろうが)

 選挙戦ではみごとなぐらいのワンボイスなのに、日常では個性に富んだ発言でざわざわしているのはどうしてなのか、中道グループだと思っているだけに気になるのである。

 もちろん、個別政策については中道右派路線と思われるし、たとえば雇用における金銭解雇をのぞけば労働政策では連合との間にとくだんの差異を見いだすことは難しいようで、つまり政策では旧民主党との親和性があると思われるが、政治術での手法の違いが連合などの労働団体との差異を大きく見せているのではないか。とくに、ことさらエッヂを立てて対立を際立たせる点では立憲左派によく似ているが、権力機構の利用については立憲よりもはるかに器用であり、戦略的にみえる。このあたりは、自民、公明、国民などと共通する面があると受けとめている。

政権への挑戦から野党第一党への挑戦へと目標のシフトダウンは凶か?

 すこし脱線したが、統一地方選挙と国政補選において大きく前進した勢いを背負い、きたるべき総選挙において与党を過半数割れに追いこむことができるのか、ということが最大のテーマとなるべきであったが、そこは大上段に構えるのではなく、いや、それは次の次であって当面の目標は野党第一党を奪取することであると、すぐさま「現実論」にさしかえたが、そういった処世術のような対応が、事態を分からなくさせているように思われる。

 とくにその「現実論」には、維新自身にとっての自己抑制論が入れ子構造になっていて、いいかえれば「立憲はこえても自民はこえない」と、もっといえばわが国の政権構造をかえないですむ程度の「ビビらせる」躍進が狙いであると。これはとても分かりやすい。維新のこういうタッチを人びとは好感しているのかもしれない。

 ということで、維新自身が強固な結界をもうけてしまったので、筆者としてはそれを尊重し、維新と立憲あわせて150議席が限界であると、失礼ではあるが、そのように仮定したところである。

 その理由は、 ①与野党の対決構造ではなく、どちらかといえば野党間対決構造に近いことから、立憲と維新のゼロサムゲームになるのではないか。 ②選挙争点が政権選択ではなく、政権批判あるいは政党間の差別化に特化し、結果として与党が安全地帯にのがれることになる。 ③政権に直結するスキャンダルがない。などの理由から、野党内での順位争いだけが話題の総選挙となり、迫力を欠くものになるといったところである。

 ということは、特定の支持政党をもたない層にしてみれば面白味のないもので、投票所にいく気のしない、つまりかなり低調な(投票率の低い)選挙が予想されるということになり、そんな選挙で、立憲+維新が200議席を超えられるとはとうてい考えられないのである。

計りかねる維新ブームの深さ

 空白区への新人候補の投入には手間ひまがかかり、知名度が低ければ苦戦することになる。そこで今回の維新ブームがどの程度のものなのかについては、各党ともに判断に苦慮しているのではないか。選挙戦は、敵を知ることからはじまるものであるから、とくに与党(自民、公明)と立憲にとって「維新ブーム」の真相を明らかにすることが先決であろう。たとえば、キシダ政権への批判票が立憲をとびこえ維新にながれたとするなら、きたるべき総選挙での政権批判票の行先の多くが維新あてと予想される(だれが予想しているのかは例によってはっきりしないが)ことから、立憲が野党第二党に転落する可能性が高いという予想が流布されているのであろう。

政権批判票のゆくえ、ふたたび維新へ向かうのか

 自民からはなれていく(政権)批判票はどちらかといえば近くの政党に流れやすい、つまり立憲には流れにくいということで、それが意味しているのはとりもなおさず立憲が中道政党ではないと思われているということであろう。このあたりは、中道層の取りこみが党の存続に直結する最重要課題であるにもかかわらず、議論だおれに終わっていることについて、支援者のおおくが失望しはじめていると思われるのだが、そういった気づきの悪さあるいは鈍感さについて、いまさら論評しても、「もうどうにもならない」と感じるのであれば、結局のところ時間の無駄ということであろう。こういった、立憲をささえてきた支援層の失望をともなう離脱が、相対関係として維新躍進の一因となっていることを維新の幹部は頭にとどめておくべきであろう。

 さて、その維新躍進のブームの程度は、実際に維新の旗をもって街頭にたってみないと分からないもので、体感して初めてその強さが理解できるといえよう。また、ブームには合理的な理由がかならずあるもので、なんとなくでは話にならない。ともかく、真の鉱脈を見つけたのかどうかという点については不明ではあるが、総選挙では政党「維新」として地方組織や小選挙区単位での組織力が問われることになるので、全国規模の選挙となると次元の違う努力が求められる。これは一朝一夕にできることではない。とくに候補者の発掘が鍵となるが、単独で山を動かそうとする意気は買うとしても、ブームは長続きしないから、やはり立憲を超えるだけのことで終わる可能性が一番ではないか、と思う。

 筆者は、政党である維新との利害関係をもたないので、直接いうこともないが、キシダ政権がたあいもなく暴走性を発揮する条件に、野党第一党の基本性格が強く影響するであろうと予言的に思っているので、現段階では野党第一党の筆頭候補である維新のありように強い関心を寄せているのである。ゆえに、「政権への挑戦」から、「野党第一党への挑戦」へと戦略目標をシフトダウンさせたことは、現実的対応という維新の家庭の事情があるにせよ、わが国の政治シーンからいって遠謀を欠く判断といえるのではないか。詳細は後述するが、主要野党が政権レースから離脱することで、結果として緊張感の喪失をもたらすことの政治的意味は重大であると思う。

 いまもっとも勢いがあるのに、そしてその勢いは有権者の意思からもたらされているのに、「とりあえず二番手でいいではないか」と、現実路線ではあるにせよ、照準を立憲に定め、もっぱらその殲滅に血道をあげようとしているように思えるのである。「今さら立憲を叩いてどうするの」と思いつつ、大義なき立憲退治もほどほどにして、もちろん照準をむけられた立憲の幹部、長老の無能ぶりにもあきれているのであるが、野党の選挙調整ぐらいはまじめにやらないと、肝心の天下分け目の決戦においてキツイつけが回ってくるぞと、また判官贔屓もあるぞともいいたいのである。

 要するに、キシダ政権めでたしめでたしの巻となってしまうが、それでいいのか、ということである。

結局、野党のトップ争いか、それでは争点の矮小化ではないか

 野党のトップ争い、それだけのことであるならば、立憲だけの悲劇で話が終わるであろう。立憲支持者にはもうしわけないが、天下に影響をあたえる話ではないといえる。そもそも、現在の立憲が政党として政権奪取の意欲をもっているのかについてさえずいぶんと怪しいもので、そこに有権者の疑念と不満があるかぎり党の不調は続くであろう。いいかえれば有権者にそういった疑念をもたせていることが意欲不在の確たる証拠ではないか、ということである。この意欲問題は代表だけの責任ではあるまい、支援団体あるいは支持者をふくめての構造的問題ではないかと思う。

 そこで、野党第一党がかわるであろうという予想にともない立憲から維新に票が流れるのかということであるが、これはやはり限定的であると思われる。というのも国政選挙では今のところ立憲に投じられている票は固定的で、その過半は「反自民、非共産」であると思われる。いわゆるリベラル票であるから、維新には流れにくいと考えられる。さらに立憲右派に投じられてきた票は議員個人への粘着度がつよいと思われるので、党の路線や方針に不満があったとしても、小選挙区の特性からいって銘柄化している候補からはなれることにはならないと思われる。つまり、個人名記載はかわらない、すなわちあまり減らないと思われる。影響をうけるのは、政党名と新人候補であろう。いずれにせよ定量的な分析あるいは予想は困難で、投票時期における選挙モメンタムのウェートも大きく、現段階での予想は難しいが、立憲にとうじられてきた右派票の動向が焦点となることはまちがいないと思われる。

 さきほど、立憲だけの悲劇といったのは、たとえば維新と国対レベルでの連携をすすめたにもかかわらず、立憲側にどんな利益・不利益があったのか不明のまま、維新の側からうちきられた印象が強すぎるうえに、かさねてその維新の口から野党第一党奪取と宣言されたのだから、酷い話だと思うが、政界ではうかつな方が悪いということになるのであろう。

 しかし、そういったうかつな映り方があったとしても、また逆風下でさらにまとまりの悪い立憲であったとしても、投じられている票は確信的であるから、事態がどうであれ、大幅に減少することもまた想像できないもので、どんなに悪くても80台は維持するだろうし、他の条件において大きな変更がなければ微減ではないかと予想している。だから逆に立憲150議席などという数字はファンタジーの世界であって、代表の引責辞任をくわだてる策謀以外のなにものでもないと、またなんとも安っぽい権力闘争ではないかと、意味もなく嘆息しているのである。

維新の伸びしろはどこからくるのか

 では、維新の議席の伸びしろはどこからくるのか、これが問題であろう。仮に立憲から10議席ほどひっぱったとしても100にはなお50議席がひつようとなるのだから、自公からひっぱってくるしかないということであろう。であれば、野党で約210議席(100+80+10+10+5+3)となり、与党は250前後となるから、伯仲はするが安定的である。そこで、さらに20議席ほど動けば、230対230となり、無所属をふくめ大騒動がはじまることになる。

 このシナリオが意味しているのは、現勢からいって20議席ほどの帰趨が天下を制するのであるが、その20を維新が単独で手中におさめるケース(維新120議席を獲得)と、立憲が健闘する(100議席確保)ケースという二つのパターンが考えられるが、いずれのパターンも現状では困難のきわみといわざるをえない。つまり、立憲と維新との選挙調整あるいは協力なしに与野党拮抗にもちこむのはかぎりなく不可能にちかいということである。選挙調整あるいは協力ぬきに政治意思を発現できる道が簡単に手にいれられるほど柔い世界ではない。あきらかに明日の敵であると分かっていても、今日は友としてともに闘わなければ、活路はひらけないのではないか。そういうダイナミズムを理解すべきと思う。

 さらに、与野党拮抗でなければ、連立組みかえは成立しえない。かりに、維新のかくされた目標に政権参加があると仮定するならば、それには拮抗状態をへる道しかないことを戦略的に理解するひつようがあると思われる。もっと下品にいえば、維新が立憲を100%捕食しても150議席にも届かないのだから、捕食者としての優位をどれだけアッピールしても、この程度では維新にとっての勝利とはならない。

 今の立憲を見て野党第一党の役割が容易なものであると判断しているのであれば、そんな維新を怖れることはないと断言できる。立憲を食うことだけであれば、それは戦略ではない。維新もいずれ新興勢力に追われるであろう。今回、大目標をもてないのであれば、ふつうの政党で終わるであろう。

なぜ、維新が今日まで生き延び、今回躍進できたのか

 大阪の地で維新が伸張したのは、知事と市長という連合執行権を手中におさめたからではないか。具体的には、この府・市にかかわる行政全体について、二つの執行権を機動的にまた効果的につかいながら、それを実践的な問題解決法としてアピールしたことが評価されたものといえる。一般的に、放置すればどんどん悪化する行政の縄張り意識を、府・市合体による効率化という方法論的イデオロギーを提起することで、閉塞感の打開と地方意識の高揚を同時に成功させ、そのことを執行能力の高さと印象づけるなど、メディア対応の巧みなさばきなど従来にはなかった政党イメージを創出したことを忘れてはならない。この行動戦略こそがモンゴルが元帝国を興した手法にも似た、やや大げさではあるが成功の道程であったと考えている。

 分かりやすく表現すれば、①府政も市政もさらに国政もセット売り(統合的であり、みんな関係しとるから、風呂敷は大きいほど役に立つ)、②論より証拠(実証的に、理屈抜きにええもんはええし、利益を先出しすれば説明は要らん)、③食べながら(行動主義的で、事態は理論ではなく行動で変えられる)、④かっこつけてもしょうがない(本音が一番、かっこは二番、欲も大事)といった感じであろうか(あくまで筆者の解釈である)。維新だからというわけではないが、陽明学的である。もちろん、買いかぶりという人も居るであろう。

 ともかく維新が、さきざきにおいて天下をのぞむのであれば、今は自公に牙をむくべしといいたい。また、維新として合従策をとるのかあるいは連衡に走るのか、こじんまりと立憲たたきに精進するのではなく、天下論をいま語らなければ、良くてわらしべ長者におわるのではないか、小成に安んずる気配に不満たらたらなのである。

立憲内の中道・右派系の進路は、このままでは危うい

 さて危惧すべきは、立憲内では中道・右派系に落選者が集中することであり、それはとりもなおさず立憲が日本共産党とならび正真正銘の左派政党におちつくことを意味するもので、経過からいえば2020年9月の合流に国民民主党(当時)から参加した議員の居場所がなくなることを意味するものであろう。仮に生きのこったとしても左派色を強めた政党にいつまで残れるのか、ということであり、どこに行くのかということでもあろう。

 玉木氏が手をさしのべるかもしれないが、いかんせん小世帯であり、狭量なのではないかという偏見が、さしのべられる側に躊躇をうむかもしれない。偏見とは変な話ではあるが、そうであるなら「有志の会」が近いといえるが、当面無所属の集まりとして呼吸を整えるのかしらと、妄想もいよいよ限界に近づいている。もちろん連合好みの大きな塊をつくるには好機かもしれない。しかし、それで大きな塊になれるのかと思うし、好機とはいっても歴史観を欠けば夏炉冬扇にも劣るわけで、今日連合に問われているのは労働組合の政治参加の本論ではないかと思う。

《補足》

 ここで、投票におけるスイッチングについて再掲すれば、多くは支持政党をもたない有権者に生じる投票行動の変更である。もちろん支持政党をもちながら意図的に投票先を変更することが一般的化しているとはいえないが、たとえば2012年12月の民主党支持崩壊などのような現象はたまに起こりうるといえるもので、そのケースはほとんど政変であったといえる。

 もっとも、政変でなくても選挙のたびに投票先の変更が政治状況を変えていることも事実である。ということで、近く実施が予想されている衆議院選挙において、野党第一党が立憲から維新へ移るのではと喧伝されているなかで、その可能性について考えてみる。

 まず、現有議席が4月25日現在立憲97、維新41であるから、維新でいえば50議席以上の議席増、すなわち倍増をこえる結果をださなければならない。この倍増という現象は小規模(~20議席)であればまま可能であるといえるが、中規模(20~49議席)ともなるとなかなかに難しいもので、可能性は幾何級数的に低減すると思われる。ということから、維新が50議席以上の増を実現することはそれこそ「爆発」とも表現すべきであろう。 

 つまり、さきの統一地方選挙や国会議員の補選において、維新でなければならないとする「積極的支持」だったのか、あるいは政権や与党批判のための「消極的支持」だったのか、しっかりとみきわめるひつようがあるといえる。消極的支持だけでは爆発は難しい。

 さらに、維新(41)が3回連続して倍増を繰り返せば、単独で政権を手中におさめることができるわけであるが、それはきわめて難しいことであり、維新が民主的なふつうの政党であればこそ、3回連続倍増などはありえない、つまり専制的要素がなければ3回連続倍増などという超絶技は無理であり、そういったことを許さないのが民主的土壌だと考えている。

 また地方選挙では、倦みきっている地方政治への問題意識を反映したもので、その流れで地方議会では1桁議席程度の確保は各地で可能ではあるが、しかし国政選挙において、たとえば複数回にわたって立憲に投票してきた有権者が、維新へ投票先を変更することは、簡単ではないと考えるべきであろう。

 立憲、維新の両党はもともと親和性が低いことから、とくに外交安保、エネルギー政策、福祉・ジェンダー政策を重視する有権者にとって、立憲から維新へ投票先をかえることは可能性が低いと思われる。逆に、中道色の強い有権者にとって維新への投票先変更は容易であろう。ということから、次回の衆議院選挙を立憲支持崩壊という文脈で妄想的に考察するならば、立憲の既存投票者のうち右側から剥離していくのではないかと予想するものである。この予想は、5月10日の両院議員懇談会あるいは5月12日の泉立憲代表の記者会見が、投票者からみれば左派からの突き上げあるいは右への攻撃と解釈される可能性が高いことから、右側からの剥離はごく自然な流れでありさらに加速すると思われる。

 また、泉代表が記者会見で150議席を進退ラインとして容認したことは、辞任決意でという奮起ストーリーではなく、むしろ辞任確定という消沈物語と世間はうけとめるであろう。さらに、次打席に総理経験者などがひかえているという憶測が流れだすと、支持層のなかでの中道色の濃い人たちの立憲ばなれが加速するのではないかと、そういった危機感をもつべきではないかと思う。右に行くべきなのに左のウインカーをだしてどうするのといいたくなる。

 ということで、2017年から立憲民主党(合流前)を支持してきた支持層が大きく崩れていくことは考えられない、あっても微減であろうが、2020年に国民民主党から合流した議員の支持層には不満がくすぶっており、いずれ表面化すると思われる。とくに政党名で不満を表わすことになれば、少なくとも議席減となっても議席増にはならないといえる。

 という状況にあって、また維新から直接攻撃をうけるなかで、立憲が現有議席を維持する唯一の道は主張を「生活防衛」に絞りこむことであろう。投票の時期にもよるが、物価上昇に苦しむ人びとが増大しているのだから、国民の生活が一番という古めかしいスローガンの再掲をまたなくとも、野党第一党のやるべきことは明快ではないか、中道政党をめざす主流派の奮起を期待したい。

 最後に、選挙調整による空白区の投票行動について分析を深める必要がある。とくに、投票したい候補者がいないケースである。推薦も支持もなければそれぞれの判断となるのだろうが、適切なガイダンスがなければ白票が増えることはやむをえないであろう。政党間で合従あるいは連衡の動きをつくらなければ、せっかくの支持票が散逸していくと思われる。

注)2023年5月26日、誤字脱字等修正。

◇ 南西の皐月台風龍を超え

加藤敏幸