遅牛早牛

時事雑考「2023年6月からの政局-風邪ひくな秋の冷えこみ-」

( 「国会会期末間近になり、いろんな動きがある。情勢を見極めたい」というのが13日の岸田総理の記者会見。それが「今国会での解散は考えてない」と15日夜には終息にいたった。わずか3日間のつむじ風に永田町はほんろうされた。それについては各紙やネットニュースが各方面の反応をつたえている〈以上本稿「」部分は朝日新聞から引用〉。

 魔がさしたとは失礼だから、とりあえずは岸田氏の操作癖がでたと受けとめている、筆者のいう暴走である。いきなり13日に総理みずから解散をニタッとほのめかし、15日にはサッと打消した。短期間のことではあったが、総理自身がマッチポンプを演じたといわれても仕方がない。本来なら政治スキャンダルというべきであるが、さあ追求ということにはなっていない。が、岸田氏にとってプラスになることはない、顛末からいってむしろマイナスになるであろう。

 つまり、13日の発言の趣旨あるいは重さからいえば解散を強行すべきであった。もし強行できなければ食言となることは本人もよく分かっていたのではないか。

 論理構成からいって、15日の解散なし発言を正とするなら、13日の発言は不要であったから、軽率のそしりを免れないであろう。否、13日の発言が正であるなら15日前に重大な決断を導く、恐ろしい情報が入ったということではないか、たとえば自公過半数割れとか。しかし、そのような調査内容を部外者が知ることはできない。万に一つそうであるなら、情勢がかわらなければ秋解散も無理ということになる。

 さらに、夏がすぎても物価高に生活が圧迫され、立憲民主党にもそよ風ぐらいは吹くかもしれない。くわえて、日本維新の会を中心とした一部野党選挙協力の展開しだいで、戦況(選況)が大きく変わるであろう。ともかく解散できるのかという事態に陥ることを与党とくに自民党は憂慮すべきである。

 今国会のできばえであるが、政府与党ともに自賛のようである。しかし、自公の小手先政治にはあきあきしているのではないか、というよりも政治家の処理能力に疑問をもちはじめたと、そんな気がする国会であった。いずれにせよパッチワーク型政策の限界がみえてきたことから、先々を心配する有権者も増えていると思われる。このままでは内閣支持率はゆっくりと沈降していくだけであろう。

 ところで、日銀は新総裁になっても超金融緩和をつづけるつもりらしい。たしかに、緩和を中立方向にすこしもどしたからといって物価上昇の2%をこえる部分をそぎ落とせる確証はない。それよりも、せっかくの賃金上昇傾向に水をかけることになっては元も子もない、さらに景気回復の腰を折ってしまえばマイナスだから、だれが総裁であってもここは模様ながめということになるということか。

 しかし、物価高に円安が拍車をかけているとか、国民生活など眼中にないのであろうとか、人びとの不満は高まっている。とくに、勤労者や年金生活者の預金が目減りしていることは確かであるから、いつまでも不公平な金融政策をつづけるのは無理であろう。人びとの日銀への信頼がそこなわれるリスクを政府も心配しなければならない。

 さらに、これ以上の円安は政治的に危険である。製造業における円安効果が剥落していると聞く。であれば日銀総裁が超人然としている意味がないと思うがどうであろう。生活資金が円安によって浸食されていると感じる人びとにとって、日銀は癪のたねになりやすいので、そろそろ異次元の金融緩和全般の後始末にとりかからなければならないとみんながそう思いだしているのであるが、打つ手がないという悲惨な状況にある。もし日銀幹部が「日本人はおひとよし」とか「がまんづよい」と思っているのであれば、それはとんでもない考え違いであると忠告しておきたい。声なき声を掬(すく)いとれば、そろそろ日銀政策委員も国民審査の対象にできないものか、といった程度の過激さはおり込みずみなのか。まあ暴論ではあるが、分かったうえでいいたくなるご時世なのである。

 さて、解散が早くて秋の臨時国会ということになれば、政局は日本維新の会を中心とした野党の選挙協力に焦点をうつすことになる。それへの対応をめぐる立憲民主党の党内葛藤にもスポットライトがあたるであろう。

 また暖房のスイッチをきった自公関係も修復にうごくとみるのが常識的であるのだが、中には荒天を期待する向きも少なくないようであるから、なにが起こるのかは不透明といえる。

 総選挙にむけての各党の展望については、5月25日の弊欄時事雑考「2023年5月の政局観-総選挙への助走と維新-」で詳述した。もちろん偏見と妄想の寄せ鍋風であるが、栄養価は高いと勝手に思っている。

 この国の政治は、意識高い系と関心高い系がうごかしているように思われているが、意識も関心も低い系の動向をむしすると間違うことになる。低いといってもゼロではない。またニュアンス的には、意識系が非利益的に、関心系が利益的に語られているが、それがどうしたという気がする。

 投票への影響をいえば国際情勢の比重がたかくなっていることから、日米関係重視だけでは不十分で、野党でいえば日中関係での新機軸を提案できなければ政権がまわってくることはないであろう。自民党にとって、鉄板支持層といわれた右派層が邪魔とはいわないが、同党の重荷になりつつあるのではないかという声が妙にリアルに残っている。例によって、文脈上敬称を略する場合がある。)

政治家の本性にひそむ暴走性

◇ 政治家岸田文雄にある種の暴走性を感じて、「この総理には暴走の性癖があるのではないかと心配しながら、どうじに期待もしている」(2022年12月17日弊欄時事雑考「2022年のふりかえり-年の瀬に防衛力強化を考える-」)と記した。暴走性というと剣呑(けんのん)なことだと思われるだろうが、暴走にも功罪の両面がある。たとえば政治には暴走しなければ打開できない局面があることから、一概に悪くいっているつもりはない。

 また、故安倍晋三氏の暴走性は意図的で、歌舞伎のようであったが、岸田氏のそれは無自覚であり、それゆえにステルスであると思う。だから、暴走宰相といわれてもおそらく何のことかと首をかしげるであろう。安倍氏のそれを能動というならば岸田氏のそれは受動といえるかもしれない。強い弱いということではなく、受身の暴走にはむしろ厄介な問題がかくれているのではないかということである。

 さらに先ほど(12月17日)のコラムは、「また『根まわし』というやっかいな『概念』が欠落しているところが政治家らしくない、つまり珍種といえるし、さらにもともと人の意見など聞く気がないのに『聞く力』などと平気でいえるところをみれば自家撞着系かもしれない。」「たぶん根は専制的な、あるいはエリート主義者だと思う。」とつづくが、これも遠慮のないところであって、そういった統治者の特性をじゅうぶん知りつくしたうえで、被統治者たるわれら主権者は彼らをうまく活用していくのが筆者流の「主権在民」なのである。

 もちろん、被統治者にとって難易度の高いことではあるが、統治者をかえてみても事態がよくはならなかったことを少なからず経験してきた中道層としては、政権交替論にもそろそろ限界を感じざるをえない時期にきていると思われる。そういいながらも新しい仕組みをいまだに見いだせないでいるのがなんとも歯がゆい。

 ところで、さきほど「もともと人の意見など聞く気がないのに」と岸田氏について綴ったが、「聞く気があっても聞けてない」のではないかとも思っている。 ということで、岸田総理の暴走性についてすこし雑考をかさね、2023年6月からの政局について予想を試みる。

問題はこの道しかないと思いこむからで、常に選択肢を広げる努力を

◇ そこで、暴走性であるが、語感としては猪突猛進が近い。しかし、政治にかかわる事象において猪突猛進とはいささか単純すぎるので、「この道しかないと思いこみ、他に選択肢があることすらわすれてしまうほど思考が硬直化しているうえに、環境変化にたいする感度をいちじるしく低下させたまま失敗にむけひた走る」ということ、あるいは物理的には「制動、操舵機能を失い制御を欠いた状態で〇〇をはしらせること」であろうか。

 ただし、政治的に暴走あるいは暴走性という場合、意図性なり恣意性について少しほぐしておくひつようがある。とうぜん、高度な思惑のもとでの行為であるから、単純に暴走の語感をベースにすると誤解の海に投げだされるので、すこし整理をすれば、この道が正しいという強い思いこみがあり、つぎに方法の選択において選択肢を限定してしまう、さらに限られた範囲での意見聴取にこだわり、最後に環境変化への感度が低い状態におちいっている、という状態をいうのであるが、硬直性とおきかえても文脈はかわらない。

 これは岸田政権が暴走するイメージをあとづけで妄想しているだけで、卑怯な手口だといわれるかもしれないが、定義の話なので容赦いただき、そういったものを政治的な暴走性もしくは硬直性と考えているのである。

 つぎに、「暴走とならざるをえない」状況を自分たちでつくっているのではないかという、ある種の消極的なつまり意図してはいなかったが結果的に暴走してしまったといういいわけがついてくる暴走性であるが、世間ではこのケースが多い、これも政治的暴走性であろう。

 くわえて、ある状況にいたった時点で意図的にあるいはやむなくコントロールを放棄し、結果的に暴走させるということもありうる。これなどは暴走放置といえるかもしれない、見方をかえれば策謀に近いものであろう。

 ともかく、民主的プロセスを重視する立場からいえば専制的であり、議会運営においては強引な議事運営と強行採決などをともなうことから、数の横暴というべきかもしれない。暴走性は、野党にとっては天敵というべきものである。

岸田政権の暴走性の由来、政策を政局で微分して暴走するのか

◇ さて岸田政権における暴走性もしくは硬直性であるが、その原因には、問題解決策を見いだすヒューリスティク(簡便な問題処理の手順や方法)に、岸田総理の専制的なキャラなりエリート主義的な価値観が影響していると推測している。

 さらに基本的なコンセプトが脆弱なので、周囲からの影響を受けやすいことが暴走を複雑にしているように思われる。LGBT法案ならびにその修正がその典型であろう。議員立法とはいえ内閣に基本的な認識と方針があれば、ひっくり返ったケーキのような状態にはならなかったと思われる。さらにいえば、基本的人権はあくまで個人を単位とする概念であるから、「良俗な家族ファースト」ですべてをおさめることは難しいといえる。とくに伝統的な家族構成を一般規範(標準)とするには無理があることから、家族のありかたについても多様性を受容する方向で、個人、家族、帰属組織、地域社会、社会などの関係を再構築することがいそがれる。自民党の憲法改正草案を読んでみても、そういった多様性を包摂していく方向を選んでいるとは思えない。

 ようするにG7広島に間にあわせるという日程ありきの能動的な暴走性でスタートしながらも、障害や困難に遭遇するや受動的な暴走性に転換したのであるが、全般的に準備不足で、不本意なできあがりになってしまったのではないか。立ち止まって時間をかければとも思うが、一寸先は闇であるから時間をかけられたかは定かではない。そういう意味で、反対意見があったとしても結論をだせたのは今国会の特殊性であったといえよう。これも暴走であろうか。ケガの功名ということではないだろう。

受動的暴走とはほとんど漂流に近い

◇ ところで、意図せざる暴走といってもなかなか理解されにくく、暴走させる気あるいは暴走する気がなくとも、結果的に暴走させあるいは暴走しているケースについては、どことなく不可抗力のようで、とてもその責任を問うことなど誰しも思いつかないであろう。しかし、急流に翻弄される小舟のように自力走航できずに流されていく法案や、行き当たりばったりの修正案などについて、その状況をよくよく吟味すれば、まるで暴走しているのと変わらないではないか、ということである。

 受動的な暴走(やや不細工な表現ではあるが)とよんでいるのは漂流に近いもので、具体的には防衛費増額を裏付ける財源確保(財確)法案、マイナンバーの活用拡大、LGBT法案の修正、少子化対策(子育て支援の財源)などであり、中には事前に予算措置の見当すらつけてない、まるでアミーバみたいな提案となっているので驚いている。しっかりした理念の裏打ちがなければ国会質疑のなかで変形変質をきたすことになりやすい。臨機応変、変幻自在といった状況適応をくりかえしているうちに、当初の立法目的を見失うことになりかねない。これも暴走の一種ではないかしら。

 この国会の感想のひとつであるが、野党提案にたいして「財源はどうするのだ」とするどく咆えていたのに、今ではこれからだと恥ずかしげもなく答えている。おかしな話である。まことにだらしのないことで、パジャマのまま国会にくるなといいたくなるのであるが、それでも今までの規範をもちだすのはひかえたいと思っている。

 ここで、今までの規範をひかえているのは、暴走とはいえ彼らのやり方が即まちがいとはいいきれない、つまり暴走というのはある意味方法論であり、内容とともに状況によってはやむをえない場合があると思われるからである。

 たとえば、増税による防衛予算増については、真にそれがひつようであるなら、国債(次世代負担)で手当てするよりも現役世代が負担する恒久増税のほうが、筋が通っているすなわち正論だと思われるので、直球勝負が分かりやすい。しかし、反対する野党はあらゆる手段をつかって妨害にかかることから、やむなく強行採決などを企図することになるというのが能動的な暴走論である。今回、その方向に流れるのかと思いきや、増税時期を最終決定もふくめて先のばしにする肩すかしのような手法を即座に選択したのは、筆者の見立てでは受動的な暴走論である。まるで軟体動物のようでおかしくもある。ともかく、ひつようとなる防衛力について確とした中身をまとめていないから、綿菓子のような答弁になるのではないか。軟弱な暴走である。

国会のルールのなかでの暴走であるから、当事者間で始末を

◇ ここは暴走を糾弾する舞台ではない。今回のコラムは暴走に異議をとなえる形となっているが、国会の現場では民主政治のルールの範囲で処理されているものであり、また少なくとも過半の議員が賛成していることから、国会自身が糾弾することにはならない、ということである。たとえば、マイナンバーカードにまつわる不手際について総理が謝ったとしても、それが失脚につながることは毛頭ほどもないのである。だから、暴走であると非難されても議会制民主政治の枠内であるかぎり、いいかえれば外形基準さえまもっていれば「暴走有理」の側面をもっているといえるのである。気分をいえば「瓢箪から駒」ならぬ「暴走から駒」の可能性をことごとく否定する気にはなれないだけである。

 しかし、だからといって先ほどならべた一連のテーマ(法案など)について、それらの政治過程つまり事前審査や国会での議論さらに各種の折衝が、国民からじゅうぶん評価されているとはまちがってもいえないのである。手際の悪さもふくめ基本設計のずさんさは恥ずかしいというか、汗顔のきわみと筆者の世代なら思うであろう。そういった厳しい見方があることは事実として受けとめるべきである。

 これに対し、恥ずかしいとかはしょせん感性の問題であるから、どうってことのないものであると、閣僚もそんな顔つきである。つまり、政治は変わったのである。劣化ではない、嗜好の変化である。料理でいえば、和洋中いろいろあるなかでテーブルマナーなんかどうでもいい、問題は旨くて早くて安いことである、ということであろうか。これは是非にあらずというか、その時代を担う人たちの勝手ともいえるものであるから、まま是認せざるをえない。と百歩譲ってみても、ほんとうに旨くて早くて安いのか、お客さんが満足しているのか、という疑問は解消されていないのである。

「ていねいな説明を」といっても言葉だけがていねいで、中身がない

◇ そこで、「ていねいな説明が求められています」と、たとえばメインキャスター(MC)が話をまとめて、報道番組を終了させる場面がよく見られるが、本当のところは説明のあり方が問題なのではない、内容に問題があるということなのであるが、たぶん放送法の制約があるので、内容ではなく説明のありかたに注文をつけているのだろうと解釈している。

 人びとが、説明が不十分だと感じるのは、内容に問題があると思うからであって、そういった人びとの直感はほぼあたっている。だから本来は内容を問題にすべきで、説明が要領を得ないのであればメディアがプロとして分かりやすく説明すればいいだけのことである、といえばいいすぎであろうか。まあ、説明がうまければ料理が旨くなる道理があるとは思えないが。

 さて焦点は、岸田政権の場合は「説明」と「通告」が一体で、「説得」が欠落していると思われる。説得というのは相手の反応(リアクション)を前提に組みたてられるはずなのに、この政権では相手の反応についてはほぼ気にしないということのようで、大胆不敵というかそのくそ度胸に軽いカルチャーショックをおぼえるのである。こういった、相手の反応を気にしないという無頓着さがニューノーマルになれば、政治も政界も異次元の変貌をとげざるをえないのではないかと思う。(とげざるをえない、なんてすかしたいい方もこれまでか)

 ということで、「ていねいな説明を」といっても本心から説得する気がないから、やたら言葉だけがていねいになり、けっきょく通告の域をこえることはないということであろう。

 暴走性とカルチャーショック。岸田政権がもたらそうとしているのは形而下の変革なのかしら。

変貌していく国会審議、密度を下げて国際化に対応しているのか、まさか?

◇ 暴走性とカルチャーショック、と何度もとなえながら、もしわが国が多民族国家であったなら、おそらくそのときの国会風景はかくのごとくであったのではないかと一人で想像しているのであるが、これはこれでなかなかに意味深いものであると悦(えつ)っている。なぜなら「政治の場での緻密な対話にどれほどの価値があるのか」という、この国の対話(コミュニケーション)至上主義ともいえる民主的価値観にたいし正面から異議をとなえる主張が、多少の敵対心を懐にいだきながら待ちかまえているぞ、おどろくなよと、ひょうきんな気分がさわいでいるからである。

 (ここでこの疑問にこだわると前にすすめないので後日あらためてということで、先を急ぐ)

 そこで、筆者が岸田政権の説明不足感がこの先も改善されないと考えているのは、じつのところひたひたと近づいている国際化という妖怪のせいではないかと考えていて、わが国の国会論議が国際水準をはるかに超える濃密さを保持していることに対して、「だからどうした」と妖怪が吐きそうな乱暴な攻撃を模擬演習として想定しているからである。ようするに、きめも細かく密度もたかいというのは国際的には過剰品質であって、すべてとはいわないが相当の部分が無駄ではないかという妖怪サイドの主張に妥当性があると思っているからである。

 だからもっと大味でいいではないか。さらに、いっこうに噛みあわない議論でもいいのではないか、なぜなら噛みあわないということこそが重要な事実であって、それがあらわになることは認識の共有化という意味で貴重であると思うのである。

 つまり、国会での議論は国民の共有財産である。ということは国民の理解をこえるものはいくら高尚であっても国民の立場からいえば役立っているとはいえないのである。この考え方の柱は、議論の展開上さまざまな説が引用されてしかるべきではあるが、基本的な論理構造はおおくの人の理解の範囲でなければ受けいれられず、それでは民主政治の基本条件を満たしているとはいえないということである。

 とうぜん、各党の主張において本質的に交わらない項目があるはずである。だから、噛みあわないことを不満に思ってもいいが、無理に噛みあわそうとするのは不要だし、むしろ害があると考えるべきである。違いがあり、融合できないことを認識しあうことが議論の基盤であり、そのうえで活発な議論を展開すればいいということであろう。

 国の基本方針や政策などについて広く国民の理解をえながら、課題もふくめ認識の共有化をふかめる方向での議論が求められている。これは一般論としてはまちがいのないところであるし、これに反対する意見がでてくることはないだろう。しかし、だからといって国会での議論がその方向で活発化しているのかと問われれば、多少の経験をもとに小さな声でいうのであるが、そうはならない、あるいはそうはならなかったのである。

 ならないというよりも、議論をすればするほど分裂、分断が加速していくというのが、実感であった。議論は分裂、分断を求めて活発化するともいえるのである。

砂を噛むような答弁が国会を砂場にしている

◇ 国会は弁論大会ではない、青年の主張の場でもない、新説の発表会でもない、また知識をひけらかす場でもない。筆者もそう思う。と同時に「改正出入国管理法」の議論の前に、なぜ移民を受けいれないのか、難民政策の基本は何か、海外国籍者の労働と生活をどう位置づけるのかなどの基本的議論を国会で整理してもらわないと人びとはなかなか問題を拾いあげられず、また賛否は決めがたい、と思われる。本会議での質疑も本格論議をするには時間が足らないうえに、質問に対する政府答弁もミニマム回答に徹しているので、国民がテレビ中継を全時間にわたり視聴したとしても方向性ですら観取することはむつかしいといえる。いわゆる前段での説明がひつようなのである。神聖な国会で前説とは何ごとかという声は正しいと思う。しかし、主権者がせっかく時間をさいて国会中継を視聴しようというのに、不親切であっていいのかと素朴に思っているのである。質問者のフリップボードが大いに役立つことがあるとか、細かなことでも実践的につみかさねていけば、ずい分と改善されると思われる。情報宣伝こそ政党の生命線であるから、この議論は機微にふれすぎるかもしれない。各党の利害に直結しすぎて議論として成立しない恐れも高いと思われる。これが現実であるといえよう。とはいえ、もう少し国会ウォッチャーを増やした方がいいのでは、というささやきである。

 砂場であっても、やり方を工夫すれば人が集まるとは思わないかい?

ウクライナの戦況報道も重要であるが、近未来の国際政治の展望も大事だ 

◇ 国会での議論のなかで手ごわいのが外交防衛にかかわるものであろう。秘匿情報にかかわる場合も多いことから、どうしても臆病になってしまう。というより、政府答弁がことさら秘匿性を強調し、実質的に答弁拒否にいたっているのではないかと不満を感じている。

 国民の生命・財産あるいは運命をも決する重要な事態は当然のこととして、なお些細なことであっても主権者としての知る権利は揺るぎのないものである。

 国難にあっては国民の団結が事態解決の必須条件であるから、日ごろから国際情勢への理解を涵養しておくひつようがあろう。熱戦、冷戦、サイバー戦といわれてきたが、情報戦は古代からつづいているもので、中核となる報道体制と精度、確度のたかい報道内容を国全体として確立あるいは確保しておかなければと思う。ということで国会での議論も工夫すべきであろう。

 さて各論であるが、外交防衛政策の議論において、米中対立構造のなかでのわが国の立ち位置は明確であり、これは各党においてもほぼ共有されていると思われる。そこは評価するのであるが、そもそも外交の使命というか効用は、国際情勢下における選択肢の拡大、創造にあるといえるわけで、国民の漠とした不安にこたえることは当然ではあるが、それだけでは十分とはいえない、すなわち防衛力強化策以外の政策も重視すべきで、それには緊張の高まりに備えつつも、あらたな緊張緩和策を模索することにも尽力すべきであるといえる。ウクライナをめぐる米ロ対立と超大国の覇権争いである米中対立とは似て非なるものである。しかし、米国にとって同時に二種類の試合に臨むことは避けなければならない。とりあえず試合と表現したが冷戦、熱戦、サイバー戦などをふくむ深刻な事態をかかえた、人類の存続にかかわる試合である。

 問題は、この複雑で困難な試合をつうじて米中ロそれぞれが衰退の道を歩み始めるのではないかという、けっして他人事にはできない重要で危険な事態が迫っていることである。べつに啓示を受けたわけではないが、共存共栄の道を閉ざして繁栄することは考えられないという真理にちかい知見にもとづけば誰しもそのように思うであろう。

 さらに、三国ともに国家設立の理念も、さらに国家統合の紐帯をも失いつつあると見うけられる。今日の現代社会は、国家が瓦解してもなお人びとが繁栄していけるようにはなっていないのである。厳しい指摘と思われるかもしれないが、米国でおきている脱民主政治の動きはこの70年あまり世界の警察官として民主主義の理想を掲げ各国に干渉してきた大義を根底から損なうもので、思想史からも大問題といえる。とくにイラク戦争については、ロシアのウクライナ侵略とどこがどう違うのかという点でこれからも論争をよぶと思われる。米国はまだ気づいていないのであろう、選挙に負けた前大統領が議会の決定を覆すよう襲撃にちかい行動を示唆したのではないかという疑念が、どれだけの衝撃を世界にあたえたかを。さらに米国の威信を傷つけるだけでなく外交上のリーダーシップの空洞化を招いてしまったことを。今のままでは民主主義国対権威主義国の相克において米国の仲間をふやすことは無理である。

 中国の基本は欧米基準にもとづかないことであるから、欧米流の国民国家ではない。それは共産党による王朝であり人民を疑似国家に押しこめている。党と人民がどんな関係にあるのか、その実相について筆者は知りえる立場にはない。党と人民の主客関係が変わらなければ次の発展はないのではないか。この指摘も欧米基準であるから、受けいれられないであろう。

 ロシアには過去の栄光しかない。若者に未来を提示できない専制国家が最善策として最悪の特別軍事作戦すなわち侵略を選択したことのつけは大きく、ロシアの未来をさいなむであろう。ロシア国民は取りかえしのつかない損失によってさらに苦しい生活をよぎなくされるだろう。

 また、中ロにとって21世紀の手本はまちがいなく米国であったが、昨日米国がやったことを今日なぞってみて、そうとうな違和感を感じているのであろう。今のところ「なにが悪い」と開き直っているが、そのうち深い後悔をおぼえるであろうから、開き直るひつようなどなかったのである。後悔とはまともな感情であり再生の始まりである。中ロにとって手本となる国などもともとないのである。

 そこで、なぞられた米国こそなにも分かっちゃいないのである。堂々たる不明の王者であって、まるで目隠しされたチャンピオンではないか。チャンピオンが目隠しされている、ということが世界の危機であり、残念なことに地球も危機に瀕しているのである。

 もし覇権史観にたち、かつての覇者たちの衰退を目の当たりにして千載一隅の好機とほくそ笑む者がいるなら、かん違いするな時代が違うといいたいのであるが、そのような国はないようである。ちなみにわが国は衰退国から没落国へひた走っているが、幸いなことに万葉集も源氏物語も失われることはないであろう。

 今日の世界を歴史文脈において適切に把握することを怠ってはならない。この続きは後日とするが、とりあえずの結論は米国追従でいいけども、それだけでは政治家つまり日本の政治家としては失格であると断言したいのである。

細部での躓きこそが致命症

◇ 岸田政権の暴走性には偏固さがまつわりついているようで、来秋には原則紙製の保険証を廃止し、マイナンバーカードに一体化するという。利用者不在のなんとも本末転倒感がにじんでいる。泥縄的な行政サービスの改変によりトラブルの泥沼に足をとられる予感がする。そうなれば来秋以降は岸田内閣(この時点でなお岸田内閣であるのかはべつとして)の支持率が上向くことはないであろう。ようするに解散できない布石として、マイナンバーカードが浮上、いや活躍してくるのである。解散制約論者の筆者の感想である。

 5年で実施完了なら「グッジョブ」であろう。一部になんでもDX教が広まっているのはDX後進国との自覚があるからで、それは理解できる。しかし、マイナンバーカードを中心とした日常生活を人びとに実質強制することはいただけない。すくなくともアジャイルマインドぐらいはこなしてほしいものである。でないと、マイナンバーカードという些細なことで大きく躓き、その時に些細なことではなかったと思い知るであろう。

 また、「LGBT理解増進法案」の与党修正案がどうして当事者団体である「LGBT法連合会」から廃案やむなしとの批判を受けることになったのであろうか。どうして、そういった走り書きのようなプロセスを予防できなかったのか。法案名にある「LBGT理解」が足元で不足していたのではないか、ベースの理念が消化不良に終わっているとしか思えないのである。これも暴走ではないかと思う。

 さて、国際化というのは、まず国会での議論が手続き的にも論理的にも海外からよく理解されることからはじまるもので、とにかく分かりやすさが大切である。そういった、政治の中核である国会での議論が諸国によって、よく理解されることが憲法がめざす平和主義の敷衍につながるのではないか。

 190をこえる国連加盟国などにおいては、議会のありようは個性にあふれていると思われるが、個性的とはいえ各国の論議内容についてはじゅうぶん相互理解しあっているはずである。もちろん制度においてベールに閉ざされている国も多いが。

 国民を代表している国会議員が委員会や本会議で質問する内容は、国民の疑問であり主張であるから、わが国を等身大で理解するにはうってつけの情報といえる。さらに、その場における政府答弁は公式見解であるから、どのように答えるかについてはじつに峻厳なものがあるといえる。そういった環境のなかで、聞くほうも答えるほうも重大な責任を背負っているといえる。

 また国会での議論は日本研究のテキストであり、日本理解のためのガイドブックである。さらに、間接的に外交を支えているともいえる。ということから、正直であることをふくめ国の品格の表現系でもあるといっていいのではないか。国際社会のなかで名誉ある地位を築きたいと本気で思っているのであれば、国会での議論こそわが国のエッセンスであるから、とてもないがしろにはできないということであろう。

やはり、見えないようで国際化の影響を受けているのではないか

◇ そこで、国際化という妖怪が求めているのはスピードであって、それは迅速な結論を求めるもので、政府も与野党もその要請を無視することは許されないのである。(そんな国際的要請など聞いたことがないという向きは井の中の蛙であろう。わが国の意志決定の遅さと緩さがどれほど国民に迷惑をかけているか、世界最悪ではないが改善の余地が多く残されている)

 野党議員の立場で、何回質問しても答弁がよりこなれることはなく、篩(ふるい)の目は変えられないのであるから、論争のスタイルや情景(国会闘争)を刷新する方向に注力するほうがいいのではないか、ということである。

 政府も政党も「ダメなものはダメ」なのだから、二度も三度も口角泡を飛ばすこともなかろうと思う。それよりも世界に開かれた議会をめざし、中身と質疑応答そして国民へのフィードバックの姿を伝達することに尽力してはどうかと思う。感染症への規制が大幅に緩和されたことにより海外からの旅行者も激増していると聞く。人気スポットに議会のパブリックビュー(AI活用の通訳サービスつき)がランキングされるといいのにと妄想している。

違いを明らかにすることも国会の大切な役割ではないか

◇ というのも、あらゆる政治シーンにおいて密度のたかい対話を維持することが可能なのかという問いかけと、仮に可能であったとして、そうすることにどんな意味あるいは価値があるのかという意識高い系の問いかけが連綿として存在しているからである。

 こうした問いが生じるのは、どんなプロセスをへても、つまりきれい事をいってみても最終的には多数決で決するという、コンクリートで固めたような国会の仕組みがあるからであって、またこれを壊すわけにはいかないのである。

 そういった現実に、日々遭遇している者にすれば、美しく「話しあう」といってみてもそれは「話しあっているだけ」のことで、それに意義を見いだすことは難しいといえる。

 与党と政府との事前審査制が法案成立の請負人となっているから、国会での与野党の議論をもって法案修正にいたる余地はほとんどないといえる。現実はそういうことである。そうであるから逆に国会審議が説得の場として重宝されているといえる。その結果であるのか、ていねいな答弁がわが国議会の華であると誇らしげにいえるのであろう。多少ノスタルジックではあるが。 

 今やその説得ですら手抜きとなっているのは、岸田政権の暴走性の影響を受けてのことではないかと、手を変え品を変えダラダラとつついているのが本稿である。(説得が後退しはじめたのは今世紀に入ってからである)

もちろん、付帯決議や大臣答弁などをもちいて、ぎりぎりのせめぎ合いに励むのであるが、どこまでやっても条文を変えることができない以上限界があるのはとうぜんのことといえる。

 議席でまさる与党が事前審査で裏書きした法案にのこされた関門は日程だけである。という定式化した国会審議は突発異変がないかぎりじつに安定しているし、予見性の高いものであるが、それがおおきく揺らいでいる。今国会で成立した法律が立法府の意思としての出発時の目的を達成できるのであろうか、予算の裏付けもなしに、おおいに疑問である。議院内閣制の土台が緩んでいるからなのか、風もないのに議会が揺れている。

 どんな法律になるのか分からないというのは初歩段階の民主政治であると筆者は考えている。そういう初歩的国会をめざしているのであれば、退行と批判されるとしても、歴史に残る革新者であると思うが、一歩間違えば破滅である。あるいは、議会の暴走であり、もろもろ論じてきた流れでいえば漂流といったほうが分かりやすいかもしれない。すくなくとも、今次国会は暴走のち漂流に近いものが散見されたと思っている。

意図せざる暴走こそ警戒すべきである

◇ 意図的に暴走する事態への対応は比較的たやすい。大規模な反対運動をぶつければいいのである。問題は意図せざる暴走である。結果的に、「状況」にたいする制動(コントロール)が弛緩して、当事者の意志あるいは意図をはなれて状況が勝手に動きまわることになる。けっして為政者が暴走するわけではない。余分なことであるが、為政者が勝手に暴走してもどこかで転んで怪我をするのが関の山でたいしたことではあるが、代わりはいくらでもいる。

 そうではなく、コントロールの効かない状況を作りだす為政者の無能には気をつけろと警告しているのである。先送りやでたとこ勝負といった、その場しのぎのいそぎ働きには受動的暴走の種が紛れていることを警戒すべきである。政権を維持するには不本意な急ぎ働きも必要かもしれない。それでもそういった不都合な仕事については忘れずにしまっておくべきであろう。いずれ始末をつけてつじつまをあわせるとか、あるいは軌道をもどすといった感じが政治家の矜持というものではないかしら。

 さて、年を食ってはいるが新世代として正面から問題に立ちむかうのか、それともベテランとして肩すかしに猫だましを連発するのか。岸田氏の政治家としての本性がこの秋にはいよいよ「あらわれる」であろう。露見する前に危険な解散をするかもしれない。いずれにせよ、時代が求めている宰相なのかどうか。それが判明するのに1年はかからないということである。

(梅雨も夏も味噌汁もまぜこぜだった六月)

◇青鷺や梅雨晴れに飛ぶ打出浜

加藤敏幸