遅牛早牛

時事雑考「23年秋の政局―解散は困難、賃上げ不足が露呈、物価高で生活苦」(その1)

(酷暑のせいか何をしても骨が折れる。前回の掲載から6週間もたってしまった、あきらかに能率がおちている。今回は「秋解散はない」という趣旨であるから、7月中に掲載できればよかったのであるが、実家の遺品の整理と草刈りに手間どった。炎天下の苦行の影響がまだのこっている。かるい熱中症かな。

 本稿も猛暑のせいで妄想度があがっている。文中で「衰退」を使うことにはやや逡巡したが、多くの数字はそのように語っている。まあ、見たくもない現実であろう。そういえば、自身も見て見ぬふりをしてきたのではと思いあたる節がある。逃げていたのかもしれない。逃げなくても、直視しても、衰退は止まらない。といいきって大丈夫か、何かがあるのではないか、未知なるものが。

 といいながらも、それなりに落ち着いていられたのは、数字にあらわれない豊かさがあると、そんな気がしていたから、またなんとなく自信もあったからで、だから気楽に衰退といえたのかしら。でも今は、直に刺さってくる。

 気候変動を気候擾乱と、かってに危険度をあげてみた。昔、台風の寿命は6、7日と教わったのであるが、台風6号はどうなっているのか、これも擾乱のひとつではないかと思う。

 連合としての賃金交渉は上首尾といえる。しかし、雇用者所得の伸びがどうなるのか、おそらく物価上昇に負けつづけていくのではないか、と心配である。となればひどい消費不振となるだろう。で、異次元の雇用者所得助成策が必要になるであろうから、そのためにもマイナンバー制度は保全されなければならない。ひとり5万円から10万円。10兆円弱のバラマキをやるにちがいない。所得税減税では低所得層にいきわたらないし、消費税率の引き下げは軽減税率の扱いもあり、まとめにくいと思われる。遅くとも年内に実施できれば内閣支持率にはプラスとなるだろう。

 とにかく物価に負けたままで総選挙に突入すれば、与党は100議席以上失うのではないか。物価上昇と台風が連帯しているわけではないが、市井は生活苦に息も絶え絶えということで、岸田政権は空前の危機に直面するであろう。

 北風が吹きはじめるころまでに、社会福祉党に豹変しなければ、内閣支持率10パーセント台もありうる。大げさではあるが、故なきことではない。

 大雑把な表現であるが、DXもGXも子分、親分は社会福祉。それでわが国は再生する。と、腹をくくったら、いつ解散してもしなくても総選挙は大勝利であろう。政治とはそういうものであり、時代は革命をこえる変革を欲している。

本体部分が2万字をこえたので(その1)(その2)に分割した。

 今回数字表記を全角に統一してみた。やはり、間延びしている。さりとて半角だとキリリとして強すぎる。そこで混合にすると使い分けがむつかしい。例によって文中敬称略の場合あり。)

解散には大義と動機がひつようである

 「6月解散7月総選挙」がきえ、今では「秋解散」が大勢のようである。しかし、その可能性は低いと思う。まず動機がみあたらない。さらに、与党の選挙情勢がかんばしくない。来年の自民党総裁選を優位にするためには解散総選挙が必須であるかの論調を聞くことがあったが、必須の意味が分からない。そんなことよりも仕事でしくじらないことがもっとも大事なことであり、この状況において最大のしくじりとは、解散した総選挙で20議席以上減らすことだから、どう考えてもしくじりの泥沼に突入することにはならないだろう。

 さらに、総裁選での有力なライバルと目されていたK氏はマイナンバーカード問題で評判をおとしていると聞く。また、最大派閥のA派も船頭が多いためか迷走中で、まちがっても総裁選候補をまとめあげることにはならないと思われる。ということで、総裁選の見通しは今のところ無風である。

 前にも述べたが、広島G7は拍手こそもらえても有権者にとって食べたい餅ではなかったわけで、これからも総選挙を支えるほどの外交成果がたやすく手にはいることはないだろう。むしろ、竜頭蛇尾でツメあま(詰めが甘い)だから、外交上の難問には取りくんでほしくないという声も巷にはある。まあ、期待はさまざまである。ともかく防衛費比率2パーセントとかを、あっさりと決めてしまったものだから、心配が先にたっているのではないか。

かんばしくない与党の選挙情勢、実質賃金が下がっているではないか 

 選挙をとりまく情勢でいえば、春の賃上げがうまくいったと思っているのかもしれないが、実質賃金が1.6%減っている。(厚生労働省8日発表、6月分の毎月勤労統計調査速報、前年同月比)はやい話が、賃上げが物価に負けているのだ。そのうえ、秋の値上げに対する消費者の態度が激変し、消費者の機嫌が悪くなりそうな気配である。賃上げと物価の好循環を期待するのであれば、賃上げ(ベースアップ)が物価上昇を上まわらなければならない。そのためには、秋にも賃上げ交渉を再開させるべきである。もちろん決めるのは労使であるが、春の賃上げがとどかない労働者のために、秋の賃上げを本気で工夫しないと、消費は失速するだろう。

 最低賃金は大幅引上げの方向が確認され期待されている。しかし、審議会としては歴史にのこる大幅増答申になったとしても、賃金政策的にはまだまだ不足感があり好循環への起爆剤にはならない、つまり最賃だけでは力不足なのである。

 岸田総理の「新しい資本主義」がくもりガラス状態なので判断しづらいが、分配構造に手をいれるつもりなら、最低賃金制度を抜本改正すべきである。現行システムは昭和の軽トラ仕様であるから、岸田総理の重たい期待をのせるには構造的に無理がある。

物価上昇に苦しむ労働者は生活防衛のために買い控える?

 ところで、岸田政権は人びとの暮らしむきについてほんとうのところが分かっているのかしらと思うことがある。預金ゼロの家計の物価対策は買い控えである。多少預金があってもおなじく買い控えである。労働組合のあるところは、来年の交渉に期待することができるが、83.5パーセントの労働者には労働組合がない。来年の前に今年がある。今年ほんとうに賃上げがなされたのかどうかについて、ていねいにフォローする必要がある。さらに来年の賃上げがあるかどうかは不確実であるから、しばらくは買い控えで家計を守ろうとするであろう。

 非正規労働者には定期昇給制度(定昇)がないことがほとんどである。中小企業の労働者も過半には定昇がなく、物価上昇には弱い。だから、過半をこえる家計が買い控えというより、定額支出で生活の質をさげざるをえない惨状にあるといえる。ということから、物価上昇をカバーしさらに生活向上をささえる賃上げ(ベースアップ)が達成されてこそ、物価と賃金との好循環ができあがるといえる。

 さらに、ガソリン代をふくめ電気ガスなどのエネルギー費用が夏場から秋にかけ家計を強烈に圧迫するので、それこそ火の車である。

 非正規労働者が2000万人をこえ、中小企業にはたらく労働者が3人に2人、未組織労働者が83.5パーセントである。その人たちが、少なくとも連合発表の3.58パーセントの賃上げを確保できているとはとても思えないのである。とにかく雇用労働者の所得の伸びがまさに焦点である。

 毎月の賃金動向について、非常に微妙な感じにあるが、それにしてもはっきりいって円安は家計の敵になっている。円高は企業を直撃したが、円安は家計を直撃している。企業と家計のどちらのほうが人数が多いのか、結果は自明である。

 政権にとってこの物価問題だけでも危難であるのに、それ以外にインボイスもマイナカードも不興をかっている。また、旧統一教会問題はどうなったのか。五輪汚職も風力収賄疑惑も政治と金の問題であり、選挙がちかづくと自民党の金権体質との批判が再燃する可能性が高い。さらに何が飛びだすのか分からない。だから、このまま選挙に突入するのは無謀というものであろう。

 くわえて、6月に解散できなかった(ほんとうはそんな気はなかったという解説もあるが)ということは、さらに状況が悪化すると思われる秋に解散できるわけがない。

 ところで、解散の大義なり動機があるのか、ここは「何のために」という大義と「どうして」という動機こそが重要であろう。ところで、「岸田政権をたおして国民生活を守ろう」といったほうが大義らしいではないか。まあ、岸田総理にとって忍耐も戦術のひとつであろう。

維新の影におびえるようでは与党失格である

 早期解散のねらいのひとつに日本維新の会(維新)への先制パンチ論があった。これは党利党略の典型であり、国民からの支持がえられるとは思えない。第一、野党選挙協力あるいは候補者調整ともに現段階では不調であることから、このままで推移すれば乱立気味の野党第一党争いに終始すると思われる。であれば、あわてる理由がないという意見が党内の大勢になる。

 ただ、解散した瞬間に非自民非共産での野党協力が部分的に進展する可能性があると考えるべきで、政界は一寸先は闇であるから油断は禁物である。とくに野党の動きは予測できない。国民民主党の代表選の結果しだいでゆれることがありうる。

解散風はいつも吹いている、社会的には役立つものとはいえない

 解散風は偏西風のようにいつも吹いている、蛇行はしているが。党内の団結と緊張の維持のための道具として使われている。これは「常在戦場」などと同じで、権力者の恰好をつけるための「小道具」にすぎない。時どきメディアが解説することがあったとしても、解散風そのものが社会にとって有益であるとは思えない、国会議員を浮つかせるだけの術策であり、社会の無効成分である。

 正直なところ、わが国にはそんな時間の余裕はないのであって、今なお新型コロナウイルス感染症に対する医療提供体制には不足、不安があるではないか、解散してそれらの問題が解決できるのか、など現下の問題を宙ぶらりんにしての一月半は確実に政治のロスタイムになるのだから、国民にしてみれば損失であり、いい迷惑である。もちろん有権者には投票の機会がふえるので経費をべつにするなら原則歓迎であると思われる。しかし、それで政治がよくなるかどうかについては、その評価基準もふくめ有権者に委ねられているといえよう。

維新対策よりも、岸田内閣の低支持率の原因解明を急ぐべし

 与党の維新に対する姿は、まるでキツネの影におびえるニワトリ小屋のようである。もちろん一夜明ければ落ちつきをとりもどし、曰く、キツネはオオカミより小さい、一匹では何もできないだろうと。しかし、怖れと不安はのこっている。

 自民党だけではなく各党ともに維新のことが気になって仕方がないのであろう。その気持ちはよく分かる。が、そのことよりも自民党は、内閣支持率の低迷の原因がなんであるのかを早急に解明しなければならないだろう。

 そこで、その答えのひとつが、国民民主党玉木代表が「平成の30年で苦しくなった国民生活」(7月18日ツイッター)との表題で世帯年収や国民負担率など12の指標について1989年との比較をあげている。ここで指摘されていることが直近の内閣支持率にどれほど影響しているのか、はなはだ疑問ではある。また、自民党だけが被らなければならないというものでもあるまい。まして、その年には連合も発足しているのである。

 しかし、いろいろな注文があるにしても、12の指標にかぎれば停滞どころか大きく後退しているのである。こんな成績でありながら今なお自民党が政権に就いていること自体が世界の7不思議といわざるをえない。30年来、不連続ではあってもほとんどの期間において、政権を背負ってきた政党は自民党だけ(1999年10月から公明党が連立参加)であるから、その責任は重大といえる。もちろん、野党の役割にも触れなければならないが。

 もし人びとが、多少なりとも30年来の政治をふりかえり、結果として失政であったと考え、さらに岸田政権にもその責任の一端があると考えた結果が今日の低支持率につながっているということであれば、自民党だけではなく、わが国にとっての転換点であるといわなければならない。つまり、人びとが長期視点で政治を批判することは、じつに画期的なことではないかと思う。(またまた妄想かも知れないが)

 もちろん、有権者がそういった歴史的視点をもって現下の政治を評価することは稀なことで、ほとんどなかったといったほうが正確であるし、今回もがっかりさせられるのではないかとも思う。

 しかし、それでもそのような解釈が可能であることは間違いないわけで、とくに人びとの疑問が体系的かつ時系列的に紡がれはじめると「30年間の系統的失政」という結論にたどりつくのに、そんなに時間はかからないと思われる。(系統的というのは芋づる的に原因と結果がつながっている、あるいは同種の課題において同様の結果をだしているなどであって、全種全面にわたる失敗という意味ではない。)

 さらに、そういった疑問が人びとに浸透して広く定着していくならば、自民党の支持のすくなくない部分が失われることになるかもしれないのである。もちろん、失われる「すくなくない部分」が、具体的にどの程度のものであるのかによって状況というか事情が大きく変わると思われる。結局のところ、その程度はよく分からないのであるが、ただ経験的にいえば全国規模で500万票動けば大事件に、1000万票動けば政変になるということであるから、「まさか」というジャンルの話としてはありうると思われる。人びとが、30年にわたる不都合な政治の責任を考えての岸田政権の内閣支持率急落であるなら、歴史の転換点になるのではないかというあくまで講談の類ではある。

社会全体を覆う格差拡大が社会の分断を生みだしているのではないか

 そういったわずかな可能性をほじくっているのは、社会全体をおおっている貧富の格差拡大や固定化が社会の分断や階層化をうみだす方向にはたらき、外見はともかく実態はどんどん悪くなっていると実感しているからであって、まさに豊作にひそむ貧困あるいは富饒(ふじょう)と困窮の二重奏といった矛盾にみちた世界がはじまっているのである。

 このような矛盾は、政治権力や社会的権威にたちむかう反抗、反逆の精神をはぐくむ元になるものであり、そこに理屈はないのであるから、反抗、反逆の結晶化がはじまってしまうと、後は雪崩のようにその勢いを増していくというのが歴史の教えるところである。こよなく平穏であることを望む人びとにすれば、見たくもない知りたくもない歴史の裏面のことかと思うかもしれない。しかし、一方で30年もの不公平をともなう経済停滞あるいは後退を引きおこした何か、あるいは阻止できなかった何か、その何かの存在を確信し、さらにその何かを明らかにして、そのうえでその何かの無作為さらに結果責任に対する罰を具体的にだれかに背負おわせることを真剣に考えるべき時期がきたということであろう。主権者としての有責必罰の主張である。

 

この国の30年にわたる衰退を曖昧にしてはならない

 さて、来し方行く末をつまびらかにしないことが人びとの幸せにつながると信じてきたからこそ、何ごとにも曖昧な態度をとりつづけたのかもしれない。という文脈が理解できたとしても、この30年にわたる衰退についてはその責任を曖昧にしていいものではない。政治は主権者からの委任をうけて為されるもので、為政者は委任元である主権者に対して責任を負っている、といいながらこの国では今や為政者が王様気分で「やむをえない節」にのっかって衰退街道をひた走っているのである。

 だから、憲法上の主権者の口から火が噴かれることでもなければ、この先も為政者に舐められるばかりではないか、ということである。でなければこの国の主権者とは名ばかりの、ただの案山子でしかないということであり、民主国家といったところで、人びとは主権者としての権限も責任も自覚できていないのだから、それでは民主制が確立されているとはいえないのである。

 また、主権を行動として行使するのでなければ十分とはいえない。さらに行動といっても選挙で投票するだけでは不十分であって、投票する動機と目的が明確になってこそ投票をつうじて政治に参加することの意義がいきてくるといえる。民主政治のハードルをそこまであげることについては、さまざまな意見があると思うが、どちらかといえば状況適応に傾斜しすぎている国内世論のもとでは、十年に一度ぐらいは課題を構造的に捉えたうえでの投票行動がひつようであると考えている。

 と述べつつも困ったことに、人びとはわが国の衰退を自然現象に近いものと思っている(認識している)のである。ということは、みずからの行動とはいささかも関係していない現象であると、わが国の衰退をそのように捉えているのである。だからここであえて、わが国の衰退が国民の選択の結果によってもたらされたのではないかといってしまえば、おそらく山のような非難がおしよせてくるであろう。

 もちろん、「国民の選択の結果」と述べてしまえば国民主犯説に立脚していることがあきらかになる。しかし、すくなくとも積極的に衰退に加担した者が皆無であることは確かであるから、では消極的に衰退に加担するという、そんなねじれた経路がありうるのかといえば、わが国の衰退を好んで企図しうる主体そのものの存在が確認できないことから、積極的にせよ消極的にせよ衰退に加担するという経路はないというべきであろう。

 ここまで、けっこうややこしい理屈にこだわってきたのは、一方でわが国の衰退を自然現象のようにいい、だから誰にも責任がないのだと丸く収めようとする陣営があって、他方には、ながらく政権の座にいる自民党の責任をきびしく追及する陣営がある。という配置図を見ながら、では主権者たる国民はどこにいるのかと素朴な疑問をおぼえるのである。同時に、たしかに奇矯ではあるが国民主犯説も俎上にのせるべきであると提起しているのである。

国民は衰退を自然現象であると思っているのか?

 少なくともこの30年にわたる衰退について、国民は怒り狂っているわけではない。さりとて自分たちの責任であるとは微塵も思っていない。さらに、とくだんわが国衰退の犯人を探索しようともしていない。じつに淡泊なのである。しかし、考えてみれば衰退の結果失った富、いいかえれば得べかりし富は莫大である。それらのうち幾ばくかでも手元にのこすことができていたのであれば、この間に発生したもろもろの経済的不都合に対しある程度は対抗できたかもしれないという、妄想的ではあるが、それなりにメリハリのきいた主張がありうるのではないかと思う。

 しかし、人びとは淡々として未練がましくはないのである。だから表現としては「国民不在の衰退劇」とのいいまわしが適当なんだろうが、国民としては不在にされたとは思ってもいないことから、「国民が勝手に不在になった衰退劇」といった表現のほうがより正確ではないかと考えているのである。

 そこで、なぜ勝手に不在になるのか、それも一番大事な時にと思う。まあつきつめれば当事者になりたくないのであろう。または重苦しいのが嫌いなのか、だから逃げたいのであろうか。30年間、先進6カ国とくらべても明白にずり落ちているというのに、この点についても誰一人騒いでいないではないか、少なくともそのように映るのである。

 とうぜん、わが国の人口構造が高齢化の最新モデルであり、少子高齢化問題のフロントランナーであるから、見かけはともかく衰退の語感に老衰の含意を感じとる向きもあるであろう。しかし、それがいいわけとして十分なものとは思われないであろう。たとえば、定年後の再雇用制度で3割も4割も給料が下がる意味について、経営者はどんな説明をするのであろうか。まさか、値切れてうれしかったとでもいうのであろうか。同一労働同一賃金というのは公正基準である。給料を下げたことについて「てきとうに仕事して」と表面上はいっているかもしれないが、内心は従前とかわらぬ働きを期待しているのかもしれない。しかし、そんな横着な期待はうらぎられて当然である。労働の対価としての賃金であると同時に、賃金の対価としての労働なのである。この国の経営風土の中に、何かにつけて賃金を値切ろうとする粘度のすごく高い風習慣行があるのではないか。

 また、何かと弱みをみつけて賃金を値切ろうとする。そんな組織風土にあって本気で仕事をする人もいるが、多くはもらう給料の範囲でと考えるであろう。低賃金は経営の本質をあらわし、経営者の本性をかたる。そういうみみっちい、ケチで貧相な精神の30年であったとうけとめている労働者は多く、衰退の理由も現場は分かっているのである。労働生産性が低くあらわれるのは、低賃金が原因である。もうひとつは、何かにつけて公平という正義が不足しているのである。正義を貫徹しなければ持続可能にはならない。倫理が資本主義を制動する唯一の鞭であるとしたら、わが国が衰退している理由もわかるというものであろう。

 

解散総選挙とは今では政治的小局面への介入策でしかない

 さて、おそらく何ごともなかったように秋を迎えるであろう。過日、ベテランの政治記者から党人事、内閣改造と実績をつみあげて秋の陣へと粛々と駒をすすめるとの解説がされていたが、少なくとも秋の陣は前述したようにむつかしい。

 そもそも、解散総選挙という手法はもっぱら政治的小局面への介入策であって、長周期におよぶ大局面などへの介入策にはなりえないのである。つまり、今日のわが国がかかえている諸課題そのものを選挙争点として解散総選挙におよぶのでないかぎり、政局がらみあるいは党利党略優先の操作として重宝がられるものにすぎないのである。かりに、有権者の判断をあおぐということであれば、話し合い解散として、十分な争点整理のうえで代替案の選択をも可能にしなければ、選挙の結果がなにを意味しているのかが不明なままに、笛や太鼓ではやしたてるだけのお囃子選挙におわってしまうではないか、と憂うるのである。

 とはいっても、現実問題として選挙の争点は大衆迎合的に形成され、有権者も当座の利害得失にはりついた選択に傾きがちになるということで、つねに小局面への対応が毎回積みかさねられていくのが、わが国の政治の実態あるいは風景といえるのである。

歳入歳出をめぐるドタバタに政治エネルギーの大半をつかっている

 年々歳々の積みかさねという年次システムでは、たとえば来年度税収が70兆円を超える見通しであるということだけに気をとられ、横にある構造問題などはとりあえず「よいこらしょ」と棚に上げられ、また一年埃をかぶったままになるのである。

 つまり、長期的課題あるいは構造問題などは口にされることがあっても、けっして俎上にはのせられないのである。だから、少子化問題にしても産業の構造問題にしても半世紀前から指摘されているにもかかわらず、とりあえずの作業は年次システムに落とせるものを中心におこなわれるのであって、長期的であるがゆえに年次システムに落としこめないことになり、その結果棚にもどされるという、笑い話にもならないてん末がくりかえされることになる。

 これが半世紀にわたって年次作業として50回、長期的課題あるいは構造問題については何とかしなければという問題意識こそあるものの、実態としては年次システムからは外さざるをえなかったということではなかろうか。

 かような年次システムに代表される官僚的ルーチンは、当座の課題を的確にこなすという使命からいえば十分合格点に達しているといえる。 

 しかし年次的にできることしかやらないということは、重要な長期的課題つまりもっとも中心に位置する課題については、50回先送りされたということである。これは、政治家の責任である。政治主導という発想も本来官僚的ルーチンでは手がつかない大型案件にとりくむ政治的意志の表明という意味あいが強かったように記憶している。しかし、昨今では「そこのけそこのけおいら(政治家)がやるぞ」といったパフォーマンス型に軸足がおかれているようである。

 個々の有力政治家の問題意識から発想されたたとえば郵政民営化などに対し、否定する気はさらさらないが、できれば少子化問題のほうを背負ってほしかったと愚痴っぽく思うのである。

 来年度は税収も増えそうだからなんとかなるだろう。とにかくいいアイデアをだせというのが異次元の少子化対策のやりかたであるように思われるが、「金をかければ何とかなる」といった予算万能主義が透けて見える。予算万能主義というのは、理念をほったらかしにして、おなじ手口でアプローチした結果、同じような失敗をくりかえす傾向が強く、政策目的の深堀と状況変化への適応を欠いた硬直手法であるといって問題ないと筆者は考えている。

 少子化問題でいえば、課題発見から50年も経っているのにこの首尾の悪さはギネス記録ものではないか。やはり金では買えない政策もあるのではないかと思いつつ、とくに政府の少子化対策が現金給付策の寄木細工の組合せ論に流れているが、そういったことでうまくこなせる課題なのかと悩むのである。 

 いい方をかえると、総合科目である少子化政策(対策ではなく)をいくつかの単科目に分解するという手法でいいのかということである。このあたりにわが国の社会政策にたいする根本姿勢における重大な勘違いがあったし、今もあるように思えてならない。

少子化政策の軸には理念が要るのではないか、理念は金では買えない

 さきほど少子化政策において、金で政策が買えるのかという問題提起をおこなったが、逆にいえば金がなくても政策が成立するのかという反問がでてくるであろうし、あるいは金がなくてもやれる政策とはどんなものかといった意見もあると思う。そういう意味では少子化政策を総合化していく過程において、どうしても現金給付をしなければ所要の効果がえられないこともあるであろう。もちろんそこに争いがあるわけではない。

 そういった議論の前に、欲しても授からないこともあれば、意思をもって欲しないこともあり、といった個々のさまざまな事情が前提としてあり、そのうえで出産主権ともいうべき意思の尊重が配置されているという建てつけになっている。ということで、意思の尊重とは自由意思による自己決定であるから、政府が計画誘導できるものではない。だから、最終的には自由意志による自己決定をなす者の内心のありようにおおきく依存しいるといえるわけで、であればその内心について少しく洞察するひつようがあると思われる。

 さて一般論ではあるが、たとえば気候変動の脅威を目のあたりにして、10年後のわが国が、わが地方が、わが地域がどのような状況になっているのかと、誰しも考えこんでしまうであろう。そこで、資産が何十億円もあれば金の力で何とかしのいでいけるというほど露骨でなくとも、保有資産が人びとの将来ビジョンの明るさを決定しているというのが、まちがいなく現代の常識であって、いわゆる「デファクトスタンダード」であろう。

 気候変動からさらにひどい気候擾乱(じょうらん)時代へと人類の思惑をとびこえて一気に突入していっているようだが、それにともないわが惑星の生物環境も急速に悪化している。あわせて人類の生存環境もじわじわと不可逆的に悪化しており、経済ヒエラルキーにおける底辺の人びとをまきこみ、ほぼヒエラルキーに沿いながら被災し、資産事情に反比例するかたちで被災が深刻化しているようにみうけられる。

 そういった身のまわりに起こっていることから世界の実情までを見聞きしながら、もちろん体験もしながら、公助共助の役割の大きさを痛感しながらも、保有資産の多寡が個人の生活安全保障にとって決定的であることを理解した時に、欧州発の人権思想を称揚する人びとには、保有資産ゼロの基本的人権はどうなるのかという素朴な疑問が生じるかもしれない。だから民主主義国に住んでいても、ある程度まとまった資産を保有していなければ本当の安心はえられない、というのも現実であると思われる。

気候擾乱時代には、資産なくして安心はえられないのも真実である

 気象災害のニュース映像が流されるたびに、気候擾乱時代の生活リジリエンス(復帰力)に関心がよせられ、経済的理由だけでなく、被災した気象災害からの避難が先進国への大移動を促進させる要因となっていくことも増えていくと思われる。しかし、現実にはそのハードルは高く災害からの避難を動機とする世界的な規模での人的移動が常態化するかどうかは分からないというべきであろう。

 もし、気候変動が原因で可住地域をおおきく減耗する国に対する救援策として地域ごとの移住が議論されることになれば、当然国際社会の一員としてわが国も積極的に対応すべきであるが、嫌だと感じている人びととの調整がひつようになると思われる。そういう時代が目前に迫っているといえる。

 他方わが国は、気象災害へのリジリエンスは比較的高いといえるが、しかし地震や噴火などの自然地質災害のリスクは高く、くわえて海洋地震にともなう津波災害などの発生確率もおなじく高いことから、将来の生活を考える場合には常に被災を意識せざるをえないのである。さらに、単一の自然災害だけではなく複合災害ととなりあわせの生活であることが、防災教育が普及すればするほど強く意識づけられるのである。ということから、人生の選択において被災確率の低い生活圏、住環境そして地域における生活リジリエンスの確保といった従来に比べそうとう高いランクの生活安全保障をめざすことになるが、同時にそのための資産確保に悩むことになるのである、残念ながら多くの人びとは居住地や勤務地を自由に選べるほどの資産をもっていないのである。そういう意味での、もたざる人びとの不安は年々増大している。

 増大する不安が出生率の漸増をおさえこみ、時間をかけて漸減へとおいこんでいくのではないかと思われる。所得格差、資産格差の拡大が出生率の動向に直接的に効いているとはいえないが、さきほど述べた不安の増大を抑制する手段において、高速道路網ほどには生活分野に資源投下されておらず、またこれからも意思も予算ももちあわせていない政府であると人びとに強くすりこまれていることが、日常生活におけるそれぞれの不安対策あるいは生活防衛策として「子どもをもたない、もっても一子だけ」という選択を誘導させているのではないか、少なくとも保有資産がわずかな人びとの認識はそういうことであると思う。

個人の能力も金次第と信じられていることの影響が大きい

 さらに、出産をためらわせるうえで決定的なのは、個人の能力形成が投下貸本に強く相関すると信じられていることである。さらに世の中を見わたせば、医者の子は医者であり、役者の子は役者であり、株式会社も国会議員も世襲が多いといった事例にあふれ、実態以上に人びとに悪い印象をあたえている。そんな世界に生まれでて、これからどうやって生きていくのか、と考える者が急速に増えている。とくに、ロスジェネ世代には経済社会へのぬぐいきれない懐疑があるように感じられる。

 ここで「親ガチャ」までもちだす紙幅の余裕はないが、若い世代では同世代感覚として「親ガチャ」感をうけいれており、そういった感覚をベースにしながら、こんどは自分が親として、せっかく授かった子どもたちが先々どんな環境でまたどのように扱われるのかといった思いを寄せることはごく自然なことであるが、そうであればあるほど親としての不安がふくらんでいくと思われる。

 こういった不安感が広まれば出生率は下がり、率が下がれば出生数が減る。と述べると、さすがに否定感情だけが増幅され、本来あるはずの肯定感情がどことなく粗末にあつかわれている感じがしなくもないが、大都市地域では子どもを産み育てることが難しくなっているのは事実であろう。

 チャンスにあふれる社会といった肯定感がなければあえて苦労を背負う決断はむつかしいと思う。

ひとり親家庭への支援を社会政策として確立することが重要である

 ところで、ひとり親家庭への支援を社会政策上どのように位置づけるかも重要であり、少なくとも社会的合意を形成しておくべきである。もちろん出生数にかかわる議論に直結させるひつようはないが、家族優先の価値観と激しくぶつかる部分があることから、政府による福祉資源の投下にはためらいがみられ、残念ながら現場での不足感が大きい分野であると思われる。

 伝統的な家族観については、たとえば三世代同居を標準モデルとしたうえで家族優先と唱えてみても、現実にはそれを維持することができなかったわけで、とくに都市部では核家族、単身者の比率が圧倒的であることから、社会政策の重心を個人単位の方向にさらに動かさざるをえない状況にあると思われる。

 三世代同居には、育児や介護への対応力があると素朴に信じている保守派が多いと思われる。筆者もそのことを否定するよりも肯定する気持ちではある。しかし、現実を直視すれば三世代同居が成立する地域をどの程度見いだすことができるのか、といった疑問もあり、さらに地域の高齢化が加速していることもあわせて考えれば、三世代同居が問題解決の切り札にはなりえないというべきであろう。わが国衰退の原因の一つに、人口ピラミッドのいびつさとそれへの対応の失敗があり、一昨日に出航した輸送船への乗船を今日大議論しているような無力感、寂寥感さえ感じざるをえないといえば大げさであろうか。

 この問題において出生率との関係を直接的に議論する必要はないと考えるが、離婚した場合の支援のありようが出生率に微妙な影響をあたえていることには注意しておくひつようあると思われる。

 さらに、何でもかんでも「自己責任」論で起承転結を追求するのはマニアックすぎるというべきで、ケースによっては破壊主義に化する危険があるといえる。とくに、自分の子は自分でめんどうみろといった言説は社会保険を基盤にした社会保障制度を全否定するもので、くわえて国家の存在意義をも否定することになる。といったことはわが国において、新自由主義をとなえた人びとが率先して中和してもらわなければ、自己責任の毒素によって苦しむ人が絶えない不幸がつづくであろう。

 厳しいことをいうようであるが、家族像についての標準型に強いこだわりをもつ保守政党が、ひきつづき保守的な方向へ影響力を行使するかぎり、この国では標準家族像からはずれた人びとの生きづらさがなくなることはないであろう。ここは、あるべき家族(モデル)から出発するのではなく、いまある家族(実態)から政策を発想するのでなければ、民主主義国家の社会政策とはいえないのではないか。国民を鋳型にいれるのが保守思想とはだれも考えていないはずなのに、保守派を標榜する人びとの議論がかぎりなく鋳型に近づいていくのはおかしなことである。

(その2)へつづく

加藤敏幸