遅牛早牛

時事雑考「23年秋の政局―解散は困難、賃上げ不足が露呈、物価高で生活苦」(その2)

(進路鋭角の滞在型台風6号は11日朝鮮半島付近でようやく温帯低気圧にシフトダウンした。しかし、後続の7号が15日にも日本列島中央部に上陸の可能性が高いという。3年間のブランクに耐え、帰省をはじめ夏休み行事がようやく再開された矢先の足どめに落胆する人も多いと思われる。そうはいっても、酷暑も台風も新型コロナ感染症よりはましかと思いながら、個別事情はさまざまであり、がっかりの度合いもいろいろで、つまるところ「憎きもの値上げに台風円安ぞ」といったところか。

 気候変動の影響が世界の穀物生産にどの程度の悪影響をあたえるのかは不確かである。しかし、中国での豪雨災害による不作の心配もあり、またウクライナの穀物がロシアによって閉鎖されていることなどが、途上国を中心に穀物確保に不安を生んでいる。また、インドも米の輸出を禁止し国内消費にむける方針をうちだしている。穀物価格の急騰は各方面にじんだいな悪影響をおよぼすもので、わが国も例外ではない。穀物価格の変動性が高まることは各国の物価対策や経済活動にとっていいことはひとつもない。この先の国民生活の重石がふえたことは、岸田政権の重石が増えることにひとしい。

 もちろん、状況適応に長じた自公政権のことなのでそれなりの部分最適解をつないでいくであろう。そこで問題は、より困っている、より貧しい人びとから順に政治の手をさしのべていくことができるかどうかであろう。)

税収増に浮足だっている暇はない、国家経営のルーチンを見直したら

 こんなに税収が増えることになると、予算編成での余裕度がたかくなり、早い話がばらまきでも何でもやりたい放題ではないかと誰しも思うであろう。おそらく周囲の期待もたかまるから、政党も支持者も陶酔感につつまれるのではなかろうか。

 また、一部の人にはクラクラする議論であって、表題はもっともらしく公益に服す趣旨となっているが、予算執行によって大いに潤う人たちが増えることも想像にかたくないのである。まさに、8月の概算要求から12月の閣議決定まで、与党としては最高の時間といえる。おそらく、支援団体あるいは支援者との会合をかさねながら、要望を聞いたり経過や成果を報告したりと与党議員のみが味わえる嘉悦の時間といえよう。

 しかし、嘉悦だからといってわが国の衰退がとまるわけではない。さらに衰退が底をうつとも思えない。なぜなら、何十年にもわたる国家経営のルーチンが、それも民主的におこなわれてきたことが、皮肉にもその帰結が30年来の衰退であったことをうけとめるならば、まちがいなくこれからも同じことがくりかえされ、さらに高い確率で衰退病の進行が予想できるのである。

 であれば、手はじめに国家経営のルーチンを見直すことに挑戦してみることも方法のひとつであろう。成功確率は決して高くはないと思うが、何もやらないよりはいいに決まっている。

インフレは借金国家にとって「神風」なのかといいたくなるさ

 税収増など「物価上昇2%目標」のうま味(メリット)がにじみでているようである。しかし、メリットをえられない人びとのほうが圧倒的に多いのである。とくに年金生活者にとってインフレは過酷である。そこで物価スライドが守護神として生活防衛に力を発揮するはずであった。

 ところが、デフレ時代には物価も賃金も下落がつづいたことにより年金財政がいちじるしく不安定になった。ために、マクロ経済スライドという引き算を導入し、時間をかけて安定化させるのと同時に現役世代の負担減をはかることにしたのである。

 そこで23年度は、マクロ経済スライドの調整率が(マイナス)0.6%となって、68才以上は2.5%-0.6%で1.9%分の増額となった。標準的な厚生年金受給者(夫婦)で月額5千円弱の増額である。計算では物価上昇に追いつかないので、月末において赤字にならないように支出をコントロールするしか手がないということで、はらだたしいがそれでも半分はありがたいということであろう。

 完全物価スライドではないので、年金の実質価値が保てない、つまり減価していくのである。そこで物価の番人が2%をめざして頑張るというのが気にいらない。世の中には、物価上昇分をおいそれと補填してもらえない人びとのほうが多いので、長引けば個人消費が失速することになるだろう。しかし、それは日銀の守備範囲ではなく、賃上げは政府の持ち場であるから、日銀としてはお手並み拝見ということかもしれない。日銀総裁が経団連会長と連合会長に賃上げを要望したところで、それで賃金が上がるものでもなかろう。

 もともと「物価上昇2%目標」達成には、必須条件としてそれ以上の賃上げがセットされていなければ理屈があわないのに、日銀としては物価だけしかケアできないというのでは、理屈抜きで無責任のそしりをまぬがれないのではないか。

 インフレマインドに期待するというのは分かるが、一方の賃上げマインドは廃れて久しいのだから、物価と賃上げとの好循環の実現には2年はあまりにも短すぎたということであろう。筆者の感想をいえば、賃上げを舐めるな簡単じゃないぞ、というもので歴代内閣は声だけはだしたが汗をかくことはなかった。日銀も労使トップを督励するところまでは気持ちよくやってはいるが、賃上げアクションプログラムではなかった。賃上げによく効く操作棒をもたずに「物価上昇2%目標」だけで勝負したとなると、ずいぶん迂闊なあるいは無責任な話ではないか。

 くどくなったが、本音をいえばさしたる資産をもたない者にとって日銀は敵ということであろう。

異次元の超金融緩和策の評価はこれからであるが、後半の5年は余分ではなかったか

 さらに、黒田バズーカとかいって、異次元の超金融緩和策を導入した。当初は2年の予定だったが10年もつづいている。いいことが長引く話はあまり聞かない。2013年頃は出口がむつかしいのではとの声も少なくなかったが、円安・株高を背景とするアベ政権と日銀チームの鼻息の荒さに正直かき消された感じであった。2013年1月~6月の金融政策決定会合議事録が開示され、少しずつ報道でとりあげられている。

 「量・質ともにこれまでと次元の違う金融緩和をおこなう必要がある」旨の総裁発言はまるで闘争宣言のようで、前総裁への不足感でイライラしていた政府関係者をして、総裁が替わればこれほどまでに変わるのかとの感慨を吐露せしめたというから、たいしたことであったのだろう。たしかに黒田金融は異次元ではあった。議事録では一部の委員からは懸念も指摘されていたという。専門家によるこれからの検証を待つということであろう。

 で焦点は、他に方策がなかったのかという対局後の感想戦にうつるのであるが、「異次元の」という表現に日銀自身が酔ってしまって身動きがとれなくなったのではないかという診断があたっていると思う。とくに、「2年」と明確に期限を切ったところが異例でまさに妖刀の風情であった。ならば潔く2年で終わるべきであった。効果がでなかったから延長というのでは、戦力の逐次投入とかわらないではないか。ともかく、後半の5年は余分だったと思う。

 つねに手持ちカードを多種・多様にしておくことが中央銀行が間違うリスクを最小にする方策ではないかとあらためて感じている。黒田日銀は緊急対策をうけおっただけということであれば、副作用については免責されるのであろうか。それではあまりにも虫がよすぎるではないか。また、自立をいうなら、賃上げの具体策ぐらいは責任をもって提起すべきであったと思うが。

 黒田日銀として惜しむらくはもっと賃上げに狂奔しておれば、ということであろう。

デフレ時代は、企業別労働組合中心の賃上げ交渉はむつかしい、政治主導の賃金政策の展開で打開するしか手がないのでは

 労働運動家としての長年の勘(経験と思索)でいえば、交渉ベースではなく労働者全体として最低でも2割程度の雇用者所得増が2000年からの20年間で達成されていたならわが国の風景はもう少しましになっていたであろう、という「たられば」話になる。この20年間といえばほぼ金利ゼロと、ときどきのマイナス物価と円高の時代であったから、企業別に編成された労働組合が中心となる交渉による賃上げはむつかしい環境にあったといえる。民間部門の賃金が動かなければ他に波及することもないので、全国の賃金が動くことはない。官公部門における人事院勧告は民間準拠を原則としている。また、残念ながら未組織労働者が組織的に賃上げを求める構造にはなっていない。ということから、全体として賃金停滞に陥りやすいのである。したがって、政治が意識的に賃上げをプロモートしていかないと、なかなか個人消費を支える賃金を確保することにはならないのである。

 したがって、長期間の賃金停滞期には思いきった政策が期待されるところであるが、自民党政権は歴史的に労働条件の改善には消極的で、往々にして労働者よりも経営者の顔色をみていたといえる。

 しかし、雇用あるいは賃金においてわが国はさまざまな構造矛盾をかかえており、その解決は労働界だけでは力不足であって、また労使でまとめあげてもその影響の範囲には限界があることから、実情はできない理由にかこまれたとても寂しい時代であったといえる。

 先ほどの構造矛盾の多くは格差問題である。とくに、性差による賃金格差は差別であって、受容すべき根拠を一般的に見いだすことはできない。また、企業規模間格差も労働条件全体を俯瞰すれば合理性に欠けるものが多いといえる。このような構造矛盾は毎年の賃上げ交渉の場においては、議論はできても解決には遠くおよばないものであったといえる。そういった従来からの交渉方式や形態をみきったうえで、他の方式や形態による解決法を模索すべきであったといえる。

 まあいろいろいってみても、政治主導による解決しか方法はなかったと思う。そこであえていえば、わが国の賃金決定交渉における民間主導の実態を考えれば、交渉ベースでの賃上げが難しい時代にこそ、構造問題への対処にあたるべきで、政治主導による政策展開として主には雇用者所得のかさ上げによる個人消費の下支えをおしすすめる過程で構造問題を少しずつ改善していくといった方法で、10年20年と積みかさねていく道もあったと思われる。

 すでに、時代は移り、人手不足が正面の課題になっている。ここ20年近く、女性、高齢者の参入をはかり労働市場の需給に対応してきたが、そろそろ限界が見えてきたと思われる。与党得意の状況適応が奏功したと思うが、女性、高齢者の賃率を上方誘導できなかったところが画竜点睛を欠くというべきであろう。チャンスがあれば賃上げを、隙を見つけて賃上げを、という根性が政府になければ今の低賃金国からの脱出はむつかしいということである。

 ここで、そういうことは労働組合の役目ではないかと、賢しらにいう向きがでてきそうだが、開き直っていえば、できるものであればとっくの昔にやっているのであって、できていない現実があるから今日のこの惨状があるのではないか。そもそも、わが国(政府)の労働組合対策は中立よりも規制に傾いているといえる。それには経過があるからここで蒸し返すことはしないが、わが国の衰退に少なくとも歯止めをかける気があるなら、賃上げは経営者を扶けるものであると宣言し、そのように実践すべきであろう。

本論の秋の政局について

 さてそこで当面の政局は、党人事と内閣改造に集中することになり、小粒ながらも党内政局となる。わが国の山積する課題状況からいえば、党内政局などは手早くすませて欲しいものである。

 ところで、岸田政権にとっての新装開店になるが、食べかけの政策も多く国民からみて新鮮味はさほどないであろう。それよりも「新しい資本主義」はどうなったのか。中小企業での賃上げがすすんでいるのかといった個別課題に注目する声も多く、また内閣の仕事ぶりを重視する国民としてはこのタイミングでの改造についてはいささか気になるところであろう。大臣をかえてもらって結構だが、そのために月単位で大臣の仕事が停滞するようでは何をかいわんやである。

 ほとんどの食品をはじめ多くの生活用品が値上がりをしている現状にあって、岸田総理だけではなくほとんどの閣僚の立ち居振る舞いに生活者への共感が感じられない。口先はともかく体全体は無関心をむきだしにしているではないか。こういうのをギャップというのであろう。これでは支持率があがるはずがない。

内閣支持率が低いのは、仕事の質に不満があるからで、危険信号である

 それにしても内閣支持率が低すぎる。岸田総理周辺は首をひねっているのかもしれない。おそらく、仕事の質が低い、低すぎると人びとが感じているからであろう。

 逆に、人びとから評価をえたいのであれば、たとえば山積している課題をときほぐし、分かりやすく整理し問題のありかとか、その解決の手順を明確にしめすことに努めるべきであろう。政治の世界でのそういった鮮やかさやスマートさに人びとは飢えているのであって、今は満たされない欲求不満がマグマ化しつつあるのではないかと思う。

 わが国がすでに衰退しつつあるとの認識が一般化しているなかで、岸田政権も与党もややこしくなるとすぐに先送りしようとする、といった疑念が自民党支持者のなかにおいてさえ広まっているように思われる。たとえば、困難であるとわかっていても果敢に挑戦していくのが政治家のあるべき姿だと世間ではそのように思っているのである。現政権はそれとは違って状況主義的でありすぎる。また悪い迂回癖がついているとみられている。優柔でありすぐ逃げるという印象が、たとえばマイナンバーカードにからむ不具合発生に対しても、「またか」と消えた年金を思いだした人びとは「政府の仕事ぶりはいつもこうなんだから」とワンパターンの評価につなげていると思われる。

 こういった問題については筆者は政府にやや同情的である。入力ミスは二重入力を採用してもゼロにはならない。カード保持者の協力を組みこんだチェックシステムにするべきであったと思う。国民の協力がなければデジタル化はむつかしいのである。

 そこで、「総点検」を指示すれば伝家の宝刀をぬいたと思わせる算段であったと思うが、もちろんそれはそれで理屈のある話ではある。しかし問題は、どこか投げやりな、また他人ごと感がにじんでいるところがあり、その態度ではなかなか納得はえられないと思われる。まあ、自分で書いたプログラムでないかぎり本当のところがどうであるのかは分からない。また時間もかかるものである。だから、今風にいえば現場にまるなげして、自分たちはスルーしていると受けとられている。

 さらに、誤情報が紐づいているのなら点検・修正はとうぜんのことであり、この場合いらぬはずの仕事(総点検)に金(税金)がかかるのはだれの責任なのかということであろう。

 それにしても善し悪しの判断が間に合わないから、あるいは即断しなければならないという場面において、往々にして人びとは風評を便宜的に用いるのであろう。また、メディアの一部も「風評にのっかって否定的に報道する」のがお約束なのかと筆者などはそういった報道姿勢に対し疑問に思うのであるが、今回は鼻っ柱のつよい答弁なり対応が火に油を注いでいるように思える。岸田政権では、火種を放置するのが作風のようで、アベスガ時代には考えられなかった対応となっているのではないか。これは細部事項への対応のまずさということであり、放置しすぎるから問題化するのである。もっとも、これは内閣官房の担務なんだろうが、あんがい傷が深いかもしれない。

おかしいことはおかしいと与党議員が声をあげるべきである

 このような指摘に対して与党議員のなかからは、問題解決のための時間稼ぎという苦しいいいわけもでていたが、本来はおかしいことはおかしいと与党議員こそがいわなければならないはずなのに、それがそうなっていないところに議会としての今日的課題があるといえる。

 あたりまえのことではあるが、与党議員は多数派である、にもかかわらずいうべきことがいえないとなると、それは議会の閉塞であるから、政治は酸欠状態においこまれる。すなわち、議会が行政府の下僕に堕することになり、それでは三権分立は成立しないのだから、議会にとっては最大の危機というべきではないか。政府と野党との対立構造だけではなく、政府と議会との対立構造も場合によってはひつようであろう。

 別の見方をすれば、党議拘束もほどほどにしないと、ひとまわりしてみたら国民の信頼を失っているかもしれない(すでに崩れつつあるが)。ここで理屈をいえば、内閣支持率がさがっているという議論は、一連の調査にかぎってのこととしても、岸田政権と国民の認識にズレが生じているということであり、議会が国民を代表するというのであれば、可能な範囲で内閣を牽制するのが議会としての正しい行動というべきではないだろうか。与党であるからといって、右向け右に従わなければならない謂(いわ)れはないはずである。

 

これからの30年も同じ失敗をくりかえすのか、これは国民の問題である

 もし、これからの30年も同じ失政がくりかえされるのではないかと危惧するのであれば、有権者としては思いきって政治の流路を変えればいいのである。それ以外に手はないだろう。また、流路をかえる意志をもたなければならない。と、このような話になった時に、「投票したい政党はないし、たいした候補者もいない」といった愚痴が聞こえてくるのである。その気持ちはよく分かる、同感である。とはいえ、すでに確立している権力(エスタブリッシュメント)は本能的に「選択肢をなくすように動く」のであるから、野党はつねに弱体化し、いつも候補者は劣化しているのである。よくよく考えれば当然のなりゆきであるから、有権者は体を張って野党を支えなければならないということになる。

 ここで与党を支えないのは、30年にわたって失敗してきたからである。ちいさな成功大きな失敗の連続であった。まあ、国に勢いのあるうちはいいが、もうそろそろ限界である。すなわち人びとによる積極的な政権交代願望の時代にはいったのである。

 話がここまでくればずいぶんと大げさだと、あるいはためにする話だと思われるに違いないが、しかし、そのように思わざるをえないほどの「他の先進国にはない失政」ではないか、それも世界史に残る大失政であるといえよう。

 ここでの論点は、大失政が世界史に残る、ということではない。30年もの間、そして今なお同じ政党を信任している人びと、つまり国民のたぐいまれな忍耐強さが世界史に残ると指摘しているのである。権利をいえば、世界有数の選挙権をもっているというのに、どうして政権をかえないのかというのが世界がいだく日本への疑問ではなかろうか。

 ともかく、他国に例を見ないほどの、つまり格別に珍しい現象なのである。ではあるが、だからといってわが国特有の政治に原因があると即断することに対し、そうではないとこれを咎める声が多いことも現実である。そういった声があることを理解はするが、ではわが国の政治には責任がなかったという証明なしに、この30年にわたる失政については無罪であると、そういって人びとを納得させることが可能であるのかといえばそれはそれで大変むつかしく、あえていえば自民党がおおいに無能であったから責任はないという詭弁を弄するのが、精一杯のところといえよう。

 さて、自民党の大失政とは、自民党にかじ取りをゆだねた国民の大失敗につながるので、筆者としてはことさらここだけを責める気にはなれないのである。というように、総じて為政者に甘いのであるが、そういった甘さや優しさが後世において役にたつのであろうか。あるいはそういった人間関係や気持ちを基盤とした政治が後々の代になってもよかったといえるのか、と静かに問いかけることがひつようではないかと思っている。

 さて、こういった議論になると、かならず自民党でなくとも同じ結果であったとか、民主党ならもっと酷かっただろうといったいいわけがとびかうと思うが、「この道しかない」といいきった道が行き止まりであった場合には、どんないいわけが説得力をもっているのか、興味深いものである。また、他のOECD加盟国においては、それなりの経済成長を達成してきた30年であったのに、どうしてわが国だけが行きづまったのかという客観的な比較にもとづく問いに対して、あくまで特殊な日本的事象であるといって、各論については黙殺するのか。あるいは、労働生産性が低いことを指摘しながら「わが国の労働者の能力と働きが悪い」ことがその原因であったというのか。だからリスキリングさえすれば万事が順調に運ぶとでもいいたいのか。などなど、原因が不明なまま、思いつきの施策を手当たり次第にふりまわすのは体力を消耗してしまうだけであろう。表向き良さそうに思える政策であってもよくよく吟味すれば効果性に疑問をおぼえるものもすくなくない。多くは企画段階での検討不足が原因であるということであろう。マイナンバー制度はともかく、マイナンバーカードの活用は企画検討の段階に問題があり、およそ秀才の仕事とは思えないのであるが、素人の筆者が発する言葉ではないということか。 

 衰退国家にしては見えない無駄が多すぎるのではないか、もったいないのである。

◇ 動かざる蜥蜴そのまま炎天下

加藤敏幸