遅牛早牛

時事寸評「天の配剤なのか四人衆、もう昔のことはいうまい-立憲民主党の代表選-」

◇ ざっくり言って、二人に一人は「自民党は政権から外れればいい」と思っている。しかし、そう思っている人たちがこぞって「立憲民主党の政権をのぞんでいる」ということでもなさそうで、もちろんそう思っている人もいるのであるが、それは全体でいえば10パーセントぐらいで、(少なくはないが)決して多いとはいえないのである。

 というのが立憲民主党の評価としての時価であって、あいかわらずこの党の客の入りは悪いといえる。といった状況がこの国の民主政治を展望するうえでの確とした障壁になっているといわざるをえないのである。これがいわゆる「野党がだらしないから」説であり、そういいながらも野党を応援したりテコ入れすることはないという現実こそが、確とした障壁のひとつなのである。

 「ふつう」といっていいと思うのだが、挑戦者である野党第一党には独特の緊張感がただよっているもので、とくに与党に醜聞が発生した今回のような場合には、ビリッビリッと空気を震わししぜんに腰が浮くような昂ぶりが生まれるものである。

 で、どうであろうか、ビリッビリッとしているのか。まあ感じ方であるから意見が分かれるのは仕方がないが、全議員が轡(くつわ)をならべての出陣態勢にはないように感じられるのである。勇躍として総選挙にむかうという風でもなく、どちらかといえば心中に臆するものがあるようにも見える。どうしてそうなのか、都知事選の失敗を引きずっているためなのか、ともかく分からない暗がりがあるように思えるのである。

◇ 野党サイドに重心をおく人びとは、現段階で昂揚感が不足しているのは、立憲民主党だけでなく野党全体に根のふかい問題があるからではないか、口先はともかく隠れた病がひそんでいるのではないかと疑いはじめている。

 ひとつは、野党戦線の不統一にあり、さらにその原因がある種の失敗体験からもたらされる恐怖症あるいは臆病風によるものではないかとも考えられるのであるが、同時に政権交代のためには小異を捨ててでもといった支持者における圧倒的な盛りあがりが不足していることがベースにあるとも思えるのである。

 だから仮説として、12年前の民主党政権(野田佳彦総理)のほぼ自壊ともいうべき崩壊が、支持者つまり2009年の総選挙で当時の民主党に投票した人びとに、ネガティブな精神的衝撃をあたえ、それがトラウマ化したと考えられる。つまり、民主党政権崩壊後遺症である。

 あるいは、2021年10月の共産党との閣外協力をにおわせた総選挙での不測の敗北が第二のトラウマとなっているのかもしれない。この敗北により枝野幸男代表は辞任し、代表選の結果現在の泉健太氏が後をついだのである。

 ここで概略ふりかえれば、民主党は2009年9月に本格的な政権交代をはたしたにもかかわらず、リーマンショックの後始末をはじめ東日本大震災や原発事故などのきわめて困難な状況に遭遇し、また参議院での少数化や政権運営上のさまざまな問題により、また最終的には消費増税をめぐる党内対立から集団離党が発生し、党分裂におちいるなど典型的な自壊現象のなかで野田総理(当時)が断行した解散総選挙の結果として、致命的な敗北を自らまねいたわけで、政権崩壊から政党崩壊へとわが国の戦後政治史におけるもっとも悲惨な事例として人びとの記憶に残っているといえる。

 あれから12年、政党名を変えながら、また分裂再編をくりかえしながら現在の立憲民主党に落ちついてはいるが、政権奪還の道ははるかに遠いといえる。この間ファイティングポーズこそとってはいたが、実のところ野党の立場に安住しているだけではないかとの批判もあり、たしかに政権獲得のロードマップを検討できる状況になったのはつい最近のことである。

 もちろん一方的な指摘であるとは思う。しかし問題の根本は、有権者のかなりの人びとが立憲民主党などの野党にただよう無意識の倦怠感(アンニュイ)を見ぬいているのではないか。そして、そのアンニュイが2012年におわった民主党政権の生煮え崩壊に端を発していることも、うすうすながら感じているのではないか。つまるところ、総括なき再生はありえないという原則にいきつくのである。

 と、縷々近過去の解釈を述べたが、この解釈のしかたで実は今回の代表選への見方が大きく変わるのであるが、本稿はあくまで筆者の解釈にのっとっていることを指摘しておきたい。

 そのうえで、9月7日からはじまった立憲民主党の代表選が、歴史のいたずらとしかいいようのない曰くのある3人と新人中の新人の4人によってあらそわれることになったが、このめぐりあわせををどう表現すればいいのかと、とまどっている。

◇ 本当は思いだしたくもないのであるが、しかしあまりにも象徴的ではないか、民主党政権崩壊時の火炎につつまれた城主と、立憲民主党と国民民主党の合流により2021年6月には政権奪還の自信にあふれていたにもかかわらず10月には敗北辞任にいたらざるをえなかった政党創立者と、3年もの時間があったのに20人の仲間づくりに苦労した若き二代目の3人と、当選を度外視しながらも論戦に参加することに意義をみいだす吉田晴美氏の4人であらそうというのであるから、感想は乱れるように思いうかぶが、とりあえずは見事としかいいようのない配置であり、さらに設(しつら)えは十分であると思う。あとは17日間の議論をみまもるだけである。そして首尾よく野党のアンニュイを吹きとばすことができたのかどうか、また、代表者を選ぶだけにとどまらず、同党のこれからの進路を明確にできたのかといった重要な論戦についてはかたずをのむ思いで見つめたい。

 ところで余分なことではあるが、4人とも恥を忍んでの道中といえよう。けっして恥知らずな人たちではないが、ありていにいえば恥を恥として受けいれながらの重い決断であったと思われる。筆者の政治家モノサシでいえば、恥を恥とは思わない第一等級ではないものの、恥を恥として身にまとっていける第二等級であることはまちがいないといえる。仮に自称であったとしても、リベラル派には外見にとらわれるあまり、政治の実相をみうしなってしまうという致命的な欠陥があるのだが、ようやく「ええかっこしい」を卒業して、いよいよ権力闘争のリアルな世界にとびこんでいくのかと、いいようのない感慨をおぼえるのであるが、だからといって善人が悪魔に跪くこともないのだから、無理することはないともいいたいのである。みんな善人なんだが、復讐心にとりつかれた善人は意図せずに悪魔に陪席するといわれているが、、。

 さて本論にもどり、もっとも問題なのは枝野代表で政権交代が展望できるのかということであろう。本人も反省していると聞くが、2021年10月の総選挙での立憲民主党の敗因が日本共産党との閣外協力(発言)にあったといわれている。筆者はそのことを判断するための材料をもっていないので、それを否定も肯定もする気はない。というよりも、むしろ枝野氏の本質的な左派性に敗因があったと考えている。

 さらにいえば、筆者はとくだん左派政党を否定する気はないのであって、ゆえに枝野氏からその左派性を引き去ることが、わが国の政治にとっていいことなのかといえば決してそうではなく、むしろつまらなくしてしまうのではないかと大いに危惧しているのである。良質な左派政党の存在は民主政治においては標識のようなもので、「これより右は危険!」というのはじつに貴重なものと思われるのである。

 そういう意味では、2020年9月の立憲民主党と国民民主党との合流は立憲民主党の左派性を温存したままでの、かつ国民民主党の存在意義をゼロ評価した糾合であったため、その後の1年間をまるまる無駄にしたと、筆者は受けとめている。それが、2021年11月をもって泉代表に交代したことから、いよいよ中道グループが主導するのかと思いきや、まるで玉乗りのようなバランスとりに汲々としたため、世間の評価がいまいちで政権をになえる政党ということにはならなかったのである。

 さらに中間政党である日本維新の会の挑戦をうけて、ややオタオタ感がでてしまい、正直みっともない様子であったことのほうが問題であったと思われたのであるが、そういった暗い時代も、自民党の「裏金事件」の発覚によってようやく野党第一党の役割に光があたりはじめ、岸田氏の総裁選不出馬を契機にようやく関ケ原にのぞむことに、つまり出番ができたといえるのである。

 しかし、出番ができたといっても、仮に枝野氏が代表となれば、「立憲共産党」との誹謗が復活するであろう。これは「増税メガネ」に勝るとも劣らない威力満点の誹謗であるし、半分はあたっていることから払いのけることはむつかしいであろう。おそらく、言説だけでは剥がすことができないのがレッテルであるから、後は行動しかないのであるが、枝野氏に反自民と同様に反共産というべき必要性があるとはとうてい思えないのである。むしろ、期待をいえば、リベラル勢力の再興こそが立憲民主党左派の本来の使命ではないかと思っている。

◇ つぎに、野田氏が代表となれば政局はどう展開するのであろうか。今のところ、野田カラーがすこしづつ明らかになっているが、ほぼ中道から中道右派に位置するものと思われる。また、政治価値観からいえば中道系保守といえるかもしれない。つまり、自民党の旧宏池会とあまり変わらないようで、政策的には自民党の左側にちかいのではないか。という認識において「ほぼ自民」だから、自民に失望した保守層をまきこむことが可能であるという判断は理屈としてはよくできているし賛成であるが、さて現実がどう動くかであろう。

 ところで、侵食される側の自民党といえば、旧安倍派の凋落により自民党右派が大きく後退するであろうから、自民党全体の中道化がすすみ中道野党との境界があいまいになる可能性が高いと思われる。そんな中にあって、中間政党というのは第二自民党といいきれるから中間政党なのであり、つまり他の野党とは少しばかり本質において違いがある日本維新の会の思惑が微妙にゆれるのではないか、と思うのである。野田路線は維新にすればトンビに油揚げとはいわないまでも、何をいまさらと不快に感じているのであろう。

 さらに国民民主党がこれからの大政局をどう読み解くのか、また自前の近未来イメージをしめすことができるのか、状況に左右されるだけに小政党には小政党なりの苦労があるということであろう。

 ということで、野田氏が代表になり、代表選での約束通り右よりの路線をつきすすむなら、桶狭間の急襲に似て、自民党はじめ右派政党の存在を脅かすことになるかもしれない、数ではなく理念としてということである。民主政治の開明性は、現在の数が明日の理念によって脅かされるところにあるのだが、野田路線にそれほどの理念性があるとは思えない。とはいえ場合によっては中道大連立の可能性がでてくるもので、有権者としてはひさしぶりの右サイドにおける政権選択の機会が生まれるわけで、おそらく快感をともなうものであるだろうし、だいいち面白いではないか。

 筆者の感覚でいえば、左サイドの再編による政権選択よりも右サイドのそれの方が何かしら楽しげに感じられるのである。右派は長調で、左派は短調とかいうことではない。

 もちろん、例の妄想ではあるが、そうなれば枝野氏が立憲民主党の暖簾をひきつぎ(とりもどし)、良質な左派グループを再編していくのがベストシナリオであると思うが、ここで良質というのはあくまで筆者の価値観であるから、異論も多いであろう。さらに、立憲民主党の分裂を画策する気はないのであくまで画餅論である。

 また泉代表が、安全保障やエネルギー政策などに関して国民民主党との差異は現実的には障害になるほどのものではないと発信していたが、連携を意図するのであれば遅すぎたと思う。なぜなら、泉代表の存在意義は党内における創立者である枝野前代表へのアンチテーゼにつきるわけだから、そのアンチテーゼを議論可能な政策として、2022年の参議院選挙後には提起すべきであったということで、そういった大胆な問題提起が泉代表の立場を危ういものにすることは事実ではあるが、2020年9月の合流の経過を反芻するならば、2021年10月の総選挙において、以前からの立憲民主党的理念だけでは政権政党への道を開くことができないことが有権者の判断として明確にされたのであるから、もっと大胆に中道寄り路線を提起すべきであった、つまりリスクをとるべきであったというのが、氏への期待であった。

 まとめれば、強固な自公連立に対抗するには、野党連携が必須であるが、その軸は外交安保・エネルギー政策においては現実的対処を前提に、また憲法改正の議論には参加する方向でまとめるということしか選択肢がないわけで、じつに狭い道なのである。とはいっても、狭いがゆえにまとまりやすいと思われたが、2024年9月になっても野党連携の重要条件である基本政策への対処が政党間対話としては完結してはいないのである。今日、代表選への政策説明という場において候補ごとに提案されているということであろう。

 多少泉代表にはつらくあたっていると自覚しているのであるが、そうせざるをえないのは、野田氏のスタンスが党内左派からいえばとんでもない噴飯もので、左派的表現でいえば同じ空気を吸うことさえ耐えられない関係といったほうがいいのではないか、と思う。つまり、路線的には野田氏の出現で泉氏のかすみ現象がおこっているといえる。ともかくも、野田氏が安全保障政策として2015年の「平和安全法制」をベースにおくのであれば「立憲」の冠をかぶることは無理であろう。調整があるとしても、ほぼ「党内クーデター」と受けとられるほどの方針転換であると思う。それも無血合法でやろうということであるから前代未聞のことである。

 成功すれば野田新党の道さえひらけるのではないか(いいすぎだが)。しかし、その道をすすむことは立憲民主党の内実における分裂であり、左右それぞれがあるがままに進んでいくということになるのであろうか。まるで、2020年9月以前にタイムスリップするようで、反対はしないが、スリリングなことではある。

 と、筆者は吃驚しているように見せているが、野田氏の提起している核心事項はかねてからの重要課題で、2017年の希望の党政変(筆者)時の選別基準にもかかわる非常に濃縮度の高いものである、というのが筆者の見解である。

 また、ようするに決着をつけろというのが有権者サイドからの要請であって、右の野田、中の泉、左の枝野のうちどれを選択するのか、ということであろう。

◇ よく、与党とくに自民党との対比において野党は「ああ、わが党は健全である」といった確証をえているといわれているが、「裏金事件」にみられるように自民党の乱れがとんでもなくひどいものであるときに、自民党よりもましという理屈がどこまで通用するのか、悩ましいというよりもあまり意味がないといったほうがいいのかもしれない。というのは、比較対比のうえでは立憲民主党が優位にあることは事実といっていいのであるが、それはしょせん自民党の自損行為によって生みだされたもので、立憲民主党の固有の競争力が強化されたわけではないのである。もっといえば、立憲民主党はこの好機にあって自己研鑽などの努力を惜しんでいるのではないかと人びとは怪しんでいる、というのが筆者の仮説である。

 追い風にペダルを踏みことはないけれども、それでは相手を抜き去ることはできないのである。全野党にとって追い風こそが次の敗因のはじまりとなるのではなかろうか。

 また、政党間における比較相対関係において、政局や事象から投票行動がそれなりの影響をうけるとしても、一般的に棄権による投票率の低下などが先行し、いわゆる投票先を変えるスウィッチイングなどは簡単にはおこらないのであるが、今回のように醜聞(スキャンダル)が背景にある場合は自民党から野党へと投票先をかえることが起こりえると思われる。さらに、投票率の上昇が野党サイドの増票に大きく寄与すると思われるので、与党サイドとしては問題の鎮静化に尽力するひつように迫られるのである。つまり、総選挙に向けて党の顔を刷新することの第一の意義は刷新による問題のすり替えといえるのである。

 少し脱線するが、自民党の党利党略からいえば、岸田氏の総裁選不出馬はある意味ゲームチェンジであって、現にだれが新総裁すなわち次の総理にふさわしいのかと興味本位もふくめメディアが騒ぐほどに場面転換がすすむことになる。

 申しわけないが、国会での野党の追及はすでにつきているのである。

 つまり、今年の初めから弊欄で述べてきたように、自民党の戦略的かつ戦術的課題は「安倍派処分」と「長老追放」にしぼられているもので、これはだれかれの考えといった類のものではなく、歴史的必然としての権力保持策といえるのである。

 したがって、事局収拾のための総裁選であり、そのための人選であって、わが国の将来を考えての人選ではない。事実、総裁選は人気者の博覧会となっているので、まずは派手であることすなわちサーカスの時代といえるし、多くのメディアもそのことを分ったうえで協賛しているのであろう。

 まして、立憲民主党が対抗的に小規模サーカスを興行していることが、場面転換どころか劇場移転のようで、それぞれの劇場で勝手なことを言い合っているだけの、けっしてかみ合うことのない空中論戦になっているといえるのである。

 だから再度強調するが、新総裁が「完全な安倍派処分」でなくとも一面トップをかざるギリギリの「ほぼ安倍派処分」にふみきれば世論はおちつくであろうし、くわえて有権者が無所属候補を忌避すれば民主政治としては一件落着ということになるであろう。世論は一過性であるからいつまでも引きづることはないのであって、いま大切なのは有権者が投票で鉄槌を下すことである。という文脈において政権交代がひつようであるのか、ただちに結論をだすことはないが、秋風とともに有権者は決断を迫られることになるであろう。

◇ さて、旧安倍派議員の多くが小選挙区では苦戦すると思われることから、年内実施と想定される総選挙の結果を予想すれば「立憲民主党はすくなくとも30議席は増やすであろう」ということで、政権奪取はともかくも議席数でいえば「中程度の躍進」になると予想できるのである。つまり、次々回の総選挙での政権交代が視野にはいるわけで、であればむかえる総選挙こそが反転攻勢の第一歩になるというのが立憲民主党での共通認識すなわち本音であろう。だから、野田佳彦氏が今回の代表選にはなにがなんでもエントリーしなければならなかったわけで、氏に次はないのである。2012年12月の政権を失った総選挙からすでに12年たったが、氏にとっては雪辱の第一歩であろう。

 野田代表となれば、中道あるいは中道から右にウイングを広げることに躊躇はないと思われる。そこで、ほぼ「中程度の躍進」以上が約束されている総選挙を前に、前代表であった枝野幸雄氏がエントリーすることに対しすくなくない異論がでていることは確かではあるが、枝野氏にとっても早い話がリベンジというか名誉挽回のたたかいであり、おそらく最後の機会といえるであろう。

 現代表の泉健太氏もエントリーをのぞみながら推薦人あつめに苦労したと聞くが、前回も述べたように4月の衆補選3連勝などの功績があっても20名の推薦人集めに難渋するとは、思いのほか功利主義的な同党の議員気質におどろいているのである。

 恩讐をこえてとかいっても根っこは人生をとりもどすためのリベンジであろう。結構なことである。ルサンチマンが政治家の動機を形成し、その解放が大きなエネルギーを生むのだから、恥を忍んで挑戦すればいいと思う。もう、昔のことはいうまい。

 

◇ 野党の苦境は与党の休息、オアシス時間なのであろう。だから思惑先行であったとしても、自民党の総裁選に手をあげる面々が列をなしはじめている。隆盛ではあるが、すくなくとも挙党一致ではない。ともかく、「裏金事件」は歴史にのこる深刻な醜聞であるし、無謬といっていた麻生派からも漏水が発覚したことから、新総裁、新総理による解散総選挙が可能であるのか、微妙な風向きになったと思われる。というのは党内処分の未決部分のあつかいをまちがえると壊死部分が広がるおそれもあることから、総選挙前には治療をすませなければならない、ということは、挙党一致で迅速に処理することでしか乗りきれない事態がまだまだつづくものと覚悟しなければならないということである。高等戦術である場面転換を画策してみても、汚れた水がチョロチョロ漏れだしているようでは説得力はゼロであり、応援団でさえ冷たいまなざしを向けざるをえないのである。

 いま、麻生派から漏れだしている裏金醜聞の片々から全体像をおしはかることは困難ではあるが、疑惑の拡散には十分かもしれない。まあ、総選挙が終わるまでは新事実が拡散されることはないと判断するのが一般的であるから、来年の参議院選挙までもちこすことになるかもしれない。総選挙よりも来年の参議院選挙のほうが主戦場であるというベテランの指摘はあたっている。そうなると事態の終息には力技がひつようであって、総理にふさわしい人気度とは次元のちがう実務家としての腕力が求められるであろう。総選挙は人気で乗りきれても参議院選挙は時期的にもそうはいくまい。総理が変わることも十分ありうると思う。

◇ 山里の ピーポーが消えて 雲が湧く

加藤敏幸