遅牛早牛

時事寸評「大詰めをむかえる自民党総裁選は誰のものか?」

[「秋来ぬと 目にはさやかに 見えねども 風の音にぞ おどろかれぬる(藤原敏行)」とかいってみても、秋分を前に猛暑日の話をしていたのだから、風情も何もあったものではない。とグチっていたのであるが、今日は23日天気予報では秋の気配、服装に注意ということで、ようやく季節を楽しめそうになった。

 しかし過ぎ去ったとはいえ猛暑の中で、立憲民主党の代表選やら自民党の総裁選では、13人の立候補者が文字通り汗を流していたのである。こういった場合はねぎらいの言葉のひとつもかけたいと思うのが人情であろう。しかし、「お暑いのにご苦労さん」なのは市井の人びとの方であって、与野党といった線引きにかかわらず政治家は異界の住民であるから、たまにそうでない人がいるにしても、見かけの大汗に同情することなんかないと思う。

 市井の人びとにとって政治家に同情することは百害のはじまりであるから、けっして騙されてはいけないのである。と今回も妄想全開である。

 この9月は、代表選と総裁選のダブル興行ですこし盛りあがったはずなのであるが、いよいよの収穫期をむかえてとても出来高が気になるところである。

 来月になれば組閣に総選挙と政治イベントが目白押しで、米大統領選もせまるしなにかと落ち着かなくなるであろう。

 それにしても、日銀はいつの間に株価支え人になったのか。気を配ることはひつようであっても、過ぎると怯懦(きょだ)と評されるであろう。下手すりゃ金利の正常化が永遠の課題になるかもしれない。株価暴落が怖いのか、それとも政府が怖いのか。いずれ株価は戻るのに、いつまでも膾を吹くなよ、といいたい。]

◇ 立憲民主党の代表選については、前回多めに記述したから、今回は自民党の総裁選の番である。しかし、9人もの立候補者がでるとは予想外であった。多すぎるので、9人についての論評はひかえるが、選挙戦そのものは面白くないけど面白いと思っている。つまり、首ったけになるほどではないが、9人9様で興味深いということである。

 たとえば、解雇規制の緩和についての話が唐突にぶちあがったかと思えば、周りからビシバシとツッコミが入った。その後、なぜか朝顔のしおれるがごとくトーンダウンしていったのである。労働問題に関していえば「この程度なのか」と認識の浅薄さがはっきりしたので、これはこれでよかったと思っている。この程度というのは悪口ではない。現実を指摘しているだけである。

 当然のことながら総裁選は顔ぶれからして救世主をえらぶ仕組みにはなっていない。また、メディアなどでは国民のリーダーを選ぶといったムードをわざと醸しているが、投票権がきわめて限定されているので、構造的にはかぎられた人たちの意向だけを反映する仕組みといったほうが正しいのである。

 だから、それが国民の意思とどう関係するのかといえば直接関係しないものであるといいきるべきなのに、報道機関はなにかしらの下心があってか、あるいは根が単純なのか、逆に宣伝部隊として協力している。

 もちろん、実質的に総理大臣を決めることになるので、報道価値は十分あるといえるが、それにしても「ジャーナリズムとしては手ぬるい」のではないか。とくに、9人が9様に「おしゃべりになっていること」に対して的確に批判しておかないと、先々の批判がむつかしくなる、というよりも一度見逃すとその後の批判の切先がにぶるのではないかと心配しているのである。今のところめずらしい総裁選になっているので、これを契機にジャーナリズムの側も政権に対してマウントをとりにいった方がいいのではないか。そのためのネタがゴロゴロと転がっているように思えるのだが。

◇ さように、嫌われても嫌われても容赦のない批判に徹することがジャーナリズムの真骨頂であろう。とはいっても、もともとぼやけているものはどんなに性能の良いレンズをとおしてもぼやけてしまうのである。だから、報道の緩さゆえにぼやけてしまったのか、それとももともとぼやけているのか、そこをはっきりさせてほしいと思っている。ともかく、9人のいいたい放題や意味不明を野放しにしてはならない。とくに、わが国の現状における多くの困難の原因は与党、とりわけ自民党がつくったのだから、その責任を考えれば9人の発言には思いつきや気楽さは許されない。聞きようによっては不快感をもよおすことがある。

 そこで9人そろっての討論会などは、党内に限定した閉鎖議論なのかそれとも広く国民に開かれた開放議論なのか、この点もはっきりさせてほしいものである。見せるだけ見せて投票はごく一部にかぎるとは、あまりにも特権階級的であるとの批判も生じるであろう。やはり構造的におかしなところがあるといえる。とくに、党内議論としては是であっても、一般論としては(過去の国会での議論にてらして)通用しないことも多いことから、中立的な解説がひつようであろう。

◇ それにしても、常識的にはまずは反省から入らなければならないというか、そうでなければいくら美味しい話をしても、人びとには刺さらないであろう。つまり、もっと失敗者としての自責の念をあらわさなければ、人びとのうけとめは、遠いところにいる「とくべつな人たち」の発言のように感じられるのではないか。さしあたっての生活の苦労や心配事のないごく恵まれた9人が、これまた恵まれた議員票とか党員票をめぐって歯の浮くような絵空事をいいあっているとしか思えないである。ようするに、そこに生活のリアリティを感じることはできない、まさに隔絶された世界の物語と感じざるをえないのである。

 たとえば、なぜ靖国神社参拝をもちだすのかといった疑問もおこるわけで、仮に総裁にえらばれ首班指名されればそのことがたちまち外交上の障害になるのであるから、総理にふさわしいという観点からはことさら靖国参拝をいうひつようはないと思う。それでも、心の問題であるというのであれば秘めておくのが正しい判断というべきであろう。にもかかわらず、いうべきであるとの判断が優先されたのだから、やはりひつよう不可欠のことと思われる。自民党の総裁選においては、あるいは党内的には総理の靖国参拝は必須のものであって、そのことからも自民党というのは政教不分離を内包していると筆者などはうけとめているのである。憲法にてらしてやましいところがあるから、こそこそと参拝するのではないか、というのは筆者のかねてからの疑問である。

 そもそも神社は中立(宗教性ゼロ)ではない、れっきとした宗教施設であるというのが今日の常識ではないか。その常識を常識としてあつかわないのだから、やはり閉鎖的であるということであろう。

 閉鎖的というのは、いってみればひとつの党派の内部議論であって、重要ではあるが広く開かれたものとはいえないのである。

 立憲民主党においても同様である。いろいろいってはみても実際のところ綱領をかえる議論にはいたっておらず、「原発ゼロ社会」はそのまま踏襲されるであろう。だから、エネルギー政策の現実回帰を声高にいってみても、党内的には依然として高い壁があると多くの人は感じているのである。まあ、それで安心する人がいるし、反対に期待はずれと思う人も多いであろう。

 といった感じで、とくに自民党の場合はいったもの勝ちの、たとえば「国民が豊かになれるような経済を実現します」と、明日にでもわが国経済を健康優良にすることができるとばかりにいいつのっているのである。「それができなかったから、異次元の金融緩和とかバラマキとか、ようするに禁じ手をつかったのではないか」と一言いいたいのであるが、この二十年来の苦労の根本原因について深く考察した痕跡がないというところが実にだらしのないところであって、そういった成りゆきまかせの心的態度に怒りがわいてくるのである。言葉を飾っても無策は無策である。この30年、民主党時代もふくめて経済に対する政治の劣位を思いしらされたのに、いまだに夢物語をばらまいて平然としているのであるが、こういうのを厚顔無恥というのであろうか。かかわるとこちらが傷つきそうになる。

 結局のところ受け皿さえあればとっくの昔に政権交代していたであろう、と確信をもっていいたくなるほどの政治の惨状というかレベルなのである。

◇ でも、面白いと、筆者は希望なき可笑しさを揶揄して面白いといっているのである。とくに、ものごとの因果関係についてさように無関心でありながらよくもまあ政策目標をあっけらかんと口にできるものだと、心底感心しているのである。つまり、たとえば経済事象の因果関係を無視したままでバラ色の未来を語ってどうするのよ、できもしないことを。

 とりわけ、先進国の中の低賃金国であることの原因は何なのか。「労働生産性が低い、つまり労働の効率が悪い」からと単純に考えているのであるなら、やはり反労働者政党に間違いないということになるであろう。

 そもそも、アベノミクスの功罪について、つまり経済政策としてのアベノミクスの評価を提起せずに、明日の日本経済を語ることはできないと多くの人びとは考えていると思われるが、その要所をスルーした議論にどんな意義があるというのだろうか。ともかく自民党としては経済政策においては山ほどの失敗を重ねているのだが、それをなかったことにした総裁選であるなら、語るべきことがずい分と僅少になってしまうではないか。などなど、9人ともに共謀したように触れずにいる事項があまりにも多くあることが気になるのである。おそらく身内のタブーに取り囲まれただけの世界になってしまって、結局人びとの求めている議論に応じることができない、ということであろう。つまり党内に閉じこもった閉鎖空間になっているのである。

◇ あからさまにいえば、そういった身内の論理の世界を公共の電波をつかってどの程度報道するのかは、報道機関としても深く考えるべきであろうが、いまさらそんなむつかしい議論を吹っかけてもどうにもならない事態にいたっているのである。

 面白いが、ばかばかしくもある。なぜなら、選挙の終盤は政治理念とか政策ではなく、決選投票の見通しと弊欄でも前回ふれた「党と政府の人事」にかかわる手形のあつかいに収斂するわけで、いよいよ政治の本質である権力の分配へと舞台はうつるのである。

 つまり、政策論ではなく多数派工作である。従前から総裁選の本質は権力の掌握とその分配につきるわけで、政権政党であるかぎりそれは普通のことであろう。授業でいえば理論から実習へとうつり、政治の実習というのは物々交換あるいは貸し借りといえるかもしれない。

 ところで、筆者は非難がましくいっているのではない、大昔から権力の分配を無血でやることが肝要なのであって、政治学者のいうビジョンなどは飾り物以上の価値があるのはあたりまえというか、人びとにとっては約束事の類であるからそれなりに重要なのであるが、実際のところ総裁選においては当事者にとってはさほど重要ではないのである。それよりも、権力の分配のほうが当事者である個々の政治家にとっては重要といえる。だから、最終盤は気もそぞろで、政策をわすれて多数派工作へと関心はうつるのである。このあたりから、裏切りがはじまるのであろうか。

 問題はそういった隠された権力の分配取引を赤裸々に伝えなければならないということである。なぜなら、こういった取引の経過こそがその後におこる政局の伏線となるのであるから、民主政治の成熟度を語るのであるなら、総裁選の最終局面における権力の分配取引の実態についても深く理解しておくひつようがあるといえるのではないか。

 とどのつまりとしての「権力の分配」をありていにいってしまえば理論学習のあとの実習であって、その実習こそがつねに理論の検証というわけではない。むしろずい分と生臭いものになってしまうのが現実世界というものであろう。

 こういったところが総裁選の実相であるから、政権グループ内での権力の分配という文脈でいうならば、わが国の現状はあるレベルの洗練度に達していると思われる。なぜなら、少なくとも政策論はのこるし、取引も摺りガラス越しではあるが推察できるものであるのだから。あとは有権者の粘り強さに期待すべきかもしれない。

◇ まとめれば、総裁選は国民のためのものではなく、党のため、党所属議員のためのものであること、しかし期間中の発言はマニフェストではないが公開された公的なものであること、また以降の政局の解明には権力の分配時の経緯が役にたつこと、いつものことながらまたどの党にもいえることであるが、過去の反省が欠如しておりおそらく失敗からは学べないこと、人びとの関心と批判がたかまればこの国の民主政治はさらに洗練されていくことなどであろう。

◇ 大風や 抗いながら 鉢転ぶ 

(拾った実生から育てたナンキンハゼとホルトノキの鉢が転がってしまいました。)

加藤敏幸