遅牛早牛

時事寸評、「いつまでもつか、石破VS野田時代 まずは総選挙」

 [ 10月1日石破政権がスタートした。さっそく内閣支持率が報道されているが、ほぼ50%程度で低めのスタートといえよう。日ごろから保守系政党には辛口でならしているA新聞もやや右寄りのB新聞も、石破氏の安全保障政策に対して所信表明の前にもかかわらず、きびしい批判をあびせている。とくに、「アジア版NATO(北大西洋条約機構)の創設」が石破氏の持論であり、また総裁に決する直前にハドソン研究所に寄稿されたことなどをふまえた、おそらく警告の意味をこめた批判だと思われる。もちろん、批判は妥当といえる。

 しかし、筆者からいえば取りあげることすら過剰反応なのであって、実現性ゼロのアイデアというのは昔でいえば座敷芸つまり余興の類なのであるから目くじらを立てることもないのである。ただ、そういった芸が身を亡ぼすこともあったので、政権としてめざすものをはやく提示したほうが上策であろう。という意味で4日の所信表明や15日からの選挙公約に注目したい。

 ところで、アジア版NATOの問題よりも、「成長失速から衰退にむかう中国」が引きおこす不都合な事象への予防的対処のほうがアジア各国にとってはよほど重要であるから、極端にいえば王朝終末期のリスク管理に各国とも関心が移りつつあるのではないか。

 さて、政権がスタートしたとはいっても形式だけであって、3年前の岸田政権の時と同じように総選挙で信任されなければ政権は本格化しないである。さらに、どの程度の信認であるのかによって、石破政権のその後が占えるのであるから、注文づけはそれからでも遅くはないといえる。

 現段階で予想できることは8割以上の確率で岸田政権の継承者として、いい意味で後始末役に徹すると思われる。ただし、単独過半数をこえて250議席台にたっすれば、石破カラーが可能になるだろうが、その方が波紋をよぶからと危険視する人がいるかもしれない。

 総理大臣にふさわしい政治家ランキングではつねに高い人気をたもっていたわりにはご祝儀相場が少なかった理由は、人びとの政治にたいする口が肥えてきたからで、悲観することも楽観することもない中立的な反応であったと思う。ともかく、総選挙の結果待ちであり、米国大統領選挙の結果もふくめ11月は大忙しであろう。]

◇ 9月23日に野田氏、27日には石破氏とほぼ同時期に党首に就任した二人が、はたして石破・野田時代をつくることができるのかが今日のかくれた関心事となっている。健全な与野党関係への期待がある反面、二人は同じような脆弱性(ヴァルネラビリティ)をかかえた似た者同士である。

 というのも、決選投票において相手を圧倒できなかった場合には、その後の組織運営がむつかしくなることは容易に想像できる。たとえば石破氏は高市氏に決選投票で逆転したものの、その差は議員票でいえばわずか9人の離反でひっくり返る程度のものであってけっして盤石ではない。さらに第一回投票で一位となった高市陣営としてはおそらく決選投票の結果には理解はできても納得はできていないと思われる。

 ふつうに考えてもわずかな差で敗れた「一回目勝者」の心境は複雑であって、とりわけ逆転というのはトリック的であると思いがちであるから、「本当は私だったのに」といった負の感情を克服することはむつかしいであろう。また、そのことが何かにつけてブレーキになると思われる。しかし、それも時間とともに減衰していくのであるから、敗者として何かをしかけるにしても時間とのたたかいということであろう。

 もし高市氏が、安倍派の政治理念における後継者として何らかの集団形成を意図するのであれば、派閥としての安倍派のイメージは払拭した方が賢明であろう。残念ながら処断された派閥という負のイメージがこの先回復することはないのである。さらに、政治は生きている者どうしの修羅場であり、大げさにいえば権力と命のやりとりであるから、生者間での継承が基本である。去るものは日々に疎しというのは、故安倍氏においても例外ではない。

 ということで、「どうする高市早苗」という声が聞こえてきそうであるが、後段で述べる安倍派処分の展開次第で非主流派というよりも反主流派の頭目にまつりあげられる可能性も考えられる。

◇ ところで、今回の総裁選は語りつがれるべき歴史イベントであったと思う。という流れでいえば、わが国における「保守」とは何かについて今回いくばくかの議論がすすんだということであろう。その文脈に沿いながらかつ意地悪に「保守」を今日的に表現すれば、わがままな同胞であって憎めないながらも迷惑な存在だと「保守でない人びと」は考えているということではなかろうか。

 とくに、保守グループの価値観として皇室制度や家族制度あるいは多様化への対応などの重要課題が、今や「現実という狼」によって蹂躙されつつあるとの現状認識を前提に議論をはじめたときに、「保守」がそういった重要課題の解決者としての役割をはたしているのかというきびしい疑問が冒頭につきつけられると思う。つまり、解決者という立場ではなく、いつも自説を強硬に主張するだけの原理主義者みたいなものと思われているのではないか。いつも正しいのだという絶対的自信が議論を破壊していることから、面倒くさいし、ところかまわずダメだすから迷惑だ、というのが「保守」への一般的評価であると思っている。

 自説をわめくだけでは問題は解決しない、むしろ状況は悪化する。だから、今さら男系男子といわれても、筆者などは途方に暮れるし、それこそ戦後何十年ものあいだ保守政党がサボりまくった結果(帰結)ではないかとさえ思うのである。さらに、単身世帯、核家族、ひとり親世帯が多数となっている時代の家族制度を旧弊の枠に押しこめるだけでは政治とはいえない。家族とか人のつながりは人類の発生とともにあるもので、制度ファーストとはいかないのである。

 正直にいって筆者には分からないところがある自民党保守グループではあるが、論理破綻という脆弱性を内在しているところに問題があるのではないか。それを故安倍晋三氏の人間力でカバーしてきたと考えているのであるが、といってその役割を今さら高市氏がひきつぐといった話ではないのである。

 だからむしろ、経世済民に資することができる「保守」の立場を確立することをいそぐべきであるといいたいのである。はやい話が、「保守」は貧乏人を助けられるのかということで、貧乏人を助けようと動きだすと、いつも「保守」が邪魔をするし、弱い者には冷たかったのである。

 また、美しい日本が蹂躙されているというのであれば、守旧の戦士ともどもどんな闘いを繰りひろげてきたのか、ちゃんと説明すべきである。わめくことと闘うことは違う。ということで、現状の「保守」はまことに鍛錬不足であって、もっとも大事な場面で役にたちそうにないと、人びとには思われている、というところに今日の「保守」の危機があると思われる。結局、守るべきものが守れないとなれば、「保守」の力の減退は時間の問題であろう。

 筆者は、安倍派が輝いた時代こそが保守グループへの期待がもっとも昂揚したときであったと思っている。しかし、すでに潮はひき、日没までに残された時間はわずかとなった。再建は困難であると思われる。

 

◇ 高市氏が党内の有力な駒であると人びとに摺りこまれるのはまちがいないが、そのことは永遠に党内野党の立場に閉じこめられるということであろう。前回も触れたが、靖国参拝を公言し実行する内閣総理大臣はこの国には不適不要であるというのが、安全保障環境からみちびきだされるきびしい結論である。靖国参拝をめぐる議論が仮に錯そうしているとすれば、その責任は説明力のない「保守」にあるわけで、今日保守グループでおこなわれている是非論と、国内における是非論、さらには国家間での是非論の三つがかんぜんに分裂していることが事態を困難にしているわけで、背後に歴史認識がはたらいているかぎり円満な解決つまり是非論の統合はむつかしいといえる。宗教性をかぎりなく希釈し、分祀をはからなければいつまでも袋小路のままであろう。

 解決者であるべき政治家があえて袋小路に居付くような発言をするから外交センスゼロという烙印を押されるのである。このあたりに、折り合うことのないミシン目があるといえるのではないか。

 ということで筆者の懸念をいえば、自民党における内部対立はすでに萌芽ともいうべきで、いずれ抗争として顕在化すると思われる。

◇ 一方の野田氏は代表選においては終始優勢をたもってはいた、つまり横綱相撲であった。しかし、そのことよりも決選投票における枝野氏への支持の集まりぐあいこそが焦点となっていたのである。ある程度は予想できていたものの、結果の感じをいえば5割増しの強さであったと思っている。それは枝野氏への根づよい支持というべきであり、そもそもにおいてこの党には根深いものがあるとあらためて感じた。

 もちろん、野田氏が主張した路線には、政権をとるための戦術としての中道あるいは保守層への秋波が組みこまれていたのであるが、これが今回の代表選の大きな特徴であったし、そのことについては論戦上もすでに織りこみずみといえる。しかし、政治家野田佳彦氏の来歴を考えれば考えるほどに、戦術とか方便といった表現におさまりきらない何かを感じることも事実であった。だから、そのことが党内左派やリベラル系の議員もしくは地方組織にかなりな不安感をもたらせたのではないか。つまり古風な表現をすれば「左バネ」を利かせなければと思わせるに十分な心証を野田氏の陽動作戦があたえたというのが筆者の分析である。

 筆者自身は、2021年10月の総選挙における中道領域(沃野)を放棄した枝野立憲民主党の路線を批判していたわけで、この考えは今も変わるものではない、その流れにおいて現在の野田氏のスタンスについてはおおむね理解できる。

 ということではあるが、現実問題として立憲民主党内には反保守、反中道ともいえる旧来の左派路線を継承するグループもあり、そういう素地があったから代表選をとおして枝野結集軸が急速に形成されたといえるのではないか。

 党内の巨頭2人が競合構造になるとは思いもよらなかったという声があがっている。たしかに、そういった対立を危惧する視点については筆者も気にすることもなかったのであるが、起きてしまえばなるほどということであろう。

 軸があれば、不安や不満がまとわりついてくるものである。枝野氏にその気がないとしても、自ずとまとわりつくものがあるのであろう。また、野田代表も保守層を取り込む作戦は作戦としても、本質的に立憲民主党プラス国民民主党の総体の重心地から離れることはできないと思われることから、融通無碍に動き回ることはむつかしいかもしれない。

 時間との競争とはよくいったものであるが、そうはいっても理論の競争であることもまた厳然とした事実であるから、氏のめざすところはきわめて難度の高いステージであろう。野田氏にとって今でも立憲民主党は寓居かもしれない、あらたに大きな館をめざすのかなどは、とても機微にふれるわくわく感があるのだが、まだ人びとには伝搬していないようである。立憲民主党の今のポジションは「身を捨ててこそ浮かぶ瀬もあれ」ということか。

◇ 少し安直ではあるが、石破VS野田を分解すれば、[石破VS高市]VS[野田VS枝野]となり、政治的位置からいえば[石破VS野田]の組合わせは比較的近い関係といえる。逆に[高市VS枝野]の組合わせが最も遠い関係といえるであろう。遠いということは自民党としては侵食されにくいといえる。さらに、管見ではあるが、[石破VS枝野]の組合わせでは石破氏のほうがレンジ的にそうとう広く感じられ有利であり、同様に[高市VS野田]の組合わせでは野田氏のほうが大いに有利と思われる。ということから、時系列的には野田氏が先に決まったので、自民党としては高市氏よりも石破氏を選択せざるをえないという判断が働き、僅差ながらも石破氏を当選させたのは合理的であったと思われる。

 この4人の対抗関係を組合わせで考察するならば、野田氏が代表でいるかぎり高市氏を選択することは理屈では自民党が不利になるので実現しないであろう。もし、総裁選の方が早ければ高市氏が選ばれ、対抗的に左派の気運がたかまり、後でおこなわれる代表選では枝野氏が選ばれるケースの可能性も高かったとも考えられるが、この組合わせでは国論の分断を加速させる恐れもあったわけで、国会での議論がかみあうことに軸足をおくのであれば、石破VS野田の組合わせも悪くはないと考える人も少なくないと思われる。

 今回4人の政治的位置が典型的な配置となっていて、非常に分かりやすかったといえる。また、ミシン目も明確であるから非常事態になれば組みあわせを変える力が働くかもしれない。非常事態というのは混乱であるからできるだけ避ける努力をしなければならないのであるが、筆者としては両党ともに内部対立をかかえてはいるが、結果的に団結を維持した方が優勢になるという組織原理は変わらないと考えている。

◇ さて、今回のように内部対立をかかえる場合の関門は人事であるとだれしも考えるであろうし、事実そういった報道が目だっている。たとえば、野田佳彦立憲民主党代表は幹事長に小川淳也氏を抜擢したが、一部の報道では「ろこつな論功褒賞人事であるとの党内反発が生じている」と伝えられている。他方、自民党においては総務会長のポストを提示された高市氏は固辞したと伝えられているが、たしかに気分は総裁クラスであるから幹事長以下の役職では面目がたたないという考えは理解できるが、それというのも靖国参拝を口にしたことが災いしているのだから自業自得のように思える。

 ともかく、両党にかぎらず人事への不満はあってあたり前のことであるから、我慢のできない人たちがつねに足を引っぱりつづけるとの予想は的中率が高いのである。しかし、立憲民主党でいえば、そんなことでは政権なんか永久にとれないのであって、これは野田氏の人事に問題があるのではなく、負けた側の問題であると考えている。

 なぜなら、こういったケースでは勝者である野田氏の側に配慮をもとめるよりも、敗者である枝野氏側ががまんすることのほうが簡便かつ合理的であろう。

そもそも、人事でわがままを押しとおすための勝利であるから中途半端なことをしても挙党一致にはならない。ノーサイドとかいってごまかしていては駄目である。組織論としてはがまんすることが先々の成功につながるものであるから、敗者の洗練度が重要なのである。

 もっといえば、2021年10月の総選挙の敗北の責任をとって辞任した経緯からいっても、今回の代表選に枝野氏が立候補することの動機というか趣意が分かりにくかったといえる。まさに「この党はぼくが作った」意識にしばられ過ぎているのではないかとの指摘も不当であるとはいい切れないと筆者などは邪推している面がある。そうであってほしくないという気持ちをのせて「邪推」という危険な言葉を用いているのであるが、2020年9月の立憲民主党と国民民主党との合流の解釈をふくめ同党が開かれた存在であることが理解されないかぎり政権政党として評価されることはないというのが筆者の変わらぬ主張なのである。いいかえれば、おそらく本人は気にしていないと思うのであるが、外からみれば枝野氏に貼りついているオーナーシップ感を払しょくすること、たとえば党名を変更するなどの工夫をしないと、公的存在であるという簡単な事実を徹底させられないのではないかとも思う。

 立憲民主党という党名にこだわること自体を批判する権利はないというべきであるが、ただ政権政党をめざすのであるなら、またその党首に枝野氏が挑戦するというのであるなら、立憲民主党という党名はマイナスであると筆者は考えている。まだまだそういう政治的烙印(スティグマ)があるという現実に対し、個人商店のイメージを消しさることの戦略性を指摘しているのであるが、さいわいにも野田代表時代がつづけばその弊害もずい分と薄められると思われる。

 ともかく、代表選の結果をみるかぎり立憲民主党には野田氏が追いもとめる保守層とは相いれないある種の左派傾向があるわけで、それを捨ててなお価値があるのかという問いかけについては有権者が投票行動で答えると思われる。2017年からの経緯を考えれば野田路線が平坦な道であるとは思えないというのが衆目の一致するところであろう。

◇ 一方の石破氏はさらに際立った立場にいるといえよう。5回目の勝利は見事であるし、下を向くことの多い勤め人にとっては励ましともいえる。もちろんいい過ぎではあるが、すくなくとも教訓的であることはまちがいない。

 ここで、励ましとか教訓的といっているのは、このあと石破政権を外から支える層の形成に、この5回目の成功談がプラスに働く可能性がつよいと考えているからで、枝野氏の創業者伝説と同じように苦節16年の執念はそれなりに効果的であると思われるのである。石の上にも3年というガンバリの大切さは16年まで延長され、そういうのを「石破る(いしばる)」と呼ばれることになるかもしれない、というよりも、そういった党外からの「石破推し」が出現しないことには、何もできない状況に閉じこめられるリスクがあることは事実であろう。

 庭の日向ぼっこは降りそそぐ日光の賜物であるのと同じように、政権運営も党外の人びとのゆるやかな推しによって安定するのではないか、ということで愛されるキャラをすばやく手にいれることがスタートダッシュそのものであると思うのであるが、お二人とも理屈が得意なだけに、「りくつ君1号」と「りくつ君2号」の競争にひたっているだけではあまりにももったいないということである。

 足元は10月27日までの日程が確定したので、悠長なことをいっている場合ではない。なにごとも総選挙の結果をうけて召集される特別国会における首班指名をうけてからのことである。まずないとは思うが、議席数によっては簡単に決着できないこともありうる。

◇ この9月は自民党総裁選に集中した。かならずしも均衡がとれていたとはいえなかったが、立憲民主党の代表選も注目をあつめた。一方、日本維新の会は、前兵庫県知事の問題で少なくないダメージをうけた。他の政党は埋没を強いられたといえる。ということで、宣伝活動としては自民党のひとり勝ちであった。これで自民は復調したとの声もあるが、「裏金事件」の後始末と旧統一教会とのかかわりの精査が不徹底であるとの批判にはなおきびしいものがある。往々にして騒いているうちに怒りは忘れられがちではあるが、わが国の政治にとってはターニングポイントになりうる総選挙であるから、しっかりと整理をしておきたいと思う。

 そのひとつが、政治と金といわれて久しいが、昨年11月ごろから火がついた「裏金事件」である。この件については年初来弊欄でいくたびか管見を述べてきた。その中でも最重要と思っていることは、自民党がこれから先も政権政党でありつづけるためには、「安倍派処分」と「長老追放」を断行すべきということである。安倍派については解散し、党内処分はおわっている。岸田氏の対応は40点ほどであったと考えている。また、これは仕方がないことで、もし80点も取ってしまうと自民党が瓦解するので、政権運営を考えれば、この程度にとどめなければということであったと考えている。

 そのうえで、筆者は「裏金議員」の公認なしを主張した、もちろん外野の気楽さゆえの強硬論ではあるが、自民党の庇護をうけての当選では本格的な洗礼を受けたとはみなされないということであるし、自民党が裏金議員に連帯したと見なされることの悪影響ははかりしれないと思われるからである。

 そもそも、自民党支持である人びとは本来的に本件に関しては寛容なのであるから、一般的な倫理尺度にはならないといえる。つまり、自民党の世論と国民全体の世論とは本件に関しては3、4割の乖離があって、この3、4割のうち三分の一(投票総数の一割強)が投票行動を変ずれば与党は大敗すると予想すべきなのである。

 刺客候補を立てろとまではいわないが、世論とぶつかって勝てる選挙などないのだから、ここは世論に恭順の意を表すべきであろう。岸田氏の40点が足らずと考える有権者は投票行動でもって足らずをうめるべきである。つまり40点を80点にするのは有権者の役割であると思う。

 つぎに「長老追放」については、結果的にそうなると考えている。激変する環境のもとでの長老政治にメリットはないのだから、やさしく見送る気遣いだけの問題である。その意味で、派閥解消がはたした役割が大きかったといえる。二年余にわたって内閣支持率をとっかかりに岸田政権批判が跋扈し、また氏を総裁選出馬断念に追いこんだが、前回指摘したように岸田氏をこえる総理はめぐりあわせ(運)からいっても、このあとなかなかでてこないであろう。メディアや評論家にその自覚があったとは思われないが、岸田批判の中にはどう考えても無理筋というべきものが多々あったと思っている。

 問題はそういった雷同にながされて、本格的な安全保障上の論点をみすみす逃したところにメディアなどの不覚があったと考えている。筆者は安全保障上の争点については残念ながら(?)政府方針を是とする考えであったので、ある種の痛痒さをがまんしていたのであるが、石破氏が倒れても岸田氏はのこるわけであるから、あらためて日米同盟のあり方についてメディアとして追及するべきではないか、語りすぎるほどの知見をもつ人は少ないが、語らないかぎり真意は見えないし、失言は生まれないということでそろそろジャーナリズムの出番ではないかと期待したい。

◇ さて、百の理屈よりも眼前の選挙である。最終的に有権者が決着をつけるべきという文意において、今回の解散は妥当性をもつと考えている。そこで、石破政権にとっての勝敗ラインが気になるが、自民党としては単独過半数である233を上まわれば合格といえるであろう。それ以下であっても公明党などの助けで233を上まわれば政権は維持できるが、自公関係が微妙になるので、従前どおりというわけにはいかないであろう。

 問題は、自民党単独で200の大台を割りこめば衆議院の過半数維持がゆらぐことから責任追及がはじまるであろう。しかし、かわりの柱を用意せずにやみくもに退陣を求めるのは無責任なことである。とくに、200を下まわれば、連立強化あるいは組みかえにしろ権力基盤が流動化することから、内外ともに難題を抱えるなかで政権運営ががぜんむつかしくなるので、あえて野党にまわる決断もひつようであろう。といったときに適任なのは誰なのかという課題をクリアしての○○おろしでなければならないはずである。

 そうなれば大連立の可能性もあることから人事は簡単ではないであろう、それとも68年の歴史を閉じ分裂するのか。それだけのエネルギーがのこっているのか、などについても本気で考えておくべきで、そのラインは与党側でいえばざっと60議席減である。

 このラインは、立憲民主党の泉健太前代表がかなり以前に責任ラインとして150議席に言及したことがあって、なかなか意味深長であると思っていたが、与党の議席数が60減ということであれば、立憲民主党などは150議席超ということになる。前述したように、裏金あるいはその始末に不満をおぼえる有権者がおよそ4割に上るという調査結果をどう読むかであるが、選挙への影響がゼロとはいかない、では自民党の得票数が4割減になるのかといえばそこまでは減少しないといえる。もっとも投票率の影響も大きいことから、もりあがりかたによってという前提がつくうえに、小選挙区では評価が安定している候補者あるいは後援会などの支援組織の強い候補者が与野党の別なく相当数いることから単純な計算はきんもつである。

 与野党つうじて不動の選挙区があるが、そこが裏金議員などの地盤である場合、野党の調整具合にもよるが大激戦になる可能性が高いと思われる。ともかく、裏金議員と旧統一教会接触議員の当否が焦点となることは必至であるから、30~60ぐらいの議席が動くと思われる。小選挙区でいえば20~40程度であろうか、火を噴くがごとき選挙戦となるであろう。これらの選挙区での自民党公認非公認問題は画一的にはあつかえないというのが現在の石破体制の弱点であるから、予想幅は広がっていくと思われる。

 快刀乱麻が一番気持ちよいであろう。しかし、10人を指弾するのであれば、政治的にはその数の2倍には「しめた助かった」と思わせなければ、とうぜん生じるであろう組織的禍根に対処することはむつかしいといえる。おそらく手加減の問題であろうが、ゆるめると100万票単位で政党票がきえていく、かもしれない。けっこうスリリングな匙加減といえるが、ここまできたら強気で攻めるしかないのである。

 といいつつも、野党の攻勢がつよまれば、自民党支持者は理由を忘れて反撃にでるであろうから、焦点は歩留まりである。いくぶんかは減少するとしても、火急のこととなれば休眠層が覚醒するので、基礎票は若干のマイナスということであろう。ところでさいごに決めるのは無党派といわれている浮動性の高い層の動向であって、投票先のきりかえをおこしやすい層でもある。この層が全国規模で500万ほどの票を前回にくらべ新しく、あるいは違ったサイドへ投票をかえれば、前回の票差1万以内の選挙区は確実に当落が逆転するといえる。500万票のうち100万票ほどが投票先きりかえ(与党→野党)であれば、100万票が倍に効くので、(600万÷289≒20700)すなわち2万票差の選挙区も射程にはいるかもしれない。(ここでは平均値はイメージ確認のためにつかっているが、選挙区ごとの事情のウェートが大きい。また、都市圏では増幅される。)

 ということで、見当ではあるが野党候補が一本化されれば8割の確率で、また主要候補にしぼりこめれば6割の確率で小選挙区を制することが可能になるであろう。総選挙の大義が「政治改革」「政治と金」であるかぎり、関係議員の落選運動が強化されるのは仕方のないことである。その中で野党の調整がどこまで奏功するのか、おもに立憲民主党がためされているといえるが、裏金議員追放運動だけでは力不足である。最後は有権者がきめることではあるが、選択肢を用意するのは野党の仕事であろう。

 

◇ 霹靂も豪雨豪雨に鳴りひそめ

加藤敏幸