遅牛早牛

時事寸評「総選挙の先-安定か、波乱か、騒擾か」

◇ 今年は世界的にみて国政選挙が多いと年初からいわれていたが、いよいよわが国もその仲間入りをはたしたといえる。しかし、今日時点での選挙の見通しをいえば視界ゼロメートルである。まあ、ゼロといっても28日未明には全議席が確定するのであるが、ただ議席が確定してもその内容によっては波乱というか騒擾というか、じつにゆゆしき事態にいたる可能性がありうるわけで、それは自公あわせて233議席にとどかない場合のことであり、さらに自民党として200議席を割るケースのことである。

 前回(10月3日)の弊欄ではその場合には「連立くみかえ必至」と予想した。で、ここまでは一般的な総論の範囲であって、誰もがそう予想していることから、常識的といえる。

 さて問題は、党名・グループ名・人名をあてはめた各論であり、理念や政策をきな粉のようにまぶした人間関係であるから、その細部は筆者には分からないのである。おそらく27日の午後8時テレビ報道のヘッドラインが「どのように各論と人間関係に火がつくのか」を知らせてくれるであろう。

 もちろん投票傾向は出口調査で明らかになるので、メディアとして出口調査から異変を感じとれば報道のトーンがシグナルとなるであろう。つまり、泰山鳴動し地滑りがおこるのか、それともネズミの退避でおさまるのか、おおむね見当がつくと思われる。おそらくこの時点から永田町での工作がはじまると思っている。安定か、波乱か、騒擾か、有権者の投票行動がもたらす歴史的な事態、すなわち政局の動向については正体不明の不安がただよっているのである。その原因は人びとの不機嫌さにある。なんとなく不機嫌というか、ここはひとつ夕立でも来ればいいのにといった波乱をまつ大衆心理である。そういった気分というか気配がたかまれば思いがけない事態が生じるであろう。

◇ この選挙が有権者にとって難しいというべきは、お灸が思いをこえて重度のやけどをもたらす過剰な治療となることを有権者は投票段階ではコントロールできない、つまり手加減のしようがないからあろう。

 個別には教育的指導であっても、集団でおこなうと重傷をおわせることになりかねない。現在の選挙制度がその方向で設計されたことは事実であるから、不安をかかえながら見守るしかないのである。

 2009年8月におこなわれた第45回総選挙では、民主党は115議席から193増の308議席という躍進をとげたが、自民党は300議席から119議席へとじつに181減であった。その結果はじめて選挙をはさんでの政権交代が実現したのである。

 しかしながら、3年後の2012年暮れの総選挙(第46回)は歴史にのこる与党の惨敗となった。当時与党であった民主党の議席が230から57へと驚愕の減少となったのである。じつにマイナス173議席という信じがたい大転落であった。さらに、民主党から離党した議員などにより結成された日本未来の党の減議席をくわえれば220議席をこえる超大幅減であったのである。

 他方、自民党は118議席から175増の294議席と単独過半数をかるくこえ、3年3月ぶりに政権を奪回した。

 ということで、2009年と2012年におこなわれた総選挙では、200ちかい議席が動きその結果政権交代が生じている。これらの「議席大変動」が常態(ノーマル)であるといえるのかどうかは、27日の結果をみればはっきりするのであるが、正直なところおっかなびっくり感を禁じえない。

 それでも、10月にはいってからのたとえば「NNNと読売新聞社の全国世論調査(10月1日)」によれば、支持政党では自民党が38%(+7)、立憲民主党が7%(+2)であるが、選挙での政党名投票では自民党が39%、立憲民主党が12%で、支持をはなれて立憲民主党をえらぶ比率が高まっているものの、この程度ではせいぜい「健闘」であって、「波乱」をよぶレベルとはいえない。したがって、この調査(同時期におこなわれた類似調査もおなじ傾向であった)をふまえるならば自公で過半数維持が常識的な予想であるといえる。

 とはいっても、世論調査で答えたことと実際の投票行動がどのていど相関しているのかについては、確かなことは分からないのである。たとえば、過半の小選挙区で第二党の候補者が1000票差で勝ち、残りの小選挙区で第一党が5万票差で勝ったとすれば、合計得票数と獲得議席とは相関しないことになる。つまり、第一党は合計得票数では第二党に700万票以上の差をつけているのに議席数では劣勢なのである。極端なケースではあるが小選挙区制には鬼がいて、思わぬいたずらをはたらくのかもしれない。つまり、政党支持率とか投票先予定などのマクロな数字は結果に対しは不定といえる。

 また、選挙には時の勢いというものがあり、テレパシーではないが、心情的に呼応し連動しあう不思議な力がはたらくように思える。超常現象ではないが、亜超常的な現象はありうる、と思っている。やはり振り子は振れすぎるのであろう。また人びとの期待をせおっている株価に上がりすぎ下がりすぎがあるように、人びとの感情にのっかっている選挙にも過剰に反応する何かがあるのではないか。と思わなければ2009年と2012年の総選挙の説明がつかないのである。

 ということで、表面的にはつるっとしていても結果は100をこえる議席変動が生じるかもしれないのである。

◇ というビッグゲームが射程にあることが影響しているからなのか、野党の選挙連携の動きがなんとなく鈍く感じられる。もともと野党の選挙連携が進展する条件は一にも二にも野党第一党の譲歩であるから、それが進捗しないのは第一党に別の計算があると推察するのが妥当であろう。つまり立憲民主党は野党連携をほぼ必要としないレベルにあるとみずから確信しているのではないか。もっとも選挙連携には時間的に無理な点があることから、気分がのらないということかもしれない。くわえて、全国選挙は地方あるいは地域事情が先行するのが実態であるから、かならずしもトップダウンというわけにはいかないのであろう。うまくいってもいかなくても選挙連携は地方主権そのもののような気がする。

 ともかく、野党第一党としては100議席をこえる大変動でなくても、100議席にちかい中変動であれば衆議院は伯仲するうえに、来年夏の参議院選挙を展望できると考えているのであろう。いきなりの政権交代もいいが、それよりもと考えるあたりはクレバーなのかもしれない。とくに、「立憲共産党」でないことが両党にとってメリットであるということなのか、話がすすまないところに余裕というか自信すら感じられるのである。

 ところで他の野党においても、執行体制をじゅうぶん維持できるていどの議席が予想できているということなのか、ふしぎな安堵感がただよっているように思えるのである。

 といった野党にあって共産党は、保守に媚びをうる立憲民主党から離れていく左派票を何とかすくい取ろうという比例票上積みに腐心していると思われる。

 また日本維新の会は、一時的にせよ自公から離れるが立憲民主党にはとどかない票の受け皿となることをねらっているのであろう。ただし、それだけの理由で小選挙区を制することはむつかしいわけで、くわえてやや整備不足の感もあり好位置につけながらも大きく伸びることにはならないであろう。

 国民民主党は政治的位置からいえば本格的な中道政党であるから、まず順風下にあると理屈ではそういえる。とはいえ船団も帆も小さいので躍進してもなお小政党であるから、想定される政変で役割をとれるかは微妙であろう。

 ところで、本格的な保守を標榜する政党などは今なお未知の部分がある。自公政権は堕落していると考える保守傾向の強い有権者には渡りに船ともいえるが、乗るには勇気がいる感じが正直なところである。

 自公への不満票が分散していく過程で少数政党には集票機会が生まれることから議席増となる可能性が高いのではないか。

◇ さて舞台の中心に立っている石破自民党であるが、まず「安倍派処分」の決着が優先課題であろう。最終判断を有権者にゆだねるのは妥当である。つまり、その人を選ぶか選ばないかは選挙区の主権であるから、主権者たる有権者の意思が尊重されるべきであるというのは正論であろう。

 と同時に、国民政党でありまた全国政党である自民党として「裏金事件」への罪と罰でいえば「罰」の部分を政党として確定すべきであったが、ようやく非公認、比例名簿への不搭載をもって決着にいたった。

 評価はさまざまであろう。しかし、野党がきびしく迫るのは対抗政党としてあたりまえであり、メディアも社会的役割としてあまい姿勢をとることはないのであるから、その論調がすべてとはいえないことも事実であろう。

 また、罪と罰の罪の部分がそうざらいされていないことも不足感の一因となっている。のであるが、自民党支持層と野党支持層とでは受けとめに違いが生じている。したがって焦点は支持なし層の動向といえるが、投票行動との関係がよく読めないというのが実情であろう。

 さて、選挙の審判をうけたうえで非公認者のあつかいについては本人と政党との判断となるであろう。そのうえで、石破おろしを予想する向きもあるが、そんな余裕が自民党内にあるとも思えないのである。翌年夏の参議院選挙とそれに先立つ都議会選挙への対応など、さらに総選挙の予想がかんばしくないことを考えれば党として一致団結しかないと思われる。

 今の段階で石破おろしの声があがることは、有権者的には不快であるから自損行為になるかもしれない。

 もちろん野党に転落したのであれば「お好きに」ということであるが、ギリギリでも過半数を維持できるのであれば、石破おろしなどは国民にとって迷惑な話ではなかろうか。11月5日には次期米大統領もきまり、外交日程も窮屈になるという。昨年の11月からほぼ一年近く「政治と金」問題で国民にさんざん迷惑をかけてきたという自覚すらないのか、と詰問したくなるではないか。自重すべきである。

◇ ところで、自民党の真の危機は堅固な支持層のゆるやかな離脱ではなかろうか。もちろん「裏金事件」で糸がきれた人びともいるが、それ以上に経済停滞、格差拡大、少子化進行などの重要課題がことごとくスポイルされてきたなかで、先進国の中では一番の停滞国であり低賃金国になりはてていることに気がついた人びとが増えてきているのである。

 まじめに自民党をささえてきた人々には、何よりも生活をささえるためには自民党を支持することこそが最善策であると信じて疑わない30年間であったといえるのであるが、逆にたとえば自民党を支援し甘やかしつづけたことが正しかったのか、さらに野党との比較でこの党しかないとかたく思いこんでいたが、はたしてそうなのか、といった根源的な問いかけが生まれているようである。ただちに支持政党を変えるといった話ではなく、ゆるやかに支持あるいは支援の中身を反芻するといったことかもしれない。いずれにせよ手綱は緩みつつある。

 同様の傾向が野党を支援してきた労働組合にも生じつつあるのではないか。口先ばかりの議員がふえたということは、支援団体がそれを容認してきたともいえるわけで、選挙の応援だけではない政治参加についても模索が始まっているようにも思われるのである。

 さように考えはブランコのようにゆれるのであるが、ここまで来たら変わらざるをえないことだけは確かだし、議員をつうじての政治参加がすべてとは考えないニューエイジが世の中にしみだしているようにも感じられるのである。

 現実は現実としても、これだけ夢のない期待できない時代が30年以上ものあいだ放置されて、なお保守政権が健在であることが信じられないし、そうであればこのまま永遠に衰退しつづけるのかと突然不安をおぼえるのではないか。

 自民党以外では経済がガタガタになるからというのが、野党に政権をとらせない理由のひとつであったと思うが、自民党が政権をとっても経済はガタガタであった。異次元の金融緩和でゆるゆるにしたから株高、円安になっただけで、その副作用に今や打つ手がなくなっているといわれているのである。

 経済格差は拡大し、貧困は固着し、差別は解消されそうにない。という閉塞感が社会の現実となっている。

 にもかかわらずそういった問題には、政治はわざとのろのろとふるまっているように思えて仕方がないのである。だから、今の政治には解決能力がそなわっていないのか、そもそも市場型資本主義経済を政治がコントロールすることは不可能なのではないかといった感覚が世代化されつつあると思う。

 解決能力がないから、「不幸でなければいいのではないか」という裏返しの評価基準をもちだした政治家がいたりして、正直といえば正直なのであるが、それでは政治家としては半人前であろう。

 といった問題意識をもつべきは経済人であると筆者は勝手に思っているのであるが、わが国には社長が300万人ちかくもいるというのに、その中に経済人はほとんどゼロであり、もともと社会問題に対しては無関心であると思われる。社会問題については社長は頼りにならないということがはっきりしたということである。そういう支持層をかかえる自民党の体質がさまざまな面で芳しからざるにおいを発しはじめたのかもしれない。

 ということで自民党は豹変するほどでなければ、いかな強い地方組織や後援会をかかえていても長い目でみれば衰退をとめることができないであろう。

 選挙に依存する政治体制はどうしても有権者に対して迎合的にならざるをえないが、迎合的であることが問題解決にむすびつかないというよりも、事態を増悪させがちであるから、有権者に親密であればあるほど時間軸的には不適切な政策選択にかたむきやすいといえる。というからくりに自覚的であっても対抗政党との競合関係において、有権者の当座の利益を優先せざるをえないというのが、悪しき傾向であり実態なのである。

 さりとて、日々の生活のやりくりに苦労している多数の人びとの当座の要求に背をむけて高邁な政策にはしることが、何年か先であっても確実な政策上の果実につながるのか、またそう信じてもらえるのかについてはまことにおぼつかないということであろう。

 さらに外因性の事象によって事態が急変するリスクもあることから、政策として時間がかかるものや高邁なものほど選択できないというまさにジレンマにおちいっているのである。つまり政策の効果性については人びとが期待するほどには確定的ではなく、場合によっては逆行することもあることから、政策論議には政策そのものの脆弱性と状況の不確実性とがかさなりあい、それらのリスク要因の出現によって政権そのものが危殆に瀕することになるので、ていねいな政策論議をいくらかさねても政策の効果性を保証することにはならないのである。というところに今日の政策を基軸に編成される政党政治の悩みがあると思われる。

 ということで、醜聞(スキャンダル)には政権交代が有効ではあるが、それ以外の課題において政権交代が確実に果実をもたらすものであるのかについては今なお確実なことは何もいえないのである。

 そこで、自民党が豹変するとはどういうことなのかという議論であるが、そのまえに労働者への分配を棚にあげて雇用を守るためだけの産業企業保護政策を前置すべきであるという考えの欺瞞性はすでにバレていることから、選挙においてはいずれ支持されなくなるので、適正な分配を前置したしくみに変更すべきであって、その方向での広範なコンセンサスを形成すべきである。

 また、労使関係における争議行為に対し抑圧的姿勢をあらためるべきである。自民党は結成以来、なにかにつけて反労働者的であった。多少の改善傾向にはあるが今でも疎労働者的である。集票構造に起因するとの解説も表面的には説得的であるものの、6000万人をこえる雇用労働者を疎遠にする合理的理由は見あたらないというべきで、親労働者とはいわないが、労働に活力をあたえる発想ぐらいはもってほしいものである。

 ややもすると、労働生産性が低いことの原因があたかも個々の労働者にあるといった蛮性な理解にはしりがちであるが、すくなくとも自民党支持層の多くの経営者の問題意識のなかにそういった認識があるように思われる。

 いいかえれば、足元の300万社長の意識変革すなわちわが国の労働生産性が低いことの原因が労働者ではなくむしろ経営者自身にあるという事実を自民党としてそっちょくに指摘すべきであろう。社長の背中をみながら仕事をするのがほとんどであるから、そこを見逃していては経済の底上げ策が成功するはずはないといえる。

 自民党の真の競争者は立憲民主党ではなく自民党自身であることを思い知らせる選挙になってほしいと思っている。有権者が決心さえすればいつでもかわりの政権政党をつくることができるのである。

◇ 寒露なり 朱ささりくる 曼殊沙華 

 

注)下線部分、標記を整理。(2024年10月17日9時)

加藤敏幸