遅牛早牛

時事寸評「2024年の雑感と2025年当面の政局について(1/2)」

1.令和7年(2025年)新年のごあいさつ

 明けましておめでとうございます。今年もよろしくお願いいたします。

 昨年は世界的に選挙の年で騒がしく、さらに気候変動が原因なのか気象の狂暴化が地球規模で大きな被害を各地にもたらし、くわえてウクライナにガザ地区またシリア、レバノンへと紛争による被災地域が広がっている。紛争地域が広がれば被害者が幾何級数的に増え、死傷者も増える。助け合いながら殺し合うというどうにもならない現実に目を背けたくなる毎日で悲しいが、なんとか解決の糸口が見つかるよう祈ることしかできないのが残念というほかに言葉もないのである。

 さて、昨年の選挙によって与野党の議席が逆転した国も多く、わが国も自公連立政権が過半数を割った。このあたりの事情は、昨年11月から12月にかけて「新局面となるか、ガラス細工の石破政権の生き残る道」11月17日、「厳しくなる世界情勢にあって石破政権を揶揄するだけでいいのか」12月5日、「石破政権、餓死するぐらいなら呑みこんだらいいのでは」12月17日と、かなり詳細に書きこんだつもりで、もちろん予測については例によって妄想性が高いといえる。

 今回のコラムも引きつづき、政局の目になっている国民民主党による対与党要求について、またそれにかかわる国会審議の行方などを中心に愚考、妄想をかさねている。気持ち的には労働関係や社会活動の方面に話題をふりたいのであるが、久しぶりに国内政治が活性化しつつあるので、やや偏食気味になってしまった。

 さて、新年なので長期的な課題について少しふれれば、気候変動対策としてまた大規模紛争を回避するためにはグローバルに膨れ上がった市場型資本主義経済の改造にとりかからなければというのが共通テーマになると思われる。いくら民主主義だと偉ぶってみても足元では経済格差があらゆる場面で露見し悪影響をおよぼしているのだから、一般の人びととしては現下の政治そのものを疑わざるをえないと、むしろ追いつめられているというのが正直なところではないか。だから極右政党の躍進がいちじるしいと嘆く前に、公平な分配を回復させるべきであり、さらに民生の向上を優先させることが政治的にも最重要課題であると思われる。

 また、先進国などにおいては民主政治と資本主義経済とが相互依存関係にあり、端的にいって互恵的であったし、少なくともそういった共通認識を前提にともに発展してきたという今までの成功体験が、「公益財である民主政治が資本財によって侵食され実体を失いつつある」との鋭角的ではあるがかなり的確な問題認識によって成功の意味を失い、さらに体験そのものが色褪せようとしているのである。これが「民主主義の危機」の真相といえる。

 もし人びとが、経済成長とその果実の公平分配によって戦後民主主義とその核である民主政治が守られ発展してきたと歴史を解釈するのであれば、その歯車がしずかに逆回転を始めたことを理解し、そのことを日常生活において感じているであろう。そういった日常的な漠とした不安の根源は構造的であると思われる。

 さて、そういった長期課題に遭遇すると同時に、気候変動という極めてやっかいな問題に現代社会はきつく巻きつかれている。それらの課題(テーマ)と問題(トラブル)はもとはといえば同根である。それは、今日までの経済成長を支えてきたのは化石燃料の大量消費であるから、成長すればするほど地球温暖化が進むという悪循環からの離脱の有効な道筋はいまだに発見されていない。総人口が数億程度であればまだしも、80億人を前提とするならば悲観的にならざるをえない。つまり、先進国サイドに大きくしわを寄せるしかないとの結論が視野にはいってくるが、先進国の中の最大国がとつぜん「ドリル、ドリル」と叫んでいるのだから容易なことではない。

 今年と来年においても気候変動由来の異常気象による被害が右肩上がりに増大する-おそらくそうなると思われるが-のであれば、米国の世論も劇的に変化せざるをえないと思われる。しかし、米国での理解がすすんだとしても、国際場裏において効果的な対策をまとめられるかは大いに疑問である。

 もちろん気候変動による被害が年々増大しているというのが世界の実感であるが、それを完全証明することはなかなか難しいといえる。背景には効果的な対策とは、産業革命以来の歴史の逆まわしに似た先進国としてはとうてい受けいれがたい過激な議論をベースにしなければまとまらないからである。

 さらに、今を時めくAIも時代のあだ花と思われる仮想通貨もエネルギー消費においては超ど級であり、その開発や応用に各国がしのぎを削り過大な予算投入を続けているのであるから、人類の滅亡を画策している悪魔たちにすれば笑いが止まらない毎日であろう。不安と期待が混在した中で現実感覚を失い、ものに憑かれたように破滅の道を進んでいるのではないか。

 近いうちに人類の手におえなくなるといった漠然としているが確実な災厄の出現に、人びとの恐怖心が広がっていくのも現実なのである。

 人びとのあいだがすき間なく災厄によって埋めつくされるのに10年はおろか5年とかからないとなれば、将来不安が積乱雲のように膨張し、世界は混乱しやがてひどく疲弊するであろう。気候変動ではなく気候擾乱による環境破壊への実感が、かつて経験したことのない経済大恐慌を引きおこすであろう。と安普請の終末論を書くことはたやすいが、希望の光を見いだすことには万倍億倍の努力がいるのである。ともかく、近い将来化石燃料による文明は終焉し、人新世は終幕を迎えることだけは確かであるといえる。

 新年早々暗黒のSF小説のようで申しわけないが、これがはずれて笑い話になって欲しいと思っている。

2.補正予算がうまくいったからといって本予算もうまくいくとは限らない 

 昨年の12月27日に来年度予算案が閣議決定され、本年の通常国会で審議され、とここまでは恒例の表現でいいのだが、例年と違っているのはこの予算案には成立の保証がないのである。したがって、成立時期も見通せない。

 12月24日に閉会した臨時国会では混乱もなく円滑に補正予算が成立した。世間では安ど感よりも当然感のほうが強かったようであるが、少数与党としてはむしろ上出来と受けとめるべきである。というのも、国民民主党(以下国民民主)と日本維新の会(以下維新)との本予算についての協議(いわゆる「103万円の壁」と教育無償化)が両党の賛成を呼びこんだもので、いってみれば販売促進活動のようなものであったし、前から指摘しているように災害復興を阻害することには野党においても忌避感が強かったことも理由であったと思われる。つまり、補正予算がうまくいったからといって本予算審議もうまくいくとは限らないのである。

3.自民党はまだ多数派の酔いから醒めてきれていない

 それにしても官邸はともかく、自民党全体の鈍感さには驚かされる。頭では分かってはいるのであろうが、体(行動)はいまだに多数派気分から抜けだせていないのではないか。もっと言えば、長らく一強状態にあった自公政権では「無理をとおして道理をねじ曲げる」のが常套手段であったことから、経験上それがなお通用すると思っているのか、あるいは身につき過ぎているのか、なかなか気持ちが少数与党になりきれていないのであろう。

 だから、本予算成立のために助け舟を出している国民民主に、どこまでも理屈で対抗としようとしているのではないかと思う。少なくともここ十年を振りかえっても、自民税調が「税制は理屈の世界」であるからといって官邸や党の意向に逆らったことがあったのかしらと首をかしげている。理屈をいうのは結構なことであるが、筆者は「本予算案に国民民主が反対し、維新が賛成する」組合わせについてはそうあって欲しいと願っているのであるが、維新の対応は揺れるであろう。維新の対応が不確実であるだけに、税制原理主義は無謀というか、立派というか、ガラス細工の政権なのに信じがたいことだと思っている。

 こうなれば万が一のことを考えて、国民民主はリスクマネジメントの一環として予算案反対のシミュレーションぐらいは準備したほうがいいのではないか、とも思う。

4.与党にとって国民民主は「助け舟」ではあるが、味方でも敵でもない

 さて、10月27日の選挙では名簿登載不足という失態を演じ、小政党の実力不足あるいは弱点を見せつけた国民民主からの「危険なほどの切れ味がきわだつ」政策要求を受けたことから与党は防戦一方になった。それが、財源問題とか退席問題をテコにようやく攻勢に転じた様子であったが、本来石破政権あるいは与党にとって国民民主は敵ではないはずである。まず政党の規模がちがいすぎるので、キャスティングボートを失えばただの中道政党であり、与党の敵にはなりえないのである。筆者にいわせれば、自民党の狼狽の度がすぎるわけで、条件を付して本予算に賛成するといっているのであるから、味方にできると考えるべきであり、豊臣秀吉級の器量であれば安いと即断するであろう。「お味方いたす」といわれたらすぐさま味方にしないと事情変更でせっかくの味方が消失することになるかもしれない。政局としては過半数の議席が揃うのであるから財源がどうのこうのという問題ではなかろう。

 おそらく、政権の内外に混ぜかえそうとする勢力が存在するのであろう。だから、とつぜん話にならないといって退席したものの、実は与党側には123万円を超える回答案が用意されていたことや世評の反発があったので、後日泣きをいれて再度協議の場を設定してもらった、といった報道番組での解説などについては否定も肯定も筆者にはできないが、「泣きをいれた」云々の表現には驚くばかりで、こういった話は石破政権にとって「百害あって一利なし」であると思っている。

 今、国民民主の内部をかき回して本予算案賛成に届くのか、ここは気持ちよく賛成していただく算段をつけるのが、、、(とか余分なことはいわないでおこう)。

 それにしても、与党側に123万円を超える回答があったのなら、10分間-と、報道されていたが-も待たせずに直ぐに出せばよかったのではないかと誰しも思うであろう。 

 あるいは、「敵は国民民主」と思いこみ、陽動作戦に出たのかもしれない。くりかえすが「命綱を値切ってどうするの」ということであり、値切っているうちに相手の方針が変わり「そういうことなら話はなかったことに」といわれれば予算案の成立は絶望的になるのである。

 また、維新が教育費無償化で予算に賛成してもいいといっているらしい、これで維新と国民民主を両天秤に掛けられるとか、それも安上りではないかといった安直な話があふれていたが、さすがに年明けからは鎮静化すると思われる。これらの話は面白いだけで後景にある石破政権の深刻さとはかけ離れた世界を見せているだけであろう。

 そもそも両天秤に掛けるのは強者の戦法であって、弱者の石破政権がとりえるものではない。また、維新の教育無償化要求は内容はオリジナル的といえるが、予算案賛成の条件とする形においては二番煎じであるから、結果としていわゆる「103万円の壁」での178万円が潰れることになれば、それは「維新のせい」だと少なくない人びとは思うであろう。そんな風評を背負って夏の参議院選挙が闘えるはずがない。ということから、維新としては国民民主を後押ししながら独自要求の実現につとめるほうが上策といえるのである。

5.もういい加減に二大政党制の夢から覚めて、現実を直視したら

 ということで、天秤にかけられる状況ではないというのが石破政権の深刻さなのであって、その深刻さを裏面からいえば、首尾よく178万円を回答されたなら国民民主は来年度予算案には賛成せざるをえない、否かならず賛成すべきなのであるが、本予算に賛成すればそのことへの痛烈な批判が巻きおこることは避けられないであろう。いわく自公政権の延命に力を貸した「野党とはいえない」不良政党とばかりに攻め立てられるであろうし、それはそれでれっきとした理屈ではある。

 まあ気にすることもないのであるが、そういう理屈はおそらく二大政党制をベースに組みたてられたものであり、その理屈でもって現在の政局を論じるならば国民民主と維新は裏切者であり、かつ第三、第四の与党であり、さらに野党の仮面をかぶった許されざる政党であるということになるが、その二大政党制という考えそのものが今日においては架空の請求書になっているのである。つまり、この30年間においても二大政党制といえる状態などは存在しなかったという意味で実存しないもの、いいかえれば裏付けのない架空の請求書であると表現しているのである。

 もちろん、1993年の細川政権成立までは、政権交代なき二大政党体制ともいえる自社体制であったが、汚職や金をめぐる不祥事が頻発したことから、政権交代が政治を浄化するという漠然とした共通認識がかなり一般化していったといえる。また、当時の労働界とくに連合系ではそのような期待が抱かれていたことは確かであった。

 そのような期待とか理想は横に置き、ただ現実をいうならば1993年以降は複数政党による連立政権そのものであったといえるのである。もちろん、主要メディアをはじめ政治ジャーナリストや政治学者の中には2024年時点においてさえ二大政党制の幻影に引きずられているのか、二大政党に収斂しない現実をきびしく批判しているが、30年以上にわたって一度も姿を現すことのなかった幻とすらいえない二大政党制に期待するところがあるのか、大いに疑問とするところである、という結論に到達するのに筆者などは十年以上かかったのである。

 具体的には1990年代半ばの細川政権以降のほとんどの期間において単独政権ではなかったし、さらに同時に両院において単独で過半数を制した政党もなかったのである。ということで多数派工作が当たり前の時代に入っているのであるが、今回の石破政権はその多数派工作すらできずに少数政権とならざるをえなかったのである。

 その原因は石破氏にあるというよりも、第三政党である維新が議席を減らしたことから党執行部への責任追及が燃えあがり連立交渉の重要時期であった10月末から11月初頭において、意思決定の空白期があったこと、さらには「政治と金」への与党の対応が不十分であったことから、夏の参議院選挙を視野にいれるならば連立参加は見送ったほうがよいとの判断に傾いたからであろう。また国民民主においても、躍進の原因が自民を忌避する保守層や保守系からの集票にあるとの判断から、自民への接近を避けるため連立不参加と決めたことが大きかったといえる。石破氏にとっては不運なだけといえるのだが、不運を幸運に変える術は今のところ見あたらないのである。

6.歳出歳入構造が不明な時期に財源を問いただすのは、反対ということか

 ところで、国民民主党に対し地方(知事)を中心に財源論のつぶてが盛んに打ちこまれた。知事がこぞって野党を指弾するのは珍しいことである。もちろん知事の方々の心配は分かるものの「フライング気味」であると筆者は前々回のコラムで述べたが、その意味は「手取り増という賃金生活者から発せられた切実な要求に対し、地方にとって税収減になることを理由に門前払いをしていいのか」ということと、「あらためて知事宛に地方税の所得控除にかかわる要求書をだせば受けとってもらえるのか」といった重要なテーマへの適切な回答を整えないうちに、国政選挙の結果をうけての政党要求を反射的に拒絶するのはいかがなものかという意味である。

 そこで、12月27日に閣議決定された来年度予算案を見れば地方交付税交付金が19兆円余りとなっており、実に1兆3000億円弱の増額となっている。もちろん、税制での123万円を反映しての数字である。この結果だけを見れば総務省も知事もうまく立ち回ったといえる。

 その一方で筆者などは、賃金上昇分のほとんどを物価上昇にくわれてしまっているのに、それでもけんめいにやりくり生活をおくっている多くの人びとの立場を勝手に代弁し、低所得者の生活を二の次にしている方々へ、「本当によかったね」と嫌味をいってみたいのである。結局言い方はともかく、いわゆる「103万円の壁」の解決策をつぶしにかかったことは隠しようがないわけで、おそらく「地方税減収の事実」を述べただけと言訳するのであろうが、地方交付税交付金についていえば前述のとおり大幅に増えているではないか。こういう事実を知れば、少なくとも国民民主を支持している若い層は「知事とはそういう立場なのか」とつよく思ってしまうであろう。手取り増という点においては、厳しくいえば多くの知事は味方ではなかったのである。

 筆者がフライング気味ではないかと指摘したのは、そういった機微にふれる事情を含んでいる問題であるから慎重にと要望したつもりであったのだが、一度手取り増を強く望んでいる人たちの声を聞いてみたいと思っている。

7.閣議決定の当初予算案はスタートラインか

 国会に提出される当初予算案の原案は閣議決定までは外部からはブラックボックスなので、歳出・歳入が不明な中で財源の手当てを議論することは普通にいえばむつかしいといえる。

 もちろん閣議決定の前に与党と議論を始めるということであれば、いわゆる事前審査ということであり、これは連立の始点といえるが、そうであれば詳細な議論も可能であるし、当然のこととして歳出項目については圧縮をはかる議論になるだろうが、すべての項目は8月の概算要求後の折衝をおえたいわゆる踏み固められたものとなっていることから、あらためて全項目について洗い直しつまり圧縮することは短期間では事務的にもほぼ不可能といえる。ここでほぼ不可能といっているのは時間的な問題にくわえ要求省庁との再合意が難しいということである。つまり、実務的にもまた税調の理屈からいっても当初予算案の原案に繰り入れられるのは123万円が限度であったということであろう。

8.財源論だけでは生活苦を源流とする有権者の要求を堰止めることはできない

 さて、10月27日の総選挙の結果を受け、11月11日第二次石破内閣が少数与党としてスタートせざるをえなかったが、政権としては不連続であり政治的にはまったく別物と考えるべきであった。とくに、予算編成からいえばとつぜん誘導灯が消えてしまったようなもので、成立するかどうか分からないのに調整が必要なのかといった素朴な疑問もでたのではないか。いいかえれば、事態は急変したのである。しかし自公政権であることは変わらないことから、政治権力は継続しているというのが世上の認識であった。もちろん継続性をいえばたしかに継続はしているのであるが、権力の質をいえば強度がいちじるしく低下したのである。まるで金属細工からガラス細工への転換のようであったが、人びとの目に質の転換が明らかになるのは臨時国会において議会の役員構成あたりからであろうか。

 与党議員も省庁も政府系機関も地方政府も一斉に豹変すべきであったのだが、多少の時間遅れや経験不足はやむを得ないところであろう。なんといってもお先真っ暗なのだ。しかも、うまく豹変できたわけではなかった。

 来年度の予算審議にむけて準備に余念のない各省庁も霧がかかってはいたがけっして悲観の荒野に投げ出された風でもなかった。緊張に先立つ弛緩であったかもしれない。また、維新の代表選を前に新代表と維新の方向性が不明ではあったが、自民党との親和性は他の野党のどこよりも高いことから、ひょっとして連立成功かという期待感もあったのかもしれない。

 そういった空気が生まれた原因のひとつが首班指名における維新と国民の対応がマイルドであったこと、さらに国民民主が補正ならびに来年度予算に対し条件闘争でいくことを表明していたことから政権運営にわずかながらも光明が見いだされたということであろう。つまり、「何とかなるかもしれない」ということであったと思うのだが(そこはよくは分からない)、予算編成については重点政策もふくめ従来路線でいかざるをえなかった(勝手に変えられなかった)のではないかと推察している。

 微妙なことではあったと思うが、すでに固められた項目もふくめ、政権がガラス細工であるように、予算原案もガラス細工、否それよりも一段下の紙細工というべきであり、成立の保証なき脆弱性の塊であったというのが適切な表現であったが、政府全体としてはそこまでの切迫感はなかったようで、脆弱性をヒリヒリと感じさせるエピソードなどは聞こえてはこなかった。

 そこに、選挙結果を民意として有権者の要望を実現すべく国民民主が大型で恒常的でさらに波及性の高いいわゆる「103万円の壁」見直しをぶつけてきたのであるから、予算編成にあたる部隊としてはとんでもない災難にみまわれたと感じたであろう。これが、3か月前の7月選挙であったなら「財源をどうする」といった反撃がイッシュ化されることはなかったのではないか、つまり歳出歳入にかかわるテーマとして冷静に議論されたと思われる。

 そういう意味では予算編成上における時期の問題も大きかったということであろう。もっとも、いわゆる「103万円の壁」にかかわる要求が減税すなわち歳入減であるから全額を国債でまかなうことも考えられる。しかし、財政規律という視点でいえば安易な対応は許されないという主張が、日ごろ財政規律についてさほど気にもとめていなかった向きにおいてさえ大いに盛り上がると思われる。もちろん持続性からいっても問題が大きいといえる。

 そうはいっても、歳入の柱である税収はきわめて堅調であり、とくに消費税が物価上昇にともない線形的に伸びており、その増収分が結果的に国民生活を苦しめている元凶であるから、たとえれば生活が苦しくなった人びとの財布からさらに政府が金を巻き上げているイメージが重なって、まさに酷税と受けとめられているのであろう。

 世間から「国民を苦しめる税制」といわれれば、財務省や税務当局にすればとんだとばっちりを食らった思いなんだろうが、しかし、主権者の声を無視することは非民主的というよりも反民主的といわれてもしかたないであろう。ということからも、財源論だけで生活苦を源流とするこれらの(主権者の)要求を堰き止めることにはやはり無理があったというべきで、このあたりの判断を政治感覚というのであろう。

9.財源論だけで反撃したことはマイナスイメージ

 結果として、財源論をもって有権者に反撃したことは石破政権にとってはマイナスイメージを強めるばかりで、これでは支持率が上向かないのは当然といえる。さらに、12月28日時点で178万円に対し財源上の課題があると指摘したことは178万円を目指すもののそれに達しない可能性を最高責任者として言及したことになり、それでは「石破さんは、ギリギリどちらサイドなのか」と詰問されるであろう。これは急所であって、おそらく高額回答をしぶる石破総理というイメージが独り歩きすると思われる。

 さらに、今はその時ではないと思うがいずれ生活者にとって「石破さんは敵か味方か」という仕分けにおいて、微妙な差で生活者の敵と判定されるリスクが残っていると思われる。例えば100円に対し90円を支払っても10円足らないことは確かであるから、その10円の差をもって「敵」と判定されるのはまことに理不尽だとは思うが、量ではなく質を争っているときにはそういった理不尽とも思われる判定がなされることはよくあることである。

 理不尽だと受けとめる前に、178万円を超えて払うという機略を期待する声もあったが、買いかぶりすぎだったのか、いやまだ間に合うと思う。「200万超えれば○○を虜にできる」というのは心理戦のことであろう。なるほど、意味深なことばである。

10.ここのところの生活物価の上昇は、ひどい、ヒドイ、酷すぎる

 「命綱を値切る」とは質(命)の問題を量(金)の問題に転嫁させることであって、政権の性根(しょうね)を問う国民民主の支持層としては「やっぱ分かってないなぁ」となるのだろう。さらに「もともと期待してないし」ということでお終いになる、それだけの話であって、すすんで石破政権を助けようとは思っていないのであろう。いずれにせよ議論は質(命)の問題からはじまり、量(金)の問題へと流れていくもので、そうでなければ現実は動かないのである。 

 今回の問題はもともと日々の生活の苦しさに端を発したもので、生活の質の問題がスタートであった。したがって非課税とする所得についてはいずれ金額つまり量の問題としての決着をはかることになるが、早いタイミングで「金銭問題」であると支払う側が質から量への転換を急ぐのは、生活の苦しさへの共感を素通りしたことになるわけで、感情を逆なでにするまずいやり方である。

 なぜ生活が苦しくなっているのかを詳(つまび)らかにせずにいきなり「最後は金目(かねめ)でしょ」といわれたらどう思うのか、ここらあたりが自民党の傲慢さといわれるもので、政権を保持するためにはまず克服すべき重要課題である。

(長くなったので次回へ)

◇ 冬のどか 鵜鷺雁鴎の 浜国会

加藤敏幸