遅牛早牛

時事寸評「2024年の雑感と2025年当面の政局について(2/2)」

(前回からのつづき)

11.いささか感情的になるが、生活者への共感なくして政治はなりたたない

 ここからは感情的ないいまわしになるが、生活苦をうったえている人びとは、国会議員に毎月歳費とは別に支給される調査研究広報滞在費(旧文書通信交通滞在費)の100万円をうけとる立場にはない、当然のことである。また、この100万円といわゆる「103万円の壁」とは論理的には無関係である。というのが議員サイドの思考系であるが、人びとの思考系は月100万円と年103万円とは対比されるべき関係となっており、それは論理よりも感情に大きく傾いた思考系となっている。したがって、歳費とは別財布である月100万円については使途証明できなければ所得として課税対象とすべきという主張にも共感することになる。また、件の100万円の原資が税金であることも人びとの感情をことさらに刺激するのであろう。

 有権者の多くがここ何年かにわたり酷税に苦しめられてきた。たとえば、高くなった調味料を手にしながら「これにはさらに消費税がかかってくる」と生活の劣化にはお手上げなのである。この話を日銀総裁風にひもとけば、物価と賃金の好循環を期待するということであろうが、現実には多くの人の賃金はさほどあがってはいないのである。それも後追いであるから、物価に押されまくって実質賃金は下がり気味である。

 こういった話は、昨年の選挙で国民民主の支持にまわった有権者にかぎったことではなく、比率をいえば十分一般化できるぐらい多くの人びとについていえることなのである。円安で株価が上がったり輸出比率の高い一部の企業が利益予想を積み増したりといった話題が取りあげられるが、日銀総裁の耳は円安賛歌の方向に向いているのであろう。輸入物価の急騰がはげしく家計を痛めつけているのである。

 日銀は生活者にとって「敵」であるとの意味は、生活者への共感なくして何のための金融政策かということである。だからこそ政府としては春の賃上げや最低賃金改定に加勢しているのであろうが、悪しくいえば他人のふんどしで相撲をとっているだけで、自らの責任で何かを為しているとはいえないのである。

 この辺から文脈としては自民党の限界という方向に分岐するのであるが、それは別項の議論である。

 ところで、年末に示された与党の「123万円」は物価上昇分の反映である。もちろん、「税制は理屈の世界」であるといわれれば確かに一面の真理ではあるが、それがすべてとはいえなし、政治の最終決定ではない。なお、理屈においても政府がかってに算出している物価上昇率はずい分と生活実感からはかけ離れた数字ではないか。また、現役世帯における労働再生産費用がぞんがいに上昇している現実への対応をどうするのかなどの視点からいっても、123万円はまるで木で鼻を括(くく)るもので生活者からの要求に誠実にこたえているとはいえない、つまり感情においても理屈においても不十分といえるのである。

12.国会で議論すべきことは多々あるが、本気で歳出削減に取りくめばいい

 いわゆる「103万円の壁」見直しによる減税が歳入減に直結することを前提に、その穴埋めに国債の増額が必要としたうえで「これ以上の政府借金の増大は次世代へのつけまわしである」と、財源と財政規律から減税に異論をとなえる財政規律派もときおり声をだしているが、そうであるならまず歳出構造にメスを入れるべきであろう。115兆円規模の予算案に対し歳出だけを是認したようないいぶりは不公平である。歳入が変われば歳出も変わらなければならない。

 財源論を指摘する学者らの発言を聞いていると、まるで歳出を圧縮する必要がないとの主張に聞こえるが、それでは国会の議論すなわち熟議が不要であるというのか。場当たりであるのかどうかは国会で議論すればいいのであるから、決めつける立場こそ語るに落ちるといわれても仕方がないであろう。このように筆者の口調がはげしくなるのはこの10年間、課税世帯が実質面でひどく置いてきぼりを食らっているからである。

 はやく不公平税制是正の狼煙をあげるべきである。日々黙々と働いている人びとが物価高に苦しんでいるのだから、そのことへの共感なくしてこの議論を始めることはできないのである。これが先ほどの質の問題なのである。

 ここ何年も続いている予算の膨張や使い残しあるいは目的がはっきりしない基金の山、さらに安全保障や経済安保の皮をかぶった放漫支出など、この際一斉点検が必要ではないか。一強体制が生み出した財政政策や金融政策のめざすところが生活者のためではなかったことは衆知のことといえる。であるのに、今回の生活者からの要求に対してだけ特別にきびしく財源問題を強調するのは何事なのかと疑問に思う。まあ、「本性ここに露見せり」ということであろう。

 いずれ、生活が物価によって圧迫されているのだから消費税ぐらい返せという方向へ向かうであろう。いよいよ「生活奪還闘争」の幕開けである。

13.国会における議論を革新する好機であることはすでに標準認識になっている

 政権の命綱を値切る愚を犯すものは、人びとの生活の命綱さえ値切るのであろう。そういう無意識のうちになされる資本主義的合理性の発揮が、人びとの生活のあるべき質をとりもどすという求償的行為と正面衝突したのが、今回の国民民主が仕掛けたいわゆる「103万円の壁」見直し要求問題であるいうのが筆者の理解である。が、2か月間の議論の推移からさまざまな問題と視点があることも明らかになったといえる。まさに甲論乙駁は是とすべきで、財源問題の真意は予算膨張が財政規律をないがしろにしてしまうことへの一般的な危惧であったり、さらに野党要求を奇貨として国債発行で穴埋めし野党に共同責任を負わせようと企むのではないかといった含意については維新も国民民主も当然理解していると思われる。そういう予兆があるのであれば協議からは苦渋の決断をもって離脱すべきであろう。

 

 あらためて問題を背負っているのは政権側であり、助け船にも大義と潮時がある。ところで、石破総理が財源(量)にも問題であると述べたと聞くが、それが歳出削減にも限界があるということであるなら詳細を確かめる必要がある。また、同時期に予算案否決に対し解散の可能性を匂わせたのは、熟議のモノサシをあてればいささか勇み足と思われる。誘導されたのか、雑音にまきこまれたのか奇怪なことであるが、むしろ党内へのアナウンスではないかと思っている。

 で、国民民主を支持している10%超の人びとのハートを掴むには彼ら彼女たちの土俵で「石破は味方である」ことの証(あかし)を示す必要があるが、財源を口にした瞬間から、いやいやながらの妥協案と解釈されるおそれがあるのではないか。

 この解釈については、どうでもいい話と受けとめられると思うが、しかし同じ金額であっても味方として払うのかそれとも敵として払うのかという分水嶺にあっては言葉通りの結果を生むのであるから、なぜ味方であると宣言できないのかというのが石破氏に対して筆者が感じている大いなる疑問なのである。

 有体(ありてい)にいえば、総理にとって他党の支持者層と対話することはまさに千載一遇の機会であるから、国会での議論が変わった実例としてチャレンジしてもいいのではないか、と思う。

 賃金交渉でも回答する時に発せられる言葉で気持ちを表現することが大切であって、おなじことをするのであれば評価される方向で対応したほうがいいに決まっているではないか。

 国民民主を支持している人びとが一部の調査では10%を超えるというのに、その10%超の気持ちをまさに手中に収めえる好機である。

 

14.今回の議論の入り口は生活論であり、税制論をへて、また財政論を経由し出口は歳出削減である

 さて、今回の議論の入口は財源論でも税制論でもなく、生活論なのである。はじめに生活ありきという意味では「生活奪還闘争」があたっている。通常国会でどこまで議論が広がるのか気になるし、ようやく国民のための税制論議が射程に入ったといえるから、議論は徹底的にやるべしとなるが、夏には参議院選挙が控えていることから、どこかで決着をつける必要がある。その時期を決めるのは野党第一党の立憲であることは間違いないといえる。さらに、予算案は閣議決定を済ませたものの国会の承認はこれからである。衆議院では少数与党であるから多くの予算項目は変更対象といえる。 

 もっといえば、変更されなければ確実に否決されるので、通常は内閣総辞職あるいは解散となる。とにもかくにも2月の国会がドタバタするのは間違いないといえる。

 ここで、石破政権の安全な対応策として考えられるのは、178万円とガソリン税トリガー条項凍結解除をほぼ全面的に受けいれ、さらに維新の教育費無償化も受けいれ、その上で3党で協定書を取り交わし、予算案の歳出見直しを含む修正提案をおこなうのがもっとも確実な道筋であろう。

15.7月の参議院選挙は与党にはあいかわらず厳しいが、逆転がないわけではない

 さて、その参議院選挙であるが、参議院の過半数は125であり、与党の非改選数は自61、公13、議長1の75議席であるから7月の参院選では自公あわせて50議席以上が過半数の条件である。改選議席は自52、公14の66議席なので、今のところ過半数に対し16議席の余裕があるが、16議席しかないという方が実情に即していると思われる。

 そこで、昨年の総選挙での比例票をベースに予想すると、比例区では与党あわせて現在26議席であるが10議席ほどの減と予想される。比例で10減にとどめられれば、選挙区では6議席の余裕ということになる。現在自33、公7の40議席なので与党あわせて34議席以上が過半数の攻防ラインとなる。昨年10月の総選挙での厳しさに変化がなければ、与党としては歴史にのこる総力戦を強いられるであろう。

 とくに、32の一人区での野党間の選挙協力の仕上り次第といえるので、現時点では見通せないが、現下の政治状況が変わらなければ参も過半数割れの可能性が高いと考えている。

 ということから、石破政権の安定度を示す意味で来年度予算案の年度内成立がメルクマールとなるが、対する立憲としては面目にかけても年度内阻止に全力を挙げることになるであろう。予算は衆議院の可決後30日で自然成立するので、日曜出勤するのであれば3月2日の本会議ということになるが、参議院は与党が過半数なので3月31日の参本会議で間にあうし、完全年度内でなくてもいいということであれば、4日程度の暫定予算で対応できるかもしれない。

 そこで、参での審議日数は未定であるから3月7日を予想する向きもあると聞いている。しかし中道政党として予算案修正のうえで通すつもりなら遅くとも2月中旬には方向性を固めないと審議日程がぐちゃぐちゃになると思われる。正々堂々と鮮やかに対応すべきであるが、そのためには決めるべき時には決めることが肝要である。そもそも予算案の歳出削減を含む修正は簡単ではない、事務的な日数もかかると思われる。できれば、通常国会開会までには骨格を固め、少なくとも出口を決めてから入らなければ予算審議には相当な世論の圧力がかかってくるし、他の野党からの批判もひどくなることから、党内や支持団体の覚悟が問われるであろう。ということで、賛成にまわる政党にとっては未曽有の試練となることは間違いない。本当に耐えられるのかということで、維新と国民民主が足並みをそろえて賛成するのが両党にとっては上策といえる。ところで、玉木氏の代表復帰が3月4日ということなら不思議なめぐりあわせである。 

 

 さて、衆議院で予算案が否決されれば即政変なので、いずれの中道政党も予算案に賛成できないと判断した時点から日程にはこだわることもないので、予算委員会を停止し、事後の対応について協議することになるであろう。たとえば暫定予算が必要なのかも含め、このあたりは野党第一党の判断が中心になるのであるが、野田佳彦氏が代表であるかぎりおそらく国民に迷惑がかかることにはならないと筆者は予想している。

 ということで、来年度予算案が否決される可能性が極度に高まった場合の対処は、石破総理の退陣を条件に予算成立をはかるのが通例なのであるが、石破総理退陣は立憲の政局における目標ではないと思われるので、国政の混乱回避を大義名分に立憲の要求を入れた予算修正を条件に与党と立憲による予算成立の可能性も考えられる、いわゆる大連立的対応であり、野党の真打登場である。という意味で予算の成立前に石破氏が退陣するとか、解散総選挙などでは国政のロスが大きすぎるので冷静であれば選択肢にはならないと考えている。

 ともかく、どの党も参議院選挙へのイメージ向上に重心を移すと思われるので、見識と度量をみせる顔見世興行的要素がにじみ出るであろう。

 といっても、2月3月に醜聞もふくめて不測の事態が起これば国会がひどいことになるので視界不良は変わらず、党利党略のかけひきも抑制されると楽観している。

16.解散は暴挙ではあるがないと決めてかかれば、あるかもしれない

 さて、仮に予算案の修正協議などの努力もせずに否決されたからといって解散ということになれば、有権者の理解をえることは困難であり、またそのような乱暴な選挙をやれば自民党は第一党を失う可能性が高いということで「解散はできない」だろうと決めてかかるのは短慮といえる。予算案は通常成立の可能性がなければ本会議には持ちこまないもので、引きつづき修正について協議を続けるべきである。こういう局面になれば与野党ともに誠実に対応しなければ、凝視している有権者からの評価が悪くなるので、各党ともにコンテストに臨む演奏者のように立ち居振る舞いにさえ気を配ると思われるが、このことはけっして悪いことではないといえる。

 ところで、さきほど予算案成立が見通せないタイミングでの解散総選挙は暴挙であると断じたが、しかし選挙はやってみないと分からないうえに、仮に衆議院で立憲が過半数をえたとしても、参議院は現状のままか、あるいは同時選挙があったとしてもそれで立憲が参議院で単独過半数に達することは困難であるから、いずれにせよ安定的な政権運営は期待できない。くわえて立・維・国・その他による連立政権ができたとしても円滑に機能する保証があるわけではないことから、どの党が政権をとったとしても「宙づり国会」がつづくだけである。

 と、あれこれと予測してみたが、明らかになったのは政治の世界は一寸先は闇であることだけであり、いわば予測の難しさを再認識しただけのことであった。予測がきわめて難しくなっているのは今日において国内政治そのものが世界情勢と直結しているからであって、今月20日におこなわれる米国のトランプ大統領の二回目の就任式を前に国際政治にはすでに波風が立っているではないか。

 予測不能な時代にあって、各国とも対応に余念がないといえるが、結論は激変する外部に対しては内部の混乱を最小限におさえながら迅速に適応していくというごく常識的なラインに収れんすると思われる。さらに、何が何でも政権を握ろうとする、政権奪取至上主義が状況的にも国民にとってもけっして最適解とはいえないということであれば、政治権力のあり方についても党派を超えて考えてみる必要があるのではないか。

 昨年の選挙で示された民意は、政権については「伯仲以上交代未満」を選択したと解釈すれば、それも状況適応であると頷ける点もあるわけで、国際情勢が比較的安定している時代ならともかく、今日のように激動の時代にあっては政権の重心をさげ安定性を増す工夫が要るように思える。対立や分断を深めることが政治的進歩とは考えない有権者が多いのがわが国の特徴といえるのではないか。

17.政治もパラダイムシフトか、不思議なことが起こるかも

 視点をかえれば、自民党あるいは自公政権の政略の中には恣意的に政権を手放す「政権放擲策(せいけんほうてきさく)」がないとはいえないと感じている。なにか口がもごもごするいい方となったが、かつて社会党の村山富市委員長を首班とする政権をプロデュースした手腕を思い起こせば、自民党はまさに何でもありの政治家集団であるから、政治手法において油断することは禁物である。

 要するに、運営において不利あるいは劣勢を強いられると予想される政権把握ないしは政権交代をいかに避けるかというのも政党としてのリスクマネージメントであると認識されつつあり、つまりそういう時代にすでに入っていると思われるのである。それというのも、2009年の民主党政権樹立から3年3か月で自公に政権をあけ渡したのであるが、その後11年間も経過したのに野党に政権がうつる兆しは皆無であった。という経験に学べは、第一に参議院の重要性、第二に党の団結、第三に支援層の涵養が重要であることは衆目の認めるところであろう。といった準備が整ったうえで本格的な政権を樹立すべきであって、そうでないいわゆる数合わせでできた政権ではいい仕事ができない上に、いずれ訪れるであろう連立瓦解後の悪評の積み重ねが次回以降の政権奪取を遠ざけるという悪循環におちいるリスクがあるといえる。

 政権奪取が遠ざかることぐらいは野党支持の国民としては我慢できるのであるが、準備不足に起因する失政が悪評を生みだす中で、彼我の相対的な力関係が崩れそれが原因となって対抗政党の独断政治を助長することになれば、それは二重の過ちであり、もっといえば独断政治を誘引するかもしれないといった後のことを考えずにボロボロに負けてしまった政党に対しては特段のきびしい目が向けられるのである。たとえば2013年からの民主党の末路が一つの事例といえる。末路とは心苦しい表現であるが、名称変更あるいは分裂や再結集を繰りかえしても政治的信頼の回復は難しかったといえる。

 また、野田政権が安倍政権に交代することは受容できても、アベ時代にあっては野党の対抗力が弱体化しそれが議会軽視の風潮を加速し、結果としてわが国の民主政治に汚点を残したことを忘れてはならない。野党に力がなければ権力監視は空論に終わるのである。

 もちろん、政権交代が不要だといっているのではなく、政権交代に意義を付加するためには周到な準備が必要であると指摘しているのである。といった文脈でいえば、今回は立憲を中心とした難解な多党連立の策動に、雷同しなかった中道政党の冷静な判断を多とするもので、もちろん予定したものではなかったというか、野党陣営におけるリーダーシップの欠如が真相であったとは思うが、程よく落ち着いた対応こそが次の機会を生むのではないかとここは期待したいところである。

 有権者の気持ちも「伯仲以上交代未満」という現状を今のところ心地よく受けとめていると思われる。

 今回の総選挙の民意はそういうことのようであり、今しばらくは自民党内野党であった石破氏の器量なり手腕を期待3割で様子見をはじめていると思われる。

◇ 冬ざれに 高鳴く彼は いずこから

加藤敏幸