遅牛早牛
時事寸評「2025年3月の政局-政党の老朽化と新陳代謝-」
[ まえがき 前回弊欄において、参議院選挙までは石破総理の退任の可能性はきわめて低く、さらに参議院選挙後もいずれかの野党との連立協議が整えることができれば引きつづき政権を維持できるであろうと予想し、そうならない障害として「重大な醜聞」の発生をあげた。今回の商品券配布がただちに辞任にはむすびつかない流れになってはいるが、参議院選挙およびその後の政権維持のためには「政治とカネ」問題を鮮やかにクリアするひつようがあるといえる。
今回のテーマは、わが国政治にパラダイムシフトが起こりうるのかという問いかけで、「政党の老朽化」をキーコンセプトに考察してみたが、政党においては支持層の新陳代謝が当面の争点になると思われる。また、立憲、国民民主には「脱労組と脱エスタブリッシュメント」を勧めるような書きぶりとなったが、現支持層の扱いはデリケートなもので、政党にとって簡単なことではない。
そういった本来簡単ではないことを実現するには、政界再編あるいは政党のリストラがひつようといえる。激変する世界情勢などに的確に対応していくためには、まず古い上着を脱ぎ新しいものを求めなければならない。脱ぐのは簡単だが、新しい上着を求めるには知恵と忍耐がいる。もちろん、古い知恵にたよるのは言外であるが、さりとてゼロはさすがにまずい。それにしても今の政治は、意識において「陳腐の絨毯に慣習の机と惰性の椅子」に支配されているばかりで、覚醒の泉にはなっていないのではないか。
次回は、トランプ流への対応を中心に妄想をかさねたいと思っている。]
1.この時期の商品券配布事件は自民党の劣化(老朽化)に原因がある
3月3日石破総理が10万円分の商品券を配布したことが騒動を起こしている。衆の新人議員に対する慰労懇親会での手土産を事前にくばったという。すでに3週間近くたっているのに、参予算委でくすぶり続けている。参議院には、衆議院から送付された予算案が30日経過すれば自然成立するので、それだけは避けたいという与野党共通の思いがある。また、予算委での審査はどうしても衆の二番煎じになりやすいことから、なんとか参議院の独自性を発揮したいとも思っている。
そこに、「総理の商品券配布」という醜聞が出現した。日ごろから争点不足気味の参予算委としては「政治とカネ」にからむ格好のテーマをえたことから、野党としては大いに湧きたちそれは今もつづいている。
配られた15人の議員は全員返したそうであるが、思わね手土産に驚いた議員もいたであろう。それにしても、なんと間の悪いことかと思う。と同時に前回の弊欄で「政党の老朽化」を指摘していたこともあり、あらためて自民党の感性や適応力の劣化(老朽化)を痛感している。
「今、何が大事なのか」といえば「2025年度予算案の年度内成立」であり「企業・団体献金問題の着地」であるのに、肝心の総理の足元から怪しげな付け届け文化が明らかになるとは、どう表現すればいいのか困惑のかぎりである。
しかし、どう考えてもあの石破氏のオリジナルな発想とは思えない。よくは分からないが、慣習化していたのかもしれない。であれば、「復興応援品にしましょう」のひと言がなぜ発せられなかったのか。思うに政権中枢の鈍感さと怠慢はやはり石破氏の責めに帰せられるものであろう。
2、「陳謝だけ」なのか「辞任まで」なのか、決然としない野党に対しても不満
ところで、早い段階で立憲の野田氏が「簡単に退任はさせない」とリングの境界をしめしたことは妥当であったと思う。もちろん、石破氏のままで参議院選挙に突入したいとの思惑を前提にしての発言であろうが、ゆったりと仕切っていくのは大人風で保守層の好感度はあがると思われる。
さらにいえば、元代表の枝野氏は衆憲法審査会の会長としておさまっているし、衆予算委員長として八面六臂の活躍で与党からも拍手された安住氏は調整役に徹している。また若手として幹事長に抜擢された小川氏は党内左派対策といわれているが、なにげに落ち着いているように見える。
春風駘蕩たる風情が身にそなわれば立憲も野党のかなめ役としてゆるぎない評価をえるであろう。
ここで筆者の感想をいえば、商品券配布問題は野党にとって楽なテーマであるから、委員会で質問者が総理大臣に頭を下げさせるシーンが映像的にも分かりやすいことから、議員にとって貴重なものであることは理解できる。
とはいっても、キリキリと詰めながらも「辞任せよ」と迫ったのは一人だけのようで、結局のところ「陳謝させる」だけなのか、それとも「辞任させる」のか、そこは決然とすべきだと思っている人も多いであろう。実のところ筆者もそうである。
そういった決然とすべきという思いの背景には、多数与党であった安倍、菅、岸田時代にはおおよそ問題にもならなかったことが、一応表面化したことは評価するにしても、今は少数与党であるから委員会の席から逃げられない石破氏の残念な実情にも思いをいたしながら、「総理辞任」までは考えないとのラインで大勢は決着しているのに、国会では一向に集約にむかわないことへの不満にくわえ、追求ばかりの陳腐なシーンへの倦怠感がでてきているのではないか。
さらに有権者の意識には、そういった不満や倦怠感を払拭する方向にむかっていないのは、数で優勢な野党の怠慢が原因かもしれないという、新たな問題意識が生まれているように感じられるのである。
たしかに手土産にしては非常識な額である。また、自民党の政治文化とは的を射た指摘だと思う。さりとて過去の分まで石破氏の責任とするのはいささか無理というもので、さらにたとえば政治資金規正法に違反しているということであるなら、またそう確信しているのであるなら、躊躇せずに告発すべきであろう。
国会は糾弾だけの場ではない、決着の場でもある
追求の理屈建てを聞くかぎり、「退任させない」という野田代表の境界はすでに破られているのではないか。いよいよ内閣不信任決議案を提出しなければ辻褄があわなくなっていると思う。提出しないのであれば、あの追及は選挙むけの野党のパフォーマンスだったとみられるだろう。いずれにしろ世論調査では「辞任は不要」と6割ほどが答えている。国会は糾弾だけの場ではない、決着をつける場でもある。
せっかくの予算委員会である。米国の日々変面ぶりに欧州も危機意識を募らせながら安全保障においては自立を模索しているようである。ウクライナ停戦・和平は簡単ではないが、展開によってはわが国の安全保障や経済環境に変化をもたらすであろう。さらに米中関係も目を離せないというか、わが国への影響がとくに大きいことから人びとの不安も高まっている。有権者も多彩な議論を望んでいるのではないか。
3.立憲は分別臭い、もっと鮮度と感受性を上げなければ支持層は広がらない
「内閣支持率が危険水準に近づいている」といわれている。といって立憲の支持率が伸びているわけでもない。この点については、与党に対する代替勢力とはいまだに認知されていないとの説もあり、たしかにそれも一理あるがそれだけではすまされない。
ところで、筆者は立憲も自民党と同じ老朽化政党であると位置づけている。立憲自体は2017年10月に設立され、2020年9月の旧国民民主党との合流から数えて5年目である。比較的若いものの系統からいえば1998年民主党設立に端を発するともいえるから、野党においては古株である。
それだけで老朽化政党と決めつけるのは確かに不穏当な評価というべきかもしれない。ただしここで指摘したいのは、老朽化という表現をサッと払いのけられない何かがあるということである。
そのひとつが他の野党にくらべて閣僚経験者が多いことである。当然政権政党であった民主党の系譜につらなることから自然とそうなるのであるが、経験豊富という意味ではいつでも政権を担えるという売り込みにはなる。しかし、そこで昔風の分別臭さを感じさせるならば、自公とあまり変わらない気がする、つまり似た者同士ではないかといったイメージをぬぐい去れないであろう。
ここでの分別臭さというのは加齢ではなく、たとえば「103万円の壁」問題が佳境にさしかかった折りに、間髪をいれずに「将来世代への責任」というフレーズが野田代表の口からでたとの小さな記事を目にしたが、「それを今言うのって本心反対ってことですか」と反射的につぶやいた。
このタイミングで「大型減税は将来世代へのつけまわし」といった一般論を放つことは、物価高や子育てに苦労している人びとの気持ちに寄りそうことにはならないではないか。立憲が財政均衡論を採用しているとは思いたくはないので、おそらく常識的ないいまわしだったと受けとめている。このあたりが分別臭いのである。
分別はしっかりあるものの新鮮な感受性がないということか。変革の時代には、人びとは鮮度をもとめるもので、何日も前から並べられている魚はいくら大きくても簡単に売れるものではない。また、野党としては経験で勝負するよりも「鮮烈さ」で勝負するのが政権交代の原理ではないのか。立憲に経験で勝負するといわれても消費税引き上げの2012年が思い返されるばかりという有権者もいるであろう。スタンプはなかなか消えないのである。
将来消費税を引き上げるときには野田さんよろしくといった感じかもしれない。いずれそういう時代がくるかもしれないが、家計が痛みきっているうえに実質賃金が下降している現況において、ことさら財政規律にふれるのは政党としては危険なことであろう。少なくとも支持層の懐具合を思えば「今いわなくても」ということである。
ときに、耳触りのいいことだけでなく、世代間の負担についても正直に示すべきであるというのは立派な主張であるが、それは所得分布でいえば第3分位をこえる世界に咲く花であると思う。
理屈だけでは救済されない人びとには、具体的な提案をしなければ受けいれられないのである。このあたり、立憲も感受性が劣化(老朽化)しているのかなとも思ってしまうのである。
4.エスタブリッシュメントを支持層とする政党は保守化する
世にいう「位人臣を極める」ほどではないが、メンバーをながめれば自民、公明に劣らず立憲も既成勢力という意味ではエスタブリッシュメントといえる。さらにいえば、政党もさることながら支持者においてその傾向が強いといえる。社会にあって、支配層という言葉よりもはるかに広がりをもつ意味で、さらにいってみれば人生の成功者というか、すでに評価が確立した人たちを軽くエスタブリッシュメントと呼べば、自民も立憲もおおむねエスタブリッシュメントから支持されている政党であるといえるのではないか。
自民はもちろんそうであるとしても、立憲は労働者あるいは低所得層が中心となって支えられているのではないかとの見方もあろう。しかし、詳細な調査研究があるのかは別にして、立憲を支持している労働者は相対的に恵まれた層といえる。たとえば連合にしても、労働者の中では相対的に恵まれた層によって支えられているのである。
推定組織率が16.1%すなわち6人に1人が労働組合に所属している。今では労働組合に所属していることが、労働者においては恵まれた立場にいるといえる時代なのである。もちろん、その人たちが自らを恵まれた層と考えているわけではないにしても、所属する企業規模や労働条件などを考えれば「待遇わりかしいいよね!」といえるもので、相対的ではあるが厚遇されているのである。もちろん、それらの厚遇は交渉によって勝ちえたものであり、コスト(組合費)を負担しての運動への参加の成果といえる。
つまり、連合は労働者におけるエスタブリッシュメントなのである。ということから、立憲も国民民主も連合加盟の産別組織から支援を受けているが、その連合がエスタブリッシュメントであるかぎりにおいて、両党ともに支持基盤に恵まれた層を抱えていることは事実であるから、立憲も国民民主もエスタブリッシュメント的なのかもしれない。
そこで実は政党の老朽化を語るうえで、政党のエスタブリッシュメントの程度が大きく影響しているのではないか、また恵まれているがゆえにそれを守ろうとする保守性を具備していくのではないかと、さまざまに思索しているのである。
連合もエスタブリッシュメントである
整理をすれば、あくまで相対的な関係においてわが国の労働運動は成功しており、労働組合に所属する労働者はそうでない労働者に対して待遇において優位にあるといえる。そういった恵まれた位置にいる労働者の最大の中央組織が連合であり、その連合あるいは連合加盟の産業別労働組合(産別組織)が支援する政党(立憲、国民民主)には、生活に苦しんでいるといった切実感の希薄化がみられるといえるかもしれない。もっとも、政党を支える人びとの属性はさまざまであって模式図的にいうことはできない。
筆者の、連合は労働者におけるエスタブリッシュメントであるとの意味合いを、支援されている両党にまで投影する意図は、結局のところ両党ともに老朽化政党であるといいたいだけのことなのである。
しかし国民民主は、直近でいえば労働組合といった旧来の組織からはかなり距離のある若年層の支持が急速に伸びているという「新芽爛漫」の局面にある。また、支持層の新陳代謝がすすんでいるとみられる。とくに、新規支持層の大半をしめる若年層は、生活資金の需要と賃金収入との乖離が大きく、現金不足に陥りやすいといえる。そのことが「手取り増」という政策要求が若年層において強烈にヒットした理由であると思われる。手取りとか可処分所得というのは古くから使われてきた言葉であるが、それらを観念でしか捉えられなかったのが旧式の感覚であって、老朽化そのものといえる。
それをリアルな生活実感を土台に具体的な要求の根拠として語りはじめた時には、予想をこえる多くの人びとを巻きこみ、驚くほどの吸引力が生みだされたと思われる。
という文脈の中で、国民民主はその膨張部分においては旧来の労組的エスタブリッシュメントからは大きく離れ、新芽爛漫の新興政党になったと筆者は妄想しているのである。はたして国民民主は青虫がやがて蝶に成るように変身したのであろうか。あるいは擬態しているだけなのか。
いずれ答えはでる。「脱労組」なのか、「脱エスタブリッシュメント」なのか、いずれにしても微妙な問題もある。シニア層からの支持はおそらく期待できないとしても、新興政党の進路が注目されているのは間違いないといえる。
5.自民、立憲は低所得層の味方なのか、疑問である
今話題の国民民主の変身ぶりを横目にしながら、自民、立憲、公明、共産の4党は支持層の高齢化が集票構造の老朽化をもたらせていると考えているのか。また、自民、立憲については、たとえば所得での第1分位の層が両党を低所得層の生活向上に熱心な「味方」であると認めているのかといえば、両党ともにそういう反応を受けているとは思っていないのではないか。
たとえば消費税減税への姿勢において、自民と立憲はともにおおむね否定的であったので、間違っても味方だとは思われていないといえる。したがって、政策を調整しないかぎりこの層からの新たな得票は期待できないと思われる。
くわえて「103万円の壁」問題での政権側の対応は予算管理という視点ではそれなりの合理性を主張できたものの、人びとの欲求をみたすという視点からいえば及第点とはいえないであろう。
世にいうエスタブリッシュメント的発言が鼻につきだすと米国の民主党のように低所得層は離れていく。党の老朽化を防ぐ方法は新規支持者を増やす、あるいは新規の支持層を開拓する、また支持者に低所得層を抱えこむなどの、どちらかといえば党にとって面倒なテーマに対処していくことである。どうも老舗の両党はなにかしら客のえり好みが過ぎるようで、客が近づけない状況を無意識のうちに作っているのではないか。そういうのを若さを失っていると世間ではいうのであろう。
6.政党のエスタブリッシュメント化と老朽化
筆者がこのような考えを抱いたのは、昨年の衆議院選挙の結果が立憲、国民民主、れいわ新選組、参政党、日本保守党が議席増をはたしたのに、自民、維新、公明、共産が議席減となった原因が何であったのかという疑問が始まりであった。その答としての仮説が「議席減の政党は支持者もふくめエスタブリッシュメント色が強い」ということで、具体的には支持者の固定化が原因であると考えている。
この現象は意外でも何でもなく、経済格差が急拡大している状況においては相対的に中間層の痩身化がいちじるしく、所得分布でいえば平均値を中央値(メジアン)が大きく下まわりずり落ちていくもので、既成政党としてはカーソルを数段下げた政策を提示しなければ自然に得票減となる。
政党の老朽化とは所属議員の精神的老化が主な原因であるので、対策として有効なのは新陳代謝であるが、これは所属議員の反対で実行不可であるから結局老朽化は止まらないのである。
ついでにいえば、毎年新たに投票権を手にする新規有権者の問題意識は、その日に水揚げされた魚のように新鮮そのものであるが、固着化している支持層は安定的でありがたいものの問題意識は歴史的であってすべからく過去形である。だからベテラン議員にとってはやりやすいといえるが、これが党の新陳代謝を阻む壁をつくっているといえる。
立憲は議席大幅増ではあったが比例での得票数をいえば現状維持であって、新規の支持を拡大するためには今ひとつ工夫がひつようといえる。
よく耳触りの良いとか当面の利益を追うといった、減税政策への批判が正論のように伝えられているが、誰にとっての正論なのかはよくよく考えてみるひつようがあろう。とくに立憲においては支持層の拡大をどの方向に求めるのかということで、自民党を見限った保守層なのか、それとも低所得層なのか、じつに重要な分かれ道である。
「耳触りの良い」政策は下策であるという主張は、国民民主のいう「103万円の壁」へのろこつな反撃であって、この後も手をかえ品をかえつぎつぎと投げこまれてくると思われる。しかし、そういった主張は国民民主に強く賛同した有権者を無視するもので、もしそう主張したいのであれば、まずは物価高や実質賃金の低下に苦しんでいる人びとへの対応を具体的に示すべきではないか。正直なところ、著名なコメンテーターや大新聞の姿勢がいかにも建前論として受けとられるのは、生活苦に直面している人びとの生活実感をなにかしら無視しているからであろうか。
また、オールドメディアの本質は過去規範の墨守であるから20代30代40代の年齢層とは問題意識がずれている。また、評論家やコメンテーターの思考パターンはシニア世代と共通しているので、視点をかえれば世代間対立の様相を呈しているともいえる。とくに、70代以上の国民民主への支持は驚くほど低く、20代~40代とは向きが正反対となっている。
そういえば、筆者もふくめ70代以上の社会保障制度への依存率はきわめて高く、端的にいって生活基盤そのものなので、現行給付水準の維持が何よりも求められるということで、20代~40代層とは政策要求においておそらく激突していくのではないかと危惧している。
「参議院選挙で投票したい政党」を聞けば、70代は前述のエスタブリッシュメント政党に集中すると思われる。このあたりは意外と各党の政策と相関しているようで、ある意味ビビッドである。
やや申しわけない気分で自民、立憲、維新、公明、共産には老朽化の兆候があるのではないかと指摘したが、おそらく適切なメインテナンスに取りくめば反転の可能性はあるというべきであろう。すくなくとも野党は生活者を守る政党であることを強烈にアッピールできなければ、参院選は厳しいであろう。
とくに、生活を支える賃金の実現をすべての雇用労働者におよぼせるかが天下分け目の争点になると予想している。「天下分け目」というのはパラダイムシフトつまり跳躍的変貌であるから、改革とか刷新といったレベルとはちがうものである。なんと表現するかは次々回あたりに。
7.ここからは参考妄想
⑴ 連合がエスタブリッシュメントであることの説明
労働界における最大の中央組織(ナショナルセンター)である連合が、わが国のエスタブリッシュメントのひとつであることは、政府や経営者団体との関係においても疑う余地はないといえる。それは政府の委員会や審議会の構成をみれば誰しも納得するであろう。地方も同様である。
また、雇用労働政策にかぎらず福祉さらには社会保障制度などへの発言力は今日なお強力といえる。と同時に、その発言力の反作用としての社会的責任は重く、社会保障制度の負担については制度の改善と持続を前提におおむね受容的である。という点に着目すればいわゆる利益団体とは一線を画するものであり、社会におけるオピニオンリーダーとしての役割をはたしているともいえる。
その連合がもっぱら立憲と国民民主に支持をかぎっているところに、他の政党のまなざしの冷たさがあると思われるが、実態的には連合の構成組織である産別組織が支持政党をきめているのであるから、連合と政党との距離をいえばさまざまな意見があるにせよ、流れとしては希薄化の方向にあるのではないかと受けとめている。
今日、ナショナルセンターとしての連合の役割は広範な分野におよぶもので、とりわけ国際労働組織や国連機関あるいは各国の労働組合との窓口をはじめ連携活動などにおいて非政府系分野では重要な位置づけにあるといえる。
こういった役割については残念ながら広く知られていないというよりも、政界では個別政党との関係にしぼった報道が優先されることから、世間の理解も残念ながら政治に偏ったものになっている。もともと政治アクターとしての連合は中途半端であって、直截にいえば一般に思われているほどの政治性を有しているとは思えないのである。もっとも、連合の構成組織である産別組織は産業固有の政策・制度課題をかかえていることから、その解決策の一法として代表を国会におくると同時に、政府や政党にむけて産業政策を中心とした要請事項をまとめているが、産業間での利害対立もありそれらの課題を連合が直接あつかうことはきわめて稀であるといわれている。
筆者は、政党との関係は産別組織が中心となり、連合はオピニオンリーダーとしての役割に徹するべきと(少なくとも本部はそのような実態にあるように見うけられるのだが)主張してきたが、オールドメディアの認識などは逆むきでたとえば連合会長などの動向を過大に受けとめているように思えてならない。連合においては政治とのかかわりをトップダウンで決め実行されたことはなく、方針決定は合議制であると聞いている。
現在、立憲と国民民主の関係は2017年の希望の党と立憲民主党に分かれた時から2020年9月の合流をへて、合流立憲と玉木国民民主の2党併存におちついたのであるが、今のところたとえば基本政策において特段の近さがあるわけでもなく、普通の野党関係に類するといったほうがいいというか、無理に統合してもプラス分が生じない関係であると思われる。
というのも、連合に団体加盟する労働組合員が政治価値において多様性をもつ昨今、組合員だからといってその大多数が共感できる政治価値あるいは新たな政策があるとも思えない状況にあることだけが共通認識であるという、はなはだまとめにくい状況であるといえるのである。
であることを実感させられたのが、憲法、安全保障、エネルギーそして消費税といったいわゆる基本政策について労働組合員だからこう考えるといった議論は皆無であって、もともと労働組合員であるなしにはほとんど関係のないテーマであるから、関心度も低く議論にはならなかったといえる。これが半世紀も前であれば「運動方針第〇章 平和と民主主義を守る運動」とかいって世界の情勢からはじまり憲法を守るとか反核運動へとつづくのであったが、そういった情勢分析も多くが上部団体からの借用であって、系統によって書きぶりが違ったりして、それはそれでなかなかの読み物であったと記憶している。
ところで、民間連合が結成されるにあたり、綱領から規約あるいは運動方針など大量の作文が求められたのであるが、旧労働4団体を糾合していく中で、この情勢分析がたいそう難しい作業ではないかと全民労協の事務方は大いに不安であった。というのも、当時の4団体の文章力は筆者からみれば異様に高く、それに互角するのはとうてい無理であって、句点の打ち方ひとつから流儀があるようで、困ったもんだとひそかに悩んでいたのであるが、当時の山田全民労協事務局長(民間連合事務局長内定者)が情勢分析はいらない、そういうのは連合総研が担当すると決めたことは最上の解決策であると事務方としては喜んだものであった。
しかしながら、侃々諤々(かんかんがくがく)の議論を何か月もイデーを背負って、無駄になると思いながら時間をついやす苦労からは開放されたものの、またそういった樹海に立ち入っていたのでは統一なんて間にあわなかったとも思っていたのであるが、ふと立憲と国民民主との間に反りの合わない何かがあるとすれば、それはあの時代からすでにあったものかもしれないと思ったりして、ナショナルセンターといえども労働運動の守備範囲をどこまでとするのかは、今日においても運動目的とあわせ折にふれて討議すべき重要課題であると思っている。
さて、民間連合発足の2年後の官公労組との合流をもって、いわゆる全的統一が完成したのであるが、この1989年は冷戦構造の終結の年でもあり、労働運動的には世界の情勢分析がほとんど不要になったという意味では新しい時代に入ったといえる。しかし、労働界に流れる3大潮流はあまり変わらなかった。古い用語で申しわけないが、あえていえば総評流、同盟流そして共産党流である。前二者は連合に包含され本部レベルでは溶融されたが、産別組織や地方では深部潮流として形を変えながらも流れつづけていると少なくとも筆者は受けとめている。
それを良い悪いと講釈する立場でもないし、する気もない。それでもあえて問題提起をするならば、それらは職場の組合員にすれば関心の欠片もないテーマであり、そんなことに組合費を使うのはやめてほしいと考える人びとと、どちらかといえば日本の政治は保守化し働く者は抑圧される方向にあるので、その流れに労働組合は対抗するべきであると考える人と、いってみれば二流併走状態と解釈することもできるが、個々の組合員の思いはさまざまである。
歴史をいかに解釈し現下の政治をどう考えるのかという設問はきわめて政治性の高いテーマなのであるが、それを労働運動の場に持ちこむことが妥当であるのか、さらに組合員の理解をえられるのか、といった根本課題をかかえたまま、昔の潮流のまま政党との関係を慣習的にあつかい、だらだらと関係をつづけるのはある意味老朽化していることの証左ともいえる。
つまり、やや一方的ないいぶりになるが、世界の情勢とか、私たちをとりまく政治といったほとんど歴史観からくる「ものの見方、考え方」を労働運動の場で争うのは全くのところ時代遅れであって、組合費を負担している人びとの理解をえるのはむつかしいといえる。
というよりもそういう流れはすでに消滅にむかっているのであるが、問題なのは遺跡ともいうべき過去からの遺贈であろう。方針書などに引き継がれている一言一句が無意識のうちに周りを染めているのかもしれない。
こういった前文踏襲をくつがえすには膨大なエネルギーがいる。ということだけでもないが、議論によって何か新しいものを生み出していくという道を捨てて、新しいものを生みださないために議論をしないことを参加者の共通認識としてきたという様式を引きずっていることは残念というべきである。
それに、基本政策などは職場で議論しても一部の人が占有するだけであるから、普通の参加者にしてみればスルーするのが最適と感じているのであろう。このあたりが「議論積みあげ型民主主義」の面倒なところで、賃金などの労働条件なら求心力が生まれるが、テーマによっては集会は自然散会になることも多いのである。飛躍するが、基本政策についての職場レベルの議論なしに連合のいう政党レベルでの大きな塊の実現はむつかしいのではないか。さりとて、はたして基本政策の議論が職場で成立するのか、あるいは議論をはじめると思わぬ方向に動きはじめるかもしれないなどなど執行部レベルでの不安をぬぐい去ることが難しい状況にあるといえる。
⑵ 産業別労働組合の役割
ということで、あくまで基本政策との親和性をキープしながらも、産業がかかえる課題解決に軸足をおいた政治参加を産別組織としては目ざすことになるのであるが、100パーセントの結集はそもそも無理である。といって、一切かかわらないという態度は、年金・医療・雇用・労災などの社会保障制度あるいは税制をはじめ雇用労働政策などを考えれば無責任とのそしりを免れないもので、むしろ積極的な取り組みが求められている。
そういう基本があるとしても、推定組織率が16.1%であるという現実を直視するならば、雇用労働者を働く者とひとくくりにしても、同じ労働者という意識なり共感を持ちうるのかといえばかなり悲観的にならざるをえないのである。平たくいって、6人のうちの1人と残りの5人とは同一には語れないというのが実態であろう。また、労働者といったときには5人について語るべきであり、3月中旬の賃上げ回答は労働者でいえば特異なグループへの回答であって、労働者一般への回答ではないというべきである。
無理やりに分断状況を摘出するつもりはない。しかし、労働組合に入りたいと望んでも過半の労働者はかなえられないのである。政府も政治家もあるいは日銀までも労働者といえば連合などにつながる労働組合員を想定するであろうし、春には賃上げ回答を少なくとも労働者の半数ぐらいは受けとるものと勘違いをしているのではないか。受けとれるのは雇用労働者の10%にも満たない数であるから、その水準は先行指標もいいところであり、ほとんど限界指標ともいえるものである。
⑶ 重要な賃金問題-賃上げが最重要課題、なぜG7の低賃金国になったのか-
ここ何年か、安倍政権の最後あたりから、政府が民間の賃上げに旗をふりはじめ、とくにここ3年は労使交渉が賃上げ容認から推進へと様変わりをみせている。わが国経済の衰退を止めるためにも必要不可欠のもので、10年も20年も着手が遅れた恨みがあるとはいえ、賃上げのムーブメントそのものは評価すべきである。すでに旗振りにとりくんできた関係省庁は問題の本質を掌中におさめていると思われる。
わが国はG7あるいはOECDにおいても賃上げでは劣等生であって、賃上げしないことが経済停滞を引きおこすという格好の事例を身をもって提供しているもので、実に見事というほかにいいようがないのである。また虎の子のものづくり産業をやすやすと海外(主に中国)に送りだし、国内の産業空洞化を促進したことは1990年代から2000年代にかけての悲しき快挙(?)といえるもので、ひと言でいえば国家戦略の欠如の当然の帰結であるといえる。個別企業において海外進出を選択せざるをえない経営環境を政府は放置したままで、適切な対応を講じなかったことは今日の惨状を見れば明らかであり、誰しも当時の為政者の失政を擁護できないと思っている。
⑷ 低賃金を指向した後援会
バブル崩壊後の金融政策をはじめ多くの失政があげられるが、筆者がもっとも批判しているのは賃金の停滞である。考えてみれば、本質的に自民党は反賃上げ主義者であって、賃金こそがコストであり、企業経営にとっての最大の障害であると本気で信じていたのではないかと今も疑っている。
その源流は自民党議員の後援会が自営業者や中小企業の経営者を中心に組織されており、強力な集票力を支えている。その後援会から議員への要請事項に反賃上げ、反最賃がふくまれていたとしてもおかしくないのである。直接の記述がなくとも以心伝心により、どちらかといえば反労働者的な意識をもつことは想像に難くないといえる。くわえて肝心の選挙では対抗候補者には労働組合の支援がありありとうかがえることから、自民党議員の後援会の労働組合に対する敵愾心は燃えあがる一方であったと想像している。といった現象は広く一般化できるし、立場を考えれば自然なことであろう。あえていえば、それらの後援会が強すぎただけのことであった。
もちろん、本会議場での自民党議員の多くは、個人消費の底上げには雇用者所得の引き上げが必要との指摘に、その半数以上がうなづくのであるが、地元に帰ればそういうことにはならないのである。
賃金はコストであり、賃上げには反対との地方議員がその考え方をつづけるかぎり賃上げが広く浸透することはないのである。海外からの旅行者が安くてうまいサービス満点のジャパニーズフードに感激するニュースを聞くたびに複雑な思いを禁じきれない。これはいったい何なのか。
この状況が意味しているのは、円安だけが原因ではなく、それ以上にわが国の労働が不当に安く買いたたかれていることではなかろうか。笑顔のうちに安く売られているのであるから、けっして喜ぶべきことではないのである。とくに為政者には、自国民の労働の価値が不当にあつかわれているということに怒りはないのか。これはラーメンだけの問題ではない。つい最近まで人件費が高すぎる、円が高すぎるとわめき散らしていた経営者がいたが、一杯2000円でも安いと旅行者はうれしそうに語るではないか。この国はどこかで間違ったのではないか。安売りしか能がなかった、そういう経済しか作れなかったわが国の経済人の釈明を一度聞いてみたいものである。
さらにいえば、ラーメン一杯2000円を基準に国内の物価体系すなわち価値秩序を下から上に再編すべきなのである。とやや計画経済的な主張ではあるが、高級車の値段を倍にするとか、社長の給料を倍にするということではなく、必須労働者(エッセンシャルワーカー)を中心に待遇の大幅改善を断行すべきである。所得分布の第1分位から第2分位を中心に下からの賃上げの実施こそが個人消費を激増させるための経済対策としても一番効果的であるといえるが、残念なことにそういった大胆な策を実行する政治権力がわが国には現在のところ存在しないのである。つまり、議員はごまんといるうえに、えせ政治家も群れてはいるが、本来の政治家はいないのである。思いきってやればいいのにとつぶやきながら、思いきってやらないから陳腐の絨毯に慣習の机と惰性の椅子に支配されるのである。石破氏におくった初回の言葉は「死にものぐるいでやる」しかないのが少数与党の宿命であるということであった。一般論ではあるが、政治というか政党の老朽化がチャンスを見逃しているというのが気楽な隠居の見立てである。
◇ 裾乱れ 鷺足ゆるく 水温む
加藤敏幸
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