遅牛早牛

「2025年7月-『アメリカファースト』と『チャイナファースト』の相克」

まえがき

[ ――王様は地球の自転を止めるように経済を逆転させようとしている。何が起こるのか、きっと知らないから自分のことを偉大だと思っている。本当は壊し屋なのに。

 裸の王様は口をつぐんだ大臣たちにかこまれた仮想の王国に住んでいる。王様は強い。たとえ裸であっても王様は強いのである。強さを見せびらかせるためにわざと裸でいるのかもしれない。

 そんな強い王様に対抗するには弱い者があつまって集団で話しあう(多国間交渉)のがいいのだが、王様は個別で話しあうディールにこだわっている。すでに、ディールを終えた者もいるがほとんどがこれからだ。それぞれに事情があることから簡単には譲れないので、交渉は長引きそう。――

 今年も半夏生(2025年は7月1日)をとっくに越えてしまった。が、過ぎさった半年と今迎えている半年はけっして同じ長さではない。数えれば181日と184日で後半のほうが3日ほど長い。しかし心理的には短く感じる。おそらく、あっという間に年の瀬をむかえることになるという思いこみのせいであろう。]

1.2025年はトランプリスクの年

 2025年の話題はいうまでもなくトランプに始まり、おそらくトランプで終わる。新聞もテレビもネットニュースもSNSも赤色帽にあふれている。国内政治は参院選後に残すとして、やっぱりこれしかないのかと。それにしても今年も暑ぐるしい。

 さて、米国の調査会社「ユーラシア・グループ」が年初(1月7日)に公開した「2025年の10大リスク」(イアン・ブレマー氏、クリフ・カプチャン氏)はあいかわらず興味深い内容を提供している。この半年間折にふれ思索(妄想)をいい感じで刺激してくれた、いわゆるインスパイア系である。

 ということで、敬意をこめて10大リスクのうちのいくつかをテーマに選び、いつもの妄想で2025年の中間的ふりかえりとする。なお、本文中のランキング項目として「」で囲った部分は、ユーラシア・グループ「2025年の10大リスク」日本語版リポートから引用したものである。

ロシアはいつまで続けられる?

 まずは5位のならずもの国家のままのロシアであるが、このランキングはロシアの同盟・友好国はべつにして、非ロシア世界では違和感のないもので、ウクライナへの侵略はいうにおよばず、機会さえあればどこにでも出張る覇権主義のイメージがあてはまる。

 とくに、独裁的指導者の地位にあるプーチン氏の世界観には、向きあう相手をひどく緊張させる何かが組みこまれているようで、おそらく力による支配という放射熱が強烈すぎて、ほとんどの人を共存困難と思わせてしまうのが、このリスクの本質であろう。

 ただ、ユーラシア・グループがいうように「ならず者国家」かもしれないが、国際秩序の破壊を意図する者かどうかは議論の分かれるところであろう。たしかに彼には、EUあるいはNATOに象徴される欧州世界への憎悪や報復心が見られることから、政治のみならず経済的にも文化的にも疎外されてきたと思っているのであろうが、そのことが彼の負のエネルギーとなっているように思われる。ということで、ウクライナにとっては侵略者であり破壊者であるが、地球規模での秩序破壊者とまではいえないであろう、今のところは。

 彼はたぶん二週間でキウイを占領し、例の得意技をつかって傀儡政権を樹立し、たんに親ロシア国を増やしたかっただけで、誤算は祖国防衛戦争には普段の何倍もの力が発揮されるというロシアにおいては常識であることをすっかり忘れていたのか、あるいはウクライナの人びとをまるで見くびっていたのか。たぶん両方だろう。

 仮に、2014年のクリミア併合という下敷きがあったとしても、情勢判断のゆるさは隠しようがなく、彼の狡知性にひそむ短慮ゆえのつまづきであろうか。

 そのように思うのは、3年をこえる戦闘をへて「ロシアは何を得たかったのか」との問いに未だに体系的な答えが見えてこないからで、ということはもともとの作戦計画が短期用のいってみれば簡易版だったと疑わざるをえないのである。

 もしソ連邦時代の版図復活を本気で目指すということであればリスクランク5位では収まらないであろう。そうであるなら「敵の敵は味方」戦術でめだたないようにロシアを支えていた中国がだまっているはずがないと思われる。習氏は夢を語ったが、ロシアの国力はプーチン氏の夢を支えられないのである。

 ところで飛躍するが、イスラエルのイラン攻撃からはじまった「12日間」は、米国による核施設へのピンポイント爆撃をもって事実上の休止状況にいたっている。核施設の破壊の程度については判然としないところもあるが、制空権を失ったイランの選択は隠忍自重しかない。今回の結果は準備した者と準備しなかった者との差であり、優勝劣敗の原理は変わらないということである。

 という非情ともいえる事態を目の当たりにして、これでは「イランの核保有への情動をさらに強めることになるのではないか」、ゆえに今回のイスラエルと米国による共同的作戦はかならずしも成功とはいえないといった指摘が、わが国におけるリベラル的思考をもつ人々へのたとえば慰めになるのだろうかとふと思ったが、「力による支配」が現実そのものになっている今日、懐古風のリベラル的感想には抜け殻感がつきまとっているようで、つまりそういった屈託した慰めが必要なほど、リベラル派にとっては受けいれがたい話なのであろう。

 もちろん、国際法でいえば違反というのが最もスッキリした表現ではある。しかし、論としてスッキリしているものは論としては正しい、のかどうかは分からないが、手続きをともなわないかぎり法は宙に浮いたままなのである。

 つまり、すべてとはいわないが法による支配は残念ながら浮遊したままである。さらに、個別事象の正義の執行をつみあげれば全体としての正義が完成するのかと問われれば、全体の正義が完成しないからといって個別正義の執行をやめる理由にはならないと反論すればいいのだが、いつまでも堂々巡りの議論をつづけるわけにもいくまい。だから、国際法が順守されるように国際関係の再構築(秩序化)にむけて、わが国も勇躍リーダーシップをとるべきであるという論はそのとおりであって、筆者も賛成である。

 とはいっても、力がなければ法は成立しないというのも真理であって、そういう理屈でいえば、私たちはまだまだ未熟な世界に生きているのである。

 批判は言論の自由という形而上の世界であるからいいとしても、国を罰するためには形而下の行動が必要である。これはとてもむつかしく、とくに国連をはじめ国際機関が漂流している実態をふまえれば、しばらくは頭の痛い状態がつづくといわざるをえないのである。

 ともかく拒否権は強力な終了動議であるから、正義を問うことも正義を執行することもできない。もちろん、拒否権がなければ国連はとっくの昔に瓦解していたと思われるが。

 ところで、イランがロシアに大量の兵器を提供していたと聞いたが、これからはどうなるのか。ウクライナの荷が軽くなるのであれば、それは12日間攻撃と核施設爆撃の波及効果なのか、微妙な問題ではある。そういえばユーラシア・グループは6位に追い詰められたイランをあげている。

2.「アメリカファースト」は国家版私利私欲路線である

 ふりかえれば、国際法あるいは国際機関を担保してきた米国が「もう嫌だ、金がかかりすぎる」といって崇高な役割を放棄し、これからは「アメリカファースト」という米国にとっての自然権である「私利私欲」に徹するのだと変身を開始したのである。この国家版私利私欲(自然権)路線ともいえる「アメリカファースト」は、つきつめれば世界はアメリカのためにあるべしという世界観を体現したもので、だからアメリカでないものはセカンドであるべしと反射的にいっているのと同じことで、その文脈でいえば、いわゆる国際法あるいは国際機関とはどこかで共存しえない流れにあるといえる。

 ルールが反転したことは友好国や同盟国にとっては信じがたい変節だと受けとめられるであろう。さらに、既存の安全保障条約が世界秩序を支えているというか、紛争の予防に貢献していたと考えられるが、今日、米国がかかわる同盟においては、米国以外の各国の負担が軽すぎるという異議申し立てがはじまっている。おそらく負担問題だけではなく、ウクライナやガザ地区などでの多数の戦闘死傷者や犠牲者が発生しているが、底流には人的被害への忌避感があると思われる。

 自国のためであっても自己犠牲は簡単なことではないのに、まして他国のために命を賭すことのむつかしさが浮上しているのであろう。軍事同盟の基本であるこの問題にわが国の政治家も真剣に向きあわなければならない時代がきているのではないか。

欧州の欧州による防衛と米国の関与の漸減

 周回遅れのわが国のことはおき、安全保障条約をめぐる当座の問題としては、(米国の)金がかかりすぎるというクレームと、防衛費の対GDP比5パーセント負担をNATO加盟国に要請することで帳尻をあわせようとしているのだが、このこと自体は無理難題というものではないと筆者は考えている。

 もちろん、核対応をべつにしたうえでの議論では、むしろ相応の負担の適正水準こそが難問であるといえるが、それ以上に、過分な負担が反射的に米国の原初的優位性を生み、それがNATOの求心力の主要部分であったという仮説にたてば、応分の負担は当然としても、そういった負担増が生みだす新しい序列が欧州の安全保障にどのような効果をもたらすのか、おおいに気になるところではある。分かりやすくいえば、ドイツが一番なのか、それともフランスが一番なのかということである。

 いずれにせよロシアの意志に対決すべく賽は投げられ、欧州は決断したということで、欧米双方の合意から導かれる方向性は、米国の関与の漸減であると筆者は受けとめている。

 という方向性を前提に、NATO加盟国は対ロシアを軸に安全保障体制の再定義にとりかからざるをえないといえる。また、世界の警察官という表現が適切であったのかどうかは横におき、あらためて米国にとっての地球規模での安全保障とは何かについて、とくに核兵器の扱い(NPT体制)については深掘りすべき段階にいたっているのではないか。

 NATO加盟各国に5パーセントを呑みこませたことは欧州域の抑止力の向上に資するとしても、継戦力を支えるサプライチェーンの構築が重要課題として認識されているが、対中・ロ・朝・イを念頭に兵器サプライチェーンの構築をどうするのか、とくにトランプ関税の存在が流れをせき止めることになると危惧されているが、今のところ関税と安全保障の議論は整合していないのである。いつものことながら展望なき結末がより悪い事態をまねく原因となることには注意がひつようであろう。

3.欧州とは違う東アジアの事情、米国が直列対峙を

 さて、東アジアにおいても同様の文脈にあることはまちがいないものの、欧州と同列の議論にはならないであろう。が、応分の負担については強く要請されることは変わらない。今の時点ではそのことの是非をふくめた議論はやや尚早といえる。つまり、東アジアの情勢は欧州とは構造的に違っている。それは端的にいえば米国自身が直列で対峙すべき構造であって、米国が後ろ盾という構造ではない。また、欧州はすでに着火している問題を抱えているという意味では「已然(いぜん)」という状況であるが、東アジアは怪しく危ないけれども未着火という意味では「未然(みぜん)」という状況といえる。

 さらに、中国とロシアの経済規模の違いから、どうしても異なった議論にならざるをえないのである。つまり、世界トップクラスの中国の工業生産力そのものが巨大な脅威であると認識されていることが、事態をよりむつかしくしているといえる。

侮れない中国の工業生産力―量は質を凌駕する

 現在進行中のウクライナでの戦闘からも窺えるように、場面によっては量が質をカバーしているところもあり、さらに量が質を凌駕している事例も多々あると聞いている。まして製造において量が質を高める過程にいたれば、米中の通常兵器での実力差がなくなり、実質均衡するタイミングが間近であると思われる。そうなれば、それは双方にとって抑止的に働くことから、おそらく紛争は均衡下の小競りあいにシフトすると思われる。という意味で起こる起こらないをいえば、小競りあいについては事態は切迫していると考えるべきであろう。

 たしかに、全軍を結集すれば米軍の優位性は揺るがないといえるが、されど東アジアにどれだけの資源を投入できるのか、あるいは弾道兵器の桁あがり大量配置によって制空制海がどうなるのかという視点でいえば、優劣を語るまえに米艦隊が近接不能となる海域が増大する可能性のほうが戦略的には重要であり、そのことに連動して列島の基地使用がむつかしくなるので、航空戦力だけによる領域支配すなわち平和構築には限界があるというか、日々条件がきびしくなっていくということである。

むつかしい非軍事紛争への介入、急がれる半民半軍と偽装民間への対策

 米国との軍事同盟はマクロでは有効であるとしてもミクロではどうなのか、という問いかけに対しての、今日のもっとも機微にふれる内容をひと言でいえば、非軍事的小競りあいでは機能しにくいということであろう。

 筆者としては切迫する事態が無条件でかならず起こるという文脈は支持できないが、条件が整えば半軍事的方法でかならず発生すると考えるべきで、その条件のひとつが、ロシアが3年前にウクライナ侵略(特別軍事作戦)時に「米軍の不介入」を判断条件としたのと同じ構図なのである。ロシアの場合は正規軍の投入であったが、小競りあいは偽装民間あるいは半民半軍が中心になると思われる。これは実効支配をめぐる争い事である。

 もちろん、ウクライナは米国の同盟国ではなかった(今も)ので、条約上の義務は米国にはない。しかし、過去においてはそういったこととは関係なく介入してきたからこそ国家間紛争の防止に貢献してきたと筆者は現実的評価をしている。まあ、いろいろあって100点満点とはいかないが、未然におわった紛争は公的には記録されていないのでよくは分からないが、多くの埋れた未然ケースがあったと考えている。ともかく米軍の介入が怖くて踏みとどまったケースをどうとらえるかであろう。

 さて、その米軍の投入(介入)であるが、米国にとっては自国兵士の犠牲や費用負担あるいはテロなどへの忌避感から流れとしては回避せざるをえなくなったことはやむをえないことと筆者は理解している。正直なところ、国連においては重要案件での安保理決議が成立しないという事態が常態化し、国連がになうべき役割が失われていることが、混迷の原因のひとつであるといえる。

 さらに、歴史観や宗教由来の価値観から生じる紛争もおおく、残念ながら現在の国際機関はその解決のための体系化された方法をいまだに手にしていないのである。そういった課題についても米国だけが背負うべきとする理屈を見いだすことはできない。これは皮肉なことであって、米国には批判が集中するのであるが、中国にはそういった批判はなく、いつの間にか品行方正と見られているが、批判を押しのけてでも介入するという役割分担にはおよそ冷淡であり批判的であった。だから平和的であるというのは的外れもはなはだしいのである。

元祖国家版私利私欲路線は「チャイナファースト」である

 そういう歴史経過を考えれば紛れもなく「チャイナファースト」なのである。もちろん筆者の文脈で「チャイナファースト」を使うことは分かりやすい面はあるが、トランプ氏にとっては反射的に「アメリカファースト」に傷がつくことから大迷惑ということだろうが、ことの真実をいえば経済規模でのトップ2が自国第一主義の競争に突入したことが混乱と迷惑を生んでいるのであって、順番をいえば中国のほうが第一主義は先なのである。利益は先食い、負担は先延ばし、いつまでも開発途上国という功利主義は変わっていないのである。

 だから、筆者のトランプ氏にかかわる筆致にやや緩みがでてくるのは、身をひそめながらもときどき顔をだしてWTOの原則を吹聴したりする隠れた存在に対し、「お前こそが」という気持ちがあるからであって、トランプ氏批判一辺倒では公平さを欠くと考えているからである。

 ちなみに「チャイナファースト」と表現することは今までにはなかったのであるが、国家版私利私欲路線をいうのであれば、米国よりも中国のほうが老舗であって、ただ「ファーストもの」を商標登録していなかっただけである。ということで、「アメリカファースト」と「チャイナファースト」の争いといえる。

4.米国がかかわる軍事同盟の信頼性の議論

 国際社会というなかば幻想の空間においては、日常的に正義について多々語られてはいるものの、ほとんど正義は執行されないのが日常であるから、年々歳々世界は混迷を深めることになるのは当然のことといえる。

 筆者は、今春報道されたヴァンス副大統領のEUはじめ欧州の同盟国にむけての、外交的には礼を欠くと思われる過激ではあるが意味のある発言内容に対しては多少なりとも共感を覚えたのである。

 もちろん憲法上の制約があるとはいえ非対称の軍事同盟に安住しているとの批判をうけているわが国を思えば、共感というのもおかしなことである。

 また、各国とも米国の安全保障にただ乗りしているわけではない、さらにそう語っている米国にしても持ちだしだけというのは正確な表現ではない。とくに、米国が得ている有形無形の利益はけっして小さいものではなく、基軸通貨がもたらす利益とあわせれば莫大であることは隠しようのない事実であろう。それがまるでないかのような奇術さながらの物言いこそがアンフェアそのものではないかといちおう指摘をしたうえで、たしかに同盟国としてはパックスアメリカーナのコストについて無関心を装っていたと指摘されても仕方ないといえる。

 しかし、それはある程度手前勝手に軍事同盟の細目を動かしてきた米国のわがままとの相殺勘定といえるもので,不均衡という問題があるにしても、一方的に決めつけられるものではないと思っている。

 といった議論はすでに消化されているとして、東アジアでの安全保障にたちかえれば、欧州域とは異なる巨大なリスクが存在することも事実である。 

 たとえば、各種の弾道兵器の蓄積生産量が潜水艦以外の艦船の近接を支配できるとの仮説にしたがえば、基本的には兵器生産力すなわち総合的な工業生産力が最終段階での優劣を決めるわけで、この原理は第二次世界大戦後も変わっていないのである。

 そういった大きな絵姿でとらえるべき事柄と、細部ともいえる小競りあいなどの細かな事柄の二元のうち、後者のほうが今日的には勝負所といえる。つまり、本格的な武力衝突を双方ともに避けたいことだけは確かであるから、大戦にはいたらないという枠組みの中でいえば、統治者の活躍の舞台は小競りあいしか残っていないのである。ということで小競りあいの日常化が先方が好む工作戦なのであるが、正確には戦い事ではなく争い事なのである。こういった半民半軍のごたごたは中国にとっては得意分野であるから慎重かつ果断に対応すべきである。ともかくもわが国としては中国の総合的な生産力(フルセット体制)を侮ることはできないのである。

 この「侮ることはできない」という短文が意味する具体が何であるのかについて、現時点では即答できる状況にはない。なぜなら、中国についてはあまりにも不明なことが多く、したがって、中国の近未来における政治意思の凝集の方向性を現時点で予測することには無理があるというか、リスクをともなうことから、責任ある立場には消音装置がついているのであろう。

 ということで、中国の動向については民間の個人としては、過去に未来を求めるという使い慣れた手法であるが、かなり危ない妄想を重ねることになる。たとえば、中国共産党は歴代王朝と類似の成功をおさめるであろうと予想できる。また類似の失敗を喫するであろうと予想することもできる。さらには人民の憤りをかうことは簡単であるが、人民を慰撫することは燗をつけるよりもむつかしい。くわえて、内部矛盾を外にむければ末の収拾がつかないことになる。といった歴史からの着想をベースに妄想を養うことになる。

 また、何千年もの文明の精神的物質的蓄積がもつ底力を侮ってはならないという文脈でいえば、製造業において日本が成功したことのすべてにおいて中国は成功しているし、そのうえに規模がもたらす効果もあることから油断できないというのがG7サイドの認識である。

 もちろん、すべてにおいて成功することが必然であるとはいえないが、多くの分野において成功することは間違いないのである。

 などなど、冷静に考えれば1930年代の大日本帝国が選択した一か八かの無謀な進路をかの国が再演する可能性はゼロであって、統一という腹の足しにもならない精神的な達成感あるいは自己陶酔のために、人びとの家庭から子息を奪い、何百隻もの艦船や戦闘機を失うリスクに対しては現実的かつ功利的に対処するであろうというのが最も穏当な推測ではあるが、信じる信じないという範疇で考えることではないものである。

 といった文脈を反芻すればするほどに、可能性としては小競りあいの出現こそがもっとも高く、課題はそこに絞りこまれていくのである。というシナリオにはすこしバイアスがかかってはいるが、当然ながらそうであればあるほど、理屈的にはたとえば中国の政治方針の大転換による空前絶後のデタントの出現も捨てきれないのである。大局に安定があれば、安心して小局を揺るがすことができるし、小局がおさまれば安心して大局にむかうことが可能になるわけで、米軍の介入が制限的になれば、東アジアはますます揺れ動くことになると思われる。

(つづく)

◇万博や 水当番は 夕立に

加藤敏幸