遅牛早牛

時事雑考「2025年9月の政局①―76日間の政治空白は誰のために?自民党総裁選」

まえがき

【◇ 猛暑が襲いかかる。これは自然淘汰なのか。さらに長引く物価高騰が酷い。それにしても様子見が習い性になった日銀は政策金利を上げられず、物価高の原因となっている円安を容認している。物価の番人とは昔話で、このあたりは黒田日銀の負の遺産であろうか。百年河清を待つETF売却年3300億円。

◇ さて、49日間の懊悩の末、石破氏は辞任を決めた。小さな逡巡が大きな迷惑を生んだ。このまま総裁選メディアジャックが10月初めまでつづくのかと思うと気が滅入る。なぜなら、昨年の総裁選が何の役にも立っていないのだから、空虚である。政治空白を避けるための政治空白は避けられたはずなのに。政治空白への批判なくして報道の使命が果たせているといえるのか。既存メディアも微細な動きまで伝えてサービスに努めているが、人びとの報道への醒めた目線を感じないのかしら。

◇ 報道量が激減しているなかで、各党はどうしているのか。いきなり「○○は信用できるのか」と問われ絶句した。○○とは新興あるいは急成長の政党の代表者のことである。新興政党が物珍しさで脚光を浴びるのは数か月ほどで、あとはサバイバル競争になる。競争を勝ち抜くには体系性(政策間に矛盾がない)、統合性(目的や目標に矛盾がない)、一貫性(時系列において矛盾がない)などの骨格を鍛えなければならないと思うが、アメーバ型の自民党がいろいろあっても長命なので、理屈としては困ったものである。

◇ この○○さん達も自民党の新総裁が決まる10月4日には正念場をむかえることになる。与党との距離をどうするのか、簡単な話ではなかろう。

 まずは首班(内閣総理大臣)指名選挙への対応であるが、とくに立憲の野田佳彦代表が前回を反省しながら虚心坦懐(たんかい)に協議していきたいと記者団に語ったと聞く。べつに異論はないが、選挙投票では立憲以外に票を入れた人たちが、「私たちが選んだ議員」が首班指名の決選投票において野田さんと書くことを許容できるのかといえば、やはり無理があると思う。

 ということで「反自民なら決選投票では野田と書くべきだ」といった杓子定規な理屈はひっこめるのか。もっとも、自らの基本政策の変更には手をつけずに「野田と書け」とはさすがにないと思うのだが。

◇ この一連の騒動で「政権交代可能な政治状況」と「二大政党制」の根本的な違いがようやく理解されはじめたのではないか。1994年からの選挙制度がかならずしも二大政党を目指すものではなかったことが、30年あまりの経験から実証されたというか、理屈はともかく現状の多党化を直視すれば「連立政権を前提とした政権交代」こそが最も現実的であると思われる。という意味では「反自民」とか「非自民」あるいは従来からなれ親しんでいる「野党」についても言葉の用法を変えていくべきではなかろうか。

 「反自民」も「非自民」も根っこをいえば自民中心の発想であり、いわゆる55年型式なのである。

 つまり、「与党」の幅よりも「野党」の幅のほうがはるかに広い現状において、「首班指名での野党の足並み」が揃うわけがないのに、そういった表現を陳腐に使いつづける評論家や報道MCのなんと多いことか、とかいわなくとも事情通ほど時代遅れ感が目立ちだした今日この頃ということであろう。】

1.「解党的出直し」の「的」がある限り、迫力はない

 「解党的出直し」とは選挙で大敗した政党の掛け声なのか、よく使われるが「決して解党しません」という決意なのであろう。もっとも、その政党(自民党)に投票した有権者は解党などはしてほしくないのだから、しょせんは言葉遊びの世界である。

 似たような「自民党をぶっこわす」も「壊す気がない」ことまでは同じ構造であろう。が、小泉純一郎氏の場合は「別のものを壊わした」気がする。今回は党内派閥はすでに壊れているのだから、あらためて何が壊れるのか、いや壊すべきものがあるのかといった組織土壌についても議論できるのか、注目している。

 

 参院選の興奮がいまだおさまらない中で、2025年7月26日付弊欄で筆者は総裁選の実施をも選択肢とする連立協議先行型の可能性を指摘したが、某新聞社らの退陣報道への反発なのか、あるいはボタンの掛け違いなのか釈然としないうちに、「石破おろしVS続投」騒動がはじまり月余の時間を浪費した結果、石破氏退陣、総裁選の実施となった。筆者の予想は半分外れてしまった。選挙敗北の後始末としては最悪のケースだったと思う。

2.新総裁選出に76日、しかも既視感にあふれ、この一年は何だったのか

 9月7日18時、石破氏が自民党総裁を辞任すると表明した。49日間の苦行ともいえる懊悩の末の決断であったのか、真相は分からない。総裁選は9月22日告示、10月4日投開票となり、参院選の敗北から76日を費やしてようやく新総裁が決まるのである。そこで、新総裁が決まれば内閣は総辞職し、首班指名となるが、新総裁が首尾よく内閣総理大臣の椅子をえられるのかは今のところ何ともいいようがない。

 昨年2024年9月23日の弊欄は「大詰めをむかえる自民党総裁選は誰のものか?」と題して、一年前の総裁選を論評している。で結局、9人もの立候補者による混戦となったが、高市氏と石破氏が決選投票に残り、石破氏が勝利した。

 思いかえせば昨日のことのようである。一年後の今日、9人のうちまず石破氏が抜け、同じ顔ぶれの5人で総裁選がおこなわれようとしている。たしかに敗者復活戦というのは分かりやすい。

 すべては自民党の都合なのにフルスペックでやる必要があるのか、それよりも早くやれといった声も聞かれる。人びとの感覚とはかなりズレているようで、それが選挙での敗北によるものなのか、痛々しく感じられる。

 マスメディアに煽られて同じことをくりかえしているわけではないだろう。しかしたとえば、調査によると国民的人気の上位者を独占している政党がどうして重要選挙で3連敗もするのか、という素朴な疑問もある。また「今総理大臣としてふさわしいと思われる政治家ランキング」にいつまで縋りつく気なのか、既存メディアの話である。どちらも地に足をつけた仕事をしないと説得力がないと思うが、どうであろうか。

3.少数与党化は疑似政権交代の終わりを意味している 応答性の高い政治システムを自民党が提起しなければこの国は衰退するかも

 そういった国民的人気の筆頭格でもあった石破政権は昨年10月1日にスタートし、発足間もなく衆議院を前任の岸田氏と同じように早期解散し、10月27日の投票の結果、少数与党に転落したのである。自公あわせて290議席が220議席へと実に70議席もの減であった。この減少幅は2009年や2012年の政権交代時の与党側(自公、民主)の減少にくらべれば中規模といえる。ということから類推して筆者は政権交代への期待度を「伯仲以上、交代未満」と表現したのである。

 2009年、2012年当時との比較でいえば、今回の政権交代に対する民意のマグニチュードはまだまだ低いと感じられる。つまり、2024年、2025年の衆参選挙の結果を見るかぎり政権交代に対する有権者の不安はまだまだあるということであろう。

 ここで解説的にふりかえれば、岸田氏が総裁選不出馬を表明したのは2024年8月14日のことであった。8月になっても強力な挑戦者が見えてこないので、岸田氏の時間切れ続投なのかと受けとめていたが、岸田氏の続投では不人気をさらに煽るという判断だったのか。いずれにせよ衆議院議員の任期が2025年10月なので、7月の参院選との同時選挙かあるいは同年選挙というのもかなり窮屈であることから、2024年内の解散総選挙が想定されたが、このままの低支持率では敗北必至なので、選挙の顔を変えざるをえないという党内圧力が岸田氏を不出馬に追い込んだと思われる。さほどに、当時の岸田氏の不人気ぶりが鮮烈だったということである。

 この不人気という政権批判が、2017年ごろから総理大臣を代えてもかえても支持率を引き下げていくのであった。疑似政権交代としての総理大臣の交代が安倍氏菅氏岸田氏そして石破氏と4代続いた。とはいっても、2017年と2021年の総選挙にくわえて2019年と2022年の参議院選挙は首尾よく勝利し、表面的には疑似政権交代の効用がつづいているように見えたのである。

 しかし、2024年衆院選と2025年参院選では大きく敗北し、与党としても過半数割れを起こしてしまったのである。

 総理の辞任理由については、安倍氏は体調を崩したことが理由であったが、菅氏と岸田氏は選挙で敗北したわけではない。それでも責任をとらざるをえなかったのである。石破氏はさらに国政選挙2連敗であるから、党内論理では辞任がとうぜんなのであるが椿事なのか少し手間どったといえる。

 さて、疑似政権交代も表紙だけの交換に定式化され、自民党内では何の疑問もなく恒例化しているが、政治のあり方としても本格的な政権交代が疑似方式で事実上封殺されているという状況は、有権者にとっては大いなるストレスであったといえる。

 また、安倍一強といわれた時代にあっても、安倍政権の後半期に発生した不祥事に対する人びとの憤りの宛先が、選択肢として不十分であったことも、人びとの不満をふくらませたといえる。大きくいえば民主政治がシステムバグに陥ったのである。

 もちろん、投票先がきわめて限定的になってしまった原因に、2012年の民主党政権の崩壊とその後の顛末などがあることは否定できない。同時に野党の選挙協力を阻止・かく乱する意図のもとに解散権を行使するという政治手法が、政権交代の不胎化という文脈において抽象的ではあるが投票先限定化の悪い役割をはたしたといえる。

 理想をいえば、民主政治を守りながらの権力闘争という一段上の視点をもたなければわが国も他の先進国にみられる分断政治におちいることになりかねない、ということであろう。

 もちろん、現実においては目的と手段の議論が交錯することは避けられないが、そういった紛乱した議論がたび重なることは、世論の分断を助長することになり、民主政治の求めるところとは異なる空間を生みだすことになるのではないか。という有権者の危惧もあながち杞憂とはいえないと筆者などは受けとめている

 さらに、有権者の声に対し感度を落としていった感じが否めないのである。疑似政権交代でうまくいっているとの錯覚が白々しさを生んでいたのではないかと感じていたのである。 

 たとえば、厚労省から発表される月次の実質賃金の推移から何を感じるのか。実質賃金の低下がつづいていることの重大さに、もっとも鈍感なのが日銀であるが、それとは別に政治家などの公職者が鈍感であることは許されない。1パーセントポイントの低下は月額収入が20万円として2000円の購買力減であるから、その分生活の質を下げるというか、赤字化するのである。

 といった生活実態を横目に、政治手法としての「政治とカネ」をはじめ有権者として容認できない政党あるいは政治家の「あり様」が既存政党への忌避感を強めたと思われる。

4.疑似政権交代が機能しなくなったのは有権者の声が届かなくなったから

 ここまでは、第二次安倍政権以降、疑似政権交代が表面的に成功していたものの、石破政権になっていきなり少数与党に転落し、7月には参議院においても過半数割れになった経過をたどってみた。

 つまり、石破政権だけに問題があったということではなく、問題そのものが積みあがっていたと考えるべきであろう。

 菅氏も岸田氏も不人気を理由に総裁選は不出馬となった。要は理解に苦しむぐらい不人気であったということであるが、その不人気の原因のうち通底するものは何であったのかが政治評論的には重要であるといえる。

 そこで、「岸田氏では打つ手がない」ので、自主的に不出馬とし後継(石破氏)に託したが、その目論見は見事に外れ石破政権は少数与党に転落したのである。では、岸田氏が続投していたらどうであったか。もちろん歴史は二足を履かないから、二足目の歩みを問うのは愚問である。が、あえて愚考すれば岸田氏でも与党過半数を維持できたかは怪しいのである。

 さらに高市氏なら、また小泉氏ならとたとえば昨年の8名の総裁選立候補者を頭に描きながら、2024年10月の総選挙と2025年7月の参院選をシミュレートし、誰であれば石破氏を上まわる選挙結果をえることができたのかと問いつめるならばどうであろうか。おそらく、人的要素の影響はかなり低いということになるのではないか。

 もちろん正解は見いだせないし、無駄な作業だといわれればその通りである。しかし、こういった作業なしで現在の自民党の惨状を理解することは難しいと思われる。

 だから、「石破ではなく、○○であれば3連敗を阻止できた」といえるのであれば、迷うことなく今回の総裁選は○○氏で決まりであろう。現在進行中の総裁選は次期総選挙で過半数をとれる○○氏を探るものであるが、筆者の見通しをいえば、おそらく過半数は困難と思われる。

 一つは、前回の総裁選をふりかえっても分るように、今日の自民党の苦境は総裁という人的要素とは離れたところに問題の核心がある。つまりだれが総裁になってもそのことで自民党の宿痾は解決しないと多くの人は思っているのである。

 二つは、私利私欲とはいわないが、なによりも議員個人の思惑を軸に、いつもの総裁選挙が、いいかえればコップの中の利害得失の争いが政策論とは関係なく陳腐に始まっているだけであるから、こんな状態では「解党的出直し」は難しいといわざるをえないのである。

 世論調査が、石破氏の政治生命がほぼ潰えている段階においてなお「辞任の必要なし」と自民党内と一部のマスメディアの思惑に抗っているのは、解党的出直しを宣言しながらも結局「石破降ろしVS続投」という三文芝居に終始せざるをえなかった自民党への当て擦りではないかとさえ思えてくるのである。

 ともかく、まず76日をも費やさなければ新総裁を選出することができないのかと難詰したいし、日ごろから何かにつけて政権担当能力といって野党に対しマウントをとっているのに、自分のことには無批判であるあたりは二重基準ではないか。政権担当能力の前に責任を自覚してほしいものである。誰が新総裁になろうとも前途は多難としかいいようがないのも事実であろう。

5. 石破政権の破綻は、維新と国民を天秤にかけたところから始まっている

 では、どこで石破政権がつまづいたのか。ガラス細工だけに安全低速運転を余儀なくされたが、当初の予想よりも長続きしたと筆者は評価している。もっとも、野党がまとまる可能性が低いことが継続の最大理由であることは間違いないことで、いいかえれば野党ではあるが反石破ではない日本維新の会と国民民主党の政治位置に助けられたということであろう。

 そういった脆弱な石破氏の政治生命に不吉な影をもたらした一事が、2024年12月11日の自民、公明、国民民主の3党幹事長会談での合意をうけて開かれたた12月17日での政調レベルの協議がにわかに中断したことにあると筆者は受けとめている。

 とくに、協議中に浮上したと思われる与党サイドの123万円という回答らしきものが、確定的というか整いすぎているところに、また自民党税調の姿勢と政権の政治的立場との乖離(少数与党なのにどうしてそこまで強気なのか)があらわになって、とても撤回不能の様子であったことがガバナンスからいってもも政権失速の予兆であったと思われる。

 もともと、弊欄で時事寸評として「石破政権、餓死するぐらいなら呑みこんだらいいのでは」(2024年12月17日付け)で、詳述しているように国民民主が要求した178万円に対し、少なくとも150万円以上を回答すれば橋が落ちることはなかったと今でもそう考えている。

 テレビの報道番組では強気の自民党税調には野党はかなわないといった解説が流されたりしたが、筆者の考えはつかみ損ねた運は二度とは戻ってこないというもので、運をつかむのに交渉は不要である。求められる以上のものを渡せば成立するとだから、分かりやすくいえば理屈で納得させることではなく、金額で納得させるものである。

 惜しむらくは公明党がついていながら3党幹事長合意の履行を割賦払いでもいいから説得できていれば、政局は好転の可能性すらあったのではないかと妄想している。(そうなれば国民民主は大変であるが)

 たしかに123万円は能吏としては100点であろうが、政治家とくに石破政権のリーダーシップを確立する立場から考えれば0点であった。

 もちろん、年明け(2025年)にかけて同時進行的に日本維新の会との折衝がすすみ、教育費無償化などで予算案賛成の道が遠くに見えてきた時であったから、両党を天秤にかけるという夢のような話に気持ちが揺れたのであろう。当時は7、8兆円と7、8千億円との二択であると認識されていたので、とうぜん安いほうに箸が動いたのは分かる。

 しかし、交渉経験者からいえば、こういった両天秤自体は美味しいようで往々にして後日の罠となるのである。財務省的には安いほうが上策ではあるが、有権者的には恩恵は10分の1であり、ひどく値切られたという印象が強烈であったと記憶している。

 生活苦からの切実な要求を財政的事情で値切ってしまった、それも少数与党が主導権を発揮したと思われたことの政治的代償は、強力な敵(アンチ)を生みだすことであり、予想外の苦難を呼び込むものであった。つまり、政策調整としては123万円でも大いに苦労したと内心いい仕事だと思っていたのに、若い層からは「石破政権は味方ではない」という不評をえたわけだから、まったくもって計算高い政治家のすることではなかったのではないか。

 賃金回答でも同様のことがあり、1万円の回答をだすのに最後の100円をケチって9900円で済まそうとする優秀な担当者に、社長は「1万円あるいはそれ以上」の回答を準備せよと指示することがある。つまり気持ちよく働いてもらうのにケチってどうするのか。喜んでもらわなければ死に金ではないか、という考えであろう。ここが専門家と経営者のちがいである。

 2025年1月頃の石破政権の至上命題が課税最低限178万円とガソリンの暫定税率廃止でもって、いかにして国民民主を与党サイドに引きこむのかということであったのに、結果的に維新の賛成で予算案が成立する見通しになったことから、石破政権としては国民民主との関係を薄めることになったと思われる。

 政党間の関係でいえばこういったドライさは当然のことといえるが、問題は国民民主を支持する若年層を、敵にまわしたというほどではないにしても、少なくとも支持層には取りこめなかったことが7月の参院選に響いたと思われる。安上りではあったが政権として本格的な安定をえられなかったという政局上の不首尾は、参院選での勝利でしか償(つぐな)えないという構図を確定させたといえる。

 また、政策論においても、選挙の結果をみれば個別の政策が有権者のどの層にどの程度刺さるのかが明らかになったわけで、総花的な予算管理の手法ではどうにも克服できない有権者の切望を石破政権は満たすことができなかったのではないか。

難を逃れた国民民主党?

 とはいっても筆者的には、3党の幹事長合意があるとはいえ結果的にオフラインとなったことにより、育ち盛りがゆえに脆弱性をもつ国民民主が結果として難を逃れたと受けとめている。どんな難から逃れたのか、それは「朱に交われば赤くなる」難である。

 国民民主党の参院選直前の参の議員数は12で、衆議院とあわせて39では体重不足の感は否めない。党風も人材も途上であるから、中道政党あるいは中道右派勢力としては今しばらく地力の涵養に努めるべきであろう。連立にしろ閣外協力にしろ、中小規模政党には与党への協力はハイリスクこのうえないことである。

 公明党が連立に耐えられたのは自民党とは価値観や組織体質あるいは支持層に適度な違いがあり、結果として相互補完的であったからである。もちろん、根本は支援組織の強靭さにある。朱でも墨でも交わってなお独自性や凝集性が保たれるのであれば垣根をこえていく価値があるといえる。

 国民民主党の支持層には現実指向と改革願望が混在しており、それが魅力なのであるが、改革願望には目標が必須であるから現実的政治手法と相性の良い政治哲学的なイデーというか目指すものにくわえて規範が必要となるであろう。

 やや短絡的ではあるが石破政権の挫折の原因が、命綱とすべき国民民主を取りこめなかったところにあったというのが筆者の見解である。では維新との協力はどうなのか。後述の機会があると思うが、有権者からいえばやはり安上がりであったことと社会保険料負担の引き下げにはさまざまな疑問もあり、引き下げても問題なくやっていけるという安心が検討不足であったと思われる。

 取引が軽いことが紐帯をよわめる。だから、参院選直後に吉村、玉木両代表が異口同音に「石破氏には協力できない」と発言したことは決定的で、石破氏のその後の進路にとって大きな壁になったと思われる。もっとも敗軍の将と手をむすぶ選択肢は選挙直後にはありえないといえる。

 

6.ガラス細工政権にしては、予算案の年度内成立は上出来である

 衆院で少数与党となった昨年11月11日からの石破政権はガラス細工であったから、死にものぐるいで事にあたらなければ道は拓けなかったといえる。にもかかわらず、3党幹事長合意を20万円増(103万円→123万円)で糊塗したのは命綱を自らの手で断ち切るに等しく、政治家としては疑問が残る。

 なぜなら、2025年初頭での政局の柱はとうぜん令和7年度予算案の成立であった。しかし、衆院では少数なので最悪は総理辞職を条件に予算案の成立をはかるシナリオも予想されたが、前述のとおり維新との折衝などが奏功し修正をふくみながらも年度内成立にこぎつけたのは石破政権にとっては望外の成果であったと思われる。しかし、これは国会内の政党間協議という狭い世界でのまとめであり、本来の主権者の思いに寄りそうものではなかったのである。

 筆者も弊欄においていく度も警告的に記述してきたが、国会運営が主権者たる有権者を置いてきぼりにした政党中心であり、内容的にも多くの人びとの生活苦が無視されたものであることから、有権者からいえば許されるはずもなく、したがって後半国会においては、また参院選に向けても、消費税減税や現金給付などがまるで忘れ物をとりに帰るように物価高対策として急きょ浮上した。それは有権者からの圧力が相当に高いことに議員が気がついたからだと思われる。

 参院選において、自民、公明、立憲、共産の各党が既存政党というくくりで不振におわったが、既存政党ということではなく人びとの生活苦に対し無策冷淡だったという有権者の感情が厳しい選挙結果を生みだしたものと解すべきであろう。

 他方、維新は国民民主のまえに割りこみ、首尾よく与党との妥協を為したのである。これはあくまで交渉上の成果といえるが、政策のダンピングによって手取り増が妨げられたのではないかという見方もあって、政策的にはかならずしも生活者優先ではないと見做されたと思われる。また、政治家に身を切る改革を求めることに賛同する有権者も多いが、それはある意味強者の論理であって、自らを弱者と認識している者には、その矛先が弱者に向けられると感じているのであろう。全体的に困窮化がすすむと強硬改革派への支持は細ってくるのではないか。といったことが参院選における維新の不調の一因になったと筆者は思っている。いずれにせよ詳細な検証が必要であろう。

7.課税最低限の178万円への引き上げを政治家として決断すれば道が拓けた?

 このように10か月余にわたる石破政権の歩みを概観してみたが、自民党としては局面打開の石破総裁であったのに、就任直後の解散が裏目にでたことから、期待された「石破らしさ」の発揮すらかなわず、「政治とカネ」問題を抱きかかえたまま悪夢の参院選に突入してしまったといえる。

 石破氏にとって政局は苦手だったのか。少数与党なので官邸や省庁の動きも緩慢であったのか、与党全体としても死にものぐるいになれたのかなどの疑問をもちながら、人びとは石破氏の一挙手一投足を凝視していたのである。

 厳しい状況であったとは思うが、課税最低限の178万円への引き上げなどの3党幹事長合意を愚直に背負いつづければ、若年層の見方が好意的になった可能性を筆者は捨てきれないでいる。

 財政当局の考えをより尊重したということであれば、石破氏への期待とは何であったのかと政治主導の議論が蒸しかえされ、あらためて石破氏の指導性が問われることになったであろう。

 真相は分からないが、最低賃金もふくめ賃上げではそれなりの成果が上がっているのに、生活者あるいは労働者の味方になりえなかったところに石破氏の不器用なまじめさを感じるのである。党の基本に忠実だったからこそ一線を越えられなかったのであろうか。藁にもすがる思いという言葉があるが、無茶であっても一線を越える挑戦こそが石破氏への期待であったといえばいい過ぎであろう。

 

パラダイムチェンジとしての労働者政策

 さらに、自民党としてのパラダイムチェンジのひとつが「働く人と共に」であると勝手に思いこんでいたが、庶民派にみえる石破氏をしてもなお手が付けられなかったことに少なからず驚いている。もっとも、自民党と労働との距離が短くなると楽観していたわけではなく、とうぜん政治構造的には資本家、実業家また経営者や自営(農)業者を強力な支持層としている自民党が簡単に労働者の利益を代弁することにはならないことは自明であった。

 したがって、筆者の価値体系が老舗保守政党である自民党とは重ならないところがあるからといって、自民党を反労働者的政党だと批判する気はないし、それは事実とは異なる。率先してということではないが労働者の処遇改善には実績をもっている政党なのである。

 とはいっても、保守政党の基盤が労働者とはもっとも遠い人たちによって支えられていることも事実であるし、あるいは仮に雇用労働者であったとしても、自民党を支持する動機が労働者であることとは無関係であっても何ら支障はないのであるから、党内で労働者性(労働者であること)についてはあまり議論されることはなかったのではないかと思っている。

 といった歴史経過を背景に、また総人口の過半を占める雇用労働者をひとくくりにしてあれこれと論ずることはできないが、雇用されて日々労働を賃金に替えて生活をしている人びとからの支持なくして、どんな政党も持続可能とは思えないことも事実なのである。

 問題は、労働者性をもって政策立案の切り口にする気が自民党にあるのかということであろう。同時に、議員個々の後援会を支えている事業者が例外なく雇用被雇用の関係で事業を営んでいることから、仮に自民党の後援会の一角に労働者を参加させることは、雇用被雇用の緊張関係を刺激することになる可能性が危惧される。たとえば、地方における最低賃金の審議会において対立関係にあるのは使用者側委員と労働者側委員であるから、この両サイドを後援会組織に抱えこむことはかならずしも歓迎されることではないのである。もちろん、それぞれが後援会を組織する方法もあるが、議員を支える後援会の間で構造的に対立するものがあることが、議員としての統合性あるいは一貫性に矛盾を生じさせることになるので、やはり使用者系と労働者系とは議員単位で分離されるのが妥当であるといえる。

 水面下の話だと思うが、今回自民党内に国民民主党をつうじて民間労組との連携を期待する声があったと聞くが、一人ひとりの組合員は自律的であるからさまざまな投票行動が推察されるもので、その実態は外部が考えているものとはかなり違っているかもしれない。

 ただし、労働者性に着目するならば使用者とは利害が対立する関係にあり、また対立の範囲が広いことから、政策・制度においては多くの場面で対立的になるので、正直いって手に負えなくなると思われる。

 今回の参院選においても、労働団体ではなく一人ひとりの労働者に刺さらなければ議席を維持することができないということが証明されたのであるから、300万人の社長も大切であるが、それ以上に6千万人の雇用労働者も大切であることは自明であろう。

 さらに、近年先進国などにおける中間層の減少が政治意識の両極化を加速し、国論の分断化の原因の一つとして注目されている。わが国においても同様の現象が生じており、労働者の貧困化解消は喫緊の課題となっている。ということからも自民党が労働政策において親労働者的なスタンスをとることは時代の要請にかなっているともいえるのである。

 しかし、わが国において雇用労働者が自らを労働者と意識することは少なく、現在労働組合組織率(推定)が16%台であることからも分かるように、労働組合活動が広範囲において活発であるとはいえないのが実情である。ところで、人びとが自らを労働者であると自覚するのは生活苦を感じた場合などであり、具体的には実質賃金がマイナスになった時であると仮定すれば、最近では否が応でも日々労働者であることに目覚めざるをえない状況であるといえる。

 もっとも、労働者であると覚醒したからといって直ちに労働運動に参加できるかといえば、今日のわが国の労働関係の活動環境は労働法が立法化された当時とは異なり法的行政的には整備はされているものの、思いのほか簡単ではないというのが実態といえる。

 とくに、非組織化領域では基本的な労働者の権利すら侵害されている場合もあって、さまざまな問題が放置されているのである。

 つまり、労働運動の浸透という視点にたてば、実態としてさまざまな運動格差が存在することで、さらに労働条件格差が拡大する負のスパイラルが存在しているのである。

 ところで、各国とも労働運動の位置づけはさまざまであり、また経済社会の発展の程度や産業構造あるいは歴史背景などの多くの条件が影響していることから、一概に論じることはできない。

 しかし、多くの先進国にみられる経済不振や停滞が経済上の格差拡大や分配の偏重からもたらされているとの指摘も多く、分配構造への政治的介入についても議論が活発化している。

 ということを踏まえるならば、多くの労働団体が自民党にとっての対抗政党を組織的に支持、応援している現状は、自民党にとっては大いに不本意なことであり、そのためというわけではなかろうが、労働政策に対してはどちらかといえば経営者の視点からの対応に傾斜しているというのが一般的な理解であろう。

 このような対抗構図を下敷きにした理解が妥当であるのかといえば、組織化されている領域ではおおむね妥当であると受けとめても(実態は組合員に対する影響度は漸減傾向にある)、非組織化領域においてはそもそも労働組合などの中間団体の介在がないことから、いわゆる対抗構図ははじめから成立していないのである。

 つまり、労働者という切り口をもって課題発掘に挑むのであれば、広大な未開拓領域が残されているともいえるわけで、従前は自らを労働者とは意識していないたとえば地縁血縁による関係であったり、職域やサークル活動などからの支持要請あるいは議員などとの多彩なつながりによって集票化されていたと思われるが、支持政党なしとか棄権の比率もかなり髙かったと思われる。

 今回の参院選の敗北はそういった集票力が衰えていることの結果ともいえるが、衰えの原因として生活者意識の高まりあるいは雇用労働者としての目覚めなどがあるのかもしれない。

 長期化する物価高による生活苦が、意識において労働者を増やしていると思われる。この値上げラッシュの10月もさらに増えるえあろう。増えている労働者が自民党を支持する確率は低いから、値上げを横目に悠長な総裁選をやればやるほど自民党にとって不利になっていくということであろう。

 対策としては、正面から労働者のための政策・制度要求を掲げるべきである。第二次安倍政権から賃上げへの取り組みがはじまり、菅・岸田・石破政権へと引き継がれ、たとえば今年の最賃は全国的に1000円を超える成果を上げた。中央では政労使の三者が賃上げの必要性を共有していることから当然の結果のように受けとめている向きも多いが、中小規模企業の立場でいえばかならずしも大賛成でも賛成ということでもなく、個々の事業者にとっては頭の痛い課題といえる。政府と自民党とは違う立場にあって、個々の議員は後援会を構成する事業者を優先することになるので、いずれ自民党政権による賃上げ路線は壁につきあたると思われる。

 くりかえしになるが、課税最低限はすぐれて雇用労働者の生活に直結するものであるから、政治家にとって最重要課題であるはずなのに前述のとおり残念ながら政治主導にはならなかったのである。石破氏は死中に活を見いだせなかったのか、それとも意図的に避けたのか、いずれ明らかになるであろう。

 ところで、参政党に流れた票が自民党に還流する日が訪れるのかは興味深い。数百万票程度では国民政党の看板を支えられるはずがないのだから、主たる顧客(ターゲット)は明白であろう。

◇浜風や 夢洲先に 花火散る

加藤敏幸