遅牛早牛

時事雑考「2025年10月の政局-高市総裁と公明党の連立離脱-」

1.高市総裁誕生と解党的出直しはどこでつながるのか

 10月政局のハイライトはなんといっても高市早苗自民党総裁の誕生である。他方で小泉進次郎氏の予想外の敗退が目立つ。というのも10月2日段階での予想は、小泉氏側に90パーセント以上傾いていた(と思われた)が、日が暮れてからの「党員票のもっとも多い候補者に」という動きが、いかにも党員の声を尊重する印象をまといつつ意図的逆転劇を生みだした、というのが後づけの解釈である。

 これがはたして逆転劇といえるのかについては、報道の精度を問うテーマであるから措くとして、むしろ早い段階から党員の支持が高市氏に傾斜していたことが各社調査などで明らかになっていたのであるから、そのことへの対応が明暗を分けたように思われる。

 地方票の差を議員票でのりこえることが小泉陣営の目標であったはずなのに、二回目投票では149対145で逆に差をつけられたのである。

 そこで、小泉氏が議員票では優勢だという報道が的を射ていたとすれば、終盤において瞬間的に勝ち馬だと思われた高市氏に相当数の票が流れたということであろう。

 さらに、態度不明の議員が50人近くもいて、それが予想精度を狂わせたといった説さえ聞こえてきたが、政治部記者や政治ジャーナリストもあれこれと言い訳に工夫を凝らしているようで、反省するのであれば「幻の小泉優勢説」を検証してほしいものである。

 それにしても、麻生氏の思惑の結晶ともいえるその影響力が、自民党再生に冷や水をかけたことだけは確かなことであろう。もちろん、麻生氏にすべての責任を負わせる話ではない。しかし、解党的出直しという課題は総裁選をもってすでに陽炎状態にいたったといわざるをえないのである。

 せっかくの解党的出直しが陽炎状態という、それだけでも支持者にとってはとても残念なことなのに、党役員人事の骨格は論功色がつよく露骨で、また奇妙なことに派閥的な匂いさえするものだから、解党的出直しが行方不明になっているのではないか。さらに、すでに語られてきた高市氏の経済財政政策とも微妙に違いがあるように思うのは筆者だけではないであろう。

2.自民党らしさを選択した結果が高市総裁というロジックの歪み

 47票の地方票の振り分けが36対11というのは決定的であったといえる。つまり、議員票で拮抗できれば高市氏としては勝利することができるという構図であったから、あとは境界線上の票を呼びこめばいいということで、具体的な作戦は立てやすかったといえる。

 前回の弊欄では、党員と議員の間にはズレがあること、そしてそのズレが「政権にあることの価値と自民党らしくあることの価値」との相克からもたらされていることを指摘した。その仮説に立てば最終的に議員票は、自民党らしくあることの価値を重視している党員票に合わせるべきだということになった、少なくとも麻生氏は深い思惑はともかくも表象的にはそう考えたのであろう。

 もちろん事象としては、党員票の集計が明らかになるにつれて高市氏支持が顕著になっていたことが、いわゆる勝ち馬への雪崩現象を引き起こしたと思われる。

 が、その勝ち馬への雪崩現象の詳細については語られていない。もっとも議員票が149対145とほぼ互角であったことから大規模な雪崩とは考えられないし、小規模であったとしても「どういう動機で変えたのか」は明らかにはなっていないのである。

 党の選挙であるから閉鎖的なのは当然である。しかし、日銀総裁が市場との対話を重視するように、総裁選も時に世論の反応を敏感に受けとめていたことは確かである。その結果かもしれないが、「国民的人気がある小泉進次郎氏」という世評に耽溺しすぎたことが油断につながったとも思える。もっと単純にいえば票読みが粗雑だった。また、公明党が蚊帳の外におかれ、維新との連立話が表にですぎていたということもふくめ、この総裁選についてはさまざまな疑問が投げかけられているのである。

 だから飛躍すれば、この総裁選の振りかえりについて自民党の全員から「私はこういう理屈で参加しました」と告白してもらうのが一番いいことだし、解党的というのはひとり一人が胸の内をさらけださなければ達成できないと思えるのである。

 そういうふり返りを経ないで、ただ表面的な議論に終始するだけでは、自民党が総裁選でだした結論と、その他の人びととの思いとのズレがさらに拡大されるばかりでかみ合わないのではないか。つまり解党的出直しが空っぽのままでおわるのではないかと危惧するのである。

3.驚愕の連立離脱までの経過について(本節は10月9日作成のまま掲載)

 国民と自民党との間に紛れもなく存在するズレ。総裁選がその拡大再生産の場になってしまったとはいわない。しかし、解党的出直しとはおよそ関係がない総裁選をやってしまった、これでは人びとに理解されるわけがない、また支持が広がることもない、といった懸念を公明党がべつの表現系で衝いたのが4日であった。

 高市総裁を前提に従来の連立関係をつづけるには、政治とカネ、歴史認識、外国人共生の三つの懸念への適切な対応が必要であると迫ったのである。長年連立を組んできた公明党としては的確かつ当然の指摘であろう。とくに、政治とカネについては企業・団体献金の規制強化と厳格化は喫緊の課題であり、すでに国民民主党とは歩調をそろえていることから、早急な対応を求めたものと思われる。

 ところで弊欄では、総裁選に先だつ連立協議先行方式を推奨しながら

-引用開始-

 連立拡大先の意向によって総裁選の要否が決まるというのは天地逆転のことなので、なかなか理解はされないだろうが、事態はそれほどひっ迫しているのである。

 もちろん水面下の話であるから、少なくとも工作にあたっては自公が全体として結束していることが必須条件である。(2025年7月26日時事雑考「衆参過半数割れは赤ランプだが、政権交代はモラトリアム」)

-引用終了-

と、自公結束を必須条件にあげた。「全体として」と条件をつけたのは、自民党内に公明党とは距離をおく議員がかなりいることから、連立拡大を唱えながら自公の疎遠化を画策する可能性があると考えたのである。余分なことであったから削除も考えたが、今回の選挙敗北は公明党にとっても、さらに支援団体にとっても弩級の衝撃なので、何かしらの動きがあるのではと思い削除せずに残したのである。

 当初は、いろいろあっても連立からの離脱はないだろうというのが報道の大勢であった。それは今も変わってはいない。問題は、斉藤鉄夫代表らが離脱はないという思惑であったとしても、芯をとらえた行動はそれ自体が状況を拓いていく力をもつもので、想定以上の影響を生むことがありうるのである。という意味でニュース性が高いといえる。また、世間には自公結束にひびが入れば面白いといった政局に傾きすぎた感情があるのも事実である。今のところ連立継続の可能性が高いのであるが、平和と福祉の党が権力志向であると誤解されないためにも、筋は通してみるものであろう。

 すでに、靖国参拝は控える方向なので自公関係は企業・団体献金問題を残しつつも落ちつくと思われる。

【 この節は10月9日までに記述されたものであるが、10月10日の自公首脳会談後の単独記者会見で、高市総裁は公明党から「自民党との連立は一旦白紙に戻し、これまでの関係に区切りをつける」「首班指名では高市早苗とは書かない、斉藤鉄夫と書く」などの内容を「一方的に」つきつけられたと明らかにした。

 筆者からいえば(ほとんどの人もそうであろうが)予想外の展開であって、そのために弊欄の作成が頓挫したのである。本来なら該当部分は消去すべきではあるが、政治の世界では「まさか」という予想外の出来事が出現することを肝に銘ずるために、恥ずかしながら9日の原稿をそのまま掲載することにした。】

4.少数与党では改革はむつかしい、高市氏も同じ道をたどるのか?

 少数与党の総理は弱いカードになる。石破氏も高市氏も本人が弱いかどうかは別にして、カードとしては弱いのである。とくに、首班指名を受けていない高市氏はさらに弱いカードなのである。

 弱いカードにとって改革は重荷で、疲労骨折の危険すらある。だから改革を期待されても易々とそれに応えることはできない。石破氏が結局石破らしさを発揮できずに退陣に追いこまれたのは弱いカードであったからで、ちなみに本来部下であるはずの役人でさえ内心では政権の余命を計ろうとするのも致し方のないことといえる。

 ところで、小泉氏にとって不運というべきは、小泉氏優勢という世評が先行したことであり、さらに重ねて、維新を相手と想定した連立拡大が、万博会場を背景にした吉村代表とのすてきなツーショット映像が頻繁に流されるなかで話題となったことであろう。一般論ではあるがこういう映像の連打は危ういのである。

 しかし党員はあくまで自民党らしさにこだわっているのであるから、連立交渉が表舞台でおこなわれているような錯覚をまねく報道を目にすれば、心中穏やかとはいえぬであろう。つまるところ、小泉氏と応援団と党員との間には微妙というよりもはるかに明澄なズレが実在していたのであるから、逆にこの程度の票差に収まったことはむしろ健闘といわなければならないと思っている。すこしいい過ぎかもしれないが。

 そのうえでの自公の連立解消であるから、心理的にも複雑な思いが自民党内に横溢すると思われる。複雑なというのは、まず状況の理解が的確にできないという不安に直面すること、世間からは相当ズレていると感じはじめること、党としての求心力が弱まること、第三の候補者を選んでおけばよかったと後悔すること、当面何をすればよいのか分からないこと、解散総選挙が恐怖に思えることなどである。

 とくに世間とのズレについては、ズレているのが悪いとは必ずしもいえないが、票が減るのは困るということであろう。さらに何をすればいいのかが分からないというのは、今までは公明党や野党の要求をあれこれと差配すればよかったのであるが、早い話が気がつけば差配される立場になったのである。

 これは課長が平社員になったようなもので、今までは他党が集めた情報を上から目線でいじっておればよかったのであるが、これからは自分たちで情報を集め、一次加工をしなければならないのである。しかし、与党暮らしが長かったためか、見当識が劣化しているようで、正直仕事にならないと思われる。

 ここであえて庶民という言葉をつかうが、「庶民の暮らし」が分かるためには自身の暮らしを工夫しなければ実感がえられない。もっとも、ほとんどの国会議員は実感なき観念論の世界にいるから、さほどに悲観することもないのであるが、それにしても自民党の「庶民の暮らし」への理解の低さは為政者としては失格ものであろう。

 さて、総裁選が広く国民のものにならなかったのは「庶民の暮らし」からはひおく距離があったからである。ゆえに直面する課題は「庶民の暮らし」をいかに立て直すかである。また、今日明日の暮らしこそが大切なのであるから、まずはここをしっかり支えなければ外交防衛であれ産業政策であれどんなに立派なことをいっても支持に結びつくことにはならないのである。

 こういったいい分に対して安易なポピュリズムだと批判するのは簡単ではある。しかし、自分たちのやってきたことが「庶民の暮らし」をないがしろにしたものであったという自省なくして解党的出直しの議論がすすむことはありえないというのが、筆者の主張である。

 政治には自ずから順番がある。「庶民の暮らし」の改善なくして外交防衛も産業政策も保守的価値も始まらないのであるが、これをポピュリズムと切りすてたのでは身も蓋もないではないか。

5.幻の二大政党論を飛びこえてモザイクの多党連立時代へ

 第一党というのは、運動会でいえば一等賞であるからそれだけで誇らしいことであるが、政治の世界は過半数を争うから、第一党だけでは不十分である。また、二大政党が現実問題として根づいていないことも事実であるし、1994年の選挙制度の改正が結局二大政党を目指すものではなかったことが30年余の経験からも立証されたといえることから、さらにその間の有権者の投票行動からも二大政党による政権交代がかならずしも希求されているとも考えられないので、「二大政党制による政権交代モデル」が今日なお求めるべきモデルであるとはいいがたいのではないか。

 くわえて、今日終わりを迎えている自公連立政権自体が四半世紀ものあいだ機能しつづけた歴史的事実をふまえれば、多党による連立政権を前提とした政権交代モデルを受けいれるべき時代が来ているというべきであろう。

 ということは、これからの政権は、政治理念や政策目標さらに具体政策のさまざまな組み合わせを外部環境との整合性に留意ながら最適解いいかえれば妥協解をもとめていくモザイクのようなものといえるのではないか。

 筆者は二大政党制を否定する立場ではないが、現実からかけ離れた制度や体制をいつまでも追い求めることには否定的である。

 また、モデルとした国々の制度も実態として崩れ始めている現実を直視するのであれば、四半世紀にわたって連立関係を維持してきた自公の経験を俎上にのせ多少批判的であったとしても、これからのわが国の政治システムの再生にむけた建設的な議論ができるのであれば挑戦して無駄になることはないと思う。

 幸いなことに、わが国では分断はまだまだ途上にあるといえるから、わざわざ分断化された国々の後を追うことはない。あくまで民主政治の基本価値と原則を守りながら、歴史経験を十分尊重し新しい時代にむかっていけばいいのである。石破政権は不十分ではあったが、熟議国会を野党とともに乗りこえた事実は残るもので、そういう実体験を評価していけば多党連立時代が不毛なものになると断定することはできない、つまりはやってみるしかないということではないか。

 今般の公明党の連立離脱については賛否あいまって列島を染めていくと思われるが、中道改革勢力の軸になるという同党の自己規定(目標)には筆者なりに理解できるところがあるので、次のステージを見てみたいと思っている。

 時代がページをめくったのであるから、おそらく各党ともにそれぞれのページをめくっていくのではないか。という文脈からいえば筆者もそうとうな楽観主義者かもしれない。

6.野党も多党連立時代への備えは不十分

 そこで野党のページのめくり方はどうであろうか。立憲民主党は「玉木でもいい」と最大限の譲歩をちらつかせながら、生みの親役に手をあげた。その狙いは議員数からいって黙っていても主導権をにぎれるということで、喧伝されているほどの持ち出し、つまり犠牲ではないと思われる。このあたりのソロバン勘定の手法は村山政権発足時の自民党のそれによく似ている。

 今回の立憲提起の内容だけでは、玉木氏は結果的に使い捨てになる可能性が高いと思われるし、国民民主党は旧社会党のように存亡の危機に立たされるであろう。

 そういった話の前に、首班指名で総理大臣の指名をうけてから連立協定を協議するようでは話にならないという根本問題が横たわっているのである。連立協定の大綱すら示しえない段階で「玉木でもいい」はないでしょう。連合が仲介した国民民主党との基本合意文書があるといっても、政権運営に資するレベルではなかろう。連合ではなく国民向けに必要なのである。

 現状は、不信のレールに列車(政権)を走らせることはできない。それではいつ脱線転覆するか分からないし、国民の被害が大きすぎるといえる。

 日本維新の会は、小泉氏と連動しすぎたが故に連立参加の道が閉ざされたように見えていたが、公明党が離脱したことからにわかに道が開かれたようである。さらに、その道は公明党との選挙競合がない分より明るいといえる。

 ではあるが、前車の轍をふまずにうまく立ち回れるのか、一呼吸欲しいところであろう。というのも、今でも高市氏が総理になる可能性が最も高いことから何も慌てることはないのである。おそらく首班指名ではニュートラルに対応するのがベストと考えるであろうから、石破氏の場合と同じになると思われる。当面様子を見ながら、高値をまって勝負ということであろう。ページはいつでもめくれるのである。

 国民民主党はいち早くページをめくったので、まず足元を固めることに専念すると思われる。とくに公明党の経験から学ぶことは多い。さらに、支援団体の強度も中程度であるから激震には耐えられないし、支援団体からは連立への強い意欲は感じられない。何よりも、自民プラス維新となっても少数与党であることは変わらないので、是々非々で対応するのがもっとも合理的といえる。つまり交渉事情に変化はないのである。

 立憲民主党、日本共産党、れいわ新選組は政権との距離をつめることはないと思われる。ページをめくるなら数ページ重ねてということになるのではないか。

 ともかく、次のイベントは解散総選挙であり、攻めではなく、行きづまっての解散になる可能性が高いことから、下野するための解散いいかえれば政権放擲論もあるるのである。

 しかし、そういった粗雑な理屈で議員数300近い大政党が結束できるのか、またそれを許す環境にあるのか、さらに景気はどうなのかといった数々のハードルもあり、とても簡単なことは思えないのである。

 ところで、ページがめくられはじめると新興政党はどうなるのか。たとえば、参政党は停滞感に咲いた時代の花であるとすれば、ページがめくられることにより従前のままであれば新鮮味を失うことになると思われる。

 

 

 

 

7.当事者が「数合わせはない」というのに報道番組はシミュレーションばかり

 さて先日の、公明党の連立離脱を受け、「これは面白くなってきた」と受けとめた人たちがいることをとやかくいうべきではない。内心の自由であり、表現の自由であり、政治信条の自由である。

 だから首班指名をめぐって、数合わせをしながらあれこれとシミュレーションを試みるのも報道の自由といえる。ところで、数合わせは算数の世界であるが、現実は大義や政策論が先行する。また、信頼といった人的関係のウェートも高い。したがって、順番からいえば数合わせは手段として後半に位置するものといえる。にもかかわらず、主要なテレビチャンネルが「可能性としてはあるわけですから」と言い訳がましくいつまでも数合わせに拘泥するのはやはり視聴率のためなのかと思う。

 そういった主要テレビチャンネルが高市氏の勝利あるいは公明党の連立離脱を直前になってもキャッチできていなかったことをどう解釈するのかというテーマが残されている。まあ勝手に解釈すればいいのであるが、そうはいっても事後の解説をいろいろと聞かされた時に、事前に把握すらできなかった程度の取材力に乗っかった解説には何となく不足感がともなうもので、これは仕方のないことであろう。

 そういえば、政府あるいは党首脳とのパイプを売り物にしている事情通の活躍する場面が増えている。「昨晩はこういってたんですが」「それはないといっていましたね」という情報も相手が総理や幹事長であればこそのもので、聞き手にしてみれば面白くもあり、またそれなりの説得力もあることから、放送局の報道としては重宝しているのであろう。しかし、ファクトチェックがむつかしい。

 という長い前振りをふまえ、件の公明党の離脱が唐突であったとの批判が自民党あるいは同党シンパから不満げに発信されている。おそらく「どうして今なのか」、「どうして高市の時なのか」という疑問が大きいと思われる。

 そういった問いかけが生じる気持ちは分からないではないが、それは日常的に形成されたものがふと浮上したということであり、どっぷりと日常に漬かっていた側にも非があるということであろう。

 ふと起こることには理屈はないようで、やむに已まれぬ気持が「ときは今」となったのかもしれない。ともかくも日常的に形成されたやむに已まれぬ思いに説明は無用ではないか。

 だから公明党にとっては、煮詰めた末の「ときは今」が10月10日であったと解すべきであろう。それでもなお唐突であると非難をするのであれば、参院選の大勢が明らかになった7月20日から来週の10月19日で3か月が経過し、そのほとんどが政治空白であった。つまり、石破おろしとフルスペックの総裁選が政権政党として本当に適切な選択であったのかという指摘にも答えなければならない。

 そういった政治空白の責任を横におき、「一方的に」とか「唐突だ」と非難めくのはいかがなものかということである。

 とはいっても、このタイミングには隠された配慮もあるようで、それは高市氏の首班指名には害とならないとの見極めが感じられるからで、野党にはなるがただちに敵対するわけではないといいつつ、また長年の関係は選挙区それぞれで対応するということで、直ちに解消というわけではないとの含みを持たせている。しかし、自民党は11日には衆院小選挙区での公明党議員への対抗馬の検討を始めたとの報道もあり、きな臭くも感じられるが、本当のところは分からないし、対応が早すぎるところが解散戦略的には怪しいといえば怪しいのである。

 麻生氏の影響が強く感じられる高市執行部に対し、公明党が石破執行部よりも警戒的であるのはとうぜんのことで、このあたりは高市執行部の感度がきわめて悪かったということではないか。おそらく、単独少数政権としてスタートすると思われるが、座ったまま膳をまつ殿様スタイルで果してやっていけるのかといったさまざまな議論が生じるであろう。せめて内閣人事では党内はもちろん対野党対応にも重きをおいた工夫がひつようである。

 という結語の後ではあるが、筆者の心底には疑問が残っている。選挙後の再編の可能性である。今回の離脱を偽装とまではさすがに考えられないが、それにしても双方ともに失うものがあまりにも多く、利益に対する合理性が成り立たないのである。だから、組織事情を考え一旦白紙としたうえで、情勢を見定め次のステップでは柔軟に対応するということで、その時の自民党が名実ともに中道改革勢力に重なるのであれば理屈として問題がないというざっくりとした感じが残っているのである。

 何事も慌てるほどのことではないのである。

◇ 夢洲の 花火も明日は 潰えゆく 

 

加藤敏幸