遅牛早牛

時事雑考「2025年11月の政局①-高支持率の中のアンニュイ-」

まえがき

[順調に立ち上がった高市政権であるが、内実はさまざまな困難をかかえている。また、外部環境も難しい。答えのないパズルかもしれない。さらに、国内には30年以上放置してきた課題が山積している。

 せめてもの救いは、野党が半熟卵ほども固まっていないことであろう。しかし、これもきっかけ次第といえるもので、立憲が歴史的大転回をすれば状況は劇的に変わる。ということで年内の政局から目を離すことはできない。

 想像をこえる難題を前にまじめであればあるほど無力感に囚われるかもしれない。どうなるかは分からないが、高支持率の中にひそむアンニュイ(倦怠)が気になるのである。

なお、文中の政党表記は前回同様としている。]

◇ 今のところ、内閣支持率は期待値と受けとめるべきであろう。しかし、高市政権への期待とは何であろうか、それも80パーセント超というから驚く。元はといえば有権者が石破政権に対し二回の国政選挙で「ノー」を突きつけたことから、少数与党になり石破降ろしがはじまった、と考えれば石破氏から高市氏への権力移動、つまり疑似政権交代として有権者は肯定的に受けとめているということなのか。主語はあくまで有権者であるが、本当にそうなのかと疑いつつも、そう思わざるをえないのである。

 などと堅いことはいわずに、トランプ大統領との会談や韓国で開催されたASEAN会議での一連の首脳会談がうまくいったと、有権者が安心かたがた評価をしているのであろう。つまり、多少の批判もあるが、日米から日韓そして日中首脳会談までの外交難所をうまく乗りこえたことへの率直な評価であろうから、ここは素直に多とすべきである。

◇ ただし、接遇としては「良」であったとしても、折衝、あるいは交渉としては互いに準備ができていないことから、実際のところは無かったも同然であり、まだまだ評価の入口に佇んでいるといえる。

 もちろん悪くはないし、トランプ大統領からは、これからは何でもいってくれ相談に乗るから的な「安心フレーズ」を引きだしたのは、事務方の丁寧な仕事もふくめ高市スタイルの成果だったと思う。この調子で、チーム高市で困難を切り抜けてほしいものである。

 もちろん、外交においての接遇は重要で失敗は許されない。しかし、接遇がすべてというわけではない。たとえれば、玄関先から応接室までの応対といえるから、日米では「良」としても、日韓、日中は屋外の顔あわせに近く、いわば玄関先での決まり文句のやり取りにすぎないということで、何かがおこれば、その時がスタートなのである。

 内容的には可もなく不可もないということであるが、タッチ的には成功なのであろう。

◇ さて、少しばかり非難気味に指摘された立ち居振る舞いについては、これは日ごろの修練とキャラに根ざすもので、黙っていても地金がでてくる。地金は直せるものではない。また、どこを直すべきかも判然としない。

 たとえば、国際会議におけるオフタイムでの首脳間の距離感は、人間関係や文化的背景の表象であると考えるのが一般的で、さらに多くの場合無意識にまた反射的に決まるといわれている。つまり、とっさの対応であって、観察すればするほどに面白いものであろうが、会場に居るほとんどの人は任務をもっているから観察どころではないだろう。

 しかし、ときおりの報道動画で、たとえば高市総理が会議の待ち時間に、確かチリの大統領だったと思うが、彼のパーソナルスペース(45センチ以内)に侵入(?)した場面があったが、その折に大統領はやおらメガネを外してにこやかに微笑んだ。もちろんテレビ映像であったが、筆者はそのように記憶している。

 これには「近づきすぎ!」という声もあっただろうが、中南米の人びとの個体距離は一般的に短いといわれている。この点をいえば、1メートル以上もの距離をとりたがるわが国のほうが少数派であるかもしれない。いわゆる儒教文化圏の感覚でいえば、なれなれしく感じるであろう。

◇ 人と人との身体距離において、もともと高市氏は近づきすぎても気にならない質(たち)なのか、それとも特別にアドバイスを受けたのか、のいずれかであって、あるいは政治家としての経験から学んでいたのかもしれない。

 ふつう選挙アドバイザーからはできるだけ参加者とは握手やハイタッチをするよう求められるのであるが、これを十年、二十年とやっていると身につき過ぎるというか、習い性になってしまうのである。

 そこで、相手の密接距離(およそ45センチといわれているが)よりも近くに間合いをつめ侵入することが、政治家においてはエチケット違反とはいいきれないのが、もちろん難しい面もあるが、外交というものだと筆者は考えている。とくに、首脳外交におけるそのあたりは臨機応変にどうぞ、後は結果責任ですからと割り切って、堅ぐるしい議論からは切り離したほうが現実的だと思う。

 それに近年では複数年総理大臣を務めたのは十人に届かないうえに、女性総理はゼロであったから、事例としては少なすぎることから議論が成立するのかさえ怪しいものである。ということで、非難や批判のほとんどが印象論なので、印象とは個人の持ち物だから共有化の仕様がない。つまり議論にはならないし、やっても無駄なことのように思えるのである。

 それよりも、わが国の国情からして、政府首脳は警戒されるよりも親近感をもたれる方がいいに決まっているし、愛嬌もたぶん国益というものに多少なりとも役だつと思われる。とくに、日米関係では安全保障の根幹を委ねているのだから、今さら強がってみても滑稽というか筆者にはみっともないことのように思えるのである。総理大臣は国家元首ではないのだから、TPOにおいて愛嬌をふりまくのもいいと思うが、どうであろう。

◇ 前回の弊欄で、高市政権は段ボール製とはいえ紙細工であるから、水を避けるようにつまり抑制的に漸進すべき、と記した。この路線は両院で少数化している政権としては選択の余地のないもので、野党との協調しか道はないといえる。多くの人は順調な立ち上がりと感じていると思うが、野党が受けいれられる範囲でという制約は変わっていないことから、見た目はハイスコアであるが内実は貧相なものといえる。

 また、実態としては野党の要求をいかにして実現するかという、イレギュラーな目的を背負った政権ともいえる。だから、ガソリン税の暫定税率廃止も来年1月廃止の目算であったのに、国民民主のつよい意向をうけ年内ギリギリの12月31日に変更されたと聞く。昨年の3党幹事長合意の経過からいってとうぜんの帰結といえる。また、政権としての立場の弱さを表す出来事になったと思われる。

 しかし、この調子で課税最低限の引き上げも一般化していかざるをえないのか、また財源問題についてはどのように辻褄をあわせるのか、あるいは「責任ある積極財政」はいいけれど、この場合の責任の意味するところが何であるのかなどなど委員会では厳しく問われることになると思われる。

 国会対策としては、連立離脱にともない野党になった公明との関係は重要であり、とくに自維政権の不安定さを考えれば、高市氏だけでなく自民党としてもBシナリオの準備が当面の課題であろう。もっとも連立への復帰といったことではなく、長らく与党の一角を占めていた公明の判断と行動が時として高市政権の助けになるかもしれないという文脈で、野党間における公明の役割の重要性を指摘しているのである。

◇ さて、維新との連立のあり方は良い悪いではなく異形なのである。とくに議会に対して連帯すべき内閣に、意図的に閣僚をおくらないのであるから、これは半分の連帯と理解されてもしかたがないと思う。

 つまり、世間でいう攻守同盟体ではなく、最後の最後でどうなるのかが分からない関係ではないかとの疑いもあるわけで、たとえば維新は連立合意の実現だけを狙っているのではないか、といった勘ぐりさえ生じる余地があるということである。

 そういう意味では維新は、政権を共同で運営する責任をしっかりと負っていることを明示的に表す必要があるのではないか。もっといえば、与党としての役割について、維新における党内での解釈なり、決意を具体的に説明するべきと思うのだが、首班指名で「高市早苗」と記したことで義務というか債務がなくなったというのであれば、実に白々しい話ではないか。

 さらに、吉村代表は大阪府知事であるから、とうぜん国会に籍はなく、また国政選挙の洗礼をうけていない。だから政党の代表としての資格云々ということではなく、政党代表者としての臨場感なき発言などにどの程度の説得性があるのか、とりわけ与党の立場もふくめ応答辞令の重みが問われるのではないかという指摘である。

 たとえば党首討論には参加しない。代表質問にも立たない。という非臨場型の党首が、国会開会中においてどういった役割をはたすことができるのか。という基本的な問いかけである。もちろん、そのための共同代表制であるという理屈はいちおう理解するにしても、外見的にいえば共同代表制というのは二人羽織のようでもあり、早い話が吉村氏が藤田氏を国政分野において指揮しえるのか、といったところが人びとの関心事であろう。

 だからどうしたこうしたという議論を用意しているわけではない。また、傀儡関係をいい募るものでもない。公選されてはいるが非国会議員型の党首のあり方とか、今後の可能性について関心を抱いているだけである。

 さらにいえば、連立合意書にある11.統治機構改革については、提起の内容だけでは筆者には残念ながらイメージ化が難しい。とくに、大阪府が副首都機能の誘致に手を上げる気であるのなら、党首が当該知事であることが、利益相反ではないにしても、我田引水に近いことは否定できないのではないか。

いいかえれば、初めに「都構想」があって、その手段として「副首都」が構想されたのはないかという巷における謎解きの一種が、大阪風にいえば「うまいこと考えよった」あるいは「高市はんの足元見てうまいことやったんと違うか」とか、大阪では駆け引き上手として話題になるのであろう。

 ということで、作戦が図にあたった感に浸っているのかもしれないが、大阪では百点、しかし百点であるがゆえに、他所ではゼロ点になるリスクを抱えることになる、と思う。まあ、過ぎたるは猶及ばざるが如しというべきかもしれない。

◇ さて、維新には大阪とその他という二面構造があって、党内権力関係でいえば大阪優位になっているのではないか、という指摘である。

 大阪府知事としての職責を全うしていることは間違いない。しかし、国政政党としてはいかがなものであろうか。

 大阪のために頑張る維新は分かりやすいが、大阪のためだけの維新であっては国政政党とはいえないでしょう。それが、我田(大阪)引水にとどまらず、勇み足(誘致準備)までやらかしているとの批判を受けないよう慎重な対応が求められるのではないか。いいかえれば、党首機能と府知事機能の分離というのは同一人であるかぎりいろいろと面倒ではないかと思っている。

 前にも少し触れたが、「衆議院議員定数の削減」が連立合意に急きょ追加されたいきさつについては、「政治資金の規制強化など」が自民側において対応が難しいので、やむなく差し替えられたとそれなりに理解していたのであるが、はたして自民側だけの問題であったのか、この先明らかになると思われる。いずれにせよ「政治とカネ」問題の間口は広く、奥行きも深いということであろう。

◇ それにしても、比例で50ほどというのはフライングではないか。シミュレーションによれば自民と維新にとっては相対的な恩恵が大きく、中小政党には壊滅的な打撃を与える可能性の高いものとなり、自民への厳しい条件付けを装ってはいるが、本当のところは自民への贈物だといわれても完全に否定はできないであろう。

 というのも、選挙制度の変更において明らかに有利不利といった利害の偏在があるかぎり、疑いは消えないもので、まして、複数の政党の存続にかかわる民主政治上の重大問題に発展することを意識してか、理不尽につぶされたら解散したらいい、という発言(11月8日ABCテレビ「正義のミカタ」)もあったと聞く。議論の骨格すら不明な段階でのこういった解散にかかわる発言は揣摩臆測(しまおくそく)を呼ぶものであり、与党の一角を支える党代表としては勇み足にもほどがあるというべきものである。さらに、その理屈は強行採決をも辞さずという姿勢に通底するのではないか。と思ってはいるが、実際のところその真意はよくは分からないのである。

◇ 筆者世代にすれば、そういう解散総選挙を企図するのであれば「民主政治を守る統一暫定連合」などを結成して、反自民、反維新の狼煙をあげればいいだろうに、といった妄想をたくましくするというか、久しぶりの大義名分のしっかりした勝ち筋の運動であるから、アドレナリンの分泌も高まるということで、間違いなく少規模政党弾圧にはオール野党でなくとも、立憲、国民民主、公明だけの選挙協力であっても闘う価値があるし、国民運動としてもやり易いと思うのである。

 団塊の世代とかは、年は喰ってはいるが1970年あたりから成長していないのが多く、いいかえれば若いと思っているから、弱い者いじめに対しては埋れていた義侠心がふつふつと湧いてくるのである。まあ、妄想ではあるが。

 もちろん、自民党の多くはそんなことは考えないであろうし、高市政権には維新の閣僚はいないわけだから、前回も述べたように「維新の出番はここまで、ご苦労様でした」という声がでてくるかもしれない。

 ことほどさように自民が冷静でいられるのは、高市政権の出足が順調であるのと、わざわざ天下の嫌われ役を買ってくれている政党が横にいるからで本当にありがたいということであろう。

 そのうえで、内閣支持率の高さから年内にも総選挙をおこなえば単独過半数でさえ夢ではない、といった想いをめぐらせるのは人情において否定はしないが、現実は総選挙で参議院の劣勢を挽回することはできない。それよりも参議院が全体として本格的な対決モードになれば、たちまち政治が停滞するのは目に見えている。これは2007年から2012年の参議院小数与党時代の経験からいえることである。

 また、内閣支持率と投票行動の関係が今ひとつ分からないところもあり、簡単に決断できるものではない。

 逆にいえば、参議院での過半数確保の目途さえつけば、高市氏は即断するのではないか。事に臨んで引きさがる人ではないと思っている。だから維新サイドから催促のためであったとしても、解散に触れるのはかならずしも得策ではないというのが大方の見方であろう。

 あるいは、事と次第によっては主要野党の選挙協力を促すことになりうることからも、まして立憲が安保法制への対応をニュートラルにシフトして、エネルギー政策を柔軟化させれば(そうなればいいのだが)、一挙に連携の扉が開かれる可能性があることからも、政局に対しては慎重に考えたほうがいいのではないかと思う。事態は存外に流動化している。

 総選挙への準備がどの程度ととのっているのかは不明ではあるが、特段のプラス材料があるようには思えないのに、わざわざ解散に触れる真意がどこにあるのか。これはけっこうな謎である。ともかく飛んで火にいる夏の虫にならないようにということであろう。

 与党といっても少数与党であるから、重心を下げておかないとさまざまなリスクに晒されるであろう。つまり、連立の絶対条件としている項目のうちいくつかの実現は難しいのではないか。こだわりすぎると維新をとりまく状況は波乱含みへと一挙に変化してしまうかもしれない。歯切れの悪いいい方ではあるが、そういうことになると思う。

◇ 冬晴れや 病を隠し 京に出る 

 

加藤敏幸