遅牛早牛

時事雑考「2025年11月の政局②-外憂は凝集性を高めるか?-」

まえがき

[秋だから仕方がないのか不活なること甚だしい日々が団体で来た。言論空間が乾いている。あかぎれのように目も耳もヒリヒリと痛い。言論がバカバカしい。といった無意識の思いがストロークを間違えさせるのか。指が勝手に間違える。

 悪口を書けば書くほど金が生(な)り。良心を冥土に送るクリックかな。と何回も間違えて はじめからやり直すのだが、指がわざと間違えているのであろう。これはストライキかもしれない。遵法ストではないか。

 働きすぎると結局こうなるのか。ストンと能率が落ちる。ところで高市政権よりも野党が心配だ。地味なのはいいが、時代遅れは不適応のせいかもしれない。筆者などの世代には抵抗があるのだが、感情的なフレーズのほうが受けがいい、分かりやすいと。とどのつまりは理性は情動の召使なのであろう。奴隷でなくてよかったと喜んでいるが、ぬか喜びだ、すぐに奴隷になるさ。生成AIには書けない文章を書こうと格闘するおまえは誰だ。はやく生成AIに聞けよ。

 ストレートに感情を表す奴のほうが信用できる。だから、理屈が靴を履いている奴は信用できない。チクショウ、理屈が信用できないのだ。

 という時代になりました。さらに加速するでしょう。感情だらけ、感情まるだしの世界こそが健全なのだ、と叫びながら11月は消えていく。理屈が渇き、言論空間が乾燥すると倦怠感だけが残る。例によって、政党名は略称とする。]

1.新しい酒は新しい革袋に!ってことなのか、よう知らんけど

 衆議院予算委員会での高市総理の答弁をめぐって日中関係がギクシャクしているとの報道がつづいている。といった報道が事態を煽っているという指摘もSNSで増えていたと聞くが、そのSNSも事態亢進の一環と解釈されるのかしら。 

 と、もごもごしていたら中国側の対応がエスカレートしたようで、ツーリスト、留学生、日本食のファン、それに受けいれたりサービスを提供する国内の人たちにすれば「また、なんで?」というか、いわゆるとばっちりであろう。こういう突然スイッチは今回にかぎらず過去何回も経験してきたので、両国民ともあまり驚いてはいないだろう。何かしらの政治パフォーマンスと受けとめる人も多いのではないか。

 ところで、多くの人が経験していると思うが、いわゆる番長の難癖は番長に原因があるのがほとんどであって、なのに「何か悪いことをしたかしら」とか「(仲間に)お前が変なことをいうからだ」といった対応は当面の静めにはなるかもしれないが、番長には報酬をもたらす(味を覚えさせる)ことになり、かならず後の災いとなるので、いわずもがなではあるがしかるべく対処することになると思われる。

 大帝国の朝貢外交の伝統なのか分からないが、〈 〉だけで=のない世界なのかしら、ときおり説教モードに入るので、暫くは静かに警戒しなければならないだろう。

 

2.選挙だけではない、国会質疑にまでSNSの影響が押しよせる

 で、11月7日の質問者が立憲民主党の岡田克也氏であったことがどの程度影響していたのかは不明であるが、SNSでは「そんな質問を(しつこく)するから」と質問者を責める声もあって云々ということで、こうなると国会における質問権にもかかわるので抑圧的との批判もでてくるであろう。また論理性を欠いた感情的な反応はとても言論空間とはいえない。などとぼやいているのは日ごろSNSとは長~い間合いをとってほとんど不参加を決めこんでいる筆者のポジションのせいかもしれない。

 しかし、世の中の流れはいくら筆者がぼやいてみても、多頻度のものこそがSNS空間としては主流なのであろう。論理よりも感情に重心をおいた言説は伝搬力が強くSNS機能と重畳して新たな味付けを言論空間にくわえていると思われる。とくに選挙への影響力をつらつら顧みれば、国会での質疑も変わらざるをえないのか。

3.存立危機事態の議論には前提が必要

 さて、存立危機事態をめぐるやりとりの中で、どういう事態になったら存立危機事態と認定できるのかという質問と、実際に認定するのかという質問は質的に異なるもので、とくに後者は未然のことであって現段階で必ずしも認定しなければならないものではないだろうし、したがって明言する必要もなくそのことをふくめてあくまで政治判断なのである。また、わが国だけの問題なのかという視点でいえばつねに同盟関係がついてまわることから、単独での判断とはならない点においても政治判断なのである。

 一方、前者は集団的自衛権の行使につながる条件の重要部分を構成するもので法律の目的あるいは建付けについての法解釈といえる。したがって、国会での議論も法解釈論が中心となる。

 ただし、わが国への武力攻撃が行われた(行われつつある、行われることが明白である)場合は、武力攻撃事態であるから個別自衛権の行使が当然のこととではあるが、さらに日米安保条約の適用領域に移ることになる。

 これを日本有事というならば、存立危機事態は日本有事ではない場合の議論なので、いささか気に障るのかもしれないが、有事ではないがわが国の存立にかかわる事態がありうるというのが安全保障関連法の主張のひとつであり、それは10年以上前に国会としては200時間ほどの時間をかけての結論であった。

 ということで、存立危機事態の議論にはいくつかの重要な前提があるのだが、さまざまな立場での議論が連鎖している内に、重要な前提がどんどん希釈され、フリーハンドとはいわないまでも政府(内閣)だけの判断で集団的自衛権の行使にいたるような錯覚を生む省略しすぎの文脈さえ流れはじめている。とくに国会の事前承認を原則としていることへの言及を欠いては、要らぬ誤解をまねくのではないかと危惧している。

 

 

4.安全保障関連法を与件としなければ、政権は安定しない

 ここでそもそもの話となって恐縮ではあるが、2015年の安全保障関連法は、安全保障にかかわる日米同盟の補完を意図するものであったと筆者は理解している。その肝は条約に基づく日米(安保)同盟を有効に機能させるために、米国から「こんなのやってられない」と非難されることがないように、米国の立場からも同盟関係としての説得性を担保できる体制整備をめざしたもので、とくに米国民から見ての双務性の担保については最低限の設えを工夫したと理解している。 

 とはいっても実際のところ、それで十分であるとか、納得できるというレベルとは思われないが、他方で憲法が許容できる範囲にも限界があること、との整合性でいえばやはりギリギリの線であったといえる。

 もちろん、個別自衛権の拡大適用という考えもありえたが、時の安倍政権の判断において、集団的自衛権の行使を憲法違反とする長年の解釈をコペルニクス的に変更し、厳しい条件のもとではあるが集団的自衛権の行使の道を拓いたもので(これが道といえるかどうかは別にして)、これが当時の国会におけるはげしい議論の結論であったから、反対した政党もそのことを与件として2015年からのわが国の安全保障を考えてきたのではないかといいたいのであるが、いくつかの政党では不承服であるという状況がつづいているというか、時計の針が止まっているようであった。

 もちろん、政党それぞれの判断ではあるが、しかし政権をめざしその担当能力を示す道筋からいえば、2025年においてもなお不承服の態度をとりつづけることには筆者は疑問を感じている。つまり、現在の安全保障関連法はいずれの政権にとっても就任時点では与件であって、不都合があるなら適正な手続きをへて改正すればいいと考えるのが一般的であろう。改正までは現在の法律に従うことはいうまでもないことである。 

 現実的には、改正となれば多くの有権者に安全保障にかかわる混乱の予感を与えると思われる。安全保障を争点にした選挙で多数議席を獲得することがはたして可能であるのか、と問われるなら現在の安全保障環境を前提にするなら答えは否定的にならざるをえない。

 岡田質問への批判を意識したのか、立憲の幹事長が総理が変わるたびにいつも質問している旨の説明をしたと伝えられている。では、立憲への政権交代の暁には与党となった立憲が同様の質問をするのかと興味をおぼえるであるが、その前に立憲としての安全保障政策の整理が必要であるということではないか。質問者への冷たいまなざしの中には、もの足りなさに基づくそういった感情があったように思う。

5.激変する安全保障環境への適応とは、各国との関係刷新から始まる(読み飛ばし可)

 2015年から2025年までの11年間の、安全保障をめぐる世界の情勢変化は著しく、たとえば中国の急速な軍拡、北朝鮮の核保有志向、ロシアのウクライナ侵略に見られる復古主義など、ますます軍事偏重型の対外政策の傾向がつよまっている。という流れが生じたのは、国際的パワーゲームともいうべき相対的な力関係の変化とそれぞれの内政事情が交錯しているのに、国際機関などが利害調整できない、すなわち無秩序が野放しになっているからであろう。いわゆるGゼロ現象である。

 もちろん、米国の退潮がその主因であることは間違いないことであり、とくに米国内の政治動向が大きく影響していると考えられる。対外展開に積極的な時代に経験した蹉跌が、対外政策の縮小をまねくといったベクトルチェンジが長周期でくりかえされている。その変化が何年か後には、とある国あるいはとある地域の紛争などの政治事象として形を変えて出現し、人びとを困惑させることも多いと思われる。

 これらの事象間の連関については、少人数による意図的なたくらみから発しているというのが典型的な陰謀論であるが、現実はそれほどの能力を人が有することはなく、明らかに非意図的に事象が絡まりあいながら連関しているということではないかと思う。

 という世界観に立てば、さまざまな要因が複雑にからんでいるのに、事象の説明のためにそれらの関係を一つ二つの要因に集約させることは無理に真実から遠ざかるという意味で不適切といえる。

 つまり、あくまでも多項目を、それらの相互関係を解きほぐしながら同時に考察していくという、かなり面倒な作業をこなさなければ全体像をつかむことはむつかしい。ということは、実相をとらえるのは想像以上に困難であるから、ほとんどの政府も政治家も残念ながら実相を把握することなく、おそらくは過去相にもとづいての問題処理に忙殺されているのではないか。その状況を悪しざまにいえば、「みんな時代遅れ」なのである。

 つまり、国際政治も外交もほとんどの局面において時代遅れなのである。お互いに時代遅れであるからなんとか調和しているのであろう。

 もちろん、急速な環境変化への不適応がさまざまな形で生じることは生物界においてもよくあることであり、想定しうることである。同様の連想において、人間界においても不適応現象が多発していると思われる。いく度となく繰りかえされる文明の興隆滅亡もその一環と思われる。時間軸の目盛りはさまざまであっても変化とそれへの適応が主題であり主旋律なのである。

 要約すれば、この11年の間においても短期間ではあるが、リアルな安全保障環境は激変しており、その変化のありのままを直視しなければ不適応となり、たちまち時代に置いていかれるのである。つまり、すべてが日々旧式化しているという事実に気がつかなければ何事も始まらないといえる。

 いいかえれば、激変している歴史を人びとは静止観測することはできない。誰しも観測者としてかならず変化していることから、相対的には変化を感じにくいのであろう。つまり、変化をビビッドに感じることができないのである。

 変化を感じることなく旧式化していくパターンの典型が、まず変化の最先端に位置すべき政治に携わる者であるとの指摘に反論する人は少ないであろう。たとえば、安全保障に関する日米同盟を基軸に外交戦略を構築するというもっともらしい基本的態度ですら、経済安保の観点でいえば米国による高関税政策によって、旧来の同盟関係がやすやすと踏み越えられて、自国利益第一主義という新たな敵対的イデオロギーの餌食になるのであるから、敵味方から同時に挟み撃ちにあっているようなものであろう。いろいろいっても、起こっていることは安全保障同盟の粗鬆化なのである。

 つまり、極論すれば一番新しいのはトランピズムであり、それゆえ旧式のままの存在にとっては破壊的に見えるのである。この新しさにはいわゆる脈絡とか体系性とか論理性はなく新しいだけで、あるのは影響力としてのパワーだけである。(もちろん新しきものが常に正しいとはかぎらないのである。)

 というように激変していく環境をリアルにとらえながら、たとえば日米関係や日中関係あるいは多くの国との関係を環境変化と同調させながら刷新していくことが、時代に取り残されない環境への適応という視点からは、必須とはいえないまでも必要ではあるといえるのではないか。

6.存立危機事態は米国との関係で決まる

 さて本題にもどり、わが国に対する武力攻撃には個別自衛権の発動として対抗的に武力行使ができる。しかし、わが国に対する武力攻撃ではないが、安全保障関連法では「我が国と密接な関係にある他国に対する武力攻撃が発生し、これにより我が国の存立が脅かされ、国民の生命、自由及び幸福追求の権利が根底から覆される明白な危険がある事態」を存立危機事態と認定し、集団的自衛権の行使として行動が可能になるが、さらに3要件のすべてに該当することが必要であり、その3要件とは1.存立危機事態に該当、2.他に適当な手段がない 3.必要最小限の実力行使であることとなっている。くわえて、緊急時には事後承認とするも、国会の事前承認を原則としている。

 という法的枠組みの中での議論であるかぎり、「密接な関係にある他国に対する武力攻撃の発生」が暗黙の前提なのである。くわえて、他国とは今のところ同盟関係にある米国であることは明白である。

 また、後段にいう「明白な危険がある事態」とはたとえば海路封鎖によるわが国の甚大な被害が想定される場合などで、とりわけシーレーンの確保などが国民の幸福追求の権利において必須、不可欠であると考えられる。

 という、存立危機事態の構造を理解すれば、今展開されている言説あるいは議論の多くが的外れではないかと、筆者などは首をひねるのである。極論すれば、米国をさしおいて日本が動く構造にはないのである。

7.東アジアにおける安全保障への米国の関与がベースである

 結局のところ、東アジアの安全保障はベースにある米台関係や米中関係を抜きに論じることはできない。つまり、それらのベースを踏まえてこそ日米間の議論がはじまるといえるのである。いずれの国も単独行動にはリスクをともなうもので、何かしらの保険をかけるものである。いわんや主役の座をとれないわが国が主体的にかつ単独で何かを決めることはありえないし、それはきわめて危険といえる。もちろん、政府においては百も承知のことであろう。

 切るカードがすくないわが国に対して、まるでストレステストのように難題が降りかかってくると思うが、それらに対しては時間をかけながらストレステストの理不尽さを広く世界に訴えることしか手がないと思う。

 双方の経済情勢などを考えれば、時間はけっして中国の味方ではない。さらに、反中感情のいっそうの醸成は中国にとってもリスクであるから永久に続けられるものではないだろう。くわえて、反中感情の長期化はどちらかといえばわが国の保守政党の主張に力を与えると思われるし、経営者をして依存関係からのさらなる脱却に走らせるであろう。

 くわえて重要なことは、高市総理にとっての失政となる可能性は、国内的には事実関係においてほとんどないというよりも、野党もメディアもSNSも高市批判が中国政府への忖度あるいは媚中的言動と思われることをもっとも警戒するであろうから、いずれ愛国的に振舞うかもしれない。

 ということで、本筋である戦略的互恵関係を大切にした日中間の経済協力に早く戻すべきであるが、中国側に切れるカードがあるだけに時間がかかるかもしれない。中国国内の経済不調の原因を高市総理に求めることは無理である。日本たたきをやればやるほど職をえられない人びとの不満は亢進すると思われる。

8.国内政局への影響では、難問であった防衛予算の増額が少し楽になる?

 一連の騒ぎがわが国の政局にいかなる影響をおよぼすのかが次のテーマとなるが、さすがの幹事長の擁護釈明ではあったが、立憲への風向きは感情的にも厳しくなると思われる。とくに、日本人ファーストに共感した層は中国の施策を理不尽と受けとめ、反中感情を固定化する可能性がつよいのではないか。ちょっとした反感から明確な理由に支えられた反中感情に増悪することは両国にとって何かと重荷になるであろう。

 また、防衛予算の増額を支持する理由が増えることは高市政権にとっては多少の追い風になると思われる。高市総裁を選択した自民党の地方組織はさらに強固に支えようとするから、党内での批判は抑制されると思われる。しかしその風潮によって情勢変化への適応の議論までもが不活発化するのは問題であろう。

 自民党への期待が溶解したと証明されたわけでもないのにしょぼくれてどうするのよ、という声がある。立憲が基本政策の見直しに成功すれば自民は劣位においやられる可能性があるので、立憲の躊躇こそが自民のチャンスなのである。という構造を理解すれば当面の政局の方向性が見えてくるのではないか。

 一方の立憲の課題は世代交代であろう。世代交代してもなお基本政策の整理ができないのであれば、万年野党をやればいいということになる。ここは奮起を基待したい。

 与党として新風を起こした維新がしこりはじめている。閣僚等を出さなかったのか、出せなかったのか小さな疑問が消えない。維新版「政治とカネ」問題への関心が高まっている中で、議員定数削減も副首都構想も丁寧な対応が求められる。解散総選挙で突破できるものではないと思うが。

 他方で、準備中の補正予算案の規模が膨らんでいる。借金で要望に応えていく手法への市場からの返事が金利上昇と円安であれば、「責任ある積極財政」の責任というのは何なのか。

 物価上昇が財政需要を押し上げるのは想定通りであるとしても、歳入増はインフレによる税収増をベースに、さらに新たな国民負担を求めざるをえないのではないか。物価対策への要請にはインフレによる税収増を充当するというのは分かりやすい。しかし、それ以外の要請にはやはり新たな手当(財源)が必要になるケースが生じると思われる。

 租税特別措置及び高額補助金の廃止に手が届くのか。またOTC類似薬を含む薬剤自己負担の見直しも、さらに医療費窓口負担の年齢によらない応能負担も、いずれも高齢者を狙い撃ちしたものとの批判を生むであろう。どれも難題である。それも少数与党がやるというから驚くばかりである。

 しかし、不思議なことではあるが、小数与党だから負担増という大仕事をやってのけられるかも知れない、のである。負担と給付という構造からいえばドラスチックな付け替えの提案である。年齢によらない真に公平な応能負担として召しあげたものを、生活に苦労している子育て世帯にむけて負担と給付との関係を使って疑似所得移転を計るとは大胆不敵な企てといえる。

 もっとも細部を見なければなんともいえないが、挑戦することへの反対は難しいであろう。さらに、ある程度の修正を覚悟すれば、また審議日程が十分であれば、中道野党は喜んで形を変えた手取り増政策と受けとめ、賛同すると思われる。もちろん、制度内での出入りを均衡させれば財政的には問題は生じないと理論上はいえるのであろう。ということは、そうとうな負担増を余裕のある高齢者に求めることから、かなりな反発があるかもしれない。また、負担者からの不評はやむをえないと割りきるということであろう。

 とくに、負担増となる高齢者からの支持が厚い自民をまとめられるのかがポイントであると思う。立憲も支持層の年齢構造が似ているというか、年金生活者の動向次第と思われる。

 その点をいえば、若年層からの支持が厚い政党にはピタッと、ちょうどジグソーパズルの最後の一枚のように、嵌まると思われる。

 ということが、うまく運べば国会の審議は一変し、政策中心の国会になると期待できるが、国民負担増は議員にとっては恐怖の小箱であり、選挙を考えれば怖くて開けられないということで、財政規律が緩むことは避けられないであろう。

 さりとて、プライマリーバランスからDNP比率への基準転換は簡単ではない。あまりにも都合がよすぎると受けとめる人も多いだろう。さらに、異次元の金融緩和がとんでもない副作用を生んでいると考える人も、当然アベノミクス懐疑派もいるから議論をまとめきれるのか、については疑問が残る。やはり、負担増とは組合わせられないのではないか。

 ということで、政策も可能性も満載ではあるが、リスクも満載というのが高市丸の実情であろう。

 

9.Gゼロ、視界ゼロ、予見ゼロの世界、何が起きても不思議ではない

 前述の通り、トランピズムが内包している同盟国への攻撃性がこの先も緩まずに続くのか、あるいは民主党の反転攻勢が成功するのか、予断できないからこそ日中関係には多少の可塑性を残すべきかもしれない。権威主義というのはその維持に手間暇にコストがかかる割にはひびが入りやすいもので、緊張の後の弛緩が危ういといわれている。

 などなど相手があっての話なので、わが国がひとりで堂々巡りをしても仕方がない。いい感じの日米首脳会談ではあったが、一年先はおろか半年先でさえ見通せない中で、国内では日々ストレステストを受けなければならないというのは過酷なことであろう。

◇ 霜月や 夕日の中の 玉すだれ

加藤敏幸