遅牛早牛

政局雑感「高支持率と安全保障は関係しているのか?」

まえがき

[前回のつづきである。怒っているのか焦っているのか、しばらく推移をながめていたがエスカレーションが収まる気配はなく、さらに様子をということで、今回は少し構造的な面を述べてみた。2014年ごろの議論をベースにしている。古いものではあるが参考までにということである。

 このコラムは民間労組の執行役員あるいは活動家を読者として想定している。内容的には、最近は政局物に傾いていると反省しているのだが、政治情勢が日々変化しているので、どうしても筆がダラダラと動いてしまうのである。早く労働問題へ復帰したいと思っている。

 あいかわらず眼科の世話になっている。長時間パソコンにしがみついているのが原因だと思うが、業というか卒業できないでいる。早や師走である。インフルエンザに気をつけながらもう少しと思っている。]

曖昧戦略には短所もある

 前回(2025年11月21日)の弊欄では、11月7日の衆議院予算委員会での立憲民主党の岡田克也氏の質問への答弁をめぐって、中国側の反応が思いのほかエスカレートしていることなどを中心に、筆者の受けとめや所論を述べてみた。

 そこで続きをやりたいのであるが、問題はこの一連の事象をどう呼べばいいのかである。「混乱」ではない。「紛争」は違う。「摩擦」を使うには一方的すぎる。まあ、中国側からいえば「懲らしめ」のようであり、日本側にすれば「言いがかり」かもしれない。

 主権国の国会でのやり取り、それも重複された質問への答弁の一部分に、質疑のシチュエーションあるいは文脈とは関係なく勝手に決めたNGワードに触れたと一方的に非難を繰りかえしながら、さまざまな不利益行動を誘導している。もちろん、非難と行動は必ずしも連結しているわけではない。たぶんそのように見せかけているのであろう。

 で、発言の撤回はしない、できない。なぜなら主権国家が外国からいわれて 行政の最高責任者のそれも国会での発言を撤回することなどありえない。通常、隣接する国家間にはさまざまな見解の相違がありうるが、その相違についていくつかの前提のもとに深掘りすることは民主国家の議会ではよくあることである。

 とくに安全保障にかかわる議論は、ほとんど近未来への備えが中心になることから、さまざまな事態を想定し、場合においては最悪の事態への対応が俎上にのることもままありうる。ただし、あからさまな議論は感じが悪いことから、その具体部分だけを文面から外したり、ぼやかしたりといった工夫をしているのであるが、その工夫が逆に「そういう事態は想定していない、除外事項である」との解釈をもたらすことになると、政治的配慮が逆効果を生むことになるというのが、一般的に曖昧戦略の短所といわれている。

 つまり、触れないことを長期につづけることが「存在しない」ことを意味してはいないのに「存在しない」ことになってしまうのは困るが、さりとて「存在する」とはいえない、とまあ禅問答になってしまうのである。

 という複雑かつ微妙な背景をもつ局面での、大いに主語を省略した、また文法上も係り結びが不詳になるやりとりを撤回することは、空気を撤回するようで馴染みのないことであるが、それよりも場合によっては別の政治的意味あいを生成することになることからも、ありえないのである。

 要するに、撤回しなければならない理由もなければ根拠もないわけで、そんなことをやれば政権崩壊に止まらず、わが国の安全保障の枠組みの再構成を迫られることになる、という厳しい考え方も否定できない。

 ということで、今回の中国側のエスカレートぶりに戸惑っている人びとも多いと思われる。もちろん、今日の国家関係ではあまり例を見ない展開であるから、かなりの人が違和感を感じるのは当然であり、中には日中間にはとくべつな仕切りがあるのかと、とくに若い世代においてはネガティブに受けとめるかもしれない。

王朝時代からの伝統か?中国外交には特異な面が多い

 筆者の考えでいえば、近代ヨーロッパで形成された外交様式に対しては、中国共産党の元にある中国政府は反立(アンチテーゼ)をふくみながらも表面上は利用主義的な姿勢をとっていると推察している。しかし、深層においては国家間の対等原則を受けいれる気がないようで、とりわけ小国は大国に従うべきという覇権主義への傾倒がいちじるしく、くわえて国際機関に対しても便宜主義的であると思われる。

 そういった伝統にもとづく重商主義的なあるいは便宜主義的な外交をベースに、近年では戦狼風の上着をまといながら、さらに経済援助による依存と経済威圧による強制などにくわえ、情報心理戦とよばれる謀略的な活動も活発化させていると各種の報告や報道が伝えている。それらの中には、自国民に対する監視と国家への協力の義務付けなどが法制化されていることへの暗黙の批判もあるように思われる。

 もっとも、そういった外交姿勢などは、近隣諸国に対するリアルな軍事的威圧を用いた勢力圏の拡大などに比べればほんの入口であって、ことほどさように力任せの拡大主義は、当然のことながら周辺国の想定をはるかにこえる速度でパワーバランスの変化を生んでいるといえる。立場を変えれば、これこそが一線をはるかに超えた勢力拡大そのものであると受けとめている国々が、わが国もふくめて少なくないと思われる。

 気がつけば4隻目の空母が建造中であるという。この中国の軍備拡大拡張路線は空母にかぎらず、あらゆる領域に広がっていると考えるのが一般的であって、これほどの規模とスピードで展開されれば、周辺国がひどく警戒するのは当然のことといえる。 

 そんな事態に遭遇しているのに、わが国の油断は底抜けのようで、前回の弊欄で、時代の変化に対し政治がもっとも適応不全であり「みんな時代遅れ」と述べたが、とりわけわが国の政治家、評論家それにオールドメディアの一部の遅れぶりはむしろ意図的であると感じている。

わが国も他国をしっかりと理解できているわけではない

 他国の今がどういう時代状況にあるのか、についての認識はさまざまであり、それを統一化することは困難であるし、ムダともいえる。たとえば、四半世紀前の印象で今日の中国をとらえている時代遅れ感が、わが国のあちらこちらで散見されるが、これは広大な領域を標準時的にとらえることが簡単ではないことから生じているのであろう。ということで、A国の人びとのB国に対する認識が標準時に追随できていない分野があり、またそのことを寓話として扱いえても、安全保障分野については別の枠組みであるから、人びとの認識が大きくずれていることを寓話にして終わらせるわけにはいかないのである。

 という定式化された修辞は、中国の軍事力が核をはじめ最新兵器において、ここ十数年間で急速に進歩拡大していることを市井の人びとに警告的に知らせしめるということであったが、今日ではむしろ認識において逆転現象がおこっているように感じられるのである。逆転とは、知らせしめる側が案外遅れているというか、人びとのほうがことの真相を直感的に把握していると感じることがままあるということである。

中国の軍事力の方向性への不安が徐々に高まっていく

 ここはやや踏みこんだいい方になるが、たとえば反戦平和運動に強く傾いていたグループほど中国の軍備拡張には鈍感であるという、もちろん仮説レベルではあるが、そういう傾向を一部の有権者は感じているように思われる。

 つまりかつての学生運動での陣取り合戦のようないい回しも、たとえば沖合にあまり見かけない旗を掲げる空母を見いだした時の、人びとの衝撃あるいは吃驚を目の当たりにすれば、「百聞は一見に如かず」ということであって、観念的いい争いに没頭していたことがいかにムダであったかと、あたかも頭部を痛打される思いにいたるであろう。

 否、人びとはすでに沖合に中国の空母を見ているのである。そしてそれが何を意味するのかも反射的に理解しているのではないか、とさえ思うのである。

 という文脈でいえば、幕末の黒船来航を思い浮かべる。「泰平の眠りをさます正喜撰たった四盃で夜も寝られず」ではないが、いずれそういう場面が出現するかもしれない。出現しなくとも、4艦あれば2艦稼働体制が可能なので、いつでも示威行動をとることができるのである。

 人びとはすでに予感をもっているのであろう。

 その予感とは、わが国の国会での質疑応答の如何にかかわらず、中国の西太平洋を視野にいれた軍事的海洋進出の方針は変わらない(と考えるべきである)から、ここを外しての事態収拾など空論でしかないと理解しているのではないか。

 つまり、彼の国にすれば、威嚇によるかどうかは別として、日本の中立化こそが当面の戦略目標と位置づけられるべきなのであって、おそらくそういった彼の国の発想は今後も変わらないと思われる。そこで中立化とは具体的には在日米軍基地の使用制限を意味するが、そのためにはわが国の世論に対し、米国が引き起こす戦争への巻きこまれ不安を煽り、わが国への直接的な武力攻撃以外での基地使用を制限することをゆるりと教導していくことを上策と考えていると思われる。

 そのような特殊な工作において、もっとも効果的と考えられているのは超微香ではあるが長続きするもので、とくに人を介した独自の見解として広がるものこそ、その筋においては価値が高いといえる。いわゆるシンパの形成である。

 仮に台湾での有事というものがありうるならば、その作戦における核心は日本の無害化であって、どんなプロパガンダが人びとの不安を宥めるのに有効であるのか、という点に関心があるのかもしれない。さらに、臨検はしないという条件で、彼らにとっての無害化を釣りあげるのが上策であると考えているのであろう。

 しかし、高市総理の認識といえば、予想していたとはいえ米国との連携を当然視している点において、遠慮の欠片もない単純明快すぎるもので、忖度どころか容赦のないものであったと彼の国の首脳は受けとめているのであろう。とはいえその時にならなければ分からないことも真実であるから、そういう意味では曖昧なポジションは今までと変わるものではないといえる。ここは米国に連動する可能性が高いと思われる。

 くわえて、とくに中国に対しては非好意的というよりも反感をもつわが国の国民感情が、現に存在するのであるから世論誘導などはとても困難といえるし、一連の対日不利益行動がつづくかぎり、不信感が弱まることはないと思われる。

 といった今日の状況を踏まえれば、高市政権への国内の批判が高まることは期待できないと気がつくであろう。「あれもこれもみんな高市総理の発言のせいである」といった言説がめざすところが何であるのか、わが国の立ち位置からは、いまいちゴールが見通せないのであるが、しかし少なくとも反高市世論の高まりを期待するという観点でいえば、典型的な逆効果となっている。であればあるほど、許しがたいと内心刻んでいるのかもしれない。

国防論議はどうしても愛国的になる

 もしかして、期待していた評論家あるいはマスメディアがあるのかもしれないが、さすがにこのシチュエーションでの政権批判は中国への利益付与になるのではないかと、多くの人びとが受けとめていると思われる。

 利益付与といったあいまいな表現こそが、外部からのソフトな工作に対しては最も効果的な防御策になっているようである。

 といった感情的な側面が強くでるのが国防論議なのである。つまりニュートラルな立場での主張でさえ、残念ながら外部勢力の影響をうけている、あるいはほぼ左派と分類されるなど、いってみれば当たらずとも遠からずと裁定される傾向が強まると思われる。

 この段階で議論の良し悪しをいい募ってみても、もともと学問の世界ではないことから、結局抑制のきかない感情論に陥ることを制止することはできない。ようするに国内言論空間においても長い冷却期間が要るということであろう。

 野党についていえば、まず自国政府を難詰する癖はこの際収納しておかなければ、代理人か?といった印象をもたれる危険が残る。理屈は正しいからと、抗えば抗うほど切り返しの波浪が強まるわけで、波浪が波浪をよぶメカニズムに早く気がつくべきである。

 テレビ討論などを観るかぎり、第一野党である立憲民主党はさすがに中道リベラルとして抑制的に対応していると感じられる。これが全体としての安定感を生みだしている。しかし、複数の政党の発言が鋭角に突出していたが、日本国内の悪しき企みのエビデンスとして悪用されるリスクがあるので、安全保障にかかわる外交事案では注意が要ると思う。

 ということで、いずれの政党も「まず非難されるべきは」という冒頭の宣言ラインによって白黒が判定されることから、用心深く論旨を構成すべきであろう。いわばリトマス試験紙になりつつあるといえる。

日中間の経済関係はどうしても不安定化する、政治優先と経済優先の違い 

 もしレアアースの輸出規制が心配だというのであれば、代替措置を考えておけばよかったのに、15年もの時間があったのにどうしていたのと、とりあえず冷たく対応しようと思っている。甘い政治家や経営者にはそういうしかない。

 日本国内での急速な中国人に対する治安の悪化などを理由に渡航自粛を求めるというのは、いかにも中国らしいやり方で、せっかくの訪日客がぞくぞくと引き上げる様は寂しいかぎりである。しかし、事態は理不尽にやってくることをいつも商売の前提にしなければならないということであろう。関係するビジネスにとっては難しい事態ではあるが、今回の答弁がなくとも他に難を無理にでも求めざるをえない彼の国の事情があるかぎり、問題発生の必然性を消すことはできない。

 さらに、経済的威圧に翻弄されるのはわが国だけではない。対策は諸国との連帯に道を求めることになるであろう。時間がかかるが。

 外に憂あれば内は凝集するのかもしれない。時代なのか、人びとはかなり愛国的と思われる。

余分の解説

◇ 今週(11月23日)に入ってからの「この事態(表現のしようがない出来事)」の解釈については、新たな領域に入ったと受けとめている。新たな領域とは、政府答弁のラインにこだわる与野党や評論家の意見は意見として受けとめながらも、安全保障の頭で現状を直視するならば答弁ラインを墨守する姿勢こそが現実からの逃避ではないかという、新しい解釈の浮上である。

 一般的に、安全保障における曖昧戦略の欠点は、政府への信頼性の低下と勝手な思い込みによる誤解の招来であるから、四囲の情勢変化に応じて適切にわが国の問題意識を表現しておく必要が、抑止力の観点からもあるのではないか。という考えを前提にすれば、中国からの軍事的威圧から生じている緊張の高まりについて、わが国としてはかならずしも理解でるものではないことを国民に対しても伝えることが必要であるといえる。

 という整理が成立するのであるが、それと今回の国会答弁とがいかなる関係にあるのかといえば、平たくいってあまり関係していないのではないかというのが筆者の考えである。というよりも質疑応答のことであるから、答弁に集中すれば被写界深度は浅くなる。前提とすべき条件の説明が手薄になれば、誤解も生じるということであろう。

 まあここで、誤解なのか曲解なのかと思案してみても、首脳部に伝えられた報告が、あの国会での長いやりとりを具体的にどんなふうに中国語に訳されていたのかが分からないので、精度の高い分析は難しい。

 というのは、訓練され経験を積んだ通訳を介した場合は、記録も残るし出席者の反応についても観察できることから、言葉のやりとりについては高精度で管理できている(はずの)ものであるが、今回の先方の反応にはわが国としては思いおよばない部分もあり、これには彼らの理解にはわれわれとは異なる情報などがあるのではないか、というレベルにまで分析精度を上げなければ結局のところ解明できないということではないか。あるいは複合的要因なのか。

 という推理を述べるのは、やはり針が振りきれている感じがするからで、ひょっとしてほかにも原因があるのかとも思うのである。もちろん、政権内に対日バッシング競争が広がっている可能性が高いとも考えられる。

◇ この点だけをいえば、11月26日におこなわれた党首討論での立憲民主党の野田佳彦代表の質問あるいは意見はそれなりの風情を保つものであったのに、それを突っ込み不足だというのは、旧来のパターンに囚われた悲しき批判のような気がする。尖っていなければ野党ではないというのはいかにも古臭い。

 四囲の情勢をよく考えて答弁しろとは、政権を目指す野党もよく考えて質問しろということではないか。とくに外交事案にかかわる質疑は(呉越)同舟での行いといえるし、尖閣国営化での経験からして与野党の垣根をこえて意見交換ができるのではないかと、多くの人びとは期待している。

◇ 今のところ、旅行業などにおいては大量のキャンセルが発生していることなどが報道され、また関連する何かがおこればほぼ速報されるから、すでに大変な事態になっているイメージができている。また、交流イベントや会合などは「開催できる雰囲気にない」ことから延期や中止においやられていると聞く。さらにそういう雰囲気をつくったのは高市氏であるとの先方の主張などなどあり、それらの報道には細かなことにまで気をつかいながらといった感じもしているが、実のところは玉石混交ともいえる情報、分析、意見などがしっかりふるいにかけられることなく、出来事報道としてスーパーマーケット的に並べられていたようで、少し残念に思っている。

 ここはむしろ、専門店的な陳列のほうがベターではないかと思う。たとえば、在日本中国大使館が、国連憲章の敵国条項が中・仏・ソ・英・米など国連創設国には、安保理の許可なしで直接軍事行動を取る権利を有すると規定している旨のコメントをXに載せたとネットでは騒がれている。

 つまり、常任理事国は安保理の許可なしに攻撃する権利を有する云々といったブログが発信されたと伝えられている。伝える価値があるとは思えないが、「だから?どうしたいの?」という反応以外に何もない。調べればすぐにわかる間違った解釈をおくびもなく発信できるその神経では、外交においてスタンダードな意思疎通は難しい限りであろう。

 専門店的というのは、先ほどの国連憲章の件もそうであるが、根拠を明確にした主張でなければ採用しないということ、あるいは報道する側もエビデンスについての意見などを付記すべきであるし、そういう姿勢をとるべきであると思う。つまり、事実に反する内容を形式的にそのまま流すのは大いに問題で、SNSなどにはそういった弊害があることはさんざん議論されてきたのである。

◇ 筆者は「台湾有事は存立危機事態、集団的自衛権の発動」といった見だし風のフレーズを11月7日の質疑から読みとることには無理があると考えている。というよりも、 台湾有事は集団的自衛権の発動 と短縮できることから、そういう文意に解釈されると、これは法律的には間違いであるからミスリードをまねく表現といえる。もちろん、台湾有事がただちに存立危機事態にあたるとはいえないし、もともと台湾有事の定義すら定かではないのである。

 そこで前回も述べたように、法律は「わが国と密接な関係にある他国に対する武力攻撃が発生し、これにより我が国の存立が脅かされ、国民の生命、自由及び幸福追求の権利が根底から覆される明白な危険がある事態」を存立危機事態と認定し、集団的自衛権の行使としての行動が可能になるが、さらに3要件のすべてに該当することが必要であり、その3要件とは1.存立危機事態に該当、2.他に適当な手段がない 3.必要最小限の実力行使であること となっている。くわえて、緊急時には事後承認とするも、国会の事前承認を原則としている。

 ここでの密接な関係にある他国とは安保条約で結びついている米国であることは明白である。したがって、米国との関係が明らかでない段階で、存立危機事態と認定することはないといえる。

 ここらあたりの議論を簡素化すると誤解が生まれるので、あくまでも法律が定めている条件に沿った議論に止めおくべきである。

◇ 今回のように過剰かつ過敏に反応する要因のひとつに、領域全体での日米の連携があるかぎり力の行使は困難との現実的判断があると推測される。その判断を支えるものが、わが国にある米軍基地の果たす役割であり機能性である。現実的には、それが抑止力の過半を形成しているといえる。

 また、力の行使の可能性が独立機運の抑制に寄与しているとの考えをベースにすれば、いわゆる力の行使の可能性については引きつづき保持すべきであり、当然実行可能性のあるプランをもつべきという流れになるが、その急所が在日米軍基地の使用制限であることは、多くの識者の指摘するところである。

 ということで、これ以上の論評は無益であり、いずれにせよ今日的均衡点を維持するとしかいえないわけで、旗を掲げているからこその均衡という現状への認識そのものが均衡を支えているという、同語反復的表現ではあるがそういう側面があることも理解しておく必要があると思う。

◇ 柿吊るや 松浜越えて 鳥の来る

加藤敏幸