遅牛早牛
時事寸評「2025年の振り返りと政治の新陳代謝-リベラルは遠くなりにけり-」
まえがき
【 本コラムは労働組合の活動家を対象に、政治と労働の接点すなわち距離のとり方について、経験を踏まえながらまた時事の政治事象を題材に「運動の伝承」に軸足をおき思考実験的に記述したものである。
という趣旨ではあったが、「一の橋政策研究会」としての活動もすでに10年目に入り、蓄積していた材料もしだいに枯渇し、さらに鮮度を失いつつある。また、テーマが政治に傾きすぎなのは昨今の政治情勢があまりにもスリリングというか、歴史に残るほどの大変化に遭遇していることから、目が離せないすなわち面白すぎるのが原因であると勝手に解釈している。
さて筆者は、1984年7月から全国民間労働組合協議会(全民労協)の事務局として労働戦線統一運動に加わった。そこでは政策・制度課題の実現が任務の中心であった。具体的には労働政策を担当し、主に労働省(現在の厚生労働省)の窓口業務を担った。国会、政党、省庁、経営者団体そして加盟産別に向きあうなかで、連合結成まで多忙な日々を過ごした激烈な5年間であったと思っている。とはいえ個人的には修練と蓄積の有意義な毎日でとても感謝している。
また、連合では1996年7月までの7年間を法規、労働、組織とわたり歩いた。ほとんどの任務が発足間もない連合の体制整備であった。いってみれば特命係で新発のややこしい問題が競うように飛びこんできたが、前身組織からの経験を応用しながら多くの課題の整理にあたると同時に、各界とのネットワークづくりを内心では楽しんでいたように記憶している。
1996年8月からは企業別組合の本部に帰還し、副委員長、委員長として2003年7月まで個別の労使交渉を主に担当し、その流れで産別運動にも参加した。この時代は景気変動が激しくその影響をうけ急速に不安定化した経営の立て直しという労使共通の目標の中で、雇用確保を念頭に経営基盤の強化策に取りくんだ。メンバーシップとはいえ周囲には多大な苦労をかけたと思っている。
そうこうするうちに、2003年7月の電機連合大会で藁科満治参議院議員の後につづく組織内候補予定者の指名を受けたのを皮切りに、2004年7月から2016年7月までを参議院議員として2期12年にわたって民主党、民進党において国会対策をふくめ労働者の立場で国政に参画した。とくに国会対策分野での経験がわが国の政治の内実を理解するうえで大いに役立っていると思っている。
職場委員を手はじめとする現場の労働運動の14年間をふくめて長期間(45年間)にわたって何らかの形で労働運動に参加してきたという、かなり珍しい経歴の中で、とくに政治と労働のあるべき関係については終生のテーマとして今もいろいろと考えあぐねている。そういう意味では今だに定見をもちえないのであるが、何か役に立てればと思いつつ、暇に任せて筆を運んでいる、とあらためて本コラムの趣旨を述べてみた。
来年は、組合員の意識の変容、環境変化に即した労使関係、連合と産別、雇用の流動化などについて妄想的に述べてみたいと考えている。】
1.高市総理一色に染まる政治はどこまで続くのか
ここ2か月余の間、わが国の政治は高市総理一色に染まった。この状況は年が明けてもしばらくはつづくと思われる。とりわけ厳しい国際情勢を考えれば国内政局での波乱は好ましくないという同調気分が漂いはじめている。そういった空気の中で、世間は高市氏へのシンパシーを隠そうとはしないであろう。
筆者は、高市政権は段ボール紙であっても根が紙細工なので脆い、とくに水には弱いので(水には)近づかないようにと述べた。というのも、2024年の総裁選で高市氏が石破氏に敗れた要因のひとつが、高市氏の強い保守性への懸念であり、とくに言動などにおいてその傾向が過度にあらわれると近隣国からつよい反発を招くだろうという自民党議員らの不安にあったといわれている。
たしかに、筆者もそう考えていた。しかし、そういった懸念は日ごろ外交に接している議員を中心とする問題意識であって、自民党員にしてみればそれは身近ではない、また重要度でいえばその他の項目に分類されるべきものであり、総選挙で過半数割れに陥った現状においては、むしろ自民党らしさの復活こそが優先されるべきであるとの党員の意向こそが、2025年総裁選挙の大勢を決めたと筆者は受けとめている。
対中関係を念頭におき、「気を遣いすぎるのもいい加減にしたら」という声が自民党内では多数派になったということなのか。21日のNHK「日曜討論」での立憲民主党の岡田克也氏の「国民感情をコントロールしていく必要がある」との発言には意味深長なところもあり、このあたりが今後の政治的分水嶺を形成するものになるのえはないかとの予感がするのである。
本線にもどり、当初の小泉氏優位を跳ねかえしたエネルギーにはレコンキスタ(失地回復)的要素があったとも感じているのだが、どこまで回復させるのか、正直なところ沼の深さを計りかねている。
さらに、「野党の御用聞きとしての高市政権」とも表現し、その結果としての財政規律の弛緩をも指摘した。予想どおりに成立した借金漬けの補正予算こそがその証明であると考えている。ついでにいえば、来年度当初予算案についてもすでにその蚕食が始まっているようで、現時点においては「責任ある積極財政」の「責任」が那辺にあるのか読めないという、政策上の真空域が出現しているのである。「責任」が修辞にとどまるのであればそれは言葉によるごまかしであろう。
言葉はごまかせるが、市場はごまかせない。また待ってはくれないから、いきなり「責任」のとり様のない事態が生じるかもしれない。そうなれば、おそらく結果責任というステージにいたるが、この手の話で責任が全うされたことはない。まあ辞めてもらってもどうにもならないだろう。
もっとリアルに表現すれば、正しい正しくないを争ってみても政治は完結しないという冷たく厳しい事実を、180度方向の違う表現になるが、被統治者である国民こそが直視しなければならないのである。つまり、ポピュリズムに対して決別する動機をもちうるのは主権者たる被統治者だけであるから、損な役回りではあるが時として統治者を引きずり降ろさなければならないのである。がしかし、被統治者も緩みきっているというか、ポピュリズムに耽溺しているから被統治者からはポピュリズムに対し決別の芽がでてくるとは思えないのである。結局、統治者が被統治者によって引きずり降ろされることはなく、つぎの統治者によって引きずり降ろされるのがこの国の通例である。
そういった乱暴なことをやらないから、統治者から舐められて異次元の金融緩和を10年余もつづけられた挙句の果ての(経済の)フレイル化により、多大な被害を被統治者はこうむっているのである。故に被統治者にも責任がないとはいえないのではないか。
つまり筆者の主張は、被統治者に強い意思がなければ統治者は勝手に解釈し勝手な行動をとり、その結果としてたとえば円安に歯止めが掛からなくなるのであって、時に強く意思を示すべきではないかと、有権者よしっかりしろという主張なのである。残念なことに、円安の恩恵も受けられずに円安にただただ苦しめられる層はいつも決まっているのである。
2.人々との関係ではなく、政府間関係が常に厳しいのが日中関係である
さて、日中関係は保守政権にとってはいつも鬼門であった。たしかに、中国の外交計略の基本は傷を相手に求めるものであり、くわえてその傷への集中攻撃の徹底である。この手法は古代から一貫している。
また、事の是非にかかわらず内応勢力の利用が日常化している。かの国が自国民の反政府的傾向に対し不自然なほどに警戒し抑圧するのは、自らの対外姿勢の裏返しであり、裏が表の証拠になっている、という一面がある。
さらに、内応勢力の自己認識とは一切関係なく相手国政府への批判を再利用することにより、親中、媚中、売国といった相手国における排外感情を助長しつつ分断工作を展開するといわれている。このあたりについては、民主主義国は甘く脆弱なので、そのような認知戦の危険には気づかずに国内の言論闘争あるいは権力抗争に明け暮れるのであろう。
そのうえで、他国の政治的表象を体制の矛盾として、国内政権の正統性の証として宣伝に活用するというのが常套手段であったが、これらはすでに古典の域にあるといえる。策謀においては歴史に鍛えられた世界第一等の国柄である。
といったことを気にかけだすと、国内での議論はいっそう窮屈なものになり、議論をとおして問題点を整理していくという民主的過程が機能不全に陥り、民主政治の劣化を招くことになる。またそのことが政治全体への不満を高めることになる。認知戦をしかける側にとっては期待どおりの成果といえよう。
話は変わるが、習政権の戦狼外交には対等な外交関係は慮外のことのようで共存的雰囲気を感じることはない。
わが国の左派勢力は国外からの扇動に呼応することはまずありえない。静かなる認知戦とはソフトなもので、本来が気づかれにくいように設計されていると聞く。言論の自由を阻害するような対策は論外であるが、さりとて無防備でいることは許されない。
ところでパンダ外交については、そのとてつもない露骨さに辟易感が漂っている。もちろん、パンダの不在を高市政権に責任転嫁する論をまともに受けとめる人は稀であって、そもそも生活必需ではない。パンダのために国論が割れたり、また国策を過つことにはならない。ということで中国との友好関係を希求するという基本は変わらないが、それなりの脆弱性がつきまとうことはしばらくはつづくと思われる。
また、中国からの渡航自粛については被害総額推定2兆円とはやばやと伝えるメディアもあるが、得べかりし利益を前提とした議論は捕らぬ狸の皮算用に近く危ういものである。とりわけ年間4000万人が限界というのがおもてなし日本の実情のようで、旅程サービスの質を保持するうえでも、今回の自粛は渡りに船では決してないが、あらためてオーバーツーリズムについて考えてみるいい機会といえるのではないか。
ということで、政治が経済よりも優先される政権下では、あらゆるビジネスが不安定化というリスクを抱えることから、いってみれば潮時論がもっとも説得力をえているように思われる。さらに、時間がかかるがゆっくりと関係を薄めるのが合理的であるとの論が広まると思われる。
しかし、問題はそれほど単純ではない。思いのほか相互依存関係が複雑であり、両国政府とも全体像を完全に把握できているのか、じつにおぼつかないといえる。日本叩きのつもりが実のところ自傷行為であったとか、コーヒータイムの話題で済めばまだしも両国にとって思わぬダメージを生む可能性もあるわけで、そのぐらい日中の神経や血管は複雑に入りくんでいるといえる。
また、レアアースの輸出規制は対抗ネットワーク構築のきっかけになることから微妙なステージにあると思われる。ないとはいいきれないが、対抗措置のすそ野が広いだけに簡単には踏み込めないのであろう。
中国との経済関係をもつ企業家としては依拠すべき法律が変動相場制で安定的に機能していないのであるから、いつまでも留まることは国内の株主からの訴訟リスクを抱えることになるので、リスク管理上も株式会社とすれば説得力のある説明が必要になると思われる。
現実論として、国内では中国の政治的利益につながることにはネガティブに反応する人びとが漸増していくと思われる。おそらく政治的立ち位置とはかかわりなく、対中警戒の言論空間が拡大していくのではないかというのが筆者の予想あるいは懸念なのである。とくに問題なのが経済ショックの引き金になるリスクであって、それが世界経済の調整局面への引き金となるシナリオをも念頭に置くべきであろう。ともかく、感情において過激化しないことが肝心である。
3.国内の言論空間が開放されていることが野党の主張を制限するという皮肉
現在の日中関係において「発言の撤回」を求める中国側の主張に、国内での意図なき同調が問題を固定化することへの懸念がある。とくに野党は、言説においては自在に主張できると考えられている、もちろんそうなのであるが、反面では人びとの見方、受けとめ方はさまざまである。
仮に、リベラルな主張の延長線上に撤回論をおいたとしても、地政学的にいえばそれが中国サイドに与するというポジションであることは間違いないことであるから、たとえ動機が違っていても行動において同調する点があれば同一のグループとみなされる怖れがある。とは論理的には不条理ではあるが、政治的には成立しうるのである。行動そのものに動機を刻印することはできない、すなわち区別がつかないとの方便で、後日国内においてはデリケートな問題を抱えることになるのではないか、という心配がある。以前に、発言がリトマス試験紙となる現象を指摘したが、多少用心深く処するべきかも。
さて、各国に対する中国の経済的威圧は例外なく準備されていると受けとめるべきで、たとえていえば気温が上がれば一斉に芽を吹く苗床のようなものである。彼らは伝統的に他国の躾をしているだけなのであろう。だから、わが国の国会でのやり取りの内容にかぎらず、気にいらない事象に対しては経済的威圧を各部局が競争的に展開するのであって、逆襲されるとか損失が発生するまで、功名争いはつづけられると思われる。民主主義国でないが故の事態である。これは交渉事ではない。さらに外交で解決できることでも、すべきことでもない、と肚をきめたほうが適切だと思う。
経済的威圧に弱い国とみなされると、外交面にかぎらず安全保障においても各国からの信頼という重要な価値を毀損することになる。これは政権を担う可能性のあるすべての政党が心すべきことであろう。
さて、中国経済の動向には十分注意をはらうべきで、ここでの動向というのは何がおこってもおかしくないという意味である。奇跡の復活もレトリックとしては含みながら、筆者としては来年の賃上げ交渉への影響が極小であることを願うばかりである。
4.トランプ政権の変容と中ロの攻勢、いずれも時間との競争
ところで、トランプ政権がさえずりではなく鳴きはじめた。言訳をふくめて説明が要る事態なのであろう。「トランプ取説」の作成が各国政府の当面の仕事ではないかと今年の2月に述べたが、5月には「TACO (Trump Always Chickens Out)トランプはいつも尻込みして引く」とか、「弱きに強く、強きに弱い」とかさんざんにいわれている。それはともかく、たしかに中ロとの交渉はプーチン大統領や習主席に押され気味というか、二人には端から足元を見られているようであるから、関税交渉では高圧的に迫られた同盟国としては何やら複雑な気分であろう。
そういえば「内弁慶の外ネズミ」という言葉もあった。案外似たところがある米中ロのトップではあるが、それぞれのトップが代わることのリスクがテーマとして潜在している。つまり仮想的に語られているのだが、そのリスクが低いほど有利ということかもしれない。
政治事情をいえば煮詰まるばかりでとても料理とはいえない、という時にあなたならどうする?あるいは何ができるの?つまり、異変を前にして国内で発散的な議論を押し広げることはない、つまり息をのみながら静かに構える時であるといいたいのである。
という外のリスクへの対応と内なるリスクへの対応が併存している。国の債務も同様で多少なりとも堅実性へのこだわりを今の段階でアナウンスしておかないと責任ある積極財政にはならないのではないか、と思うのである。
5.解散する必要があるのか?当面高い支持率での政権運営に専念を
解散総選挙は簡単ではない。高市人気が衰えぬうちにやって欲しいと落選組は期待しているという仮説がたとえ当たっていたとしても、「だからどうしたの」という程度のことで、落選組のことは大した理由にはならないのである。
たとえば、昨年10月の石破氏による解散総選挙にしてみても、ご本人は負けるとは思っていなかったとすれば、期待と結果は必ずしも一致しないのが現実であるから、つまり賽の目の出方は分からないのである。わけても、石破氏の手許に集まっていた情報にはさぞかし甘口のものがあったのであろう、というのが権力者が陥る落とし穴であるから、データにたぶらかされないようにといいたい。
それに解散という伝家の宝刀を抜きにかかる総理大臣の心理なんてもともと分かるわけがない。冷静なようでその実興奮していることは間違いないというか、解散ハイという心理になるのが筆者には恐ろしい。さらに、たとえ衆議院で過半数を確保できたとしても参議院は変わらないから、小さなメリットと大きなリスクにあえて挑戦する合理性はないというのが筆者をふくめての大方の見方といえる。
もちろん、国民民主党との連立が約束されるなら、参議院の過半数が確定するので、やってみる価値がないということではないが、今さら感の国民民主党がそれに応じることは現時点では考えられないというべきであろう。
ネット空間では、維新に油揚げをさらわれた国民民主とばかりに玉木氏の逡巡ぶりをいじる光景が一瞬見られたが、同党が是々非々路線をとるかぎり連立参加のハードルはやはり高いということで、さらに政策実現を洗練化していくのが当面の上策と考えていると思われる。
さらに、それ以上に178万円に関しては味の良い着地であり、政策実現としてはまずまずの成果といえるであろう。と同時に、多党化時代にあっては政党間の良好な関係が維持できるのであれば少数与党であっても政権運営が可能であるかもしれないという、第三の道の可能性が拓かれたともいえる。即断は禁物であるが、来年の通常国会での注目点であると思う。
6.議員定数の削減が善であるとの暗黙の了解の根っこは政治不信なのか?
一方の日本維新の会だが、連立条件だと先にアナウンスされていた企業・団体献金の禁止がなぜか後退し、議員定数の削減に入れかわったことへの疑問が消えていない。いわば熾火状態にある。連立交渉の中で、自民党にとって無理なテーマであるということを納得しての転進であると解釈されていたが、その後の維新版の「政治とカネ」問題の出現とのからみに注目が集まる中で、もともと「政治とカネ」問題への耐性に弱点を抱えている政党がそんな大技では勝負をかけられなかったのではないかと、むしろ転進に救われたのではないかと妙なところで納得する声もあったが、さすがに竜頭蛇尾的な顛末に対しては少なくない疑問の声があがっている。
ともかくも、いうだけいって前進ゼロでは連立の舞台回しとしての器量を問われるだけでなく、「政治とカネ」問題への本気度そのものが問われているということであろう。
だから、政治とカネ問題がそろそろ立ち消えるのではないかという期待感が独り歩きしだすかもしれないという嫌な感じと、高支持率ではあるがそういったモヤモヤ感を払い切れずに「そんなことよりも」とモード転換を試みる手法への警戒感が音もなく広がるであろう。
詰まるところ高支持率が、「そんなことよりも」もっと大事な話があるだろうという主張を支え切ることができるのかが、来年6月までの争点であることは間違いない、と筆者も考えはじめている。
議員定数の削減ですか?そんなことよりも「政治とカネ」問題のほうが先でしょう。という有権者の声も少なくないと思うが、それにしても旧民主党時代の定数削減案をこんな証文があったとばかりに、今の立憲民主党所属議員の氏名を挙げながら指弾するのはかなり珍しいことである。
そういう論法を否定する気はないが、法案審議を要請する与党の立場を考えれば、そういった強行突破に近い発想でいるかぎり、野党の理解をえることは難しいといえる。もっといえば、もともと理解をえる気がなかったのではないかとも勘ぐれるわけで、こうなると何かしら振りまわされているだけとの不快感を与えるだけであろう。
与党である維新の代表者が、審議してくれないのはけしからんとか約束を守れとか、駄々をこねる風に見られてしまうところが、また参議院で全野党を敵にまわして審議に入れると思っているところが不思議といえば不思議である。
ともかく、政治は時間進行的に展開するもので、昔の証文を持ちだすのは構わないが、現在の立憲が旧民主党の承継団体というべきなのかについてはまず立憲の意見を聞くべきであって、一方的に裁断するのは筋違いであろう。
ここらあたりは政治手法というか方法論上の相違なのかもしれない。まあ、わざとケンカを売っているのであろう。
7.国会は守旧派であり、反改革勢力であるというかつての小泉流のコピー
そこで、与党が野党になぜケンカを売る必要があるのかという疑問が湧いてくる。考えてみれば維新の側に身を切る改革での特別な狙いがあるように思われる。一つは、連立参加を選択したことの妥当性の証明すなわち自民党を変容させたという実績づくりであり、二つは他の野党の不熱心さの浮彫り(フレームアップ)である。との解釈に立てば、法案の成否にかかわらず維新の得点になる、との思惑が透けて見えるのである。
さらに、一年たってもまとまらなければ予定(小選挙区25減、比例区20減)どおりの削減を行うという時限装置付きの強圧的法案を、参議院の議院運営委員会が委員会付託するとはとうてい思えないのである。そんな偉そうな法案をおかしいと思わない議員はごく少ないであろう。
にもかかわらず特別公演の場外劇が演じられ、原作者は今のところ不詳であるが、かなりの視聴率をとっている。残念ながら、吉村代表がボルテージを上げるほどには国会は反応せず、むしろ空気は白け、よどんでいくように思われる。無理に対立軸を創り世論を誘導していくというかつての小泉流を思いだすのであるが、与党化こそが維新としての政治的成果なのかもしれない。自民の補完勢力というのはけだし名言であったと今さらながら思う。
8.今回も自民の老獪さが光るが、国はあいかわらず衰えていく
それにしても自民党の巧妙かつ老獪なさばきには確かに老舗感を感じる。しかし、少なくとも中途半端な約束をしたものだという失礼な感想はとりあえず横においても、連立の条件であるから仕方ないという自民党内の不服たらたらはとても不健康であることは疑いようのないことである。
いくら政権樹立のためとはいえ、この政局で議員定数の削減かと誰しも驚くし、なによりも国会議員に思いを託す有権者に対しては不誠実そのものといえるのではないか。じつに単純なことである。不本意なるものに賛同するようでは選挙で選ばれた選良とはいえない。
こと議員定数削減に関しては与野党ともに倦怠的空気感に包まれている。これは異常なことであって、とくに野党第一党の主要メンバーを揶揄したうえで、法案審議を求めても野党が応じるはずがないことぐらいは与党の常識ではないか、と思うのであるが、これには何か裏があるのではないかと思うほど異例なことなのである。
反面、凄いといえば凄い。しかし、本気で野党を怒らせてどうするのか、この辺は分かってやっているのだと思うのだが、ひょっとして本当に何も分かっていないのか、じつに面妖なる振る舞いであった。で、自民党はといえば幕間に身を隠して矢面には立たないのだから、まことに老獪なんでしょうね。(笑)
9.参政党の外国人政策の提言は逆向きに働く?
17日に参政党が発表した外国人政策に関する17項目の提言の中に、「外国人総合政策庁」というアイデアがあった。もちろん新しい組織を設置すればすべてがうまくいくとは誰しも思ってはいないであろう。しかし何かをやらなければならないと自らを追いつめているのかもしれない。とはいっても、事実として何が問題なのかがいまだに不明である。選挙期間中と、参政党の躍進にふれた報道番組内において参政党の主張に沿って「外国人」が取りあげられたが、「外国人問題」としての深掘りは見られなかった、と筆者は受けとめている。
筆者が全民労協(全国民間労働組合協議会)に、また引きつづき連合に派遣されていた時代(1980年代後半)から、「外国人労働者」をめぐる議論は活発であったが、そのほとんどは受け入れ拡大つまり雇用関係に関する課題からスタートしていた。後に労働者という視点だけではなく、家族をふくめた生活者としての課題に議論は広がったと認識している。また、外国人労働者問題と外国人問題とは似てはいるものの違う問題として当時は意識的に分けられていたと記憶している。
という文脈でいえば、「外国人総合政策庁」というのは移民受け入れを前提としなければ成立しないものと解釈せざるをえないのである。禁止するのであればそのような政府機関は不要であるし、制限するというのは受け入れることを前提にした措置であるから、形としては移民受け入れ庁であろう。
現在、わが国での在留資格は出入国管理法で定められ運用管理されている。しかし、交通違反には道路交通法が当然のことして適用される。刑法も民法も同様である。労働者の労働条件等については労働基準法の適用となる。
また、不動産の売買については国籍を理由に制限することは特定の物件をのぞき政府の介入は難しいといえる。動産については自由であるのに不動産だけを制限するには立法措置が必要であるが、国籍によって取り扱いを変えることが当たり前ということは通用しない。海外からの投資にともない個人なり法人が不動産を購入することは多々起こりうるし、滞在中の居住のために取得することも多いと思われる。
もちろん、防災とか区分所有などの視点から所有者の義務を強化することは各法において対処すべきかどうかを議論するべきとは考えるが、総合政策というほどのことではないと思う。
辛口でいえば、不安を指摘したまではいいが、立法事実の不在を押して法律をつくることはできない。これは立法府の基本である。
また、現状は無制限な受け入れではない。技能実習生は期限付きである。くわえて、提言の中に選択的に受けいれる、戦略的に確保する、調整するなどの文言が使われていると伝えられているが、これは一般的な受け入れを前提にしての条件文なのか、聞いただけでは判然としないし、それらの主語も不明である。
以前は3K労働とのかね合いでの議論が多かったが、高度な教育を受けた人材なら受けいれるということなのか、であれば提言のベースに排外主義があるとはいえない。むしろ職業観の差異があるように感じられる。
たとえば介護人材の需要が際立っている中で現行制度のどこに不備があるのか、また介護労働の受け入れを制限すべきなのか、あるいは拡大すべきなのかについては、現下の人手不足状況の中ではいわゆる業界からの要望は高まると思われる。自民党には業界の代弁者という側面があり、その圧力たるや圧倒的であるから、防波堤はやすやすと越えられると思われる。
せっかくの参政党の提言ではあるが、選挙期間中の主張とは逆の効果を呼びこむようにも思われる。筆者としてはむしろそういう時代に入ったと認識を新たにしているのだが、逆説的で申し訳ないが、また言葉不足と法的矛盾の解明も残されているが、提言の趣旨において画期的といえば画期的だし経済界の要望にも合うと思われる。だからこそ、それで本当に大丈夫なのかと心配している。
◇ かじかみて 手袋探す 字鍵盤
加藤敏幸
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