遅牛早牛

時事雑考「あの総選挙からひと月余-これは悪夢ではない現実だ-①」

まえがき

 [ 気がつけば、米国とイスラエルがイランを攻撃している。対するイランは周辺国への攻撃で戦域拡大を図っているように思われる。さらに、ホルムズ海峡の安全航行を妨げている。昨年6月の核施設への爆撃もすさまじかったが、今回も常軌を逸しているようで、株式市場の世界同時全面安しか止める手立てがないのではないかと不安に思っている。

 話が違うと思う人も多いのではないか。ではどういう話であったのか。これも怪訝なことではないか。来週の日米首脳会談はどうなるのか、予測不能である。

 「これでは力の支配ではないか」「国際法違反であることをずばり指摘すべきである」とかいろいろと意見があるようで、高市総理も大変ですね。

 正直言って気持ちはニュートラル、「平和を愛する諸国民の公正と信義に信頼して、われらの安全と生存を保持しようと決意した。」という日本国憲法前文を拳々服膺しながら、成り行きを見守るしか手だてはないのである。

 停戦によって窮地に立つ指導者はいないのか。評論も心中はざらざらしている。今回は時間の関係でつづきとした。例により文中敬称略もあり。]

1.衝撃の選挙結果からひと月余り経ち敗者には厳しい現実が

 衝撃の選挙結果がスゴ過ぎて声すら出ないひと月余りであった。しかしそろそろ何のために「中道」ができたのか、冷静に考える秋(とき)が来たと思う。とりわけ中道改革連合に移った立憲民主党系の人たちの苦境には同情の念を禁じえないし、秘書や政党職員はもちろん、家族もふくめて厳しい現実に直面していると聞く。もっとも毎回起こることで、今回は規模が大きいだけという声もある。 

 そこで、世間は敗者には冷たい、といった素振りを見せようものなら、ただちにネット空間からは「自己責任ではないか」といった厳しい指摘が飛んでくる。まあ、個人の諸々のことは個々に対処されるものとしても、落選議員らへのサポートには民主政治のあり様にかかわる課題があるように思われる。

 率直にいって、ネット空間には独特の不寛容さがあり、弱い者とか隙を見せた者あるいは失敗した者には容赦なく言葉の手裏剣を投げつける。といった正義意識の発露は表現の自由の枠内だが、ひどく加虐的なところがある。また、抒情を欠いた乾いた映画のように感じられる。そこでポスターだけは眺めることにしているから、個人的には生活の静けさと心の安定が保たれている。

2.政党についての一般通則はない、契約上の主体者たりうるのか

 ところで、わが国の民主政治の表舞台を担っている議員とその仲間たちがその予備軍もふくめて、どのように遇されているのかというのは存外に大きなテーマである。よくいわれる「それも勝手な(人生の)選択ではないか」との指摘はそのとおりで一面の真理であると思う。しかし、そうはいってもその人たちが民主政治の質を担うという、きわめて抽象的な言い方を梃子にして論をすすめれば、それ(民主政治の質)がまわりまわって最終的に国民一人ひとりの生活に、良いことであれ悪いことであれ大きな影響を与えるというカラクリになっているのだから、民主政治の一部である議員がとくに大量落選した場合にはどのような事態が起こるのか、またどのように処遇されているのかなどについても、どのような立場にあっても「関係ない」とはいえないというのが今回のスタートラインである。(早い話が、中道の落選議員とか秘書あるいは職員が多数苦境にあるが、これはどうしたものか、政党って何なのという問題提起である。)

 そこで一般論として、何といっても議員一人ひとりの質的向上はもちろん集団としてもその総合力を向上させることは民主政治を支えるためにも、また社会基盤の底上げのためにも必要不可欠のことであろう。

 ということであれば、今回の総選挙でほぼ壊滅(失業)状態に追い込まれている職能集団(あえてそう呼ぶがいわゆるスタッフである)の活用をどうするのか、つまり民主政治を支えるバックヤードの人材確保のシステム化を真剣に考えないとこのままだだと錆びていくのではないか。別のいい方をすれば民主政治は議員だけでは完結できないのだから、5年10年と経験を積んだ職能集団の持続的な活用が、人によって条件がつくにしても今日的課題であると考えている。

 それは政党の仕事でしょ、とはいっても政党という用語は「政治資金規正法」「政党助成法」「公職選挙法」にでてくるものの肝心の「政党法」がないので、政党とは結社の自由にもとづく私的団体というしかないのである。もちろん、老舗政党をはじめ世間のイメージは定着している。しかし、その内実はさまざまであり、イメージはともかく現実というか足元はまことに覚束ない政党も多いのである。ただ規制すればいいという話ではないし、他方で野放しでいいのかという声も多い。政党助成金だけでなく公金を受けとるだけでは駄目である。活動の自由を保障するにしても、税金の扱いについては厳密さが求められるということである。

3.政党を支えるバックヤードの整備を

 昨今では、新党を支えるバックヤードについて気がかりなことも見聞きする。とくに、政党助成金を受けとる立場での内部管理についての説明責任が重要であり、政府と鋭く対立するためには足元を固める必要がある。たとえば、巨大与党には権力がことのほか凝集するもので、異論排除に動くおそれがないとはいえない。ということで新党も伯仲時代の感覚でいると思わぬところで躓くかもしれない。

 しかし、新党ブームに象徴される有権者の新たな政治への期待を受けとめて、さらに発展させるためには転ばぬ先の杖もいるし、規制も必要ではないか。とりわけ、政治をこころざすことが人生の危険な賭けになるようでは、民主政治のインフラが整っているとはいいがたい。

 いずれにせよ、はじめて政治家を目指すあるいは復権をはかる候補者が多数いてこそ有権者の選択肢も広がるはずであるから、当選者だけではなく志をもって待機している人びとの在り様も重要な論点ではないかと考えている。

 しかし、そういう方面でのプロモートが不足しているのも事実であるから、当面は本人とスタッフの職探しに苦労せざるをえないというのが、この国の天下国家論の寂しい現実であろる。

 こういった実情を例の自己責任論で切り捨てることはたやすい。しかし、議員ならびにそのスタッフの質を求めるのであれば、もちろん淘汰の仕組みとしての落選はドライに受けとめるにしても、気持ちの半分は育成の仕組みとして何らかの策があってもいいのではないかと思う。またそういうニーズに対応できなければ、政党として持続していくことは難しいのではないか。

 

4.政党も財政力がなければ成長しない、厳しい現実がある

 今回の選挙結果を眺めながら、たとえば中道の現在の財政力では、次回候補予定者の活動や生活を支えることは難しいと直感する。国家資格に裏打ちされた職業に就く場合は別として、落選した彼彼女らがいわゆるサラリーマンをつづけながら次を目指すことが可能であるのか、といえば個別の事情とりわけ資産状況などの経済力に左右されることから、選挙体勢が安定するまではなかなか大変であろう。たしかに「親ガチャ」かもしれない。

 当落を繰りかえしながら体勢を固めていく、まるで綱渡りのような人生にとって奇襲解散の破壊力は絶大であって、政治をこころざす無産者はしずかに淘汰されていくのである。

 他方で、政党としては議員あるいはスタッフの再生産ができなくなるということは衰退の始まりではないか。だから、政策などの理屈も大事ではあるが、時として政党としての生活力が気になるのである。

 各党の財政力はそれぞれの党本部や都道府県連の建物に如実にあらわれている。資本主義体制における政治は当然のことながら資本の原理で動くので、いわゆる自転車操業の政党では人的投資や積立てが薄くなるので、政党としての持続性に課題が生じる。新党にとって党財政は鬼門であり、そもそも立ち上げ費用と当面の運転費用の調達が重荷となる。首尾よく当選者をだしても政党助成金が入ってくるのはかなり先のことであるから、事務所経費とか人件費を節約するなどの工夫が要るが、程度の問題であろう。 

 といった実務的な課題に注目していた。今回の中道結成にあたっての財政的背景や当座の資金計画が具体的にどうであったのかは不明である。もしかして取らぬ狸の皮算用だったのであればまことに残念な事態になったと思っている。

 楽観的でなければ選挙は闘えない。しかし、政党経営を楽観論でやれば放漫経営になる。とはいっても、堅実であれば政治の世界には飛びこまないから、労働者とか無産者が国会議員になる確率はそうとうに低いのである。

 また、国民を代表するはずの国会議員が実際のところ誰を代表しているのか。あるいは、現在の選挙制度が選出しているのははたして国民の代表なのか。といった疑問を持ちつづけなければ、おそらく民主政治はその原点を忘れるであろう。

不遇層が政治的に放置されている現状への認識と対応が欠けている

 もっとも数の多い層が不遇を託(かこ)つのがこの世の実相である。また、わが国の政治風土には持たざる者(無産者)に対する特有の冷酷さを感じる。

 さらに、それは芝居小屋をもつ者とただの観客との関係に似ていて、観客あっての芝居小屋ではあるが、観客が自分たちの芝居を演じたい、そのための小屋をもちたいといろいろ挑戦してみても結局はつづかない、成功しないのである。被選挙権は開かれているものの、立候補者と当選者は初めから絞られている。たとえれば、紅白饅頭に味噌饅頭、ヨモギもあるから色とりどりだといっても、饅頭以外はない。もちろん、紅か白かの2択よりかはましではあるが。

 中道は有権者に2択を求めようとしたが、有権者は自民VS中道という構図では自民を選んだ。しかし、2大政党制による政権選択については気分が乗らないようで、多党化の動きも衰えていない。まだまだ鍬のはいっていない広い土地が残っている。

選挙直前の方針転換や新党結成など支持者に対する甘えがあるのでは

 それにしても、消費税減税や企業団体献金と政治資金パーティーの選挙後の容認、さらに安全保障政策やエネルギー政策の変容などについては、政党だから方針変更することがあって当然だと筆者は考えている。しかし、豹変は長年の支援者との間に軋轢を生む。さらに納得されなければ支持を失うことになる。

 このあたりについては、「立憲民主党の支持者からは丁寧な説明が求められるであろう。このあたりが新党中道にとってのアキレス腱であると思う。 」あるいは「それにしても、立憲民主党の支持層の動きは不透明といえる。議論なき方針転回はリベラル色の強い支持層にとっては無視された感が強く戸惑いがあるのだろう。」と、弊欄2026年1月25日で述べたが、投票行動でいえば流出票の方がはるかに多かったということであろう。

5.「中道」と書かれた1044万票への責任を残された参議院側は連帯すべき

 さて、中道は参院勢力と合流できなければ存続にかかわるという厳しい状況にある。そこで、参議院に残っている立憲民主党に復帰(逆流)する道があるのかと聞かれれば、それは1月15日に中道がスタートした時に、公明党側に寄せたといわれている基本政策を破棄し、いわゆる左派宣言するに等しいものであるから、復帰ではなく改めての新党宣言に近いものであると答えたい。

 参議院の立憲民主党は2020年9月に発足したままで変わっていないから、理屈としては衆議院の中道結成とはかならずしも現時点で接合するものではない、と主張することは可能ではある。しかし、そうした場合の有権者の反発の程度を予想することは難しい。

 とくに2月の総選挙では投票用紙に「中道」と書かれた票が1000万票を超えていたが、あの超短期の選挙で新党名が書かれたことは、中道の公明党寄りの基本政策が消極的にせよ支持されていると考えられるので、参議院に残る立憲民主党がほぼ2020年9月の路線のままで2028年7月の参院選に臨むことには無理がある、と思う。

 また、中道を支持した有権者の中には、49議席ではなく100議席ほどの敗北であったならば、参議院の立憲民主党は速やかに中道に合流(移党)できたのではないか、つまり議席数が思いのほか少なかったが故に先行きを不安視して躊躇している、つまりモラトリアムと受けとめているとも考えられる。

 もっとも、公明党との合流そのものが受けいれられないということであれば、中道に入党届を出すことはない。事実、無所属で総選挙に臨んだ候補もいたのであるから、やはり最後は個人の判断である。

 ということで、参議院の立憲民主党が中道への合流に躊躇するのは、基本政策を変えたくないという支持層の雰囲気を感じているからではないかという声がもっとも的を射ているようで、中道に合流もできずさりとて左派宣言もできずということであればまだまだ時間がかかると思われる。

 しかし、時間がかかることは傷口を化膿させ、果ては壊死にいたるかもしれないという不安感をかきたてることも確かであるから、拙速も策のひとつではないかと思う。

 ということで、当面3党分離体制だとしても、2027年4月の統一地方選の後は2028年の参院選に向けてあらゆることが動きだす中で、焦点は参院選に中道で臨むのか、立憲と公明それぞれで臨むのかの2択に絞られるであろう。

 もちろん、中道所属の立憲民主党出身議員の離脱がないという前提である。中道(現在のところ衆議院のみ)の現職議員が離脱する条件は、参議院が中道とは別の道を歩むと決めることであるから、それは中道路線の破綻であり、外部から見れば立憲民主党系列内の路線対立が原因と受けとめられるであろう。 

 そういうことになれば参院選での定数2人区(3年ごとに1名)も定数4人区(3年ごとに2名)も実質的に与党の独占となる可能性がきわめて高くなる。

 現実的には、参議院で立憲プラス公明の柱が立たなければ野党としてまとまることは難しいから、いつまでも3党分離路線をつづけることは、自民党を利するだけの、まったく展望を欠く選択であるとの批判を受けると思われる。

 もちろん、慢心から与党側に不祥事が発生し、高市政権の支持率が急速に下がる可能性もあるので、それを見定めてから方針を決めるという考え方もあるが、それでは風見鶏に近くまた対応が遅れるので、おそらく機会を掴み損ねることになるであろう。

 くわえて、世界情勢が刻々と変化する中で、わが国の政治が4年間も安定するわけがない。もっといえば、憲法改正のタイミングすら生まれないほどに激動するのではないかと思う。とくに、11月の中間選挙以降の米国政治が多少あるいはそうとうに混迷する可能性もあり、そうなればわが国においては内政よりも外交のウェートがより高まるといった油断できない時代の幕開けとなるであろう。

6.国際情勢の激変への対応が当面の重要課題(とんでもない時代)

 わが国の政治は世界情勢とりわけ米国の影響を強く受けることから、議席で考えれば高市政権は超安定といえるが、外部環境をいえばさほど安定的とはいえないのである。 

 たとえば、気がつけばウクライナ、ガザ地区そしてイランと3方面が紛争地となり、どの地域も復興どころか停戦の目途すら立っていないのである。くわえてホルムズ海峡の安全性の確保が困難なことから、石油需給の安定性が損なわれつつあり、このような不安定な状況がつづくのであれば、原油価格のいちじるしい高止まりが避けられず、世界経済の減速が現実化すると思われる。

 また、中国・ロシア経済の動向によっては世界恐慌とはいわないが、経済混乱の可能性が日ごとに高まっていくと思われる。もちろん中国・ロシアだけに限ったことではない。

 という情勢にあって、わが国だけが実質経済成長をなしとげ国民生活の改善を手中に収めることができるとはどうしても思えないのである。つまり、2026年総選挙の公約は薄氷の上にあり、多くの項目が水没するリスクがあるというべきであろう。

 ということで、外部要因から高市政権がいきづまる可能性は否定できない。という情勢も想定される中で、野党の主力部隊である中道、立憲、公明が後退をしているようでは全くのところ話にならないのである。

 とりわけ米国がイラン攻撃で想定以上の軍事資源を消耗していることは西太平洋での軍事資源不足につながることから、対中抑止力の低下が連想される。これは中国にとっては有利なことであるから、米中交渉では中国側の余裕につながり、交渉行動の自由度が上がると思われる。さらに中国による示威行動が強化されれば、わが国をふくめ周辺国はその対応に忙殺されるであろう。

 高市流の強気一辺倒ではたして国民の支持をキープできるのかについては、情勢的には微妙な点がある。強気路線は高市政権にとっては一時的にはプラスかもしれないが、米国の裏付けという内実がなくなれば張り子のトラであるから中長期的にはマイナスに振れると予想している。

急速に失われる信頼、世界は危機に-トランプショック?-

 正直なところトランプ戦略の一貫性への疑義が急速に広がっており、たとえばイランとの関係では通底する論理を見いだすことができないことから、米国の判断基準がブラックボックス化しており、米国の行動変容を理解するには浮上していない要因Xの存在を仮定しなければ不可能であろう。分からないからXなのである。あるいはカマキリとハリガネムシの関係が連想されるが荒唐無稽の域をでないであろう。

 不安定、不連続、予見不能という深刻な事態に直面している各国とも対米関係では面従腹背に近い。昨年はトランプ関税に世界が翻弄された。今年に入ってからはいよいよ米国自身が事態収拾に悩む時期がきたと思われる。国内分断にくわえて、荒れる世論という米国の政治状況は同盟国であるわが国にとっても対応に苦慮する事態である。

 ということで、イラン情勢の動向もふくめ今年の春から夏にかけて何が起こるのかが分からないという予見性ゼロの領域に入ると思われる。吉凶半ばするというか、むしろさらなる困難を招くというべきか、それを占うことさえできない。日米関係が高市政権の支えである日がつづくのか、あるいは外交上の桎梏となるのか、まさに宰相の器量と手腕が問われている。という重大な時期にさしかかっていることを重々認識したうえで、野党としては政権交代だけにこだわらず、政界再編なども視野にいれながら多彩な選択肢を用意すべきということであろう。

7.騒動を引きおこしたのに「その場駆け足」とは、不思議な立憲民主党

 政権交代についてさまざまな議論がされてきた。また、政党交付金については人びとは好意的ではないものの、それでも受け入れてきた。政党交付金そのものは合理的な制度といえる。しかし、米国の大統領選挙のような自由選挙を目指すのであれば、現行よりも桁違いの選挙資金需要が発生する。もちろん税金で賄うには多額過ぎるし、団体献金や寄付を前提にするなら、資本の多寡が当選を支配する選挙となるのはまちがいない。

 さらに政党機能として第2党が政権交代にそなえ「影の内閣」あるいは「次の内閣」を組織して、疑似的とはいえ政権交代にそなえることは有益である。とここまでは一般論である。しかし、現実は中道、立憲(参)、公明(参)の3党分離体制であるから、政権交代にそなえるというよりも次の選挙にそなえるといったニュアンスのほうが強いと思われる。ということで、巨大与党を前に政権交代の受け皿すらないという状況がつづくことになると思われる。

 ということは、問題が先送りがされているのである。先送りしても時代は待ってはくれない。とりわけ公明党としては、衆議院の28議席が中道の単独比例であったことから中道への合流を選択しないわけにはいかない。という道義上の責任においても合流を完結させるべきといえる。時間とともに中道の知名度が上がり、それに連れて立憲民主党と公明党の認知はまどろむであろう。世論調査にもその傾向がでている。さまざまな問題があったとしても参院選は中道で臨むという柱を立てないと議論すら始まらないのである。

 さらに、参議院の議員数をいえば立憲民主党42、公明党21なので、公明党だけが中道に合流すれば世間は中道を公明党主体の政党だと解釈し、支持層の拡大が不調に終わる、かもしれない。巨大与党の傲慢と弊害が目立つようになる、と予想しながら、それでもグズグズするようでは「何をかいわんや」である。

 立憲民主党(参)は何かしらの被害者意識にとりつかれているのか。確かにそういった側面があったと思う。しかし、有権者にしてみれば、あれだけ大騒ぎをされて、さらに引きずりまわされての挙句が「その場かけ足」ではやってられないということである。

8.巨大議席が呼びこむ不都合を自民党は克服できるのか、進む議会の空洞化

 さて瑞雲たなびく与党といえば、政府すなわち行政組織(官庁)に支えられることになる。勝者総取りの最大の獲得物は全官庁を味方にできることであろう。なかなか表現しにくいのであるが、過半数を超えてからの与党議席の増分には、いわば幾何級数的にその政治力を増大させていく力があると感じている。

 とくに、官庁の気合が2010年前後の民主党政権時代とは、背景や制度が異なることもあってであろう、ずい分と趣の違うものに見える。

 また、押しなべて人手不足感のある各省庁が、議席が大きく減少した野党への対応を数の論理で調整するのは当然のことである。昨年までは少数与党であったから、法案(要綱)などの事前説明については、法案の成否を考えて野党への根回しが手厚くなっていたのは自然なことといえる。

 しかし、現在の議席構成を踏まえれば、法案の成立は与党との事前協議でほぼ決まることから、少なくとも衆議院では審議時間の短縮が国対をはじめ各委員会理事の腕の見せ所になると思われる。昨年は与党の議席数が足りないから熟議となった。これからは与党が数に溺れて規律がゆるむことは避けられないであろう。また、野党の抵抗にも物理的限界がある。

 ということで、結局は国民からは見えにくいところで、国会機能の空洞化がとくに衆議院においては進むと思われる。

9.好むと好まざるとにかかわらず、議席集中は翼賛化を進める?

 以上は与野党の対立関係に焦点をあわせた議論である。くわえて、さらに危惧すべきは、そういった圧倒的な与党の議席力が結局のところ「議会が内閣の追認機関化する」ことを招きよせるのである。また、それは近代民主政治において最も避けるべき多数決の罠にみずから嵌(は)まることである。すなわち強権的な政策決定が多数決制から生まれるという皮肉であり、いずれ議会のあり方が問われることになるであろう。

 おそらく当分の間は、自民党参議院としては参議院の追認機関化はみずからの存在意義を貶めることから、また以前から気骨のある対応に努めてきたという流れをふまえながら、官邸からの審議簡素化の要請には少数与党という足場の弱さなどもあり、かんたんには応じられないと思われる。そうなると、場合によっては衆議院での再議決があるかもしれない。

 しかし、2028年7月と想定されている参院選の公認プロセスが始まる頃から、参議院に対しても官邸の圧力が強まり、迅速かつ機動的な政策展開という大義のもとで、とどのつまりが衆参ともに国会審議の空洞化が止められなくなると予想される。そういう意味では衆議院での議席率が4分の3を超えるという巨大与党の重力は、行政への監視と是正という三権分立の仕組みさえも押しつぶす方向に働くのではないか。

 もちろん有権者の投票行動の結果である。しかし、それにしても76%にもおよぶ与党議席率が、30%程度の絶対得票率(対有権者総数比)によってもたらされているという、いわば現行選挙制度の歪んだ特性にこそ問題があるという点にも留意しながら、与野党には総理におもねることなく充実した審議を期待したいものである。

10、議会操縦と異論排除の加速あるいは暴走が心配

 選挙制度とか選挙の手段とかさまざまな問題点があるにせよ、現に2月8日の投開票において主権者の最終意思として、現下の議席構成が決まったことは誰しも与件として受けとめるべきである。

 と同時に、選挙で示された主権者の意思のなかに、これほどの与野党間の議席差が生じることが含まれていたのかについては、たとえば議席構成についての世論調査では、半数近くの回答者が「自民党の議席数は取りすぎ」と答えていることから、有権者にとっても想定外の結果であったといえる。もちろん与党に投票した有権者では70%以上が「そうは思わない」ということなので、調査では死票となった投票者の気持ちが反映されていると思われる。

 ところで、今回の議席構成を受けいれるとしても、現実問題として政府・与党はさらなる議会操縦に走り、最悪の場合には権威主義国の議会と内容的にはあまり変わらないレベルにまで落ちてしまうかもしれない。あくまで可能性の問題であるが、1920年代30年代をふり返れば、議会人の多くが気がつけば翼賛の流れに抗えなくなり、結果的に議会は無いに等しいものに堕したのである。 

 小さなことの積み重ねが土台をゆるがすことになるのは世間ではよくあることで、年度内予算案成立を切望し、答弁の最小化を求める宰相に巨大与党は抗えなかったということのようだが、それは直線的にいえば議会の堕落であり、まさに与党巨大化の悪しき副作用といえる。

 こういった議論は若年層の多くにとっては、既存メディアのそれもリベラル系の理屈だと感じるであろう。ま、そういうことである。しかし、だから見当外れだと決めつけるのは早合点であって、リベラル臭くとも中には当たっていることも少なくないのである。

 一方では、有権者は与党に過半数をはるかに超える議席を与えたのだから、最短コースで結論をだし予算執行に差しつかえないようにすべきという考えも多いであろう。その背景には、予算委員会といえどもいつもと同じような議論だから省略してもいいのではないかといったコスパ、タイパに通じる実利優先的な価値観があると思われる。 

 いろいろな考えがあっての社会であるから、ここで甲乙つけることもない。ただし気になるのが権力批判の重要性についての認識に差があるところであろう。

 いずれの国においても、政府を攻撃する野党あるいは評論家、また団体やメディアに対して寛容な政権は見あたらない。また多くは隠蔽的である。 

 とりわけ、政権や権力集団が不都合と感じるのは自分たちの利益構造が暴かれそうになった時、あるいは米国のエプスタイン文書のような人間の本質に触れる醜聞が、とくに政治家をふくめてセレブ層(社会的に認められた富裕層)を巻きこみながら広がっていくことであろう。

 セレブ層などの醜聞は、大衆の好奇心の餌食であるから、セレブ層と深いつながりを持つ権力あるいは政権にとっても都合の悪いことの始まりといえる。だから情報公開資料がのり弁になるのである。権力や政権は秘密をあばく連中を常に注視しながらその弱体化を強く望んでいる。

 ということで、政権を中心軸として同心円状に広がる各種の権力は、たとえば安全保障上の脅威に適切に対応するためという理由で、不都合な連中を無力化するために、なるべく水面下で時として権力どうしが協力しあい、また政府機関が連携しあって不都合な連中を排除したりあるいは報道機関などを篭絡していくのである。これはどの国にも起こることである。

 また、わが国では事例としては稀であるが、政治的に仕掛けられる罠もあり、さらに偶然入手した情報の別途活用ということも考えられる。敵味方に関係なく、また官民の区別に関係なくそういった罠を回避するためには、要人みずからが用心すること、そのためには関係者が緊張感を持つことが必須と思われる。国会での追及が一定の緊張を保つために役立つというのは副次効果とはいえ注目すべきことといえる。

 という今日的な状況にあって、国会こそがとくにわが国においては予算委員会こそがルールをわきまえるかぎり忌憚のないストレートな質問が可能な場であり、さらに記録されかつ公開されている。くわえて報道機関がつねに待機しているので、たしかに答弁者にとっては強いストレスの場であるし、与党にとっても忌々しくまた疎ましい場ではあるが、これこそが民主政治の原点といえるもので、さらに有権者が選挙結果や国会審議をチェックできる大切な場であるといえる。

11.できちゃった4分の3与党ははたして翼賛政治に向かうのか

 さて、権力とは非権力を定義することなので、権力者とは非権力者を定義することに等しいと考えている。そこで非権力者とは、権力者の後始末係である。とくに失政の穴埋めを強いられる立場といえる。

 また、権力者の失意や悲嘆あるいは絶望などを慰め癒すためにコロッセオで皇帝に対し歓声をあげる役回りをも強制されているのが非権力者である。だから、座っている本人ではなく、皇帝を座らせている椅子こそが本当は偉いのであって、座っているのは王服をまとっただけの非権力者であることを思い知らせなければならないのである。しかし、ほとんどのケースにおいて失敗しているのである。ともかく皇帝に逆らうのは難しい。

 その点、民主政治の世界では選挙で選ばれた議員には人びとから負託された任務があって、それが権力者の本質は非権力者であることを思い知らせる役回りであり、その主役は野党である。与党だけでは権力者の暴走を止めることはできない。

 だから、野党の存在価値は総理大臣に対し元は非権力者であったことを思いださせ、さらにその権力者に投票した有権者を大いに不快にさせるところにある。つまらない権力者が人びとに迷惑をかけているのは、選んだ有権者のせいであるというこの世の真実を当の有権者に思い知らせる場面が、この先減っていくのはさびしく残念なことである。

 くわえて、野党の質問時間を極力減らすことに賛同する有権者も多く、この傾向は当分変わらないと思われる。

 そこで、議員定数の削減とか審議時間の短縮といった民主的手続きの簡素化を、身を切る改革と倒錯している与党が、どうして非権力者の権利を擁護できるというのか、できるはずがないではないか。

 委員会を最短で切り上げろという権力者にとって気持ちのよい舞台作りに、非権力者である有権者がわざわざ手を貸す必要はない。しかしそういった流れが生じるのは、戦後リベラル派の跳梁にうんざりしていた世代が、独裁政党を応援することがナウいといった反動感覚などではなく、単に権力に巻かれていく快感に溺れているように思えるのである。

 戦後リベラリズムが行きづまってから長い年月が経つというのに、今でも反リベラリズムで炎上するというのも可笑しな話ではないか。リベラリズムの偽善性を衝くのは賛成だが、それに代わるものがなければ世界は混迷するばかりであろう。

 少し複雑ないい廻しをしてしまったが、現行の選挙制度には条件がそろえば極端な偏りが出現し、それによって政治的にはいきなり奈落に落ちるようなバックドアが組み込まれていたということであろうか。少なくとも政権交代可能な政治状況をつくるためといいながらの1994年の政治改革が生みだしたものは、翼賛政治へのほのかな衝動であったのは歴史の皮肉といえる。

12.叩かれキャラの立憲民主党を喰ったアテンションエコノミーはノンポリ?

 さて、日ごろ権力者の後始末に苦労している非権力者としては、その対価として一夜のミュージカルほどの娯楽が得られなければ「やってられない」と内心では思っている、というのが筆者の妄想的な仮説なのである。

 いいかえれば、非権力者はほぼ露骨に権力者やセレブ層の犠牲を期待している。喉が渇けば無性に水が欲しくなるように、現在の格差拡大が人びとを心理的渇望に追い込んでいる。政治は深層心理においては祭礼であるから供物が必要なのである。供物のひとつが、エスタブリッシュメントの蹉跌かもしれない。立憲民主党はセレブではないがエスタブリッシュメントと思われていたから、標的になりやすかったといえる。何かしら反対ばかりでダメで役にたたない感じが叩かれやすさを助長したと思われるが、それにしてもそういったイメージは正直なところ根拠のない創作物であり、誘導もあったと思う。

 たとえば、古いとか反対ばかりとか既存のといった修飾語がマーキングの機能をはたしていたのではないか。小泉政権時代の守旧派や刺客ほどのインパクトはないが、分子標的ならぬ政治標的として巧妙に負のブランディングがおこなわれ、格好の叩かれ役として同党がフォーカシングされたのではないか、と思っている。

 ということで立憲民主党の衆議院議員はいってみれば屠られたのである。つまり、高市氏の場合は初めての女性総理という初物効果と「それで私はどうよ」的な強いキャラとが相まって自然とブランド化していったと思われる。他方で前述のとおり叩かれ役のピエロとして立憲民主党の野田氏らがフォーカシングされたという単純な構造がとても分かりやすい。そういった分かりやすい陰陽の強烈な対比こそがアテンションエコノミーでの集客最大化の手法であったと受けとめている。

 さて、選挙運動としてのネット空間の利用は、全体の中に包みこまれているので見え難いが、根元の仕掛けはあったと思われる。しかし、今のところ手がかりがゼロなのでなんともいえない。怪しいといえば、たしかに怪しいといえる。いつものことであるが、終わってからの「あれは俺が仕掛けた」説はほとんどの場合が怪しいのである。

 さて、立憲民主党を屠った直接の動機はアテンションエコノミーでの利益追求と優越感覚というノンポリ系だったのではないか。ここで下品な表現になるが、今回の裏張りには非権力者の権力者喰いあるいは王殺しへのほのかな衝動があったようで、立憲民主党は準貴族として試し斬りにされたのかもしれない。この解釈は私的すぎてほとんど説得力ゼロといえるが、格差拡大がもたらす人びとの感情の複雑さあるいは怪奇さをすこしばかり感じてしまうのである。 (つづく)

◇ 麗らかな カヤック傾く カナルかな

加藤敏幸