遅牛早牛

時事寸評「2026年4月の政局-変化する世界と政党の閉塞-」

まえがき

[ 人生に誤算はつきものではある。しかし、2月28日からはじまった米・イスラエルのイラン攻撃の展開は、クラウゼヴィッツの「戦争は、他の手段をもってする政治の継続である」とは逆向きあるいは無関係で、その脈絡のなさに思考回路がオンにならない。それに、元の政治がよく見えてないから、何が継続されているのか不明である。むしろ、政治は、他の手段をもってする戦争の継続であるといったほうが、とくにイスラエルにとっては当たっているのではないか。政治を外交に置きかえればさらにピタッとする。

 ところで、4月の第3週の多くのコラムには「誤算」が踏んづけそうになるぐらい転がっていた。はたして誤算なのかしら。狙いがはっきりしないということでは、初めから成算があったわけではなく、いくつかの取りこぼしがあったので精算してみると、体制転換もせん滅も無理なので、何とか清算したいと思っても、ホルムズ海峡を人質にとられて出られなくなった、のか。

 始まりは意図的で偶発ではなかった。しかし、その後の展開は目的を失っている。核が問題であれば、NPT体制を触らなければ国際世論を動かすことはできない。お灸をすえるだけにしておけばよかったのに、体制崩壊から民主化へと教条的な思考に支配されたのがまずかった。米国は敵からも味方からも翻弄されているのではないかと心配している。

 ホルムズ海峡は晴れている。しかし、海峡を覆う闇は1週間たっても2週間たっても消えないだろう。そして、その闇がアジアを覆うのが恐ろしい。困ったものである。

 さて、今回は自民党の中興が中心である。また、政党の興隆あるいは衰亡に影響するのは経済と安全保障であると筆者なりに指摘してみた。経済は完全に従属変数化している。消費税減税は中断したほうがいいし、日銀は早く利上げを実施しないとタイミングを失う、というよりも政府の従属物だと思われるよ、本文では触れてないが。

 本文といえば、中では左派系政党との表現をつかっているが、文脈的には軽く護憲派あるいは立憲主義の意味である。憲法至上主義というか、長らくつづいた憲法原理主義への嫌悪感が若年層に広がっているのではないか。選挙にも影響したと思う。何ともいえない硬直感が嫌なのであろう。

 ということで、次回は議席を伸ばしている野党を、取りあげる予定である。そんな場合ではない、となる可能性が高いかもしれない。]

1.既存政党の停滞と閉塞を横目にしながら、自民党の中興は本物か

 失礼とは思うが、勢いのある新興政党は別にして、多くの政党はいささか党勢としては停滞期にあるのではないか。その中にあってとりわけ特異なのが「高市ブーム」によってもたらされた自民党の中興であろう。で、そこに持続性があるのかというのが今日の論点である。

 現時点では、自民党の停滞が打破され復興期をむかえつつあるというのは尚早であろう。というのも、この議論には政党側と有権者側との2面があって、それぞれについて細かく分析する必要がある。しかし、実際のところ議論はまだまだ不十分なので、結論めいたことはいえない。

 不十分であるというのは、たとえば2月8日の自民党の大量議席が、政党としての新たな魅力によって生みだされたのかと聞かれれば、「そうだ」と即答するにはためらいがあるからで、まあ世間の気分はなかなかに複雑ではないかしら。

 そこでいくつかの評価点をあげれば、女性をトップに選ぶことができた、総裁選出が分かりやすかった、総裁選出では地方票が議員票よりもビビットに効いた、派閥解消などの「政治とカネ」への対処が多少なりともすすんだ、保守的傾向を鮮明にしながら対中姿勢を硬質化させた、などであろう。これらの5項目をまとめれば自民党の努力が優越しているといえる。

 さらに、政党組織については「安定性」と「機能性」また「規模性」の3点においても他党よりも評価されているといえる。「とりあえずビールで」といった感じに近い、つまり無難な選択であると思われていることは間違いない。

 しかし、「政治とカネ」問題にみられるように忌避感情が強く残っていたのでは、いくら優越性があっても忌避感情に埋れてしまうことも多いと考えれば、2月の総選挙では自民党への忌避感情がかなり緩和されたと解釈できると思われる。

2.有権者側の変容

 というように、有権者の投票行動についての分析では「政治とカネ」への批判は残るものの、新総裁による新装開店効果が醜聞の希釈化をすすめたといえるかもしれない。つまり、有権者をマスとしてみれば自民党への忌避感情が「高市ブーム」の陰にかくれた、あるいは有権者自身が急速に変容している、と考えられるが、おそらく両方とも当たっているのではないか。

 さらに有権者側の変容としては、たとえば当選確率の高い候補者への投票傾向が強まったともいえる。これはいわゆる投票者の行動パターンとして死票を嫌っていることの現われともいえる。よく出口調査などで採録されるが、回答者が「勢いのある方に入れました」あるいは「(入れた人が)負けると気分が悪いので」といった投票理由を明かすことは稀であり、経験からいってもあまり表にはでないが、選挙を「当選者をあてる投票」と考えている有権者が少なからずいることは確かである。

 極端にいえば、選挙にもゲーム感があり、やる以上は勝ちたいという思いが膨らんできているのではないかと思う。

 さらに投票が、理念や政策よりも生活感、理屈よりも行動、長文よりも短文、文章よりも画像や動画に重心を移していると思われる。この傾向はとくに若年層に強く表れている。

 また、何ごともアイドル化する文化が定着していることから、一般的にアイドルへの憧憬が強い。さらに共感性を大切にする世代がいよいよ有権者の多数派になりつつあるといえる。

 ということから、2026年2月の総選挙が「高市ブーム」と有権者の変容とが合成されたものと考えるならば、自民党支持層が一部帰ってきた、あるいは新規支持者が増えた可能性があるといってもいいと思う。

 ただし、「高市ブーム」が終息した後に、党首のキャラにかかわらず自民党固有の評価が定着するのかについては、今のところ判断できる材料がない。いいかえれば、いわゆるアイドル性をもちあわせない党首が選ばれた折に凝集力がどの程度残りうるのかは、現時点においては不明であって、それには人(党首)による効果という意味での余白部分がかなり残されているということで、党首キャラに依存する程度が高まっていることは確かであり、むしろどんなキャラを選ぶのかに関心がむいていると思われる。

 理念あるいは政策よりも象徴性としてのキャラに着目する、そういった選挙が主流になれば、確証バイアスの対抗戦になるのではないかと思う。

3.「有権者の右傾化」という表現に見られる上から目線が嫌われている

 さて、ここ十年来の議論として「有権者の右傾化」があり、今でも続いている。これも、かなり感覚的な議論であって、そもそも政治的立ち位置の右左をどのように測るのか、といった議論は着地場所がないように思える。

 それでも、「右傾化した」と主張する人びとがかなりいることを考えれば、少なくともそういう傾向があることは現実として受けとめるべきであろう。

 という文脈でいえば、立憲民主党、日本共産党、れいわ新選組、社民党の最近における選挙での不振が、たとえば平和主義、憲法尊重、外交努力、専守防衛などのリベラルな概念と相関しているのではないか、という指摘が反リベラルな空間で話題になったが、これらの指摘は、中国の覇権主義が軍事的示威をともなって顕在化してきた時期と同期している、すなわち中国への国内世論の高まりと連関していたというのが筆者らの認識である。

 有権者の傾向ほどには中国のことを悪くはいわない政治家や左派系政党に対して「媚中派」という烙印を貼りたがる人びとがいることは確かである。とはいっても、「媚中派」という表現が烙印(スティグマ)として働くことを知ったうえでのレッテル貼りであるなら、それは操作的といえる。

 ここ10年来の日米安保体制の深化にともない、反射的に日中間の緊張が高まっていることから(もちろん因果関係は逆だという認識もある)、両国間の些細なことが問題として受けとめられ、それがさらに緊張を高めるという悪循環をもたらせている。

 外交はつねに摩擦をともなうものであるが、友好や交流あるいは共益を生みだすことも多い。だから、ネット空間などでレッテル貼りを騒々しくやるのは日中関係にとっては好ましいことではなかろう。もっとも、騒いでいる者の多くがアテンションエコノミーを動機としていると推察されるが、これは別次元の議論であろう。

 ともかく、日中関係は多面的かつ重層的であるから、政府間の枠内にすべての事柄を収容できるものではない。しかし、中国政府の報道官の押しつけがましくもわざとらしい態度が、一般的には好感をもてないと受けとめられている。

 残念ながら特定の傾向に染まったと思える主張が、日中離間策を企てているかのように、何かと煽りたてている中で、共鳴者たちがいいねを交換しているのではないか。初めのうちは冷静であっても、気がつけば傾向言説にからめとられたりして、じつに危なっかしい空間でもある。

 こういった状況はこれからもつづくと思われる。そこで、当面の日中間のあり方をいえば「水のごとし」が参考になるのではないか。水のように淡泊に、である。もっとも淡泊な民間交流がもっと広がりを持つべきといっても、仮に強力な情報操作が機能しているならば、最初から健全な情報空間が成立していないわけだから、まだまだ時間がかかると思われる。

 今は米中関係を差し挟んでの日中関係が表にですぎている。地政学的には仕方のない局面ではあるが、百年千年単位の交流史をふり返れば、常に双方ともに変化してきたわけだから、このままがいつまでも続くとは考えられない。変わることには注意深くあらねばならないが、変わらずにはいられないのも事実である。

4.日中関係の難しさ、中国の戦浪外交がリベラルを衰退させる

 2012年、当時の石原都知事が尖閣列島の取得による上陸あるいは施設建設などの計画や資金集めに動きだしたことへの対応策として、9月には野田政権は国による買い上げを断行した。しかし、国有化が逆に中国側の激しい反発をまねく結果になった。民間による右翼的騒動を事前に遮断する目論見であったのが、現状維持からの逸脱と解釈され、結局レアアースの輸出規制をはじめ、デモや不買また一部の日系企業への襲撃など、今日では考えられない事態にいたったのである。

 わが国の対中感情は、すでに2005年の反日デモ、2010年の中国漁船船長逮捕事件などによってひどく悪化していたのであったが、尖閣列島の国有化への中国側の反応行動によって関係悪化は決定的になったといえる。

 くわえて、その後のさらなる軍備拡張や示威行動がわが国の人びとの不安心理を煽っていったといえる。この関係は、大きく見れば今日なお続いており、また軍関連の示威行動が見過ごすことのできないレベルに達していることから、それが逆にわが国の人びとの安全保障意識を高めて、日米安保体制の強化が広く支持されるにいたったことはじつに皮肉なことといえる。

 中国の国内事情には疎いので、習政権の思惑がどこにあるのかは分からない。しかし仮に、軍拡や示威行動が抑制されていたなら、トランプ外交とりわけイランへの攻撃などについてのわが国の世論はそうとうに変動していたと思われる。たとえば、昨今の反戦デモ参加者も桁が違っていたのではないか。何度もいうが、東アジアが緊張緩和にむかえば日米関係は緩み、自民党が選挙で大勝することはなかったというのが筆者の妄想である。

 妄想ではあるが、国内統治のために外に敵をつくることはよくあることである。しかし、反日であることが自縄自縛となって中国自身の選択肢を狭めているのは間違いない。

 ただし、中国には日中関係を軟化させられない事情があるのかもしれない。たとえば、海底資源の探査や潜水艦の航路開拓などは非友好的に強行するものだから、友好関係はもともと難しかったのではないか。この関係は長く続くと思われるので、甘い見通しを持つことはできない。

5.わが国の政治を規定するのは、日米中の政治三角関係である

 もともと、中国の対外広報の多くは国内向けのポーズをふくんでいるので、周辺国の民情に配慮することはほとんどなく、米国以外に対しては無遠慮なものである。また、当面日本における対中感情を改善するという動機も見あたらないので、両国間の冷ややかな関係はおそらく変わらないと思われる。という認識が今世紀に入ってからも続いている。

 といった、感情面もふくめた国民レベルでの安全保障意識の変化にいち早く着目したのが安倍晋三総理(当時)であった。という文脈において2015年の平和安全法制こそが、人びとの意識変化を受けながらさらにそれを助長するための象徴的イベントとして、当時の政権によってクレバーに使われたともいえる。

 もちろん現実的脅威の実感が人びとの記憶に残っているかぎり、安全保障における対中姿勢の硬軟が政権担当能力を問うリトマス試験紙となっていったことは否定できない。

 「本当に国民のことを考えているのはどの政党であるのか」という赤裸々な問いかけが、民主党政権崩壊後の2013年ごろから通奏低音として流されていったというのが筆者の感想であった。

 ついでに一言くわえれば、中国が戦狼外交をつづける限り、日本のリベラル陣営が盛りあがることはないと思っている。これは相互関係そのものである。

6.憲法を盾にした安全保障政策の矛盾を若年層が衝いているのである

 ところで、軽い感じでの有権者の右スライドを民意の右傾化と政治的に受けとめられて、そのように表現されたことは確かであった。

 つまり、「好ましくない右傾化」というニュアンスが、(筆者が2018年から用いている)左派系政党の場面場面での言いように滲みでていたようで、そういう用法が人びとの左派系政党に対するマイナスイメージを形成したと、今から思えばの話であるが、そのように捉えている。

 たとえば、「中国が軍拡に励み、反日言辞を弄するのであれば、わが国もそれに対して適切に対応すべきである」という声があるとして、それをどのように聞きとるかは優れて政党の裁量というべきものである。

 そこで、当時の自公政権は憲法違反との批判を受けながらも、内閣の集団的自衛権に関する憲法解釈を変更したうえで、現実対応(法制化)を急いだ。

 他方、2015年の平和安全法制に反対していた民主党の系譜を引く民進党は同法施行後は議論の争点を「違憲部分の廃止」に集約したが、反対運動としては2017年結成の立憲民主党に引きつがれたと考えている。同じ民進党系といえる希望の党の系譜である国民民主党は安全保障に関しては立憲民主党とは逆の方向をむいていたのである。

 2016年段階では当時の民進党(3月までは民主党)を筆者は左派系政党と位置づけていたわけではなかった。ただ、民進党と共産党との連携には違和感を感じていたし、それは多くの政策に関して両党の考えには不整合なところが多々あったからで、反対のための反対という立ち位置では連携できたとしても、それ以上の発展は想像すらできなかった。無理があると感じていたのである。

 しかし、小選挙区(当選者1名)での候補者調整がかなり効果的な選挙区が少なくないことから、衆参の国政選挙における共産党の動向が気になっていたことは否定できない。とにもかくにも、当選しなければ話が始まらないことも事実であるから、現実はどちらを向いてもスパッとは割りきれなかったということであろう。

 とはいっても、国際的な安全保障環境の変化への有権者自身の対応としての自然発生的な右へのスライドを「右傾化」と非難がましく表現するようでは、国民政党としての感性を疑われても仕方ないといえる。

 少し不明瞭ではあるが、筆者としては左派系政党の多くが停滞を脱しえなかったのは、安全保障政策に対する低感度な対応に原因があったと、たとえば、「違憲部分の廃止」というのは一つの主張ではあるが、中ロ朝を隣国に抱えるわが国の防衛策として、平和安全法制に代わる現実感のある政策がありうるのかについて、立憲民主党(当時)、日本共産党、社民党が人びとの耳に届く何かを提起したのかといえば、とてもそうは思えなかったのである。

 いくら、民主主義を守る、立憲主義を守ると言葉でいっても、不安を感じている人びとにはかなり空虚な響きであったと率直に感じていたのである。

 とくに、2015年の平和安全法制を挟んでの与野党対決では野党側、とりわけ民主党(当時)の理論構成が前例踏襲的すぎて、今いち変化への適応性に欠けていたといわざるをえなかった。前例とは護憲を中心とした反戦運動であるから、運動の継続性もあってか相当程度の全国的な支持がえられたのである。しかし、世代的にいえば70年安保世代までのシニア層が中心であり、若年層からはかなり距離のある、また古めかしい理論であった。ここらあたりからいわゆる支持層の固定化が始まったと反省かたがた思っている。

 要するに、2015年段階において現実的脅威に対し憲法を盾にした従来からの理論で対応したことが、政治的には中道域という広大な沃野を前にしながら、路線修正の試みもなく、また2020年9月の新たな立憲民主党としてスタートを切りながら、前例踏襲に安んじたことは「中国とは仲良くしたいのかな」といった印象を必要以上に強めたと今では考えている。

 憲法を盾にした反戦論は理屈としては洗練されてはいるが、現実とは整合できていないという矛盾点を若年層は衝いてきたのだから、かなり距離感のある話であった。

 結局のところ護憲の呪縛から逃れられなかったというか、喜んでそうしたことが低落傾向の打破にはつながらなかった原因であったと筆者自身は受けとめている。

 

7.野党第一党に二律背反の壁が前進を阻む

 今日、日本共産党、れいわ新選組、社民党の3党に政権交代の受け皿を期待する有権者はきわめて少ないと思う。もちろん、権力をけん制し監視することも政党の重要な任務である。しかし、その任務に没入してしまうと政権体制をいつまでも許容してしまうという逆効果が生じる。やはり、政権交代というカードがあってこそ政権批判にも迫力がでてくるということで、批判だけでは政権監視においても限界があると考える政党が出現するのは自然なことである。だから、政権交代のためには現実的な政策が必要になる。しかし、現実的な政策は宥和的で妥協の匂いがする。つまり、ゆるく見えるのである。という二律背反状況におかれているのが、政権を目指す野党第一党であり、それは宿命ともいえるのである。

8.日米関係は胸突き八丁、我慢辛抱のしどころか?

 さて、東アジア領域における地政学的均衡をわが国だけで担えるわけではない。したがって、日米豪印を基軸にインド太平洋にまたがるゆるやかな連携の輪を広げていくことは、それなりに味の良い発想であると思う。

 しかし、不動のリーダーであった米国に何ともいえない変調が見られることから、何かと難儀なことが起こるのではないかと、そう感じている人びとも多いのではないか。また、日本としては、中国を遠望しながら日米関係を新しいレベルに引き上げざるをえなくなった、というのが本音であろう。ここは、あくまでも「えなくなった」のであるが、米中の対立的関係はそのままにしておき、実態は緊張下の均衡状態という不思議なエネルギー準位を保たせることが、経済関係をも視野に入れれば政治的にも期待されるところであろう。

 そういった視点から、現在の米国の政権は王とその寵臣による専制政治といえなくもない、つまりずい分と中国に似ているところが「無気味で可笑しい」のである。

 また、米国が確立した三権分立などの民主的仕掛けも油切れのようで、いってみればここらあたりが同盟関係のさらなる深化を戦略的にすすめるうえでわが国としては、政権はともかく民間としてはかなり気になるところであろう。

 石破時代の日米関税交渉においても、規模をいえば頭がくらくらするほどの対米投資がまとまったが、何ともいいようのない不透明感があり、そういった不透明感がクリアにならないのであれば、投資対象としてはなかなかに不適確といえるのではないか。

 それでなくとも、わが国の対外投資による利子配当収入のほとんどが再投資されている。その影響で国内投資が芳しくないことも円安の一因といわれている。もちろん、対外投資先として米国を選んでほしいという要請をトランプ流で関税交渉と抱き合わせでまとめたのであろうが、わが国の政治的リスクが大きくなると、高市政権も苦しくなるであろう。日銀の利上げだけでこの先の円安をおさえ込めるのか、なかなか難しいところである。 

 もっとも、この状態が何年も続くわけがないとの見方には説得性があるとしても、「ではこの先どうなるの」という問いには誰も答えられない、つまり説得性があっても視界はゼロ、展望もゼロである。

 経済がそうであれば安全保障はさらに不透明である。そういえば、これからは西半球に専念するといいながらイランに拘泥してしまった。ディールを有利にするための爆撃が地上軍の展開にまで発展するのはどういうことか?と人びとは頭をひねっている。ということで、地上軍などの展開によっては米国に対する非難の嵐が近づいている気配を感じる。

 とはいえ、政府レベルで批判しあってもわが国の安全地帯が広がるわけではない。世界の現実は弁論やジャーナリズムだけで成りたっているわけではないので、自国でやれることをやり遂げなければ他国からの与力すら得られないのではないか。

9.野党に、日米同盟には依存しないわが国の安全保障のアイデアがあるのか

 日米同盟には依存しないわが国の安全保障のアイデアがあるのなら、今のうちに提起してもらわないとすぐにページが捲(めく)られ、間にあわなくなる。仮に政権交代を想定した場合、「日米同盟に依拠しないわが国の安全保障のアイデア」をもって政権選択のモノサシにするとしても、その実現性については険しい関門があるうえに、そうしたところで安全保障上のリスクはかならず残る、ゼロにはならない。

 とすれば日米同盟の枠内での、自維連立政権とは異なる安全保障のコンセプトが「要る」とするのか「不要」とするのか、ここらあたりを中道、立憲民主党、公明党はいかに考えているのか大いに気になるところである。

 さらに、軍事同盟の質を担保するためには積極的貢献が必須であるから、ホルムズ海峡への艦船の派遣を免れたのは憲法9条のおかげであるといった理解ではなく、現状は存立危機事態の認定において法的に困難であるということであろうし、停戦協議がまとまらなければ機雷除去はできないということであろう。しかし、条件が整えば積極的に参加すべきであって、躊躇している場合ではない。90%以上の原油をホルムズ海峡経由で輸入している国として背負っている責任からは逃れられないのである。わが国が直面している危機は直接的かつ死活的なものであって、もはや議論のレベルではない。

 ということで、やはり安全保障のページは現実にそって、すでに捲(めく)られている。日米同盟の枠内であっても、現在とは違う立ち位置がないのかという声もかなりあるが、それこそが政権を目指す野党の仕事であろう。

 ひるがえって高市氏はトランプ氏とは政治家としては一蓮托生でなければならない。トランプ外交の危うさを知悉したうえで首脳会談に臨んだのではないか。その前提での態度(パフォーマンス)と言葉であったと、3月19日は受けとめられている。

 中道としては、ここらあたりの整理がつけば有権者の選択肢も広がると思われる。

10.経済不調の危機への備えを、経済安全保障ってなんだ

 そこで、そもそもの話として米国の対中戦略がその目的形成においてに生煮えのようで正直よく分からない。普通にいえば、きっと超高度なレベルにあるということであろう。しかしそれは状況によっては出たとこ勝負と何ら変わらないことになりうるのではないか。つまり、超高度なものほど状況が変われば往々にして不適合をおこしやすく、そうなると結局ノープランと変わらないことになる、かもしれない。

 そういえば、2025年からのトランプ2.0の執行ぶりを振りかえれば、同盟国がスピード感をもって追随していくのはけっこう難しいレベルにあったと思われる。つまり、同盟国にとっては手に負えない事態が日常化しているのである。

 ではトランプ政権2.0に対応するための、高市政権2.0を期待していいのかと問えば、3月19日の日米首脳会談は成功したというだけである。背景をふくめ詳しい説明を受けなければ合点のいかないことも多い。

 そういった合点のいかないことの中に、米イスラエルによるイラン攻撃があり、短期間で終結のはずが今では着地点を見いだすことが難しくなっている。とりわけホルムズ海峡の閉鎖あるいは閉塞が世界経済に大きなダメージを与えるならば、残念ながら世界規模の不況を引きおこすのではないかと心配になる。

 そういった高まる不安の中で、劇的な解決という着地がウクライナやパレスチナ(ガザ地区)そしてイランで可能なのかと心配しつつ固唾を飲んでいる人は億人単位で世界中にいる。

 そこで、日米首脳会談とは何であったのか。状況はその評価を台なしにするほどの悪化をみせるかもしれない。とくに、ホルムズ海峡閉塞による原油の途絶などは論外ではあるが、問題なのは長期にわたる調達不足と原油価格の高止まりである。これはわが国にとっても世界経済にとっても大きなダメージとなる。もちろん、高市総理に原因があるとは誰も思わないが、「高市早苗が総理でいいのか」との言葉が今なお有権者の耳朶に残っている。

 人間は得手勝手なもので、とくに困った時にはその傾向がつよまる。トランプ氏が高市氏に求めるものもあるだろう。米EU間の齟齬はそれぞれに責任がある。日米間に齟齬があってはならない。わが国はEUとは立ち位置が異なっている。日中関係を考えれば日米首脳は一蓮托生といっても過言ではない。国際政治、とりわけ軍事同盟は任怨分謗(怨みに任じ謗りを分かつ)だとしても、ものごとには限度があり、事と次第によっては内閣支持率の急落も起こりえる。 

 あえて是非を問わないが、5月6月何が起きても不思議ではない、というぐらいの常ならぬ事態にある。誰しも昨日の今日だから妙だとは思わないのであろう。しかし、視点をどんどん上げていくとやはり変だねと思うであろう。

◇ ウグイスや 鳴いて遥かな 別子山

加藤敏幸