遅牛早牛

時事寸評「2026年5月の政局-行先不明のトランプ外交と宿題山積の高市内政-」

まえがき

[ 今日もトランプワールド。正直なところ話題に事欠かないという小さなメリットにニンマリしながらも、遠国の写真に見る被害の凄惨さに気持ちが萎える。また、ホルムズ海峡の閉塞が私たちの生活をじわじわと削っていく。

 昨年のコメ騒動がナフサでも起こるのか。年内はもちろん、年を越えても必要な量は確保できていると聞かされても、不安はぬぐえない。食品トレーや包装資材が不足気味と伝えられている。値上げしても品不足の解消にはならないから、値上げと品不足は併走するだろう。すでに景気停滞のような気がするし、酷暑から残酷暑までのあいだに景気が後退するのではないか。といっても、政治の役割には限界があるので、庶民にとっては我慢して辛抱して夏場を乘りきるしか手がないのだ。いつものことである。

 週に4回は買いだしに地元スーパーマーケットを巡る筆者にとっては価格改定は事件である。「1970年代の狂乱物価を思えば大したことはない」といえるのかしら、それも疑問である。それに便乗値上げを警戒しなければと思うが、消費者の家計はそうとうに傷んでいるから、値上げに消費がついていけない、高エンゲル係数世帯がさらに増えていくと思われる。そうなると2月の高市ブームが反転するかもしれない。

 それにしても、160円もの円安は有害であるが、150円でも非常識なぐらい安すぎる。海外からの旅行客が安い安いと喜んでいる姿を見るにつけ、円安容認の政府・日銀への反感がつのる。「○○○○○!」といいたい気分である。

 様子見が好物の植田日銀総裁の慎重さはどうであろう。情勢を見定めてからというのは、雨が止んでから傘をさすようなもので、ワンテンポ遅れているのではないか。それにしても高市総理の「円安ウハウハ観」は天平時代のようで、政権の生命線である国民生活からは距離がありすぎると思う。

 高い内閣支持率とはいうものの、生活に即した実感でいえば支持できるような状況ではないというのが庶民(金融資産には縁のない)の感覚であろう。2月8日時点との比較でいえば、生活環境面ではいい話はない。小規模企業での賃上げにブレーキがかかることがないように、労働組合がない企業への働きかけを強化しないとせっかくの賃上げも息が切れるかもしれない。

 物価の動向で実質賃金の伸びがきまるので、夏から秋にかけて最低賃金もふくめて要注意であろう。

 さて、民主主義の粗しょう化が本家筋ですすんでいる。18世紀からの啓蒙思想が朽ちているのではないか。所得や資産などの格差が忍耐をこえて拡大すれば、流れとしては社会主義への傾倒が生じるはずというのが一般的な見方であるが、トランプ現象に惑わされているのか、別の対立軸が形成されているように思われる。いずれにせよ、格差社会の不都合を解決する道筋が見えてこないのでは話にならない。そのうえでいえば、煽ることと治めることとは真逆であるから、展開如何によっては分断がさらに深まるかもしれない。

 だとすれば憂いは深まるばかりである。そこで、ポスト啓蒙思想の時代だと軽々しくいってみたい。暗がりの中でも、いうのは自由だろう。

(本文が1万字をこえたので分割します)]

1.巨大与党の責任とは何なのか、議会運営に与党の本性を見る

 議席構成において「絶対多数には絶対責任がともなう」というのは修辞に走りすぎていると思われるが、ではどの程度の責任を負うべきなのか、現下の衆議院における与野党比率を前に考えこんでしまう。

 基本的には投票者の意思の反映であるから、投票者にもそれなりの責任、たとえば根責任のようなものがあると思う。また、投票の結果からもたらされる政治状況については、良いことも悪いことも投票者が引きうけなければ主権在民という民主政治は完結しないともいえる。しかし、結果としての与党あわせて4分の3という議席構成までをも投票者の責任とするのはやはり過重なので、ここは議会が自ら考えるべきであろう。

 というのは、2月8日の投開票という無理筋ともいえる日程を決めたのは高市氏であったことはそのとおりであるから、その日程を前提に3月末までの年度内予算成立を与党に強く要請した高市総理の議会運営の考え方は、選挙による圧倒的な高市氏信任が議会運営の慣例を圧倒しているというものであることは間違いないだろう。つまり、有権者の投票意思には議会運営の慣例を破ってでも前進することをも許容されているといった、信任の拡大解釈が見られるのである。このあたりは汎用的な権限委任につながる理屈の匂いがするが、それは具体的に明示されたものではない。

 ただ、最近の行動には選挙での勝利と高い支持率があることで議会を圧倒できる、あるいは圧倒してもいいというドグマを内心含んでいるのではないか、少なくとも筆者はそのように受けとめている。

 あるいは、2月総選挙という日程は、例年の予算審議を考えれば無理筋との1月段階での批判に対する「予算審議には迷惑をかけない」という氏の切りかえしを証明するための事後工作に近いとも感じるのである。

 もちろん、現実は参議院での審議が4月におよんだことから、暫定予算が措置された。参議院ではわずかではあるが与党は過半数に達していないことから、参議院与党としてはやむをえない対応であったと解している。他の法案のことを考えれば当然の対応であろう。

 というのが常識的な理解であったと考えていたのだが、この参議院自民党の対応に対して、高市総理は少なからず不満と疑心を抱いたのであろうか、何やら波立つ気配が感じられたのである。

 自負と不安が混ざりあった心理とも想像できうるが、議会運営や国会対策の場面で圧倒的な衆議院の数の力を使うことには抑制的である方が、政権としては長続きすると単純にそう考えている。

2.重要性をます経済安全保障はどうしても安全保障と一体化する

 さて、経済安全保障におけるホルムズ海峡の位置づけはどうなっているのか、どのような議論がされているのかが今日のテーマであろう。

 というのは衆議院では野党の議席が大きく減少したことから、議会での議論が質量はもちろんその幅においても矮小化していると思われるからである。とくに、時間的な制約なのか基本的な議論が不足しているように感じられる。

 たとえば、今日では原油(石油資源)はエネルギーだけではなくプラスチックあるいは硫酸をはじめ多くの化学物質の原材料としてとしても欠かすことのできないものとなっている。したがって、ホルムズ海峡の閉塞(現在わずかであっても通行している船舶があり、また全域に機雷が敷設されているわけでもないことから、現時点では筆者としては「封鎖」ではなく「閉塞」を使用している)が、たとえれば冠動脈を圧迫されるほどの直接的なダメージと、近未来に対する不安との二重の苦難を各国に与えている。つまり、今日も大変だが明日はもっと大変かもしれないのである。

 ところで、国際交易における海路の要衝としては、ホルムズ、マラッカ・シンガポール、ジブラルタル、ボスポラス・ダーダネルス(トルコ)の4海峡にくわえスエズ、パナマの2運河が挙げられる。

 いずれにせよ、それらの封鎖は直接的な悪影響のほかに、地球規模でのサプライチェーンを傷つけることによって経済活動の停滞を引きおこす「災厄」

となることは間違いないのである。

 とりわけ、生活全般にわたって石油資源などの輸入に依存している国々にとっては、ホルムズ海峡の封鎖はもちろん、たとえ閉塞であっても人びとの生活に致命的な打撃を与えることは確実である。

 したがって、わが国としても経済安全保障のベースラインはシーレーンの確保ということになるが、よく考えればシーレーンの確保は一国だけでは完結できないことから、国際的な秩序のあり方あるいは秩序の確保と維持といった基本的な枠組みと役割についても地球規模で再構築しなければならない。といった、なんで今さらともいうべきプリミティブな課題に遭遇しているのである。

 さらにわが国の場合、自立的な経済安全保障が成立する条件がととのっているのかさえ疑問である。これは、わが国だけでなく多くの非産油国、非資源国に共通する悩みであろう。

 さて、事実が認識を改めるといわれている。今回のことでイランがホルムズ海峡の地政学上の価値に気がついたことは間違いない。同時にイラン以外にも、交易の要衝の圧迫が予想外の利益をもたらせることに気づいた国があることも想像に難くないのである。下品な指摘かもしれないが、今回のホルムズ海峡の閉塞による「損した国ランキング」を考えれば、米・イスラエルVSイランという典型的な構図以外にも、大した影響を受けなかった国VS重大な影響を受けた国という構図も現実的にはありうるわけで、正直なところ市井のガソリン価格の高騰により政権の支持率が停滞してはいるものの、特定のあるいは特殊なビジネスではむしろ荒稼ぎができそうな別世界があるのではないかと疑っている。こういうのは国際政治とは次元が異なるものの、米国政治が伝統的に抱えているビジネスとしての政治の側面がやはり何かしらの下地となっている、との指摘にも説得性があるように感じられる。さらに、何がインサイダー取引といえるのかどうかでさえ、現状では不確かなものでそれらが直ちに政治醜聞として報道されることはないと思われる。

 という伏線を踏まえれば、イランに対する逆封鎖の効用は分かりやすい。イランにとって貯蔵限界を超える原油採掘は不可能である。さらに断続的な採掘が可能なのかなどは素人の筆者には分からないが、石油資源をめぐる熾烈な争いの世界があることだけは確かなことであろう。ホルムズ海峡の閉塞は米国産原油の需要を高め、米国を輸出国に押し上げている。もちろん、その持続性については議論はあるが、米国が現在のところ強い立場にあることは間違いないのである。

 いつものことではあるが、常に裏面には陰謀論につながりやすいさまざまな事象があるものの、ジャーナリズムが追いかける前に、次から次へと問題が入れ替わり、これがジャーナリズムに対して飽和攻撃を仕掛けているように見えるのである。

 というように現状は不透明で、さまざまなリスクに囲まれているなかで、わが国の経済安全保障を支えるためにはミドルパワー国による国際的な連携をつよめるというのは理にかなっている。当然わが国だけのためではない、大国間の二国間交渉に傾斜しすぎている現状でいえば国際的な多国間交渉の意義を声出しするのは重要なことである。

 今回は触れないが、ミドルパワー国連携にとって、武器弾薬の共用化あるいは共同開発などは実務的な裏張りとしては必須のことである。ページは捲られていく。それを軍事大国化の再来と非難するのはいかにも中国らしい曲解であるが、そのぐらいFOIP(Free and Open Indo-Pacific)というのは中国にとって目障りなのであろう。

 平和のためには確かな軍事力が必要であって、日米同盟を補完する意味においても多国間連携は意味深いと思われる。

3.さまざまな資源を外交の武器に使うことが日常化する時代に

 そういえば、10年以上前のことであるが、中国がレアアースを外交の手段としたことを思いだす。それ以降、特定の資源あるいは地政学上の価値を外交の武器とすることがひそかに企てられていたのかもしれない。

 というよりも、半導体でいえば高度な論理回路素子などの対中輸出が普通に規制されている。理屈の正しさは二の次であり、目下のところ政治意思の貫徹の道具として日常使いされている。

 これらの各国政府(といっても特定の国に集中しているが)による措置は、見方をかえれば人質交渉ともいえる。また、ゲームの基本でもある。もっといえば、相手の首筋にナイフを突きつけ金品を要求する強盗と同じ原理であろう。もっとも、国内的には法律(ルール)という一線があって、それを越えてしまうと国家権力によって罰せられる、つまり強制力をもって阻止されることになる。

 ところが今日の国際社会では、残念ながら強制力そのものが機能不全に陥っている。以前はパックスアメリカーナといわれていた通り、米国による強制が維持されていたのである。それが、米国自身が「もう世界の警察官ではない」といって、その役割を放棄したものだからルールを守らせることができないという「秩序の真空化」に陥ってしまった。さらに、米国自身がルールに服する必要がなくなったというよりもさらに厄介な、時として昨日の警官が今日の無頼漢になったものだから、国際社会としては手の施しようがない事態にいたったのである。つまり、遠巻きに声を出すものの手が出せないでいる。というのが国際社会の実相なのであろう。

 現在地球上には200近い国や国に準ずる地域があるが、それぞれの内部のことは措き、国家関係のあり様をいえば「万国による戦争状態」に近いといえるのではないか。つまり、好んで戦争を選ぶわけではないが、政治(外交)の延長として安易に武力行使が選択されているということであろう。さらに、事の善悪から離れて、純粋なオペレーションとしても他国からの侵略を止めることができるのは反撃力という武力そのものであり、また相手の予定利益の破壊であり、最終的には敵の弾切れであることが嫌々ながらも共有化されつつあるといえる。

 そういう意味では逆に侵略、侵攻の採算性が問われるビジネスライクな時代にあるといえるのではないか。ここで補足しておかなければならないのは、個々のオペレーションにおいては合理性が尊重されているものの、動機においては強迫観念や不信・偏見あるいは過度の自己愛や楽観主義などの外からは見えない情動によって動かされる比重が大きくなっているように思われる。とても説明のできない心理過程が、結果として多くの死傷者や破壊を招いているのである。さらに、自らの足元に絡みついた「事情」や「利害」が情動を支配している可能性も否定できない。そういった首脳達の心理プロセスを追跡してみるのも一興ではあるが、筆者にとっては無駄なことである。結論をいえば、イランの核保有阻止に照準を定め、その意志を砕くことに専念するというのは現状においては妥当な判断といえる。

 米国が警官でなくなることが、直接的に米国が国際社会での規範性を放棄することに結びつくとは想像すらできなかったのであるが、現実はじつに直截であって眩暈がするほどに分かりやすいといえる。その分迷惑もヒマラヤ級といえる。

 弊欄でも1月25日付けで触れたが、戦後体制から東西冷戦へさらにソ連の崩壊へと大きく国際関係が変化していく中で、一貫して米国の軍事力に依拠した平和であったことは事実として記憶しておかなければならない。もちろん、米国が最大の受益者であったことも、さらにイラク戦争のように表見上の動機(正当性)が成立しない戦火があったことも同時に記憶すべきである。

 そのうえでの米国の変身にどう対応するのか、という現実問題に直面しているのである。たとえば、米中をG2と定義し、西太平洋や東アジアの国々の存在や利害を無視し、米中だけの利害で均衡関係を構築するのではないかといった懸念をたまに聞く。そういった懸念が的中するかどうかについては、客観的な条件を多角的に分析する必要があり、膨大な条件を思えばそれは簡単な作業ではない。つまり、不確実な要素が多すぎて論評の対象にはならない、だから無視せざるを得ないのである。

 ともかくも、20年30年先の米中関係なら無責任なSF感覚の議論ですまされるかもしれないが、10年程度の時間軸では現時点での米国にとっての中国の脅威が拡大する方向で条件を設定していくということであるし、そうであればもっともシビアな条件を前提とせざるを得ないということであろう。

 そもそも、米国のストレスは対中貿易での大幅な赤字であり、国家資本主義を実践する中国が貿易収支などを均衡させる気がない、つまり黒字が好ましいと考えているかぎり、米中関係の緊張は高いままと思われる。

 くわえて、相手がいかなる国であっても軍事面での挑戦的なふるまいを許容するほどには米国は寛容ではないと思う。イランがイラン革命体制の存続を最高の優先課題としているように、中国も共産党支配体制の存続こそが第一の課題なのである。まさに、唯我独尊的と受けとられかねない自己認識であるから、話しあいでのぶつかり合いが難しい、いいかえれば難解なメンツ問題があるということであろう。

 一般的に民主集中制を標榜する共産党政権は公正な選挙を経ることがないので、その正統性を証明するためなのか、どうしても対外的には権威主義的な強硬姿勢に走りがちである。たとえば、中国共産党は権威に神経質であり、それにこだわるあまり外交上の亀裂を拡大させる方向に動きやすいといえる。

 本来外交とは円滑化を求めるプロセスであるのに、わざわざ波風を立ててどうするのか、昨今の中国外交とくに戦狼外交には相手を鑢(やすり)にかけるような、なかなか難しい事情にあるのではないか。

 一方、数年おきに普通選挙の洗礼をうけている民主主義国では、内外にその正当性を示す必要がないことからある程度柔軟な外交が可能となる。たとえば、外交交渉において宥和的な対応をとっても、あるいは思いきった妥協に走っても、選挙までのリードタイムがあれば国民感情の鎮静化をはかることができるので、外交上の選択肢が広いと考えられている。

 また、同じ民主主義国であっても比較的安定した単独政権や、連立であっても寡党連立政権のほうがまとめやすいことから、状況への適応性が高いといえる。とはいっても、外交は内政の延長線から離れることは難しいので、どうしても国内世論の影響を受けやすく、また世論は対外的にはつねに強硬派であるから、話し合いだけで決着がつくことはケースとしては少ない。それでも決着をつけなければならないということなら、憲法の精神からいえば大胆な妥協も可としなければならない。

 とにもかくにも、国際社会では力の裏付けのない約束は反古になりやすい。また法の支配といっても懲罰がなければ法の支配は徹底できない。もちろん、報道において法の支配の必要性を喧伝することは大いに必要であるし、その主張はまことに正論といえる。が、残念ながら「無力であるがゆえの正論」という限界を越えることはできない。だからといって、正論も吐かずに端から現実論にとどまるというのも、だらしのないことのように思えるのである。

 

4.政治に振り回されないことが交易の発展のためには良策といえる

 そもそも貿易というものが、その時々の政治による恣意的判断から確実に分離されることによって繁栄するものであるとの言説に立つならば、政治からの自由こそが交易拡大の条件の一つであるといえる。したがって、特定資源の政治的意図による輸出制限は当然のこととして交易の阻害要因になりうるし、地球規模でのサプライチェーンの擾乱の種といえる。擾乱の種の存在が常態化すれば、個々の種の発芽如何にかかわらず一般的には経営体はリスクオフに走ると予想されるので、経済活動が守りに傾斜すると思われる。

 こういった状態を大げさにいえばグローバリゼーションの限界とも解釈できるわけで、経済を交易量で測る人びとにとっては、まさに停滞の時代といえるかもしれない。つまり、交易による経済拡大への期待値は漸進的に下がらざるをえないことになる。

 また、昨年大騒ぎした米国の一方的な関税交渉も多くは安全保障上の優越を梃子にしたもので人質交渉の変形といえなくもない。さらに、特定の半導体デバイスなどの輸出規制も同様であって、交易への干渉といえる。

 ある時はグローバリゼーションを称揚するものの都合が悪くなれば理屈をつけてグローバリゼーションの足を引っ張ろうとする。形式的にみれば得手勝手な対応であると指弾されるべきではあるが、いずれの国も国際的な経済競争によって国家が破綻していくのを唯々諾々と見過ごすことはない。現実問題として主権国家は責任と権限をもっているので制限的ではあるが最善を尽くすべきである。

 そもそもが中国のWTO加盟が審査不十分であり、とくに国家主義的保護政策による中国の圧倒的な供給力の伸長が各国の産業を駆逐することを危惧し、予見的に対応すべきであった。残念ながら当時の対中認識がナイーブで楽観的過ぎたといえる。

 本来交易は各国の共存共栄を前提に成立するシステムというか、そうでなければならないという意味で、調和を欠いた中国の行動が不均衡な事態を招いているのであるから、米国の復元工作は基本的には理解できる。

 問題は米国の工作の一貫性と説明が不十分な点にある。まるで、銘木を求めて森に入ったのに途中の川で魚取りに熱中するようなもので、それでは迷子と変わらないではないか。確かに政治のリーダーシップが重要な局面があるとは思うが、交渉のために相手を混乱させることがいいことなのか、また、法的裏付けや議会との関係を明らかにしてもらわないと整理がつかず、国家間の安定的な交渉にはならないし、副作用だけが膨らむ可能性が高いと危惧される。

 どの国にとっても経済が安全保障と絡みあっていることは間違いのない事実であるから、ある意味危険な面があるといえる。

 まあ、そこまで交易への政治介入の悪口をいわなくとも、もともと気候変動問題が、米国の認識がどうであれ、地球規模での経済活動のボトルネックとして広く共有されていると思われるので、脱石油文明の流れにおいても、原油の供給制約と高コスト化ならびに需要の抑制などにより、近未来には消費構造の変容が必要になると思われる。

 つまり、政治による特定資源の供給抑制策も、また気候変動から要請される石油の需要抑制策も原因は異なるが結果は経済活動にとっての阻害要因となる、といい切っても差し支えないといえる。また、特定資源の中でもレアアースについては採掘・精製における環境負荷の高さからも代替資源(置換技術)の開発が加速されると思われる。ということで調達先のブロック化あるいは分散化も企業としては、相当なコスト増になるにしても、事業におけるリスク軽減策として積極的にとりくむことになると思われる。

 もちろん、最適地からの調達がサプライチェーンの根幹として機能できたのは過去のことであり、これからは経済制裁や過重関税また戦略物資などの輸出規制などが、他の手段による戦争の継続策として安易に採用される時代になるのではないかと思われる。まことに変な時代がやってきたのだが、冷静に考えればたとえばホルムズ海峡ではにらみ合う勢力のいずれにも通行料を払い安全航行を得るといった馬鹿げた時代がくると考えるほうが現実に即しているのかもしれないのである。

 ルールなき時代とは早い者勝ちであり、ずうずうしく立ち回った者、あるいはリスクをとった者が利益を手にするという、とても分かりやすい時代ではないか。ここで是非を語る者は筆者と同じように結局のところ時代遅れであるのかもしれない。

 また、仏英などの有志国が機雷掃海のために艦船を派遣するにしても本当のところ2月以前のホルムズ海峡にもどれるのか、という問題は当分の間は残るであろう。つまり、荒れた海がおさまるには何年もかかるのだから、ホルムズ海峡が元通りになるなんて、なにかしら現実感をともなわない夢物語のように思えるのである。

 だから、イランは米・イスラエルによる理不尽な国土破壊の復興のために、また米国はイラン革命防衛隊の監視と規制のための駐留経費として、両者が受益国から相応の負担を求めるという、えぐい結末でなければリアリティに欠けるというか、これまでの文脈とは整合しないとみんな思っているのではないか。

 それほどに常識が崩されたのである。だから、ゆすり・たかりに始まり詐欺やかどわかしなど、さまざま悪徳行為の出現を誰しもが警戒するのである。

 そういう意味では、たしかにパンドラの箱が開けられたといえるし、100年前のアスピリンエージの再来かもしれない。そういえば米国発の世界恐慌は1929年だった。同じことが起こるということではない。しかし、貧富の差は顕著に拡大している。この経済格差こそが収まりのつかない程度にまで、人びとの情動を掻き立てていることは確かであろう。

 多国間連携は米国による警官ほどには役にたちそうもないが、街の夜警団ぐらいの役割は果たせるのではないか。高市外交を評価するのは尚早ではあるが、方向がズレているという声はあまり聞かない。

5.ホルムズ海峡の閉塞はダラダラと続くかも、いろいろと工夫を凝らしていると思うが、どこか(の国)で破綻するかも

 さらにいえば、この大きな流れは逆には向かわない。というのも、秩序は無秩序に向かって流れるから、早い話がどんどん酷くなる。一般的に秩序の形成には膨大なエネルギーが必要であるが、現代はどの大国も国際的な公益分野については外交的エネルギーのだし惜しみをしているように見える。

 さらに、安保理の実態とかNPT体制とかはあまりにも理不尽であるから、5か国に協力する土壌ができていない。特別の権利をもつ国が権利のうえにあぐらをかき義務を果たしていないのである。

 ところで、エネルギー資源の安定確保がわが国としての優先課題であった。1970年代の第一次石油ショック以来、代替エネルギーの開発や調達先の分散化、あるいはいざという時の石油備蓄制度の拡充などさまざまに工夫を重ねてきた。確かに前進もあった。にもかかわらず、こういう形で「石油ショック」に見舞われつつあるのは、秩序から無秩序へと向かう大きな力が働いているからであろうか。

 決して見舞われたわけではないが、進行形の入り口にあることだけはまちがいなかろう。それと、再備蓄には時間がかかる。仮に小康をえたとしても第2次が勃発する可能性は残り、そうなると低い備蓄量からの放出となるから、状況はさらに厳しくなる。

 また第二第三のホルムズ海峡の出現を軽く考えてはいけない。

 などなど、政権にとっては試練の時であろう。何が起きても不思議ではない時代にあって、ホルムズ海峡の閉塞が短期に終息するというシナリオにすべてを注ぎ込むのはいかがなものか、リスクを取らないことの過ちとリスクを取りすぎることの過ちとを政府としては考量すべきであろう。まあ、いつものことではあるが正解はない。高市政権としての勘働きを待つしか手がないのが実態ではある。何のための備蓄であったのかと問われる時がかならず来ると思っている。

 というように判断が難しい状況にあって、正直なところ消費税減税が最優先課題といえるのかまことに疑問である。さらに人びとが、1バーレルあたり100ドル前後の原油価格に世界経済が耐えられるのかと心配するのも当然であろう。また、日々乱高下する原油価格に翻弄される経済はずい分と非効率なもので、この悪い状態がつづけばおそらくどこかの国で経済破綻が起きると考えるべきではないか。

 ということで、5月中旬に予定されている米中首脳会談のことなきを祈っている。

(つづく)

加藤敏幸