遅牛早牛
時事寸評「2026年5月の政局-行先不明のトランプ外交と宿題山積の高市内政-②」
まえがき
[ 今回は、前回の2026年5月4日のつづきなので、まえがきは無しと考えていたが、せっかくの余白なので書いた。
そこで気になっているのは、政府による「防衛装備移転三原則」およびその運用指針の改定を契機に、久しぶりに「死の商人」という言葉を目にした。もちろん、改定を強く非難する文脈での使用であった。また、改定は殺傷能力のある装備も含むということで、それが刺激となって「死の商人」という表現にいたったのであろう。
用語は表現者の手の内にあるもので、文脈ではなくその言葉尻だけをとらえて批評することもないと思っている。ただし今回のケースをいえば「死の商人」という言葉の用い方に無理がある、あるいは何でもかんでも「死の商人」でまとめてしまえばいいといった表現者としての安直さを感じる。言葉のもつマイナスの影響を考えれば、やはり原義に近いところで収めるべきであろう。
たとえば2022年からのウクライナの実情を思えば、武器をおくって欲しいというゼレンスキー氏の要請にどう応じるかは、それぞれの国の主権の範囲なので、これも部外国がとやかくいうことはない。というベースラインを引いたとしても現実にはロシアとの関係に配慮せざるを得ない。そこで、いわゆる第三国を経由する形で、遠慮がちに武器の供与に応じた国も表にでないが少なくないと思われる。
つまり、玉突き方式とか相互融通あるいは間接購入という形で米国やEUのみならず少なくない国々からの武器等の供与が、現実にウクライナの対ロシア戦線を支えているのは事実であり、さまざまな事情をのりこえる工夫の結果ともいえる。
そこで、調達に介在した国や人びとを「死の商人」と呼びますか。という疑問がまず浮かぶ。これらは、商人という立場では背負いきれないほどの重荷を背負った上での国境線を跨ぐ武器のやり取りなのであるから、それらの行為は外交や国内政治にも影響するほどの大事といえる。そういった重責に比べれば「死の商人」という言葉は、語感的にはおぞましくはあるが、内容的には軽い、軽すぎるのである。
いいかえれば、現状は主権国家間の関係において国益としての利害得失あるいは対立あるいは協力関係などを踏まえながら、大量の武器弾薬をはじめさまざまな物資が行きかっているのである。
正直なところ「死の商人」という言葉が入り込むすき間などない、ほとんどが国家行為ではないかと思うぐらいの支援体制と思われる。
また、国名は伏せるが暴落したロシア産原油の買取りやドローン機材の提供、通信システムの利用許可や位置情報の提供など、数え上げられないほどの取引や利益供与が交錯しているということで、これらのことが民間人あるいは民間企業の独断と責任でなしえるとはとうてい思えない。名義はともかく実質的には国レベルの介入と保護がなければ不可能なことではないか。
ということで、「死の商人」という表現の中には、わが身を安全なところに置き、利益をむさぼるというニュアンスがあるが、現実はそんなに甘いものではない。どんなにカムフラージュをしてみても社会的な非難からは逃れられないのである。また、テロの標的にされただけで、企業には有形無形の損失が生じるのである。
したがって「死の商人」とはいっても現代においては架空のものであり、あくまでも政治的なレッテル貼りといえる。現実はほとんどの企業にとってはそんな死神の横に座るようなイメージは極力避けるべきもので、企業の持続性や企業価値を考えれば「まっぴらごめん」というのが本音であろう。
また、国内に配備する防衛装備については殺傷能力の有無の議論はとても薄いのに、輸出品だからといってその殺傷能力をことさら問題視するというのは珍しい議論といえる。自分たちの心象とか判断を相手に押しつけるように、日本製の殺傷兵器は使わないでというに等しい心的態度の意味するところはどういうことなのか。こういった輸出しちゃダメ論もガラパゴス的平和主義のようで、分かりにくいことは否めない。
さらに、戦地に散らばっている兵器などの残骸を調査すれば、部品や材料の生産地が多様であることがわかる。また出所不明な部品も多いことから、武器そのものがブラックボックスであり、運搬者も、ルートも、価格も、用途もブラックボックス化しているといえる。
現在、最も注目されているドローンそのものは直接的には殺傷能力を有していない。しかし、搭載する爆薬や制御装置によっては最強の殺傷兵器に化けるのである。ウクライナとロシアの前線では多種のドローンが主役になりつつある。だからといって飛行体としてのドローンを地球規模での禁輸品目として統制できるものではない。極論すれば、兵器の半分は防御用でもある。要するに、防衛装備の政府レベルの輸出規制だけで、戦域における被害をコントロールするのは残念ながら不可能なことといえる。
もっといえば、「防衛産業は怪しからん」という想いから出発し、何かと注文をつけている立場の出口が「死の商人」という表現なのであろうか。ここは防衛産業を一方的に非難することが妥当であるのか、あるいは世界の防衛産業への非難なのか、議論の余地があるといえる。
くわえて、殺傷能力も性能の一部であり、その能力を欠いたものは役には立たないと主張するのを否定するためには、倫理的な背景が必要だと思う。現実の問題として、役に立たないものを求める国はゼロと思われるので論争は生じないであろう。
あるいは、殺傷能力よりも探敵装置の性能のほうが軍事的にはより死活的である。そういう意味では装備全体のシステム性能が重要であり、各国が求めているのはそういうものであって、個々の装備の殺傷能力のあるなしを顕微鏡で覗くような議論はまあナンセンスといえる。
といっても、輸出品が実戦に供され「見かけ倒しだった」といわれるのか、「おかげで助かった」といわれるのかどちらにも微妙な感覚が残るであろう。
いずれにせよ公開された基準をもとに輸出されるべきものであるし、輸出先での扱いについても政府としてかかわるべきであろう。ベースは政府間のやり取りであるから、求められるがままに提供することはありえない。おそらく提供しない、できないケースの方が多くなると思われる。
むしろ必要な議論は、同盟国あるいは友好国からわが国の態度や行動がどう見えるかということであり、またどの国とどのような連携や協力をするのか、さらにそれぞれの切実な事情を理解しあい、協力の方途を具体的に模索することではないか。
現下の事情でいえば、米国のドンロー主義が多くの国の安全保障に負の影響を与えるであろう事への現実的な対応の模索であるから、問題に直面している国どうしが、安全保障上の課題を率直に話し合うことが重要である。そのような対話の結果として、効果的な相互連携が成立するという文脈で安全保障政策の議論をすすめるべきではなかろうか。ということで、同盟国(米国)や友好国による多面的な連携をベースにした安全保障の構築の時代に入ったということであろう。またそれは、防衛における単独主義の限界を直視して、翼を広げるように各国との連携を深化させることでしか、中ロ朝という歴史上最強の対抗勢力に対しては対応できないという深刻な事態を意味しているということであろう。
そういう総合的な安全保障の流れの極小部分を指し、一部からは「死の商人国家」との指摘もあるようだが、何かしら表現に溺れたように感じる。少なくとも国会での議論や外交の航跡を見るかぎり、そのような指摘は荒唐無稽なもののように思う。]
(2026年5月4日からのつづき)
6.岸田・石破政権がとくだん酷かったということではない、逆に高市政権がとびぬけていいということでもない-問題は実質賃金の動向である
2022年秋から2023年夏にかけて、岸田政権(当時)の評判が思いのほか低調であったことの理由として、「人びとが30年余もの長期の経済停滞を経験するなかで、自民党系政権の弱点に気づき始めたのではないか」という見方を弊欄では提起した。これはかなり飛躍した考えではあったが、「G7の中で低成長、低賃金の状態がつづいている」という現実をふまえたもので、もちろんデフレが主因であるとの理由付けは聞いてはいたが、ではデフレの原因は何かという点では納得できる説明はなかったように思う。
2年ほど前に、『「日本銀行金融研究所主催2024年国際コンファランス」における基調講演の邦訳』(2024年5月27日、日本銀行副総裁 内田眞一)の中で、デフレの原因として需要不足と「物価と賃金は上がらない」という社会的ノルムの存在があげられたことが話題となった。
日銀の分析に反論する用意も気もないが、物価はともかくも賃金については「上がらない」ではなく「下がっている」というのが筆者などの現場の実感であった。アベノミクスによる500万人の雇用増も、その多くが高齢者あるいは短時間労働者によるもので、賃金が上がらないというのは、相対的に賃金の低い労働者の市場参加によって全体の賃金が薄まったところに原因の一つがあるといえる。
くわえて、固定費の圧縮が経営上の主要課題になり、具体的には賃金カットあるいは諸手当の減額廃止、企業年金や退職金制度のスリム化、賃金制度の改定によるフラット化、定期昇給の停廃止、格付けの厳格運用などさまざまな手法により、総額人件費の圧縮が広く行われた結果、個別の労働者での賃金でいえば表示額が下がらなくとも一年上の先輩の水準に追いつくことは標準においてはないのである。すなわち、賃金のベースラインが低下している。また、この賃金圧縮のムーブメントは物価上昇がプラスに転じた後でも社会的ノルムとはいわないが、いわゆる習い性として相当な期間にわたって悪影響をおよぼしたといえる。現象的には、賃上げラッパが鳴り響いているのに、実質賃金が低下しているという珍現象が起きているのである。もちろん、連合民間産別が中核となって進めている賃金交渉の波及力が組織率の低下などにより、その相場形成力が弱くなっていること、さらに経営者団体の規範力も業種構成などの影響を受け、往年の水準に比べ低下していることも原因のひとつといえるであろう。
政労使が束になっても目指す賃上げは難しい、時間がかかるのである。日銀のいう「社会的ノルム」よりもさらに困難な病に罹患しているのかもしれない。天下の秀才が集う日銀ではあるが、市井の賃金事情には疎いのかも知れない。
このレポートの日付が2024年5月27日であるから、以降2回の春の賃金交渉が行われたことになる。賃上げは連合発表などをベースに好調と報道されているが、日銀には自身が指摘している「社会的ノルム」が克服されたのかについての見解を聞きたいものである。
経済政策と所得政策が分裂している責任は与党の理解が浅いからか?
この10年あるいは20年さらに30年と、さまざまな経済対策が選挙のたびに公約として喧伝され、実際には多額の予算が執行された。もちろん試行錯誤の要素もあったことから、百発百中を求めるべくもないことは理解していたし今もそうである。
といっても、結果的に経済成長につながったと実感できたことは少なく、とくにこの10年ほどは、国の債務を増やしただけのように感じている。
さて、なぜわが国では他の先進諸国のように労働者の賃金改善が進まなかったのであろうか。これにはさまざまな意見があると思うが、まずは労使関係上の問題として、1973年の石油ショックによる狂乱物価の沈静化のために政労使が協働した賃上げ抑制策の後遺症が挙げられる。(詳細はべつの機会にと考えている。)
当時の物価鎮静化は、賃上げ抑制策(労働組合による自粛)の結果、成功したといえる。
しかし、労使の過剰適応という副作用もあり、とくに労使がそのための理論として考案した経済整合性という理屈は、意味的には生産性基準原理と同類の消極的な賃上げ論として長らく引き継がれ、1990年代後半にいたってはついに経営主導の賃金ミニマムによる固定費削減策へと加速していったといえる。いいかえれば、悪性インフレを防止すべく協働した関係であったはずなのに、この時期の経営が主導する経営施策においては、コスト削減策のための賃金論として羊頭狗肉的に変容したのである。
もちろん、経営を取り巻く環境の悪化に対して労使関係を前面にだすことは困難であったとは思うが、日ごろ労使関係を大切にするという日本的経営とは別世界からやってきた人がにわかに出現したように感じられた。それでも、個々の労使関係は伝統を踏まえて真剣な議論を重ねたと思われる。しかし、経済界全体あるいは政府との関係では米国式のいわゆる株主重視の経営管理が台頭し、主流を形成しはじめたと思われる。
たとえば、小泉時代の規制緩和に象徴される改革路線には労使関係という領域は存在しないも同然であった。それでも、制度などが改革され労働者にとって良くなることがあればとも思ってはいたが、たとえば喧伝された「トリクルダウン」なるものは一滴も落ちてはこなかったのである。
この時代は、ストライキなどは無関係なまるで異次元にすんでいる人びとが、わが国の経済政策のハンドルを握っていたのである。政策にかかわる経営者の人選は産業・業種の動向に連動するから、労使関係ゼロゾーンからの登用や発言が日々比重を増していたように思われる。経済と経営とが合理性を奏でる時代であった。
つまり、政権とつながる経済人の目には顧客と株主だけで労使関係は見えない、いいかえれば政策に物申す労働者の存在をリアルに感じることのなかったエリート達による政界と経済界の共同戦線であったと思う。
そういった経営の論理が労働の賃上げ要求を圧倒していたというのが筆者の理解である。
2008年9月のリーマンショックへの経営の対応のなかで特に注目を集めたのは派遣労働者の契約打ち切り、いわゆる「雇止め」である。契約上当然のことではあるが、社会的にどうかという世論の反応に経営合理主義を信奉する経営者はとまどったと思われる。もちろん、就職困難時代(就職氷河期)と重なる部分があり、サラリーマンにとっての成功物語を語るうえでのごまかしきれない傷というか、損を受けもつ世代のルサンチマンを受けとめる機能を経済人に求めてもしかたがない。というよりも、経済人とかいっても経済活動の後始末を受けもつ立場ではないのである。結局、税金である公的資金の投入でしか銀行は救えなかったのである。預金者が人質にされているから。
さらに、「雇用か賃上げか」という二択構造に問題をすりかえることによって、企業別労働組合を中心とする民間労組の構造的弱点を衝いたのである。
とりわけ、「雇用を守るためには賃上げを我慢する」ことがきわめて合理的な選択であるという認識が、企業別労働組合の視座からは滑らかに見えたのであろう。しかし、よくよく考えれば「賃上げを我慢したからといって雇用が確実に守られるわけでもない」、とくに産業別労働組合あるいはナショナルセンターの視座からは個別の雇用情勢にかかわらず、労働者全体の賃率の向上に継続的に取り組むべきという原則こそが正統であるし、主張はそうであった。
また経営者も、労働者への分配が自社製品を購買する原資となるとか、あるいは景気が良くなれば売り上げが伸びるといった理屈は当然理解していたものの、自社経営においては賃上げには簡単に応じることはできないという態度を示さないと、世間体というか株主の声もあることから、賃上げにはいつも否定的であった。一種のスタイルでもある。だから、合成の誤謬を理解していなかったわけではない。が基本的に、社会構造において労働者の守護者にはなりえないのである。「分かってはいるが、賃金抑制策をやめられなかった」のである。
だから「ストライキでも打ってくれたら説明しやすいのに」と内心思っていた経営者がいたかどうかは別として、やはり雇用者所得が経済成長の大きな要素であるという理屈は概念として十分理解されていたと思われる。
ということがすべてではなかった。しかし、ここ数年の経団連会長らの発言を聞くたびに、20年前に労使会議でそのような合意ができていれば、わが国の30年来の停滞も少しは様子が変わっていたとも思うのである。さらに、今日のように官製春闘と揶揄されることもなかったと。(民間労使の賃金決定に政府と日銀が乗っかってきている、それもタダ乗りで!)
それはそれとして、過去は過去であるから、今は6月の賃上げ集計に期待したい。
さて、などなどと素人の筆者がうだうだと言いがかりをつけているのは、議論だけがかまびすしく白熱したものの、物価が思うようには上がらない実態がつづいたのは、つまるところ勤労者所得の長期にわたる低迷に原因があった、と考えているからである。「生産性を上げてからその成果を分配する」というまっとうに聞こえる原理は簡単に逆回転し、永遠に賃上げができない「社会的ノルム」を生みだすのではないか、もちろん長年の論争点ではある。
7.2月8日の大勝利で自民党は復調したのか-何が問題なのか-
さて、停滞気味であった自民党の評価が、今回反転したのかという問いには、初の女性総理ということもふくめ高市ブームが牽引したことは確かなことである。しかし、このブームの最大の問題は「インフレ許容ともいえる財政政策の匂い」という、隣のうなぎ屋の煙のような話がベースにあって、期待感だけををかきたてたということであろう。期待感だけで選挙に大勝利するという構造には脆弱性がひそんでいる。
そういう意味では、岸田・石破時代の政治がとくだん変で劣っていたかといえばそういうことはなく、自公政権としてはしごく普通であったといえる。もっとも、手こずったのは派閥の裏金という初歩的な、しかし内容的には悪質な問題のとり扱いであったといえる。とくに、「政治とカネ」というハッシュタグが付くと支持層には嫌がられ、選挙はたいそう厳しくなるのであった。
という問題を抱えていたことから、岸田・石破時代をつうじて自民党に対して政策面での高い期待があったとは思えないし、同様に高市政権に対しても人びとからの具体的な要望が際立っていたということでもなかった。もちろん、30年余も停滞していたのだから、自公政権とくに自民党への期待感が高いということはなかった。むしろ低い期待値がつづいていた中で「高市ブーム」をむかえたことが、逆に燃焼力を高めたのではないかとさえ思ってしまうのである。
まるで泥地のサッカーゲームのような状況の中で、筆者推定の700万人もの「閉塞感からの脱出」願望層を動員し、見事に歴史に残る選挙結果を生みだしたのである。もちろん、中道改革連合の判断ミスの寄与度が大きかったということもある。
しかし、問題は何も解決されていないのも事実である。解決されたのは一部の有権者の閉塞感だけであった。つまり、支持者にとって自民党の議席が300をはるかに超えていく爽快さは表現のしようのないものであったと思われる。
しかし、何が問題かについてさえ詳らかにされていないのである。
8.30年かけて、わが国の勤労者がこれほど貧乏になったのはなぜか、自民党には答える責任がある
1997年の金融危機からすでに30年が過ぎて、ここ3、4年においてようやく賃上げと物価の好循環が定着しつつあるように感じられる。遅くはあるが良い傾向である。それにしても、自民党政権というのはつくづく賃金引き上げなど、労働者に光があたる政策には鈍感であった。
また経営者も、リーマンショックとか円高とか、何かにつけて固定費削減あるいはコストカットには熱心であったが、賃上げには不熱心で、やるにしても最後の最後という感じであった。そういう経営者団体の建前論を真に受けて、賃上げのない時代を与党としても長らく容認してきたといえる。しかし、他の先進国やOECD加盟国では低率であっても継続的な賃金の伸びが確保されたのである。
そもそも労働者の賃金が伸びない状態で、中身のある経済成長が可能であるのか、さらに国外には投資するが、国内投資は控えるという経営方針が、個人消費の停滞と投資不足を生み、結果として国内市場の衰退という需要と供給のマイナススパイラルを招いたのではないか。といった指摘をまともに受けとめ始めたのは実に最近のことである。このことについては、強いていえば労使関係にも問題があったと考えている。
さらに、生産年齢人口が1995年にピークアウトしたといわれている。一方の労働力人口は、女性、高齢者、障がい者などの就業率の向上でカバーされてきたものの、そろそろ飽和レベルから下降しはじめると予想されている。
この30年間は女性、高齢者、障がい者などの労働力化がすすめられた時代であった。もちろんプラス面が多かったといえる。しかし、総じて低賃金での処遇が多く、労働の再生産を支えるほどの収入にはほど遠い労働者が過半であって、そのことは少子化対策とは波長の違う流れであったと思われる。
とくに、女性の労働力化では資本の取り分が多いというか、低賃金で労働力化していっただけの「21世紀の囲い込み運動」と非判されても仕方がないといえる。こんなことでは、合計特殊出生率の漸減に歯止めをかけることはできない。現実は安心して子供を産み育てられる社会ではなかったのである。本来は女性労働者に適正な賃金を支払い、さらに必要な社会福祉に投資すべきであった。実際は経営者の声を尊重しすぎたのか、賃金もふくめて投資不足であったと思われる。(投資不足にもかかわらず、少子化対策をやってきたと強弁するところは、「言うだけ政治」であろう)
適正な賃金とは、統計上公正さが立証できる水準であると考えているが、労働条件が過去にしばられる側面があることは理解できても、納得できるものではない。なお是正されるべきである。
ところでわが国の経営者のマインドには、先行きについてはつねに悲観的な見通しを優先し、意図的に過剰な悲観観測を発信する癖があったように受けとめている。
そういった悲観イメージの刷りこみこそが、国全体の活力を削いでいたように思われる。そうでなくても、悲観を好む国民性なので、悲観が悲観をよぶ悪循環に陥っていたのかもしれない。経営者マインドがデフレの原因の一つであったとすれば、笑い話ではなく悲劇というほかはない。
さらに、そういった悲観イメージを実証するかのように、働く者にとっては賃金停滞が手元で現実化していった。「給与明細を見ればなぜか涙がにじむ」のだから、個人消費が景気のけん引役になることは、構造的にもプロパガンダ的にもありえなかったというのが筆者の感想である。
ともかくも、実質賃金が支えられなければ経済成長は難しい。そういうシャキッとしない時代が長らくつづいたが、2015年ごろになってようやく賃上げの必要性に対して、政府も反応するようになった。(ニッチモサッチモいかなくなったのであろう)
しかし、総理がひと言触れれば賃上げが実現するという仕組みにはなっていないのである。また、急所は持続性であるから、とくに若年層が賃上げのある人生を経験することがまず必要であると思われる。さらに、労働条件交渉が憲法由来の権利にもとづく正当なものであることを未組織層にも広く周知すべきである。
そういった権利を自覚することについて、社会全体が消極的であったと感じている。このあたりがこの半世紀の間において先進国グループ内で後れをとった最大の理由であろう。
中小企業域での賃上げには労働組合が必要である
中小企業域において賃上げを広く実現するためには、労働組合がないのであれば、一人ひとりの労働者が個別労使関係において、そのように主張すべきである。能動的に行動しなければ賃上げなどの労働条件の改善は難しいといえる。
9.中道が大きく飛躍するためには2017年からの歴史をふりかえり、あらためて労働との関係を整理しなければならない
立憲と公明との上がり駅が中道改革連合への合流でないのであれば、振出しに戻るということではなく、評価マイナスの地階に落ちるということではないか。とんでもないクレバスに落ちる予感がする。
そもそもが、支援団体や支持者との対話がないままではどうにもならない、支持者がいての政党であり、支援をうけての政党活動であるから、納得が得られるまで時間をかける必要があるということは当時も現時点も変わらないといえる。といいながら、立憲民主党と公明党はなお合流に逡巡しているようだが、時間が経てば経つほど事態は難しくなるのが一般論である。
まとめれば、合流を目標に急ピッチで作業をすすめれば支持者や支援団体との溝が深まる、さりとてじっくりと時間をかけると現状維持というコンクリートが固まり気運が萎えてしまうだろう。というジレンマに陥っている。
そこで、参議院では今のままが居心地がいいのであれば、そうつぶやいた方が人びとには分かりやすい。しかし、この期におよんでも何色にも染まらないことがメリットだと感じているのであれば、それは勘違いであろう。このままだと結局のところ埋れていくだけだと思うのだが。
ところで、2025年暮れの段階では、各種調査をふまえた「議席半減」という予測もあり、両党ともに追いつめられた雰囲気にあったと聞いている。そういった状況の中で、打開策としてはもっとも副作用のキツイ道を選択したのである。立憲民主党は野田氏、公明党は斎藤氏の責任においての決断であった。
もちろん、事前のやり取りでは比例代表区での統一名簿方式を考えていたと推察するが、小選挙区と比例代表区とに重複して立候補するためには政党名の一致が条件となる。ということから、いっそのこと衆議院では同一の政党に統合しよう、間にあわないから参議院と地方は後からということではなかったか、とは筆者の勝手な想像である。
このパターンには似た過去例がある。2017年の希望の党への合流では、民進党参議院はとりあえず現状のままで衆議院選挙を「見守る」と議員総会で決めたのであるが、衆議院が立憲民主党、希望の党、無所属グループの3つに分かれたことから、「見守る」としていた参議院の中から立憲民主党への流出が生じたのである。
総選挙の結果が立憲民主党55、希望の党50ということで、立憲民主党の方に勢いを感じたのであろう、2018年に入ってからも民進党参議院から立憲民主党への流出が続いたのである。
しかし今回は衆議院は中道改革連合1党であるから迷うことはない。問題は床が抜けるほどの大敗であったことで、大作戦そのものへの疑念が湧きたっているのである。組織問題では煮あがってから決断すべきで、このタイミングの計り方がトップの器量といえる。トップが気合で決断してしまうと第二組合ができるのである。もちろん労働運動での話である。
ここらあたりの回顧録風な語りは、筆者の場合経歴からいってもかなりバイアスがかかる部分なので、歴史が未だ確定していないとの前提で話を続ける。
さて2017年の続きである。衆議院において選別排除されて行き先がなくなった(と自ら判断した)民進党衆議院議員(候補)が枝野幸男氏が新たに立てた立憲民主党の旗に集結し、右の希望の党に対し左の立憲民主党が対峙するかのように新しい船を進水させたのである。両党の間で中立を守ったのが無所属グループであった。
だが、2党1グループが併走しながら歴史を刻むことにはならずに、2019年の参議院選挙の後、連合の強い要請もあり、2つの党と1グループの統合がすすめられ、その結果2020年9月には現在(2026年1月14日まで)の立憲民主党に統合された。
しかし、この統合は完全なものではなかった。その意味は、2017年の希望の党への合流が左派排除を意図したとすれば、2020年の統合は右派排除を意図したと少なくない関係者はそう感じたと思われる。
解釈と解説は山のようにあるが、結局は安全保障政策、憲法改正、エネルギー政策などが合流できない理由になったと受けとめている。またそのことにより、連合加盟産別の政党支持が立憲民主党と国民民主党とに分かれることになった。
今も、連合としてまとまって支援できる政党への統合が望まれてはいる。むろん、可能性の追求についてはやぶさかではないが、もしその原動力を連合系産別出身議員が多く安定的に所属している参議院に求めるのであれば、2017年から18年にかけて「参議院は動かない」と議員総会で決めたのに、個別の判断によって多くの議員が立憲民主党に流れ、結果として参議院までもが分裂していった残念な経過をどう捉えているのか。改めて整理をする必要があるのではないか。
民進党参議院が頑固に、衆議院がどうであれ一丸となって団結を崩さなければ、連合への求心力を梃子にゆるやかなグループ再結集が可能であったかもしれない。もちろん、そうはならなかったかもしれない。また、仮に民進党参議院が割れていなければ、2020年の統合においても民間産別の居場所があったかもしれない。
しかし現実は、2020年9月の統合にむけて立憲民主党としては原発ゼロ社会の実現を綱領に掲げることを重視したことで、結果としていくつかの民間産別とは関係遮断にいたった。筆者はその経過の詳細を承知してはいないので評価はできないが、政党側が基本政策で支援団体を選別したのだから、これこそ本格的な脱労組といえるかもしれない。
ということで、2020年の合流に参加しなかった、当時玉木一派と揶揄された現在の国民民主党が中道域の右側を固めることになったと理解している。
それが、2026年1月15日、中道改革連合として衆議院では立憲民主党と公明党が合流したのである。また、基本政策は公明党側に寄せられたと聞く。しかし、2月8日の大敗という結果を目の当たりにして、正直なところ内心のざわつきを禁じえないのである。
さて、2017年からの経過を振りかえる中で、当面の中道改革連合(衆)、立憲民主党(参)、公明党(参)の3党並立を既成事実として、衆参分離体制をつづけることの狙いは何なのか、少なくとも参議院側としては有権者に対し説明する責任があると思う。立憲民主党(参)としては、おそらく経過を説明できる立場にはなかったということかもしれない。しかし、そういう説明を受ける支持者の身になって考えれば、実に切ないことではないか。それでは岩盤支持者でさえ愛想尽かしということになるやもしれない。それでなくとも激減したとはいえ野党勢力としては、時に政権あるいは与党の心胆を寒からせしめることがあっていいのではないか。そう思っている有権者も多いし、有権者の声の聴き方にはいろいろあると思う。
10.ホルムズ海峡の安全通行が復旧する時期は不透明―厳しい状況がつづく?
国際情勢の激変により国民の考えも大きく変わったことが、たとえば政権の安定を求めるという潮流として、政権政党への凝集、つまり自民党への流れを生んだと思われる。という文脈の中で、3月19日の日米首脳会談が注目されたのは、矛盾をかかえながら行きづまるトランプ外交の行く末と、中ロ朝といった国々との不調和をかかえるわが国の先行きとが、日米安保という同盟関係によって、どの程度安定化するのか、またその信頼性と効果性およびコストをいかに評価するのか、という国運を左右する重大課題に直面していることを多くの人びとがそれぞれに認識しているからであろう。
その首脳会談からすでに7週間余が経過し、米イラン間では停戦について協議が重ねられている。当座の停戦条件について詳しく知ることはできない。ただ、協議に臨んでいる米国の底意が戦域からの離脱にあるとすれば、どの勢力が空白を埋めるのかによって、さまざまな火種が残ることから米軍の撤収が実現するのはずいぶんと先のような気がする。
とくに、米軍基地の存在や利敵行為を理由にイランからの攻撃を受けた湾岸諸国などの動きにくわえ、イスラエルの思惑もあり、さらにイラン国内の状況も戦火が止めば反政府勢力が声を上げると思われる。イラン政府が統治能力を失えば中東域が安定性を失う可能性もあるだろう。最高責任者を殺害したことの影響が明らかになるのは今後のことである。
さて、問題はホルムズ海峡の安全航行が回復する時期の見通しと破壊された石油施設の復旧再開である。今は専門家の調査待ちの段階と思われる。
筆者は軍事も保険も専門家ではない。しかし、保険がなければ船舶を動かせないことは知っている。しかも、機雷や各種のドローンの危険をゼロにすることは簡単ではないことも。ここは海域を完全に安全にできるのか、また保険会社に代わり政府がリスクを引きうけるとしても船員を危険にさらすことはできない。
この1、2週間は各国とも停戦協議まちの様子だったが、協議成立が即リスクゼロとはならない。なにしろ信頼関係がゼロ以下マイナスなので、時系列でいえば先の先のほうがよりリスキーである。
悪夢のような正体不明の一発がすべてをぶち壊す怖れが残る以上、人びとは石油の節減を考えるであろう。生活防衛のためである。石油由来の原材料の目詰まり論は2024年初秋から始まったコメ不足騒動の言い訳を思いださせる。嘘ではないと思うが、当面のつじつま合わせにしろ時間稼ぎにせよ、5月中にはある程度見えてくるということか。しかし、人びとの生活は待ったなしである。ここ何か月かは実質賃金がプラスとなっている。ただ物価上昇がせっかくの賃上げを上まわる確率も低くはない。来年の賃金交渉までは10か月もある。高齢者はサナエノミクスからは阻害されているようで、親和性に欠けている。
もちろん、できれば景気減速の引き金などは引きたくないという気持ちは分かる。また利上げも然り。とはいってもこのままずるずると円安を容認することは、「日銀は人びとの生活を後回しにする」といわれるだけのことで、それは政治的にはマイナスである。円安に甘えすぎているという声が聞こえてくる。
この段階でいえることはひとつだけで、それは「高市総理を中心に世界はまわってはいない」ということである。
◇ 風は風 緑の空の 皐月かな
加藤敏幸
【遅牛早牛】バックナンバー
- 【】時事寸評「2026年5月の政局-行先不明のトランプ外交と宿題山積の高市内政-②」
- 【】時事寸評「2026年5月の政局-行先不明のトランプ外交と宿題山積の高市内政-」
- 【】時事寸評「2026年4月の政局-変化する世界と政党の閉塞-」
- 【】時事雑考「総選挙を終えて-いくつかの感想-②」
- 【】時事雑考「あの総選挙からひと月余-これは悪夢ではない現実だ-①」
- 【】時事寸評「期待感から生まれた大勝利と現実とのギャップ 高市政権のこれから」
- 【】時事寸評「2026年1月の政局-2月総選挙を前にしての所感、解散総選挙なんでやねん、大阪ダブル選挙なんやねん-」
- 【】時事雑考「2026年の1月 地殻変動の時代に身動きのとれないリベラリズム」
- 【】時事寸評「2025年の振り返りと政治の新陳代謝-リベラルは遠くなりにけり-」
- 【】政局雑感「高支持率と安全保障は関係しているのか?」