遅牛早牛

時事雑考「2026年6月-民主主義の危機は啓蒙思想のおよばない国が多いから-①」

まえがき

[ 「米国とイランによる戦闘終結に向けた覚書」が15日電子署名され、19日にもスイスで署名式典が開かれる予定だという。始まりのはじまりである。本稿もイラン情勢について書き進めていたが状況が刻々と変わるので中断し、改めて②として次回掲載する。

 今回は、民主主義国が風前の灯ほどは酷くはないが、結構行き詰っているあたりを道草のように述べてみた。やはり中国の影響が大きい。とはいえ、中国にたとえば啓蒙思想への歴とした人権論があるのかといえば、そこはそれで暗がりになっているのである。

 ともかく、民主主義が影響を受けるのは経済のあり様ではないかと思う。とくにブラックホール並みの富の集中と格差拡大による貧困者が増えはじめると社会の土台が腐食されていくような錯覚に襲われる。また、日々人びとの気持ちが荒(すさ)んでいくようにも感じる。

 ところで、ようやく日銀が利上げに踏みきった。難行苦行のように見えるが、単に怯懦なだけではないかとも思う。このタイミングで上げなければさらに円は売られたであろう。各国との相対的な関係で言えばまだまだ低いから円安は続くと思われる。為替が投資として位置づけられている構造からくる弊害のような気がする。この辺は政府・日銀の共同責任といえる。しかし、政治課題でもあるから、日銀だけが矢面に立つことはない。それにしても、恥ずかしいほどの円安路線である。

 日本の労働が政府と日銀によって安売りされている。来日外国人が大喜びするランチの安さの本質を考えれば、労働の廉価販売、たたき売りである。

 いつものことながら、庶民の生活は日銀の視界には入っていないのであろう。ここは政治センスの問題であろうか。結局「円安でウハウハ」が耳に残っている。

 さて、公的年金が増額されたが、マクロ経済スライドが効いているので物価上昇分は完全にはカバーされない。その他の諸々もあわせて高齢者の生活は厳しくなると思われる。政権への評価は年末に向けて厳しくなるだろう。]

1.「資本主義の暴走」「社会主義の堕落」「民主主義の危機」の三連単

 2000年に入ったころだったか、講演の冒頭にはいつも「資本主義の暴走」「社会主義の堕落」「民主主義の危機」の三連単をあげていた。使い勝手のいい掴みだったので、今でもときどき使っている。しかし、使うたびに鈍とした思いが残る。言っていることが重く深刻なものだから、掴みで使うには気が引けるというか、不届き感がある。

 で、聞かされる方は「だからどうなんだ」ということになる。そこで、暴走しているのは資本主義だけなのかとか、さらに主義が暴走するわけがない、暴走しているのは金融資本であって、あり余る金(かね)が利益を求めて世界を駆け巡っている(からよくない)とか、あるいは資本主義という仕組みの中で国境を跨いで利子や配当を求めて醜い自己増殖をくりかえしているのであるから労働者には分け前がまわってくるはずがない、まるでビオトープで酸欠が生じているように、貧しい者はさらに貧しくなる。といった反応を期待していたが、顔つきからは「結局、関係ないっしょ」という感じだった。

2.社会主義の堕落

 社会主義は、(筆者が)成人するころには堕落していた、と思う。これも主義が堕落するわけではない。堕落するのはいつも為政者とその子分である。権力の腐敗と権力者の堕落は同時進行するもので、社会主義の失政が報道されると、資本主義がダメなら社会主義があるさと気楽に言えなくなった。もう、半世紀以上も前のことある。

 社会主義の腐敗は分配が恣意的に運用されるところから始まる。まず、所有と分配があやふやになり、法や社会規範にもとづかない行為(不正)が生じやすいというのが筆者の理解であった。

 また、集団所有などは人間関係に依存し過ぎて、ボス支配の温床になりやすいとも。この点は、個人の所有権を基本にした仕組みのほうが明快で、分配への不満はとりあえず再分配で対応するのがクールであった。

 さらに、自由のない生活は低酸素で息苦しい。くわえて貧しい生活はやるせない。自由を捨てた見返りに豊かさを手にいれたとしても、それは権門の召使いと変わらず、心理的にはかわれている感覚であろう。

 党派による支配と役人の不正が社会主義の常態であるとの噂が広まったことで、資本主義を採用した人びとが大いに安心したのは確かであった。しかしその結果、資本主義はさらに貪欲になっていったと感じている。

 1989年にソ連が破綻したことから、表面的には資本主義が勝利を収めた。これが資本主義の本格的な暴走の始まりであったと思っている。

 もちろん、人類の平均的な生活水準は少しづつ改善されたことも事実である。しかし、さまざまな理由により理不尽に命を奪われる人々がまだまだ多いことも残念な現実である。

3.中国は社会主義を標榜しているが、市場型経済である

 そんな中で共産党が集中的に権力を握っている中国は、社会主義市場経済と自らを定義している。簡単にいえばハイブリッド型という意味であろう。しかし、そのハイブリット型では市場経済は成功したが、社会主義としては停滞していると思う。たとえば「共同富裕」といえば社会主義にとっては核心的な重要政策のはずなのに、今のところ吹き流し状態で中身が見えてこない。

 さて、自由主義では個人の欲望と所有は際限なく自由なのである。さらに資本に自由を与えるのが資本主義である。中国の改革開放は資本を放し飼いにし、自由を与え、市場で価格や需給を決める「生き馬の目を抜く」やり方を導入したことから、資本が効率的に循環し経済活動が活性化し経済発展につながったといえる。もちろん海外からの投資や技術移転の成果といえる。

 そこでハイブリッド型としての社会主義は、たとえば貧富の差が社会主義国としての許容範囲なのか、さらに人民の福祉の水準が経済大国にふさわしいものになっているのか、などを考えればとても成功しているとは言い難い。

 ここでややこしいのは、社会主義としての成果がなければ共産党政権の正統性が揺らぐという歴史観の存在である。はたして本当にそういった正統性に強くこだわっているのか、単なる強迫観念ではないのかなど少なくない疑問が浮かぶが、真相は外からは見えない。

 この先、そういった集団的強迫観念をシュレッダーに掛けることになるのか、それとも習近平氏の求める社会主義の現代化を人びとも求めることになるのか、曲がり角に来ていることは間違いないといえる。

 さて歴史経過は措き、現状だけを考えれば中国は社会主義というよりも、資本の優位性と市場機能とを具備した資本主義体制といえる。その前提に立てば、現在の資本主義的成功を大きく損なうかもしれない社会主義的な仕組みの導入を誰が必要としているのか。おそらく、一人を除いて他には居ないと思われる。

 つまり、経済体制としては成功しているのであるから、今さら社会主義的な何かに頼る必要はない。後は人民の福祉をどのように高めていくのかに集中すればいいのである。逆にいえば、人民の福祉のために社会主義的な新しい仕組みが必要であるといわれても、現状に満足している人びとの間にそういった社会主義的な施策を求める動きが広がるとは考えられないのである。

 そもそもが、言論をふくめてしっかりと管理されている、いわば現代版王朝体制においては反政府、反共産党などの政治運動は封殺されているし、政府の施策に両論併記はないのであるから、今さら社会主義的施策が前景にしゃしゃり出る余地があるとは思えないのである。

 つまり、所得階層が両極化することが国にとっては分断的であるから、また現に存在する貧困層を救済すべきであるから、という使命感に奮い立たされて1949年の建国の精神に立ち返り、ここは社会主義政策に取り組むべきであると旗揚げでもするというのか。であるならなぜ?だれが?と疑問に思う。

 確かに、内陸部に居住する数億の人びとに経済上の不満があることは確かであろう。しかし、その程度の困窮感が動機となり政治運動として全国に広がっていく可能性は、まずありえないというのが常識的であろう。

 現在の中国においては、生活上の不満ぐらいでは政治運動のきっかけにはならないと思う。

 したがって、皮肉なことではあるが、改革をめざして政治運動を起こすことができるのはただ一人といえるかもしれない。「中華民族の偉大な復興」の初期目標がほぼ達成されたとして、社会主義のさらなる高みを目指し、最高権力者がアクセルを全開することはありえない話ではない。問題は、そうであったとしても経済成長は必要であるし、そのためにはなお資本主義的手法が必要ではないのかというジレンマが、社会主義を押しだそうとするトップリーダーの行く手を阻んでいるように思われる。

4. 成功した資本主義と欲求不満に陥っている社会主義の相克の時代

 考えてみれば、確かに自由貿易体制に乗っかりながら、グローバリゼーションの恩恵をぞんぶんに受けてきた中国にとって、この四半世紀は大成功であり黄金の時代であったといえる。しかし、経済成長が構造的に頭打ちとなった昨今においては、国内の不都合を経済成長で覆い隠すことが困難になり、くわえて貧困層との政治的緊張が高まるのではないかといった心配もある。いわば、成功した資本主義と欲求不満に陥っている社会主義との相克状態が生まれようとしているのかもしれない。

 さらに、内外に蓄積された莫大な資本と、政治体制との関係が改めて問い直されるシーンも出てくるのではないか。すなわち、世界第2位の経済大国が保有している天文学的な資本(資産)に関して、社会主義の実践において少しも活かされていないという原点回帰系の疑問が生まれるのは当然のことであろう。もちろん直ちに現金化できない資産も多く、絵に描いた餅にとどまる可能性もある。それにしても透明度をあげないと言い訳にはならない。

 難しい話は別にして、成功し肥大化した資本主義の側面と未だ発展途上にある社会主義の側面の葛藤なしに、あるいは調整なしに中国社会が次の段階に進むことができるのか、というのはなかなかに難しいテーマであるが、その前に成功した資本主義からの配当はどうなったのかという議論が予想される。

 つまり、資本主義から社会主義への寄付や配当などの富の移転はないのかというかなり粘着性の高い課題が残されている。

 このあたりの課題に対しては「社会主義現代化強国」という言葉が示されている。要するに今までの社会主義では役に立たないからバージョンアップが必要であると、「社会主義2.0」を提唱しているのであろうが、その具体像は明らかになっていない。

 現代化というのは近代化の次段階という意味のレトリックかもしれない。中華民族という表現そのものが他国から見ればレトリックであるから、富の均霑を計る画期的なリアルな方策が提起されているとは思えない。

 いくらハイブリッド型とはいえ社会主義であるからには大胆な分配策があってもいいのではないかという期待感が強いと思う。しかし、三次分配には寄付、慈善、公益などがあげられているようで、正直なところ本気度を疑いたくなる内容といえる。

 さらに、共同富裕はタダ乗りの福祉主義ではない、勤労を通じた致富、段階的な格差是正といった表現からは、あらかじめ期待感を冷やしておこうという意図が感じられる。じつに中途半端ではないか。

 現在のところ、前述したように草の根運動は不活化されているので自発的な政治運動は着火しないといえる。では、億人をはるかに超える貧困層の救済を寄付、慈善、公益で事足りるとする社会主義とは何なのかと、否応なく問いかけられるのである。

 筆者は「社会主義の堕落」と主張しているように、国富の分配を計画的に実行する社会主義的手法では、分配の前提となる国富の増大には力不足であると考えている。この点については、改革開放策は資本主義的手法を先行させてうまく乗りきったといわれている。そこで、分配においては社会主義的手法を駆使して貧困層を中間層に引き上げられるのかが正面の課題といえる。

 そこで、一次分配は資本主義のスタイルで行われるので社会主義の口出しは無用である。二次分配は税と社会保険と補助金である。三次分配は方針では寄付と慈善と公益と伝えられている。これでは財源的には不安定といえる。

 もちろん、貧困層を中間層に引き上げることが簡単ではないことぐらいは誰でも承知しているのに、あえて分配構造に手をつけるような方針を掲げているが、どこで帳尻を合わせるのかが注目される。また、社会主義への先祖返り風の使命感が現代の高級官僚に標準搭載されているのか、世代によっても違うと思うが、それが一番分からないといえる。

 さらに、「人民の生活水準の大幅向上」が実現するためには、資本主義からあるいは市場型経済からはもはや離れられないという、もう社会主義には戻れない帰還不能点を越えてしまったのではないかといった感覚があるように思われる。

 端的にいって、ハイブリッド型といっても資本主義に大きく傾いているようで、中国にとっての社会主義的要素とは何なのかと不思議に思うのであるが、たしかに政治制度は社会主義そのものである。

5. 自由とりわけ政治的自由を欠いた資本主義経済の限界?

 そういう文脈では、政治的自由を欠いた資本主義経済の限界という論点もありうるが、正直なところ論としては周回遅れの感がする。

 それよりも、ロシアがウクライナで、米国がイランでしくじっていることが、反射的に中国はどこでしくじるのかと、無思慮ともいえる憶測が彼らの気持ちにわりかし響いていると思っている。

 孤独な皇帝には考えるべきことが多いと思う。米ロという地球上の核兵器の大部分を保有している両国が期せずして沈みかけている。漁夫の利とも評されてほくそ笑んでいるとは思うが、はたしてどうであろうか。

 おそらく、習氏は世界でも一番部下の多い政治家だと思うが、その反面フラストレーションも多いと思う。内外ともに思うようにはいかないのであろう。

 そこで、今日数百万人規模といわれている高学歴未就労者の存在が注目をあびている。さらに、この先増えることがあっても減ることはないとも言われている。

 問題は高学歴未就労者と、就労していても不本意感の強い若者らが、政治的にどのような傾向をもつのかであろう。先ほども触れたように、政治運動の種はことごとく不活化されていることから、いわゆる政治運動としては発現することはないと思われる。

 たしかに、1989年の天安門事件や2014年の香港雨傘運動の記憶もあり、同様の運動が出現する可能性はきわめて低いといえる。だが、1966年から10年間続いた「文化大革命」の事例がある。文化大革命の評価は9分がたは批判的であったが、1分ほどは犠牲の多さは反省すべきではあるが、堕落した権力層のあり方に警鐘を鳴らしたという点については評価すべきという声もあるといわれている。

 また、「無産階級文化大革命」という名称が示す「今なお無産階級の運動」という響は、「共同富裕」を射程に収めながら社会主義国としての原点回帰を示唆しているといえるかもしれない。

 まあ飛躍して言えば、権力闘争の手段として高学歴未就労者を改革の先兵に使いうるのは、権力階層におけるハイレベルグループに限られることから、ある意味荒唐無稽ではある。またそのことを予言的に言うことはまさに妄想そのものになるであろう。

 ところで、筆者らの世代にとっては文化大革命は驚きの事態であった。「紅衛兵」「造反有理」「4人組」などは当時の世論に大きな影響を与えた。60年も前のことで、今は時代背景が大きく異なっている。ただ、政治的シチュエーションとしては似ているところがあるように思える。まさか21世紀の文化大革命が起こるとはとうてい思えない。さて、今日の中国において無産階級運動ってあり、なのかしら。

6. 一国だけが繁栄するというモデルは持続可能ではない

 現時点において、中国経済が成長鈍化から停滞へ向かっているとすれば、その主たる原因は国内消費の停滞にあるといえる。同時に、対中貿易構造に対しての問題意識をふくらませている国が少なからず増えていることも関係していると思われる。これは仮説である。

 中国としては、輸出停滞から生まれる需給ギャップを国内消費で埋めきれていないうえに、さらにこの先においても埋めきれるかどうかは不明であるという。そういった悲観観測が、気分的に景気の足を引っ張っていると思われるが、やはり、構造的な需要不足なんでしょうね。

 さらに、こういった悲観観測が経済分野に留まらずさまざまな分野に広がっていくと思われる。

 なぜそうなるのかについては簡単には説明できないが、言えるのは一国だけの繁栄モデルは持続的ではないということであろう。

 中国にとって問題なのは、トランプ氏に先駆けて対中貿易収支が赤字の国としては対中依存度を引き下げなければと考えていた矢先のトランプ氏の出現であったということであろう。

 この解釈を是とするならば、中国の対外政策とりわけ貿易における基本方針に重大な問題があったと言うべきで、これはデカップリングといった大げさな話ではなく、各国がその経済力に見合った対中均衡策を模索することは、各国の経済運営にとって当たり前のことであるという、わりと単純な話なのである。

 中国の貿易収支の特徴は赤黒が相手国によってわりかし明瞭になっているということであろう。たとえば米国は大幅な対中輸入超過である。最近はアセアン諸国が米国に代わり中国からの輸出先として存在感を増している。また、アフリカ諸国とは資源輸入、電子機器や自動車輸出という典型的な20世紀型になっている。もちろんアフリカ諸国への中国からのインフラ構築への支援も評価されている。しかしである、それがアフリカ諸国にとって自国の産業発展にはあまり役に立っていないというのが通り相場である。ここで債務の罠に触れる気はない。実際には中国との貿易関係はアフリカの国々にとっては実利的ではあるが、魅力的とはいえない。 

 それは、人の育成、技術移転、開発投資などの明日に期待がもてる施策にはあんがいと冷淡であるという。ベースにある「中華ファースト」は打算的で自己中心的なのである。

 だから、現在のところトランプ氏に対する批判は花盛りであるのに、対中政策とくに「中国に態度の変容を求める」という視点でいえば、トランプ氏に共感する国があるやもしれない。そんなことを公的に表明する国はないが、内心はさまざまであろう。

 筆者はトランプ氏の対中政策はそれなりにポイントを衝いていると受けとめている。確かにトランプ流というのは勝手流であるから中国にすれば噴飯ものであろうが、米国としては対中貿易赤字をこれ以上膨らませるわけにはいかない。また、財政赤字も然りである。ではあるが、中国としてはあまり評判がよろしくないトランプ氏の言うことなので素直には耳に入らないのであろう。しかし、世界的な経済ショックが発生すれば中国も早速困ることになるのだから、何とかしてくれといった類の話は聞くべきだというのが筆者の変な理屈なのである。もちろん、経済ショックは起こらない可能性のほうが高いから聞かなくてもいいのである。

 しかし、何年か先とは思うが、レアアースに目途がつけば米中交渉は新たなラウンドを迎えることになると思われる。

 さて、中国にとって資源国との関係は安く排他的に資源を手にいれることであり、そのためには国家一丸となって集中するという「ターゲット型」を無意識に選択するのであろう。集中度が突出すると経済的威圧となる。

 さらに、「中華ファースト」には非対称の関係が埋めこまれていて、重要港湾とか交通インフラが軌道に乗らなければ相手国が赤字に耐えかねて最終的には租借的状態に近づく。中国に悪意があってのことではないと思うが、悪意の代りに戦略があるということで、その戦略性が中国の脅威を高める原因になっていると思っている。

 要するに国家資本主義がフル回転すると、経済における全体行動主義に陥ることから、多くの国が本能的に違和感を覚えるということかもしれない。

 また、爆発的なインフラ投資に幻惑される人びとも多いが、それらの運営原理が資本主義なのか社会主義なのかといった当座の選択もある。方式の違いによって評価が変わる。いわゆる社会主義的な運営では計画に沿った過大な投資が先行し、その結果国家財政にとっては過大な負担になりやすい。仮に安全保障のためであったとしても過大投資は経済の重荷であることに変わりはない。資本主義的にいえば、莫大なインフラ投資のファイナンスの内実が重要であるから、たとえば現在の中国の不動産不況に通底する共通因子が存在するのであれば、ハイリスクであると判断されるであろう。  

 さらに、社会主義で計画をたてて、資本主義で資金を集め、社会主義で運営すれば赤字は避けられない。これは些細なことではない。おそらく習氏自身は社会主義への回帰が本心なのであろうが、共産党王朝の党幹部や政府高官はさしずめ王侯貴族であるから、その彼らが社会主義への回帰をどれほど真剣に受け止めているのかは定かではないのである。

 だから、彼らの利害をいえばこのままの特権を享受し続けるのが1番だが、共産党体制(政権)が揺らげば現在の地位が危うくなるというのが2番。また「共同富裕」を進めなければ社会主義の大義が崩れ、貧困層の離反がひどくなるのが3番なので大変悩ましい。本音では現状維持がもっともうれしいということであろう。

7. 14億人を超える人々の中で、エリートである党幹部や党員と豊かな沿海部や大都市に居住する5億人がどこを向くかであろう

 今日では、14億を超える人民のうち共産党員は1億弱というから正にエリートであり、要職に就いている者も多い。また、約4億人が開発が進んでいる沿海部や大都市に住み、教育も所得も高く、恵まれた層であると聞く。

 ということで、党首脳部、党員さらに恵まれた人びとの5億人がこの先どちらを向いていくのかが、今後のこの国の流れに決定的な影響をあたえると予感している。やはりこの国では「沿海部と大都市」ファーストなのか。

 冷静に考えれば、ゆっくりとほぼ固定化した支配階層が形成されつつあると思えてくる。緩やかではあるが社会の階層分化が政治の安定化と同期しながら進んでいる。余分なことではあるが、富の分配をめぐるさまざま軋轢がこの国の活気を生みだしているのは事実であり、そこには社会主義の出番はないだろう。

 しかし、個人資産の保護を名目に資産の洗い出しが進み、結局普通の富裕層の資産監視が強化されていくと思われる。つまり、管理においては社会主義化が進んでいる。では普通でない富裕層とは、との問いにはすでに王朝政治におけるセレブ的な層が固まりつつあるということであろう。

 共同富裕は社会主義国としては当然の重要政策である。しかし、きわめて難しいテーマでもある。なぜなら共同富裕には私的所有と、国富の分配構造とに深くかかわらざるを得ない面があるので、実践レベルではなかなか難しい問題が噴出することになる。つまり、具体的には誰にどんな「しわ」を寄せるかということであり、それはどの国においても政治的には危険なことである。

 さらに、中国型国家資本主義が完成域に達し、集団指導体制ではなく、また寡頭体制でもない究極の一人体制にいたっている。まるで専制君主のような立場なので、特有の問題が生じる。それは君主たる立場と、セレブ層に擬せられる党幹部や政府高官たちとの利害にかかわる軋轢である。

 一見すれば、ゆで卵のように表面の見た目は変わらないが、茹でられれば中身は凝固する。そういう微妙なことを踏まえ、なお新たなステージに入りつつあると言いたいのである。 

8. はたして啓蒙思想へのアンチテーゼを提起できるのか、普遍性が問われる 

 さて、そういう焦点を絞りこむタイプの議論もあるが、40世紀にわたる滔々たる文明の歩みをふり返る中で、近現代の欧米を中心とした歴史観とは異なる発想を生みだす途上にある、と思っている。

 たとえば、易姓革命による王朝交代をベースにした国家観もありうるし、むしろ中国の現状をいえばその方が欧州発の国家論よりも分かりやすいといえる。

 つまり、現在は共産党を王朝に見立てた統治体制というべきであり、それは復古というよりも温故知新というべきかもしれない。もちろん、中華人民共和国の肩を持つ気はさらさらない。さりとて「豊かになれば民主(欧米)化する」といった単純な歴史観や国家観をベースにする気もない。甘い関与政策を支持する気にはなれない。

 そこで振りかえれば、1990年代の対中関与政策は目的も目標の設定もさらに対象国への理解においてもずい分と杜撰であった。というのは、1989年に天安門事件があったにもかかわらず、ソ連の崩壊などを受けてG7などは総じて気持ちが緩んでいたので、対応が甘く杜撰になったと受けとめている。

 そういえば、2月28日のイラン攻撃も反政府運動の激しさから体制転換も近いと感じたのか、説得されたのか、最高責任者の殺害という一線を越えてしまった。激しい反政府運動は民主化そのものであり、政府首脳層を排除すれば成功すると誤ったのがイランの事例であり、経済的に豊かになればあの若き学生たちがいずれ民主化の主力になるだろうと思いこんだのが中国の事例である。

 また、世界貿易機関(WTO、2001年)への中国の加盟にあたっての「甘すぎる」対応が、たとえば頻発している経済的威圧に繋がったといった声は今でも聞こえてくる。要するに、権利は爆食するが義務は途上国並みという中国一流の処世を許してきたことも今となっては昔話ではあるが、かなり問題であったといえる。何かにつけて上手なのである。

 ということで対中関与政策の失敗は、G7などが歴史や政治文化への洞察を軽く考えていたところに原因があったのではないか。

 いずれにせよこれだけの巨大な国の統治を他国からの借り物ですますことにはやはり無理があったといえる。といった言訳がまかり通っているところに、少なくとも民主主義国の甘さあるいは怠慢が見えるし、それが劣勢の原因であったように思えてならないのである。

 また、1990年代の先進国を中心にした中国市場へのなだれ込み(進出)競争は中国側の巧みな誘導によるところが大きかったといえる。つまり、中国政府の巧みな誘導策に、バスに乗り遅れるなと競い合いながら術中に嵌っていったのであるが、それでも中国が経済的に豊かになれば欧米のように民主化するという仮説に溺れていたのは、あまりにも先進国としての優越意識が強すきたからだと思っている。

 植民地支配あるいは侵略を受けた人びとが、啓蒙思想をどう受け止めていたかは重要な視点であった。後述するが、米国を除く先進国にとっては誤算の始まりといえる。もちろんトランプ氏の米国こそが最大の誤算ではあるが。

 それはそれとして、中華思想と王朝政治のプライドにかけても、あるいは少なくとも為政者の立場(面子)としては、西洋由来の啓蒙思想への共感を示すことは自らの踏み台を倒すことに等しいといえるのではないか。

9. 中国は昔から「中華ファースト」であったし、これからも変わらない

 一般的に、中国では啓蒙思想への共感はさほど高くはないようで、たとえば欧米や日本などが「法による支配」と言ってみても、それは香港島・九龍の割譲と新界の租借という、彼らが屈辱と受けとめている歴史事実を思い起こさせるだけであろう。「法による支配」という法被(はっぴ)を脱げば「力による支配」が丸見えであるから、中国が啓蒙思想に傾倒する理屈はないと言ったほうがリアルであろう。

 要するに、香港島も九龍も新界も(中国の)国力の伸長が返還の決め手であったと彼らは考えている。そう考えることの理由の一つは、法の支配は力の前には無力に近いと経験から学んでいるからで、少なくとも中国の首脳層も多くの知識人もそう考えているのではないか。ただし、法の支配を全面的に否定しているわけではなく、あくまでも力の均衡とか権力下での法の支配という、優越者の論理としての法の支配なのである。

10. 「対中依存の低減」のための国際シンジケートで、現実化している経済的威圧に対抗

 さて、昨年の高市総理の国会答弁を契機に、中国からの旅行客が激減したが、中国政府としては反日政策として明示的にそうしたわけではなく、治安悪化にともなう安全確保のための自粛要請であると、わざわざ本音が見えるようにカバーリングを施したということであろう。

 レアアースの規制も巧妙な方法で結果的に対日輸出が減少したという方便を用いながら、対日膺懲(ようちょう)策の一つとして王朝内では呼吸を合わせていると思われる。少なくともデータを積み重ねればそういうことであろう。

 おそらくWTOでは優等生でありたいと願いながらも、あくまでも世界の中心は中国であって、国際的な規範でさえ中国の論理に帰属させたいとの思いが伝わってくる。

 そういったことの是非をここで論じてみてもあまり益はない。また、反射的に反中感情に走るのは無駄である。中国が核心中の核心とする事態には、それだけ力を込めなければならない彼らの事情があってのことであろう。であるから一般論としては無視することも、無理に理解することもないのである。 

 視点をかえれば、「アメリカファースト」よりもはるか以前から「中華ファースト」なのであるから、もともと共益関係は難しかったと思う。その文脈でいえば、日中関係は中国側がコントロールすべきと彼らは真面目に考えているのではないか。平等互恵はまだまだ遠い。

 それにしても、彼らがレアアースを外交の武器に使うのは今に始まったことではない。2012年の尖閣国有化、あるいは直近では米中関税交渉の事例もある。中国という国柄を理解していれば、10年以上の時間があったのだから対策もかなり進んでいたと思うが、現実は計画通りには動かないものであったということであろう。

 ともかく、対米交渉の切り札としてもレアアースが有効であったと中国が確信しているならば、対日においても有効であると考えているはずである。あるいは、成功するまでは続けるということかもしれない。であれば、この先の展開はさらに厳しいといえる。今の状況では最悪の事態の可能性を否定することはできないといえる。

 もちろん、中国にも懸念がないとはいえない。たとえば、輸出規制を長期にわたり徹底すれば、相手国の努力によってレアアースの需要を低減させるリスクにくわえて、調達先の新規開拓や国際的なシンジケートの結成などにより、規制側にウォーターハンマーのような逆向きのリスクが生まれる。

 また、資源貿易を外交の武器にする経済的威圧は、経済活動を政治に従属させることになり国際的な非難を浴びるし、健全な経済発展を阻害することになりかねない。今回のことは、経済が政治に従属することの具体的な弊害として国際社会からは警戒心をもって見られるであろう。

 と、きれいな理屈をならべてみても、中国が国家資本主義であるかぎりレアアース戦術に固執することを妨ぐことはできない。彼らが産業を政治の下位概念だと捉えているかぎり、政治の体面を守るためには安易ではあっても確実な方法としてレアアース戦術を使いつづけるし、さらに第二、第三のレアアースを探求していると考えるべきである。

 もっとも、米中相似たりで、両国ともに力による外交という点ではよく似ている。中国が米国の轍(わだち)に合わせているかぎりにおいては安全であると考えるのは、中国流のクレバーな判断と言える。

 ただし、力による外交が上策であるという証明はない。また、自国ファーストが万能であれば、没落をまぬがれた国はもっと多かったはずである。たとえば経済的威圧や資源外交などは自国の可能性を破壊する自損行為の面もある。WTOのルールは面倒でも繁栄のルールともいえるのである。

11. 「事もなく」終わって安堵の米中会談

 5月の米中首脳会談のスコアについては、習氏側の優勢とする向きが多いが、何よりも2月末から始まったイラン攻撃の始末に手間取っていることが、米国にとっての会談の地合いをかなり悪くしたといえる。もともとこの会談は「事もなく」終わることが宿命ともいえるもので、会談後の風景を見れば明らかなように必須のイベントではなかったと考えている。

 米中ともに手詰まりの中で、新たな枠組みなどは避けるべきというのが同盟国や関係国の思惑であったと思う。それに、種を蒔かずに収穫することはほぼ不可能といえる。いつものことではあるが、今回もトランプ流のディールの成果は不明というよりも、ほぼ未完に終わっているのが残念といえば残念、安堵といえば安堵なんだろうが、結局ひどく振り回されるばかりの世界になっている。

 ということで、米中ともに手詰まり感を確認し合った。筆者はそれで十分であったと思っている。トランプ氏の着地がビシッと決まらないから、安心していられるというのも反面の真理である。また、米中への期待が低い中でG2と言ってみても、問題が少しも解決されないのであるからガッカリということで、そういう意味ではG1でもない、G2でもない、限りなくG0であることを間接的に証明した米中首脳会談であったということか。

(つづく)

◇  園児らの 目線やわらか 二番子へ

加藤敏幸