遅牛早牛

時事雑考「2026年8月-民主主義が危機なのは啓蒙思想のおよばない国があるから-③核拡散防止条約(NPT)界隈のため口」

まえがき 【 本稿は7月中の掲載を予定していたが、別件があって半月の遅れとなった。さて、特別国会も終了し、このまま暑い8月をやり過ごせば、いよいよ秋に向けての政局が始まる。特別国会終盤を、生活からは遠いテーマが並ぶ「イデオロギー国会」と揶揄してみたものの、高市維新政権は恬として強気の姿勢を崩しそうにない。それはそれで結構ではあるが、9月からの食品関係の値上げは3000品目を超えるといわれている。インフレ課税が庶民の生活を脅かす。

 「日銀は庶民の敵なのか」と優柔なる姿勢を難じたい。日米協調介入の解説がいくつか流れたが、要するに「この円安は米国にとっても危険だ」ということであろう。元凶はアベノミクス来の異次元の金融緩和策(ゼロ金利、マイナス金利)の長期化である。十年もつづける必要はなかったということであろう。植田総裁のデビューはよかったが、さっさと短期の政策金利を1%++とすべきであったと思っている。 

 問題は、この10か月間に高市維新政権から示された金融政策方針では、政策要素間のトレードオフ関係が整理されていないことから、「責任ある金融緩和」の責任が不明確というよりも単なる政治的発言にとどまる、と解釈されつつあることから、それはまずいということで9月は強めの利上げを筆者は(勝手に)期待している。

 ということで、有権者目線でいえば「イデオロギー国会はもういいから早く生活国会をやってくれ」に尽きるのではないか。さらに、高市維新政権で良かったと感じられることが少ないといった受けとめが「10%程も」増えてくれば、抽象的にいえば「変化によるメリット」がさまざまに語られ始めるであろう。というのが秋の政局でしょう。

 遅くはなったが本稿では前回に続き、核拡散防止条約(NPT)などにまつわる筆者の感想を述べてみた。わが国は安全保障政策を自律的には決められない立場にある、ほとんど国がそうであるが。だから環境が変われば進路と速度を変えなければならない。「いつまで尖っているの」というか酷く不器用ではないかしら、というのが今日この頃の感想である。】

前回からの続き

5、核拡散防止条約(NPT)は不平等ではあるが、必要である 

 イランの核保有を阻止すべきことは「核兵器の不拡散に関する条約(核拡散防止条約あるいは核不拡散条約、NPT)」からしても当然である。また、核兵器を持たないといいながら濃縮度60%のウラン(現在時点での残存量は未確認)を保有するのは辻褄があわないということで、とくに、イスラエルからの疑念を強めたことから、中東域の不安定化の元凶になっていたといえる。しかしそうはいっても、NPT未締約国であるイスラエルが自国の安全確保のために、核疑惑を理由にしたイラン攻撃を正当化することには、これはこれで無理があるというのがスタンダードな受けとめであろう。

 もちろん、スタンダードな受けとめが現実の国際政治を直に動かすことにはならないというのも現実である。しかし、10年20年の時間軸でいえば、イスラエルがNPT加盟への意思を示さないかぎり、国際世論がイスラエルに味方することはないと筆者は考えている。

 そのあたりの現実をいえば、多くの国が味方あるいは中立という立場から、批判や反発といった立ち位置に転じると思われる。つまり、どちらかといえば無風状態にあった「核秩序」をめぐる言論空間に、イスラエル批判という風がにわかに吹きはじめているように思われるのである。そのきっかけになったのが、昨年6月からの米国による対イラン攻撃であり、今年2月の米国とイスラエルによる対イラン攻撃であったとの認識は、多くの人びとに共有されている。

 さて、同条約は、核兵器国(米、英、仏、露、中の5か国。1967年1月1日までに製造、爆発実験済)に対して誠実な核軍縮の促進を義務付けている。また、非核兵器国(条約締約国のうち核兵器国以外の国)には国際原子力機関(IAEA)の保障措置(査察)の受諾を条件に核の平和利用を認めている。

 ところで、この核拡散防止(以下NPT)体制そのものが本質的に不平等なもので、それだけでも気持ちがザワザワするのに、現在非締約国4か国(インド、パキスタン、イスラエル、南スーダン)のうち、南スーダンは2011年の建国なのでともかく、インド、パキスタンはNPT体制外の核保有国であり、イスラエルは非締約国ではあるが、核保有については曖昧戦略をとっている。しかし、国際的には保有国と認識されている。というようにNPT体制にはすでに「ほつれ」が生じているのである。

 一方、ほつれを整えるように保有していた核兵器を廃棄して、NPTに非核兵器国として加わったのが南アフリカである。あるいは、ソ連の解体にともないウクライナ、ベラルーシ、カザフスタンに配備されていた核兵器がロシアに移され、現在それぞれが非核兵器国としてNPTに加わっている。

 ウクライナは1994年のブタペスト覚書(米・英・ロ・ウ)によって撤去後の安全保障についてはそれなりに確保されていたものの、ロシアによって2014年にはクリミアが併合され、2022年には東部4州で軍事侵略を受けた。侵略は今も続いている。

 ウクライナをはじめ3か国が運用をふくめた真正な核兵器国だったとはいえない。しかし、ウクライナでいえばNPT体制への協力が結果だけを見ればロシアの侵略を容易にしたといえるかもしれない。この言い方は核兵器が持つ通常戦力による攻撃への抑止効果を前提にしたものである。そうであれば余計に皮肉なことに思えるのである。もちろん、ウクライナが配置された核兵器をそのまま持ち続けることが政治的にも技術的にも可能であったのかと問われれば、答えは困難であったということであろう。

 また、ベラルーシには近年ロシアの核兵器が配備されているといわれている。一方、カザフスタンはセミパラチンスク核実験場における核汚染の苦い経緯から核廃絶には積極的である。

 さて、制裁下にある北朝鮮はNPT脱退宣言を行ってはいるが、脱退の有効性については疑義があり、また仮に脱退できたとしてもNPT違反や安保理決議からは逃れられないといわれている。そんな中で、中ロ朝イランの「4か国連携」が注目されつつある。しかし、この連携の持続性は中国が欲するものを他の3か国がそれぞれに提供できるのかがポイントであって、とくに北朝鮮の価値を中国がどう判断するかが当面の注目点といえる。中国にとっては「核保有をめぐるトラブル国」との連携がとんでもない難問として跳ね返ってくるのは避けたいということであろう。

6.NPT体制外のインド、パキスタン、イスラエルがNPTの「綻び」

 NPT体制外の3か国(インド、パキスタン、イスラエル)については経過といい、思惑といい、非核兵器国から見ても問題が多く、未だに不信と不満が消えていないのは当然のことであろう。しかし、工事騒音が生活騒音に紛れこみ日常化していくように、問題が起こらないかぎりにおいて、問題は陳腐化していくだろうというのが、これらの3か国の希望的な展望かもしれない。

 しかし、NPT体制に対する不信の元凶の一つが「NPT体制外の核保有」であることは変わらないので、陳腐化するどころか事あるごとに批判は再生強化されると思われる。また、批判しつづけるべきである。まして、北朝鮮についてはNPTへの裏切り、あるいは破壊行動と受けとめるべきである。テーマの性格上既成事実化はあってはならないといえる。

 さて、事実上の核保有国が5+3からさらに+1になるということを核兵器国(米英仏ロ中)がどう受けとめているのか。たぶん現状維持以外の新たな選択肢については何も用意していないと思われる。まあ無責任といえば無責任である。とりわけ北朝鮮への対応についての非核兵器国からの非難は厳しく、そういった素地に北朝鮮のロシアへの戦時協力が重なってくると、異臭が放たれたというか、いわゆるきな臭いということであろう。

 そこでもっとも重要なことは、核兵器国(国連安保理常任理事国)は条約にしたがって核軍縮のロードマップをタイミングをとらえて明らかにすべきである。核軍縮があってはじめて条約の理念が完結するのである。しかし、核兵器国の本音は、保有コストの縮減策としての核軍縮にあるようで、なんとも寂しいかぎりである。

 さらに、核保有の寡占化とその永続化というきわめて国家利己主義的な「5か国だけの利益」に執着しているように見える。このあたりが核拡散防止にあたっての「核を持つ側の権益擁護」そのものといえる。このあたりが、核兵器国にはどこまでも甘く、非保有国にはあくまで苛烈な仕組みといわれる所以であろう。

 こういうことでは対イランへの制裁の熱量が相対的に下がるのは仕方ないわけで、この先5か国が率先してNPTの旗を守らなければ、根太の腐食が進むと思われる。

 NPTは1970年の発効であるから、すでに55年経過している。この間、核兵器国と非核兵器国との経済力を中心とした国力差は劇的に縮まっているといえる。にもかかわらず「核兵器格差」すなわち「核秩序」は55年前のままなので、まさにNPTの狙いどおりの結果といえる。だからこそインド、パキスタン、イスラエルおよび北朝鮮のあり様はNPT体制上の矛盾といえるし、5か国の核軍縮への怠慢は許されるものではないのである。

 

 現代では国家間における誠実性が劣化しているので「今さらながら」何を言ってもひどく疲れるのだ。だから、せめて安全保障の議論の場だけても国益という「自国ファースト主義」の克服が見られると「いいね!」と、淡い期待を抱くのであるが残念なことが多い。各国が目一杯国益を主張すればするほど全体としては不安定化を招くのである。これもいわゆる合成の誤謬の一種であろう。

 たとえば、NPTが掲げている「核軍縮」が最終的に「核廃絶」を目指しているとは現実を踏まえれば考えられない。つまり構造的にも実態的にもそういった廃絶を目指すようにはなっていないということで、むしろ「(核廃絶ではなく)NPT体制の持続を目的化している」と捉えた方が明快であると思う。

 ということは、核兵器を寡占化することにより自国らの優位性を保持しようとする「国家エゴ」の実現が、5か国にとっての隠された目的であるといった方がより正確であろう。つまり、国連での常任理事国としての拒否権にくわえてNPT体制による、その他の国の核兵器保有の禁止という核独占による国家生存レベルでの「優越的地位の確保」を目指しているではないかと、陰謀論ではないがそう勘ぐりたくもなる。

 もっとも、初めからNPTの不平等性を呑みこんだうえで、核拡散防止の重要性を非核兵器国がしっかりと理解していたから、保有国が5+3+1に止まっているともいえる。もちろん条約の目指すところをいえば、3+1を認めるわけにはいかない。

 問題は、イランの核保有を阻止するというNPTの大義名分を理由の一つにした米国の昨年6月のイラン攻撃に続き、今年の2月にはイスラエルが表立って攻撃に参加したが、同国は非締約国でありかつ保有を否定していないことから皮肉にもNPT体制の矛盾点が赤裸々になり、少なからずNPTの土台を侵食していると、(この程度で揺らぐことはないと思うが)危惧している。と指摘すれば「それがどうした、どうってことはない。」と軽くいなされるのであろう。

 また、インドがNPT非締約なのはその不平等性への反発であり、現に核を保有しているのは中国への対抗のためと解釈されている。パキスタンはインドへの対抗であろう。

 つまりほつれから綻びへの悪化は、NPTが全てを仕切っているわけではないグレーな部分を照らす効果があったといえる。しかし、それが逆に「イランの深謀遠慮」に風を送っているように見えるのである。

 考えてみればイスラエルの「NPT体制の外」という立場こそが今回の問題をややこしくしている原因であるといえる。

 もちろん、米・イスラエルの同盟的関係について他国が口出しすることはない。ただし、イランの政権崩壊や国家転覆を目的とするのは入口が違う。また、自衛権のためとの理由付けも牽強付会といえる。これでは「力による支配」への回帰でしかない。もっとも、米・イラン関係をいえば、外交で決着がつかなかったので、昨年6月の12日間の軍事攻撃があり、それでも事態がうごかなかったことから再度外交交渉を重ね、交渉中にもかかわらず2月の攻撃に踏み切ったことから、結構プリミティブな19世紀のような非対称関係を繰りかえしたと理解している。

 今回は外交と軍事が交互にまるでミルフィーユのように重なっているので、無限ループに落ちたようで出口が見つからない。

 その結果として米国の弾薬備蓄が歴史的低水準に陥っているという。そういった米国の足元を見透かしながら、イランが予想をこえる要求をぶつけてくるからさらに出口が難しくなるようで、米国にも深謀遠慮が必要であろう。

7.あらわになった「力による支配」の源流はNPTと拒否権にある

 さらに、核兵器国(5か国)の中でも米中ロは、表むきはともかく内心では力の支配こそが国際関係を律する原理であると本気で考えているのは間違いない。現在のNPT体制はその黙示的表象であると筆者は受け止めている。

 だからといってNPTを否定すればいいということではない。核保有の広がりを防止するための現実的な方策として、現在のNPT体制は維持せざるをえないという認識は(あくまで過去のある時点までは)妥当であったといえる。しかし、残念なことに5か国の昨今の動きは、あからさまに力による支配の方向に大きく傾いていることから、少なくとも特別な拒否権を有する常任理事国が核兵器国としての義務である核軍縮をおざなりにしながら、核不拡散の大義のもとで、5か国以外の非核兵器国の核保有を禁止、あるいは実力で阻止するという理屈は、5か国の核軍縮への不誠実さと合わせて、さらにインド・パキスタン・イスラエル・北朝鮮の保有あるいは保有疑惑が事実として存在していることからも、論理的にはほぼ破綻しているというべきであろう。

 論理的には破綻しているが、現実を見れば力の論理によって核秩序は維持されていくということであろう。では、その「力の論理」の基準は何かといえば、現実をみるかぎり米中ロともに「自国ファーストに基づく恣意的判断」が基準となっているようで、これでは国家間においては民主的関係が構築されているとはいえない。民主主義の危機を俯瞰すればまず目に入るパノラマのタイトルこそが「力の支配」なのである。

8.二次拡散の課題

 さて、現下の状況はNPT体制にとって実に深刻な事態である。たとえば現在保有しているのが9か国と仮定して、それらの国からの二次拡散という問題がある。仮定において、その拡散先はおそらくNPT上は非核兵器国であるから、取得したことを明示したいのであれば北朝鮮と同様に脱退を宣言する可能性が高い。あるいは、完全秘匿もあるが苦労して入手したものを隠しとおすのであれば政治的には無価値であるから、少なくとも疑惑をふりまかなければ抑止力は得られないと判断すれば、保有疑惑の道を選ぶであろうが、この道も国家としては危ない綱渡りといえる。

 NPTにおいて条約上核兵器国とされている5か国からの流出はないと仮定したうえで、当面NPT外の3か国プラス北朝鮮からの流出の可能性については、現時点ではリスクが高すぎてまずありえないと考えるべきであろう。しかし、需要があれば対価によっては対応が違ってくることは普通にありうる。ということで、流出確率はたしかにゼロではない。

 そこでケース次第であるが、NPT外の国(インド、パキスタン、イスラエル)へのIAEAの査察をどうするのかというのが「外堀」問題としてある。同意なしに査察を強行することは難しい。また、北朝鮮への監視は必要であるが、経験的に一筋縄ではいかないと思われるし、経済制裁の強化が確実に機能するのかも覚束ないといえよう。

 もちろん、需要国を仮定してのストーリーとしては、近隣国との紛争という火種を抱え、通常戦力では決着がつかない拮抗状態からの脱却を目指し、核兵器の取得を図る、という筋書になるのだが、状況においてはイランのように疑いのうちに攻撃され国民生活に悲惨な結末をもたらすことになるかもしれない。ということも核保有へのブレーキとして働いていることは確かであろう。

 とまあ、妄想的にさまざまなケースが考えられるが、要は米国の対応如何であるから、NPT体制の「ほつれ」が「綻び」へと悪化して、このまま「核拡散」への流れが生じるのであれば、不拡散体制の維持のためには違反国を厳しく「譴責」しなければならないことになる。が、それには莫大な費用が要る。また、人命が関われば国内的には不人気政策との烙印を押されることから、どの国も二の足を踏むと思われるので、譴責を担う国は民主的議論を重ねているかぎり不在になる。そこで、唯一の仕置人国家である米国の出番となるが、さすがの米国でさえ今日では政治基盤も含めた「体力消耗」とのトレードオフが避けられないであろう。

 だから、新たに出現する違反国に対しても、米国としてイラン以上の熱量で攻撃できるのかという疑問が湧いてくるのであるが、現実の政治シーンから類推するに、譴責役を米国だけに押しつけることには無理があることは誰しも納得しうるのであるから、このあたりはおそらく真空化するのではないか、つまり「力の真空化」である。

 ここで、違反国が出現したときに米国が本気で対応できるのかという疑問は的を射ているものの、疑問をもつ者の立場によってははかなり無責任なものに聞こえることを予め指摘しておきたい。

 というのは、NPT体制によって核保有が認められ、また国連での拒否権を付与されている米国以外の4か国には責任がないのかといえば、そうではない。当然、連帯して事にあたるべきであるのだが、たぶん米国のフライングが気にいらないという理由から、おそらく協調行動にはいたらないと思われる。

 米国がやらなければどこもやらない。ここらあたりに10番目以降の保有国が出現する穴というか隙間があるのではないかと思っている。少なくとも最低でも5か国の歩調がそろっていなければ、不平等条約であるNPTの現状を守れないのではないか、ということである。NPTに代わるよりましな体制ができるまでは、現行体制で続行すべきなのは鉄則中の鉄則である。

 ということで、「米国に依存しすぎ」、「米国も背負いすぎ」であったといえる。どちらにとってもそれが好都合であったということであろう。あるいは、そういう時代であったということに尽きるのかもしれない。

 ところで、米・イランの合意覚書の破綻をしめす第二幕として、7月12日ごろから攻撃が再開され、断続を重ねている。考えてみれば、米国の今までの投下資源が無駄にならないようにというサンクコストの罠と、くわえてホルムズ海峡を元に戻すためには長期間にわたる「地上軍の派遣」が必要であることが分かっていながら踏み切れすに、弥縫策として海峡の守護神を装い当座の優勢を握りにいくという、勝つためではなく引き分けるための攻撃が米国の立場をさらに弱めている。

 ということで、これはギャンブルなのかとも思いつつ、そうであれば米国としてはBクラス以上の成果が確保できなければ手を引くことはできない。そうなれば、巨大な挫折感に襲われるであろうし、その結果完全なドンロー主義に自閉してしまうのではないか、ということがたいそう危惧されているのである。

 批判は100%自由であるから、月に届くほどの批判を重ねればいいのであるが、されど米国に代わる国がありうるのかは、たとえ月に届くほどのトランプ批判がありえたとしても、まだまだ○○による「力の支配」なくしてよりましな安定(平和)を得ることはできない。○○に入る国は、ロシアか、中国かそれともEUか。わが国でいえばここは米国しかない、とみんな思っているからなかなか苦しいのである。

9.「世界に平和をもたらせることができるのはドナルドだけ!」ではあるが、では日本は何をするのか?

 今年の3月の日米首脳会談で、高市総理が言い放った「(世界に平和をもたらすことができるのは)ドナルドだけ!」というのはその通りだと思う。もちろん背面の「(世界が平和でないのは)ドナルドのせいよ!」が真であるかどうかは分からない。また本人の自覚もうかがい知れないが、世界の現状というか一面を的確に表していると筆者は受けとめている。

 国内では、「媚びすぎ」との批判が起こったが、そうではなくて「では、日本はドナルドと連携して何ができるのか」と批判すべきであったと思う。そこで、この問いに高市総理はなんと答えるのか、つまり連携する体制も覚悟もないのに、ただ「煽(おだ)てるだけおだてた」のであれば、それは口先外交であって「あざとさ」だけが残るのではないか。だから、平和のために日本ができることは何なのかを具現化しなければ、日米の信頼という点ではベースラインに揺らぎが生じる怖れがあるということであろう。

 この先、11月の中間選挙に向けて、トランプ氏の支持率が低迷すると思われる。それを見越してトランプ氏を支えて「ブレるところなければ」一流の政治家である。そうではなく、是々非々ということであれば、あるいは当然のこととして距離をとるということであれば、普通のオポチュニストである。となると来年、再来年の日米関係は難しくなると思う。

 だから、ブレる時は早めに「前夜に電話をしてから」が作法だとしても、相手がそれを受けいれるかどうかは「ドナルド」次第だから、その時には覚悟ができているということであろう。中国にくわえ、米国とも関係が冷えこめばわが国は動きが取れなくなる。3月の日米首脳会談はそういう位置づけだったといえる。

10.イランが見据えているのはトランプ氏の足元

 特別なことではないが、イランが見据えているトランプ氏の足元とはレイムダック化のことであろう。つまり、米国内の分断現象のさらなる深化を見据えているのであろうが、わが国としてはそれも困ったことなのであるから、ガスの元栓を閉じて済むような話ではない。ガスが来なければそれはそれで困ったことになる、否もっと酷いことになる。

 ただし、トランプ政権のレイムダック化は一様に捉えられるものではない。議会での与党である共和党の議席構成によって事情は大きく変わってくる。上下院ともに過半数を割りこむと、のど元にナイフを突きつけられたようにさまざまな案件に対する議会の追及が強まり、場合によってはトランプ氏自身が追いつめられると予想される。また、次回の2028年大統領選挙に向けて「最悪の選挙バトル」が動きだすと確実視されるが、単純化して語れるような話ではない。

 さらにそのこととは別に、何十年もの周期をもった政治潮流の大変化に翻弄されることをも視野にいれた「米国の大変容期」への期待が、反米系界隈では伏されてはいるものの静かに広がっているように思われる。つまり、米国が退潮していくことへの期待感が、多くの政治指導者には強く意識されている時代なのであって、それがトランプ氏の個性的というよりもかなり奇矯な振る舞いによって、すべからく極端にデフォルメされた結果、問題(罪過)を一身に背負わされているといえる。だからというべきか、単純にトランプ氏のレイムダック化が問題の一掃になりうると考える人びとが先進国などを中心に、またリベラル界隈でも増えていると見うけられる。筆者はそういう傾向に対し是非を語る気はない。

 しかし、そこには多くの誤解(解釈の取り違え)があって、わけても米国外のリベラル系の報道による印象の形成が「トランプによる問題の生成」物語として広く敷衍されているようにも感じている。しかし、「トランプは原因ではなく結果」であるとの言説に耳を傾ければ、問題に遭遇したトランプ氏が独特の世界観によって解決を図ろうと孤軍奮闘しているのであるが、問題処理においては歴代大統領と同じぐらい「マジで下手」なので、そこに批判が集中していることなどから「彼こそが問題児」という印象が形成されていると思われる。本当に「彼だけが問題児であったのか」どうかは検証されていないのである。

 くわえて、政治経済などでは関係国への影響が際立って大きいことから利害における反発もあり、さらに世界最強の軍隊を動かすと犠牲者の発生も桁違いに多くなることは残念なことである。ともかくも貶(けな)される役回りなのであろう。

 さて、何といっても米国の疲労蓄積が世界レベルでの問題解決能力の低下をもたらしているのだが、「へたばったお前が悪い」といくら非難しても、すぐには回復しないのが目の前の現実なのである。それを早く立ち上がってホルムズ海峡を完全に開放させよと指図するとなると、「文句があるなら、お前がやれよ」と反発されるのは目に見えている。多くの国は「2月28日の対イラン攻撃なんかやるから、こんなことになるんだ。後始末はご自身でどうぞ」と考えているのであろう。というのは仮想の応答であるが、不毛な感情の応酬といえる。

 くどいようだが、筆者は2月28日の対イラン攻撃が失策であったことをそう思ってはいるが、さらに追いかけて論評する立場にはない。自明のことは自明として、この先如何にして問題解決の道を見いだすかに集中すべきだと考えている。

 だから今起こっていることは覇権国が衰退した場合に生じるいかにも不都合な事象なのであって、このタイミングでいえば「パックスアメリカーナは楽で良かった」のひと言につきるのである。これは楽というよりも、米国が覇権国であることがもっとも安心できるし楽であるということで、見方をかえれば保守現実主義の発想といえる。という文脈でいえば、米国が同盟国や友好国に対して防衛負担の大幅な増額を突きつけるのは粗野ではあるが、うべなるかなとも思う。

 さて、ホルムズ海峡をめぐる米・イランの壮絶な駆け引きは、囲碁将棋でいう敗着ともいえる2月28日の対イラン攻撃に起因する。米国としては非対称戦における「よくて引き分け」というベースラインの上でどれだけ盛り上げられるかであろう。思慮深くない攻撃が敵にアドバンテージを与えることはままありえることで、今回は内部矛盾に揺れつつあったイランの内政を引き締める効果があったと思われる。つまり、外からの圧力が減少すれば内部は緩み、政治変革の運動量が増大すると思われる。それには時間がかかるのである。であれば、当面ポーズしかないということであろう。

 というのはホルムズ海峡の実質管理をイランが完全に遂行できるのであればそれはそれでプランCぐらいにはなりうる。もっといえば、某国の妨害による不安定化という事態も大いに考えられるから、各国の承認なしに単独で国際海峡を掌中に収めることは存外に難しいといえる。事が起こらなければ、国際ルールに基づいて円滑に安全航行が可能であるのに、イランなどがわざわざ要らぬ交通整理をしてサービス料を徴収するようなことが許されるのか、あるいは長続きするのか、いずれにしても破綻すると思われる。

 直截にいえば、米国抜きでは成り立たないのである。徴収の事実が確認されれば、米国はいつでも好きな時にイランを攻撃するであろう。そうなると「海峡封鎖」ではなく、「海峡崩壊」となる。攻撃目標は船舶ではなく陸地の施設がターゲットになるであろう。要するに事実としてイランの海峡管理に不備があることを示すだけで、保険会社は逃げるであろう。という不安定化につながる選択肢を手元に置くのか、それとも多国間による管理方式を指向するのか。米国が考えることであろう。おそらく紆余曲折をえて安定化にたどり着くのか、あるいは新たな難問に遭遇するのか、さらには良くなるのか悪くなるのかさえ分からないという事態こそが常態というべきか、まるで分らないとしか言い様がないのである。

 ということで、イランには、船主をして安全だと思わせられるほどの実力あるいは信頼があるのか、本当の意味で安全航行を担保できるのか、またたとえばイランとオマーンのペアだけでは危ういと多くの船主が考えるのではないか、と疑問が泉のように湧いてくる。

 もちろん、油価の高止まりは困るが、それでも安全が100%確保されるならばつまりコスト問題に限定できるならば、経済的には対応は可能であるといえるが、米国不在でそんなことができるのかというのが世界の問題意識であろう。

 それにしても、株式市場というのは不死身の根性というか、このような状況でも6万円台を維持しているのだから、「恐れ入谷の鬼子母神」というしかない。

11.核拡散の恐怖と核秩序の崩壊(杞憂であればいいのだが)

 さて少し脱線したが、NPT違反国というのは国レベルの話であったが、地球上には国をベースとしない軍事組織も多々存在することから油断ができないのである。もっとも油断ならないのは、関税の現金化、ホルムズ海峡の現金化そして核兵器の現金化であろう。

 逆にいえば、関税をかけられても現金を払えば品物はいくらでも国境を越えられるし価格転嫁できれば回収もできる。さらに通行料を払えば安全に海峡を通過できるならば、そこに価値を見いだす業者も現れるかもしれない。

 という文脈とは大いに異なるが、現金を払えば核兵器が手に入るかもしれないという「死の商人」の世界が気になる。といっても、通貨あるいは決済機能が確立していなければ「武器仲介者」は手をだすことはできない。しかし、金融取引のグローバル化が「犯罪の売買」を可能にしているといえる。仮想通貨(暗号資産)も含めて瞬時に決済できるし、秘匿性が高いことから、金の受け渡しで捜査当局の監視網にひっかかる確率が下がっている。決済をめぐる事情が不法側に有利に変わりつつあるといえる。

 各国政府も国際機関と協力しながら対策を進めているが、もぐらたたきの観があるということらしい。筆者の関心は、支払い手段すなわち受け取り方法が国際犯罪を規定しているという理屈から推察するに、もっとも危険な核兵器の売買をも決済手段があれば実現するのではないかという不安である。

 また、サイバー犯罪のように「相手のリスク」を狙い現金化するタイプの犯罪が氾濫する可能性がどうしても気になるのである。そういった犯罪に手を染める者は何事も「取引」であると自己洗脳を施していると思う。だから、国家レベルの危機にいたることでさえ取引の材料にするのを厭わないのであろう。「取引(ディール)」は、このような犯罪者にとっての錯覚・錯視の言葉に化しているのか。

 そこで、あらゆるリスクが取引の対象になるという、コロンブスの卵的発見がどのようになされたかはよく分からないが、実践上の好例がトランプ氏が好んで使う「ディール」そのものといえるかもしれない。「世にディールの対象(たね)は尽きまじ」で、アラスカの次はグリーンランドというのは、「濡れ手で粟」こそ許すまじという各国の気分というか抵抗感であって、かならずしも荒唐無稽ということではない。少し脱線したようである。

 そういったディールは、物々交換でもないし、財貨・サービスの交換でもないわけで、あえていえば交渉国のリスクの現金化に近いといえる。もっとも交渉であり取引であるから、拒否すればいいのだと開き直るところが味噌であって、拒否に対しては「どうなっても知らないよ」が切り札なのであろう。道徳的でもなければ倫理・規範からも距離のある世界である。 

 以下は仮想的表現ではあるが、不道徳なように見えても核兵器でさえ取引の対象になる(可能性がある)のである。今、この瞬間においても戦域に投下されている多くの兵器が部品レベルにまで分解すれば、偽装された取引などを通じて入手されている可能性が高いと考えられている。人間がもつ、許されないことを平然とやり遂げる能力を侮ってはならない。

 筆者には、こういったいかがわしい現実を肯定する気はないのであるが、他方では経済の現実をいえば、全てがマネーに支配されているとはいわないまでも、相当な部分がマネーによって支えられて(支配されて)いるのは事実である。

 これは不道徳というカテゴリーではなく非道徳というカテゴリーに属する問題であって、そもそもの話として「ディールとしての関税」があるということなら、海峡の安全通行もディールの対象になると考える「不逞の輩」が出ても不思議ではあるまい。

 もちろん筆者は支持しない。しかし、支持しなければ問題が直ちに霧消するというものでもないのだから、取引で手にいれた核兵器を何らかの恫喝に使うというのもディールの変種と彼らは考えているのかもしれないのである。

 ともかく、米国の関与が薄まれば想像の世界に閉じこめられていた、国際レベルの犯罪すれすれの不都合な事がぞろぞろと現れることに対してあらかじめ身構えておくべきではないかという議論である。

 そこで、現在のNPT体制から浸みでるように、小規模とはいえ核兵器の拡散が生じた場合に引き起こされる事態を想像すれば、たとえば兵器としての核は運搬手段もふくめて高度にシステム化されている上に、何重もの安全対策が講じられていると聞いている。だから、何個か手にいれたとしても起爆そのものが困難であるから、直ちに危険というものではない。

 しかし、想定外の第三者の手に渡れば、その核兵器の管理が甘くなり、核爆発でなくとも管理不備などによる意図せざる事故の危険が日常化することはあるというべきであろう。これが筆者が考える第一の危険であり、さらにそういった状況を防止するために、地球規模での核監視統制システムを導入せざるをえなくなると妄想している。

 くわえて、システムの導入にあたっては、おそらくイラン攻撃のような武力行使でさえ正当化されるであろうというのが第二の危険である。このように、わが国の戦国時代末期の刀狩にも似た「核兵器狩り」が核拡散後に必要になると一般論としては考えられる。しかし、「核兵器狩り」の具体執行は想像以上に困難であると思われる。

 とくに、反政府系勢力が秘密裏に入手し保有している場合、その安全な回収が紛争下において可能であるのかといえば、回収における具体執行段階での課題が多すぎて簡単には着手できないということであろう。盗まれた核兵器が某国某地の国境近くに隠匿されているといえば国際サスペンスドラマであるが、現実はドラマよりも過酷な状況にいたっているのかもしれないのである。

 そういった無限の不安を湧出する事態に対処するためにという方便のもとで、対をなすように生まれれてくるのが強力な核監視統制システムであり、強権的に核兵器を回収する部隊の活動である。もちろん、核の拡散が日常において余程の「脅威」とならないかぎり、秘匿は破られないであろう。

 そこで、2003年当時のイラク戦争での「大量破壊兵器」の存在と似た話が浮上することが容易に想像できるのである。つまり、最優秀といわれていた諜報機関でさえ「大量破壊兵器がない」ことを証明できなかったのである。また、政権は「ある」事の証明を求めたのである。結局、「ある」事も「ない」事も証明できなかったのである。多くの場合こういう結論になるのである。

 ということで、行方不明になった核兵器を探すことが、結果として非核兵器国の国家主権の大幅な制限あるいは侵害とセットになるとすれば、「(隠された)核兵器と隣り合わせることの恐怖」と、「その根源を絶つ大義ともいえる権利の行使が招く多大な犠牲」との均衡という問題に最終的には置換しうるのであるが、こんなことを考える必要があるのか、と誰しも思うであろう。

 これはNPTにおいては、核兵器国はそもそも査察の対象ではないのだが、非核兵器国は査察の対象になるという「核による隷従構造」そのものの議論であり、また「隷従強化」の議論であって、それらの議論においては5か国が核の支配権をけっして手放すことにはならないというのが、筆者の見解であり、啓蒙思想が最も希薄化しているのは5か国ではないかという妄想的な指摘なのである。

12.核拡散による悲惨な事態を防止するためには、それを上まわる犠牲すら厭わないというのは正常か?

 核拡散による悲惨な事態を防止するためには、さらに悲惨な事態の発生すら辞さないという「狂気のパラドックス」の一幕を米・イスラエルとイランの戦争(戦争と呼ぶべきかどうか疑問なのであるが)において観ることができる。ここで狂気の度合いを天秤に掛けることには意味がないうえに、核開発だけが問題とはいえない。歴史もふくめ絡みあいすぎて簡単に解けるものではない。

 またこの問題から、国家の究極の目的が「支配権力の獲得」にあることが透けて見えるし、そのことに肯定的な人の方がはるかに多いと思われるのである。つまり、属する国がその支配権力を膨らませていることに否定的な国民は稀であることからも分かるように、国家は国民によって支えられ、国民は国家によって外部からは守られている、との共通の認識が存在するとすれば、オリンピック競技で日の丸に心踊らされる理由がなんとなくわかる気がするのである。

 リベラル派にすれば少々ナンセンスに聞こえると思うが、生来の人間の本性をいえば集団への帰属と馴化は自然なものといえる。もちろん、個人差が大きく表れるところなので、端折った議論は禁物である。

その国家と国民の相互認識がたとえ普遍性を欠くものであったとしても、現にその認識によって国家と国民がさまざまに拘束しあっていることが実在しているのであるなら、現実に存在しかつ機能しているといってもいいのではないか。

 かつて、植民地を持つ国の国民は植民地からの収奪によって生活が支えられた。また、その精神は栄養がいきわたった身体に支えられていたことから、たとえ高邁な思想を語っても、彼の身体は国によって養われていることは変わらないのである。まるで、養分たっぷりの培養土ですくすくと育つ植物のように国と国民は濃密につながっているのである。

 だからというわけではないが、自ら核兵器と拒否権を放棄するように国に提言する国民は多くはない。たとえ反核のデモに参加していたとしても、直ちに自国の核兵器の廃絶を求めることにはならない。また、自国の核兵器の廃絶を求める絶対廃絶派よりも国際的な関係を重視する相対廃絶派の方がはるかに多いのである。

 国民が核兵器への依存を高めている現実を受けとめなければ「核による精神の隷従構造」を理解することはできないであろう。一般的に核戦争への不安は保有の有無にかかわらず人びとの日常生活に侵襲していると考えれば保有国と非保有国の国民間ではイーブンといえるが、やはり核報復力をイメージすれば米国民の不安感は他国民に比して低レベルであると思われる。

 現代における人びとの認識においては、無意識のうちに核兵器国と非核兵器国に区分されていると考えられる。この区分は、実質的な保有国とその他に区分されていて、さらに保有国でなくとも、軍事同盟での核の傘効果が期待できる国では完全でなくとも相当程度の核保有効果を感じていると考えられるが、その確からしさについては変動的であろう。

 たとえば、米国のトランプ氏の外交からは漠然とした不安感を覚える同盟国の国民も増えているのではないか。同盟国が提供する核の傘は最終的な政治判断が条件であるから、自国保有とは異なるレベルにあることの理解は当然広まっている。もちろん、だからこうすべきであるという議論には至っていない。

 結論ではないが、保有国の国民が廃絶の意志をもって投票行動に臨めばいずれその方向の流れが生じるといえるのだが、一般的な核戦争への不安よりもたとえば移民問題のウェートの方が大きいとなれば、当然のこととして核軍縮や核廃絶が遠のくことは残念ながらありえるのである。

 いわゆる戦術核の使用が今日的な話題になったとしても、保有国が非保有国に使用するという文脈自体は変わらないと思われる。なぜなら、オートマチックな報復合戦になれば人類は絶滅近辺に追いやられることになるから、その意味において、保有国同士では使用しないという暗黙の了解が瞬間的にも成立すると予想するのは合理的である。

 しかし、これではどう考えても不条理であるから、そういう使用がなされればNPT体制は崩壊すると思われる。核の拡散を防止する条約において優遇された国が非保有国に使用したというのでは話が違うわけで、ことほどさように保有国は非保有国にたいして絶対的といえるほどに有利なのである。

 さらに、使用国の国民として、まずは「やむをえなかった」という政府の説明への対処のあり方が問われる。今でも米国民の多くは広島、長崎への原爆投下の結果戦争の集結が早まった、あるいは戦死者の縮減に効果があったと考えていると聞く。

 もう少し凄惨な危機意識が横溢しているのではないかとも思ったが、実態は緩慢なものと思われる。最強の核兵器国の国民の意識が核軍縮と核廃絶におよぼす影響が大きいと考えれば、このまま忘れ去られる兵器なのかと瞬間思ったりしたのだが、それは譫妄であった。通常戦力に対する抑止力と、核攻撃に対する報復力としての抑止力との二元構造であると説明される。とくに、核対核の抑止力を前提にするならば永久に核は無くならないことになる。核に対する抑止力問題は、NPT上は核兵器国である5か国間の関係に集約されるのであるから、非核兵器国はこの場合関係ないのである。だから、「関係ない!関係ない!そんなの関係ない!」と叫びたいところであるが、「核の傘」という概念は「関係ある」とする核兵器国(米国)と非核兵器国(日本)とをつなぐ理屈なのである。ということで、「核なしでわが国の安全保障(防衛)を構想できるのか」について説得性のある提案ができるのか、まだまだ模索がつづくと思う。

 毎年8月のこの時期にはあれこれと考えをめぐらせながらも廃絶に勝る安全策はないことだけは確かである。が、そこにかかる橋はまだ見つかっていない。

12.「歴史は愚かさを好む」わけがない、人間が愚かなだけである

 年を重ねると思いのほか妄想性が高まるもので、なぜか悪い方へ悪い方へと近未来を描きながら因果をグルグルと回していくもので、以前なら「まさかそんなことはないだろう」とか「そうは言っても、人類はそれほど愚かではない」と、コーヒーカップを片手に自分で反芻しながら内心の安堵をえていた。

 それが、今では「歴史は愚かさを好む」というフレーズのほうが、やっと気がついたおのれの愚かさを優しく庇ってくれそうなので、好ましく感じるのである。

 余談ではあるが、レアアースが外交上の強力な武器であることを中国が実証した。また、地政学上のチョークポイントが場合によっては金になることを、ホルムズ海峡でイランが実証しようとしている。ウクライナはロシアの攻撃に苦しみながらドローン兵器を活用する戦術上の新機軸を切りひらきつつあるが、決定打とはなっていない。それぞれに持続性については疑問があるものの影響を与えていることは確かである。さて次は、AIによるサイバー攻撃に着目した何かであろうか。

 サイバー攻撃による現金の略取という新しそうで、型としては全く古い「犯行手口」は小遣い稼ぎのうちはまだしも、被害が支払い側の許容レベルを超えれば略取が成立しなくなる。夜道での強盗が増えると人通りが減り、金持ちは用心する。インターネットではそうもいかないが、相互信頼の上に富の最大化が実現するのであるなら、国ぐるみでサイバー攻撃の腕を磨くのは、強盗育成学校を国が運営しているようなものであり、そういった相互不信は富の最小化に動くのではないか。

 核兵器以外にも怪しげな空間があるということである。

(つづく)

◇ バッタ死す不意に猛暑の八つ時に

加藤敏幸