遅牛早牛
時事雑考「2026年10月 民主主義の危機-民主政治と核兵器保有、核兵器への憎悪と依存-①」
はじめに
[ 今回は、『2026年8月の政局-民主主義が危機なのは啓蒙思想の行きわたらない国があるから-③』につづく④として用意していたが、諸事情によりシリーズから切り離し別建てとして掲載した。
主題は核保有国の国民(人びと)が核抑止に強く依存しているかぎり、核兵器廃絶への道は遠いということである。もちろん、主たる責任は各国の政府にあるが、消極的であれ核保有政策を支持する人びとがいなければ権威主義の国であっても核兵器の保有は難しいといえる。核抑止政策と核保有という基本形を人びとが是とするかぎり、核兵器に囲まれた現状を変えることは不可能ではないかと思ってしまう。従来からの国家に軸足をおいた安全保障論という視点だけではなく、人びとの間においても核兵器への依存が強まっている「標準装備としての核保有」の流れに対して、改めて核兵器保有のリスクに触れる、やや重たいものになった。
さて、臨時国会が始まり、来年の食料品の消費税率引き下げと議員定数削減が重要案件といわれている。2月の総選挙結果を受けての提案ではあるが、米国の中間選挙やウクライナ情勢あるいはイランはじめ中東情勢などを見据えながら、中ロ朝の連携や、閉塞している対中外交の打開といった外交課題もある。
さらに、国内においては物価あるいは金利上昇への対応も急がれる。また、いろいろと手を打ったものの円安基調は変わらないようで、国民生活には不安と不満が蓄積されつつあるということか。
以前から「責任ある積極財政」の具体が見えないと批判してきたが、結局対GDP比率を財政規律の指標にするだけの、リフレ手法による言い換えではないかと思う。衣だけが大きい天婦羅うどんのようだ。ともかく、市場がどう判断するかであろう。
筆者としては激増しているサイバー攻撃への緊急対策が臨時国会では最大の争点になるかもしれないと予想している。わが国の存立という視点で言えばきわめて緊急度の高い危機的状況ではないか。国外からの攻撃から国民を守るのは国の責務であろう。
本文における表記について;核兵器国とは核拡散防止条約(NPT)で核保有を認められている米英仏ロ中の5か国を指す。また、核保有国とは5か国にインド、パキスタンの2か国および便宜上イスラエル、北朝鮮の2か国を加えた9か国を指すが、イスラエルは保有については沈黙しているし、北朝鮮の保有については確認されていない(国際社会では認められていない)ので、2カ国を含めているかどうかは前後の文脈で読みとっていただきたい。とくに、北朝鮮の核保有については事実上といった表現でさえも避けるべきと考えている。しかし、核兵器の存在に関するリスクを論じる際には論考の視野にいれている。]
1.核保有国の核保有を支えているのは誰なのか?核兵器の保有コストはいつまでも聖域ではない
さて、現在核兵器を保有する国(NPTでは核兵器国と定義している米英仏ロ中の5か国とNPT未加盟のインド、パキスタンおよび不表明のイスラエルそしてNPTを脱退し核保有していると主張する北朝鮮の合わせて9か国といわれている)にとって核兵器の保有をふくめたトータルコストが日々膨らんでいることは想像に難くないであろう。とくに、大量に保有する米ロ、さらに最近では近代化を急ぐ中国においても、政府予算(国防予算)に占める核兵器トータルコストが頭痛の種になっていると思われる。くわえてそれらがサンクコスト(埋没費用)化していることへの冷たい眼差しがそれぞれの国においては日常化していくと思われる。
もとは、とりわけ冷戦時代においては最優先の予算項目であったが、今日では核保有国の国民目線でいえば(核保有国ではない日本としては想像するしかない)、多くの人びとが必要経費であると理解してはいるものの、中には「核の持ち腐れ」と受けとめている人がいるかもしれない。兵器としての核は「使わない」「使わせない」ことが最善であり、それを柱としてさまざまな議論が組み立てられている。とくに、拡大核抑止などの抑止論がその最たるものといえる。したがって保有することを是としても、どの程度の規模を保有するのかについては議論が分かれることになる。
たとえば、「使わないのあれば減らしてもいいのでは」とか「思い切って半数をダミーにしたら」という声がそれなりに説得性を持つのはインフレに苦しむ人びとの無言の圧力と、ドローンなどの実戦投入から兵器体系の変革が始まっている今日的状況があるからで、見方を変えれば、核兵器保有の経済的負担がいつまでも聖域ではないということである。
2.微妙に変わっていく核兵器の位置づけ(はたして金食い虫なのか?)
冷戦終結から30年以上が経過し、ロシアのウクライナ侵略や米・イスラエルによるイラン曝撃などの非核兵器による戦火こそ見られるものの、幸いにも核兵器が使用される事態にはいたってはいない。もちろん、戦術的な使用を匂わせる婉曲ではあるが悪質なシーンがあったものの、リアルな核兵器は厳重に管理されているといえる。
という状況を踏まえて「使わないことが最善であるのに、積み上がった莫大な核兵器保有コスト」については、まずは当然のこととして受入れざるを得なかったのであるが、それにしてもこの種のコスト負担がいつまで続くのかという疑問と不満が、厳しくなった生活環境を考えれば、形はともかくも政治問題化することを否定することはできないであろう。
現実問題として、核弾頭に限らずミサイルなどの運搬手段やレーダー網による情報収集とそれらの分析を担う情報通信システムさらに指揮統制、安全確保や保管保全、防諜警戒警備などなど、どう考えても通常兵器よりもはるかに維持保管コストがかさむことは間違いないのである。
こういったコストを考えれば正直なところ、保有発数のうちで即応態勢にある比率は相当低いのではないかとさえ思ってしまう。とくに、対ウクライナ戦の負担を考えれば、ロシアにおいては核兵器の管理系への予算配分が十分なのか、と気にはなる。
筆者の視点は、関係国の表向きの角ばった見解は措き、「核兵器には金がかかってしょうがないので、何とかならないものか」という本音に光を当てることで、この際核軍縮を大きく前進させられないのか、というものである。まあ単純と言えば単純ではあるが。また、核兵器がホルムズ海峡の安全航行を保証するものではないという現実的な視点からも、核兵器系への予算配分を多少他に回してもいいのではないかといった意見もでてくるのではないかと期待してのことで、金がかかる割には当座の役には立っていないといったところが話のミソではないかと思っている。
3.米ロ中の三大核兵器国の足元の矛盾-広がる物価高への不満
さらに、人びと(庶民)の生活が苦しくなった原因が、たとえばロシアにおいては2022年2月からのウクライナ侵略(特別軍事作戦)の不首尾と長期化にあったことは間違いないし、米国においては今年の2月末のイスラエルと組んだ対イラン爆撃から始まり、とくにホルムズ海峡の閉塞が原油価格を押し上げインフレを起こしていることは隠しようがなく、ここだけを見ればほぼ自損状況と言える。
また、米ロのような派手さはないが、中国は経済と外交において国家間協調を劣位においた強硬路線を軸に、米国以外には自国ファースト、いわゆる戦狼外交を進めてきたことが、国際的には距離のある関係をもたらしまさにブーメランのように自国に刺さりはじめている。
米国はじめEUなどが指摘しているのは、国内経済運営の矛盾(失敗)である過剰生産を不当廉売(ダンピング)で解消しようとして他国の経済を傷つけていることである。さらに、WTOあるいはグローバリゼーションの最大の受益国である中国が、自由貿易を旗印に大規模な不当廉売(輸出)をつづけることは国際経済秩序を破壊するとの批判を招くもので、自由貿易とはいっても他国の経済を犠牲にすることは正当化できないというものであろう。
といった事例からも、3大核兵器国がこぞって対外政策でドジを踏んでいると思われるのである。もっとも、核兵器保有が対外への傲慢さを生んでいると証明することは難しい。また傲慢さの原因は一つではない。しかし、軍事的優位性(圧倒的な核戦力)と傲慢な心的態度とがまるっきり無関係とは思えない。なんだかんだ言っても、さまざまな力を背景に自国の意見を押し通すのが外交だという姿勢が、不思議なことに米ロ中で共通しているようで、何かしら「小さな成功大きな失敗」的な風情も似ているように感じるのである。
そういった最近の米ロ中の対外政策の蹉跌は自覚なしの同時進行なだけに、その原因には核兵器国としての過信あるいは相手に対する侮りというか粗雑な感性があるようにも思われる。
不都合な対外政策によって逆に自国民がとばっちりを食らっている。とくに低所得層が生活面で苦しい局面に追いやられているようで、そういった政治的なつけまわしの処理はそれぞれの国によって異なっているとしても、国内政治の矛盾が対外政策をさらに歪めていく可能性が高いのでわが国としてはこれからも要注意といえる。
ここ数年来のトランプ氏、習氏、プーチン氏の大物三人衆のやらかしを考えれば、まさに核大国による不確実性の拡大過程に世界が巻き込まれているように思われる。昔は「泣く子と地頭には勝てない」と言われたが、今は米ロ中には勝てないと言うよりも「お手上げ」なのである。
あれやこれや、「確かに今日はそうだけども明日は分からない、読めない」という不確実性にはまったくのところお手上げなのである。
4.日常化する人びとの核への依存-核保有国の依存構造
ということであるなら「核兵器システム」の維持保管コストなどの削減が保有国では社会的、政治的争点になるはずだと筆者などは直感的に思うのであるが、現実はかなり違っているようで、思いのほか不活発なのが米ロ中における核兵器縮減あるいは廃止運動であろう。もっとも、核保有を喜んで是認しているわけではなさそうだし、さりとて深い懊悩の末に現実路線を選んだわけでもなさそうな、ともかく煮え切らない雰囲気には非核兵器国とはかなり違う何かがあるようで、また米英仏と中ロとの間にはかなり違いがあるように感じられる。
そこで、政治家や専門家による閉ざされた議論だけでなく、核保有国の各界層の人びとがどのように「核保有コストとその効用」を受けとめているかが存外に重要なことではないかと思っている。
たとえば、米ロ中を三大核兵器国と捉えることには異論はないとしても、3か国が核兵器を保有するための費用が一体どのくらい莫大であるのかは、実際のところ明らかではないのである。ところで、某政府においては政府の債務が兆ドル単位で膨張している現状からいっても、民生部門への予算支出とトレードオフ関係にある核兵器保有コストをふくめた国防予算全体に対して人びとが無関心であるということはありえないと思うのであるが、そういった情報が流れてこない今日の状況に逆にきな臭さを感じるのは筆者だけではないと思う。
もちろん、それらの国においては核保有こそが国家安全保障を支える中核であるとの認識が広く一般に浸透しているから、世論形成としてはかなり強固であると思われる。そうは言っても、たとえばロシアにおいてはウクライナからのドローン攻撃に曝され、現にガソリン価格をはじめとする生活費の高騰に直撃されれば、核兵器コストは別建てと平静に受けとめられなくなるのではないかと思う。
にもかかわらず、人びとからは文句がでないということは、人びとが心理的にも、それほどまでに核兵器ないしはその抑止力に深く依存している証左であると言うことなのか、というあたりが今回のテーマである。
5.「核兵器に対する嫌悪と依存」地球上の約45%の人が自国の核兵器で「カバー」されている現実から、果たして核廃絶を展望できるのか?
ところで、核兵器の使用という事実は、多くの人びとの倫理観を直撃することから、政治責任以上に倫理上の責任に(使用国の)人びとは嫌でも向き合わざるをえなくなる。その結果多くの人が心的に苦しむことになると推察される。もっとも、それらの苦しみには個人ごとに差があり、さらに内心の懊悩については実にさまざまで、外からは見えないが多彩な色合いがあると思われる。だから「正義の行為」と信じれば灰色ではなく明るい空色になるかもしれないのである。
わが国の核兵器への距離感をいえば、被爆体験を中心とした反核兵器運動が同心円的に広がった構造になっている。しかし、多くの国というよりも日本以外の国では被爆体験という芯がないことから、違ったアプローチが必要なのであろう。さらに、世界の現実をいえばまだまだ原爆被害が深く知られていないことも受けとめなければならない。
いずれにせよ倫理観から生じる懊悩や苦しみは個人ごとに選択的なので、「核兵器の使用は絶対悪である」と公的に定義しないかぎり、人びとの倫理観あるいは道徳観だけで核兵器の使用を阻止することは難しい。
ところで、民主的に選ばれた政府(政権)が核兵器の使用におよんだ時に、選挙では政権政党に投票した有権者がどの程度政府に連帯すべきかは、有権者それぞれの判断によるのは当然であるが、たとえば「事と次第によっては」という条件が有権者サイドから付けられたとなれば、核兵器の使用が「是々非々」において可能になるから、かなり緩い感じを与えることになる。
では、是とする基準あるいは非とする基準を提起できるのは誰なのかという問題を抱えることになる。詰めていえば、それは国連安全保障委員会(安保理)の役割だと思うが、拒否権の関係から安保理は構造的な機能不全を呈している。ロシアのウクライナ侵略や米、イスラエルのイラン爆撃などの常任理事国のやらかしについては決議ができないのである。だから、拒否権を解消するためには拒否権を封印しなければならないのであるが、そのためにはさらに拒否権の封印が必要なのであるから、これは無限ループであって永遠に結論がでない。
ということで、ロシアがウクライナに使用した場合にはロシアの拒否権によって安保理で決議できないが、総会では勧告決議が採択されるであろうから、ロシアとしては国際世論を敵にまわすことになり、この先は想像できないほどにひどい事態にいたると思われる。
そういう事態にあたっての対応を予め決めておくことなどは、予見できない事態を予見の俎上に載せることであるから、論理上も現実においても無理といえる。
しかもこの上なく悲惨なテーマであるからまず敬遠されるであろう。何事も話しあえばいいとは言っても、話しあえないことが現実には多い。
民主政治は大綱においては有権者の意思を強く反映させられるが、局部的にあるいは短時間軸においては必ずしもそうはならない。これは歴史経験からもいえることである。
民主的な政治体制と、核兵器の使用という異常事案が併存しうるのかという問いには、文脈的には「民主政治が民主政治として完結できるかは分からない」と答えるしかない。さらに、どのような政治体制であっても時間の流れが非可逆的であるかぎり、「使用した」核兵器を時間の流れに逆行して「使用しなかった」ことにはできない。くわえて、もっとも重要なことは事後にどんなに議論を重ねても元には戻せないのである。しかも、事前においても事後においても満足のいく話し合いができない可能性が高いことから、人類は「闇夜の行進」という試練に遭遇すると思われる。
また、政権の暴走は、たとえ民主政治の下にあったとしても十分に起こりえる。いずれ選挙で有権者の意思により暴走政権を排除することができるとしても、それまでの期間に、行政権の名のもとに民主政治の換骨奪胎が強行される可能性が高いので、有権者は警戒態勢に入らなければならないが、防止できるかどうかはきわめて際どいと思われる。
問題は、暴走政治のオプションの一つに「核兵器の使用」があるのかと問われれば直ちに「ありえない」と答えるにしても、現実を考えれば完全には排除できない。ということで輝かしい民主政治の実績を踏みにじるように核兵器の使用というおぞましい結果が起こる可能性については案外近い距離にあると言うのが妥当であるし、あわせてその時の政治状況のあれこれを批評するよりも、それに対しては「保有しているから惨劇が起こった」と答えた方が最もスッキリしているというのが今回の核心であろう。
と同時に、政治において暴走を暴走として知覚できるのかという問いかけにも答えなければならない。独断的にいえば、暴走を暴走として確実に知覚できるのは、暴走車が通りすぎた後であるから、予見するのは難しいということであろう。
とくに核保有国の人びとに問いかけるべきは、個人としてまた有権者として「核使用に連帯するのか」ということである。
仮の話ではあるが、暴走する政府(政権)に対して「まことに遺憾だ」と思っている国民は「では何をすべき」なのか、あるいは「何ができる」のかというあたりの議論が今日では最もタブー視されているのではないか。タブー視されているのはそこに本質が隠されているからで、直截にいえば「核兵器なんか持つな!」と主張すべきであるのに、いつの間にか権力者に感情移入するというか、存在悪と必要悪の間を行きかっているのではないかと、あるいは日和っているのかしらとも思うが、それにはそれなりのわけがあるのであろう。たとえば、仮に人びとの間において「持っていた方が得ではないか」という世間知的な判断があるのであれば、核兵器を是認する意味では決定的な態度ではなかろうかと言うのが筆者の当座の結論である。
ということで、民主政治下にある核保有国の人びとの意識の底に、核兵器への嫌悪と依存という背反感情が存在しているという仮説を立てて、さらに分析する必要があると思っている。
筆者としては、日ごろ反核の旗を掲げながらも「反対」という立場に止まったままの政治主体(アクター)をどのように評価すべきかという、かなり下品な思索に気持ちを揺さぶられているのであるが、「核兵器の存在が通常兵器による大規模戦争を防いでいる」という抑止論を認めるのかという腫瘍マーカーもどきを早い話が信じるのかどうか、筆者流に言えば戦後反戦運動の中の反核運動の整理の時期に来ているように感じるのである。
こういった議論はちゃぶ台返しの感じがするが、わが国は核兵器を保有したくても叶わない立場にある。つまりNPTの縛りがあるかぎり、核保有国にはなれないし、なる必要もない。言い換えれば、保有の可能性がゼロであるから、核兵器反対運動の目標は地球規模での核廃絶に向かうのは自然といえる。
そこで、まずは同盟国である米国に対して核放棄を求める運動がわが国内で成り立つのであろうか。そういった運動が国民の過半の賛成を得られるのかといえば、おそらくすべての国が同時に全面廃棄するという条件下でのみ成り立つと思われる。つまり、拡大核抑止で言えばわが国は米国の核の傘の下に身を置いていることから、完全ではないが核保有国のメリットを甘受しているという解釈もあるわけで、そういった事情においても米国の核保有を消滅させることの意味が見えないということであろう。やはり、依存的なのである。
核保有は人口で言えば今や標準装備ではないか!
そこで、核保有国の国民として核保有をどのように捉えているのかと聞いてみたいのであるが、はたして対話が成り立つのか、疑問を禁じえない。
それは聞く立場の目的があくまで核兵器とそれを運用するシステムの全面廃棄であることが逆に働き、核兵器を保有している国の人びとが意思や気持ちを正直に吐き出すことができなくなるのではないか。現に核兵器に依存している内心をどうして行きずりの異邦人に明かさなければならないのか、などと考えだすとなかなかに困難なことであるように思う。
因みに国連のデータ(2026年)によると、核保有国などの人口はインド14.7、中国14.1、米国3.5、パキスタン2.6、ロシア1.4、英国0.7、フランス0.7、北朝鮮0.3、イスラエル0.1(単位は億人)である。合計すれば38.1億人となり世界の人口83億人に対する比率は46%におよんでいる。もちろんイスラエルは曖昧であり、北朝鮮については不当な点があるので外したとしても、37.7億人、約45%の人びとが国家保有の核兵器によって「カバー」されていることになる。もちろん、中国、インド、パキスタン合わせて30.4億人のウェートが大きく、逆にG7は米英仏の3か国で、合わせて4.8億人である。
さらに、保有7か国37.7億人という集中度(平均5.4億人)に対し、非保有国は228か国・地域(バチカン市国を含めたデータ上の数で国連加盟国数193や外務省が使う196とは異なっている)で44.9億人なので、単純に平均0.2億人ということであるから、27倍バラけていることになる。
ここで、「核兵器でカバーされている人びと」VS「カバーされていない人びと」という対立式はあまり意味をもたないと思う。もともと個人が選択できる事柄ではないのだから、ここで人口比率をあえて云々する意味はないと思えるが、しかし核兵器保有が限られた範囲であるという認識については、現実は予想以上に過半に近い人口を保有しているという「どちらかといえば標準装備」であるという風に書きかえる必要があるのではないか。
大雑把な話ではあるが、あくまで核兵器を保有している国の人びとである37.7億人が核兵器のリスクをどのように受けとめているのかが、これからの核軍縮や核廃絶の方向性を左右することになるのではないかというのが今回の指摘である。この点を外した核廃絶の議論は残念ながら弱々しく映る。
G7メンバーの米英仏4.8億人の多くは、核兵器の保有には原則反対であると思うが、その抑止力は支持せざるを得ないというのが偽らざるところであろう
おそらく、報復のための核兵器を持ち、かついつでも使用できることが小康(核抑止)状態をもたらしているとの共通認識が保有国の人びとにはあると思われる。多少神話的であるが、地球上において45%もの人々が現実にそう思っていることが、そういう現実を作りあげていることも事実であるから、そういった仮想現実に浸ることによって、核兵器のリアルな危険性が気持ちの上では大いに希釈されるということなのか、ここは議論の残るところなので決めつけるわけにはいかない。もちろん「そうあって欲しい」という願望が目眩まし効果を生んでいる側面もあると思われる。しかし、そこは非保有国の人びとも意識のどこかで核抑止神話に縋(すが)っていると言えなくもない、という現実があると認識している。
安易な言い回しではあるが、「結局使わないから安心だし、使うかもしれないからと持っていれば(相手からは)使われないから安全」という核抑止神話がもっとも使い勝手がいいのだが、このフレーズがあるかぎり、人びとはそれに縋りつき、日常の御守札にしているのであろう。これが保有する国の多数派の人びとの暮らしの中の安寧の受皿(ソーサ―)になっているのではないか。
非核兵器国の44.9億人(54%)の人びとの多くは通常兵器に対する核抑止力も核兵器に対する核抑止力も実感がなく、核兵器は厄介な物と受けとめている
これに対して非保有国の論理はより単純であって、「廃絶すれば危険はゼロ」に尽きる。つまり、どのような理屈をつけても核兵器の存在そのものが人類にとっての危険そのものである、ということである。故に、両者は屹立しあっているのである。
この屹立の原因は、「手にしている者」と「手にしていない者」との本質的な相違に由来している。持てる者と持たざる者とは大河の両岸に分かれて立っているから交わることはない。立つ位置が全てとは言わないが、それでもそれが多くのことを決めているのである。だから、核保有国における反核兵器運動と、非保有国のそれとは本質的に違うのであって、核保有国においての反核兵器運動は廃棄や最終処分までをも視野にいれた現実運動でなければ共感を得られない。つまり、大がかりな安全保障論争の様相を呈するといえるが、非保有国の反核兵器運動は国内には核兵器が存在しないことから、どうしても抽象的な主張に流れるのであろう。見方をかえれば廃棄すべき核兵器が存在しないことから、初めから成功しているとも言えるわけで、そういう視点では前者は挫折し、後者は成功しているが、反対のための反対運動に陥りやすいといえる。
6.「核兵器が使用される確率」はゼロではなく、微小数ε(イプシロン)程度はありうる
常識的な判断の世界では、地球上での「核兵器の使用」は考えられないことである。しかし、それが起こる確率は決してゼロではない。たとえば、核兵器国の5か国が間違いも含めて「使用する」確率もゼロではない。さらに、インドもパキスタンも曖昧なイスラエルも、そして保有国としてデビューしたくてうずうずしている北朝鮮をふくめて、核兵器を使用する確率はゼロではなく、あえて言えば微小値ε(イプシロン)といえる。それほど大きくはないという意味でεなのであるが、「ゼロではない」という表現よりもはるかに大きい値であって、十分気にすべきではあるが日常的に心配すべきレベルとは言えない。しかしこの確率εは何に対してという分母にあたる場合の数が不明確であるから、ここでは無定義なニュアンス表現として使っている。
ところで、政権の暴走を期待する人びとの出現が人間の本性に由来するというべきか、あるいは歴史的必然というべきか、などの難しいことは横に置き、実のところは歴史経験として嫌というほど味わってきたことを考えれば、そういった落雷に歓声をあげさらに空が荒れるのを期待する集団の跳梁が、「核兵器使用確率ε」を支えていると推論しても良さそうに思える。同時に、それだけではなく、確率εは当然ながら数多くある要因が重畳しあって成りたっているのであろう。
と言えば、核兵器の使用に至るほどの政治の暴走が実際の話として起こりうるのかと問われるであろうから、具体事例としては2021年1月の米国での連邦議事堂襲撃事件を挙げざるを得ないことになる。もっとも、2021年1月に核管理上の重大インシデントが生じたとは言えない、むしろ十分に平静であったと評価できるであろう。
それでも米国の同盟国や友好国においては、とくに政治学者をはじめリベラル系の政治家にとっては衝撃的な事件であった。とりわけ選挙結果に対する議会確認を阻止するための「議事堂襲撃」ともなれば、高度に発達した民主主義国では決して起こらないと思われていただけにショックは大きかったといえる。さらに、事件は米国の統治における信認性の低下あるいは国家亀裂の証拠としても深刻に受けとめられた。
しかし、この事件が米国の核管理能力への疑念として扱われることはなかった。それよりも、単なる略取を目的とする暴徒ではなく、選挙という民主制を支えるもっとも重要なシステムに対する異論の表現として暴力をも選択してしまうイデオロギー集団の存在こそが大いに衝撃的であったといえるのである。
もちろん、核管理における重大インシデント云々ではないものの、政治的対立が生々しい暴力行為にやすやすと転化されることへの警戒と危惧が関係国に急速に広まったことは確かであった。
そこでNPTにおいては、核兵器国に対しては統治上核管理が十分に統制されていることが求められているのであるが、現実は完全ではなかったわけで、「安心できない」要素がわずかだとしても「ある」ことが確認されたということであろう。
他方で、ロシアのプーチン大統領が時おり戦術核の存在を気付かせるきわどい発言を行ってきたが、その解釈はさまざまであるにしても、NPTでの核兵器国から非核兵器国への脅しをふくむ言及であるとすればきわめて剣呑なことと言わなければならないし、そもそも「特別軍事作戦」の先に核兵器の使用が想定されるはずがないのだから、内心も「軽い脅し」だった可能性が高いと思われる。
とはいえ、表現の軽重に関係なく、状況次第とも受けとめられるこのような核管理にかかわる発言はNPTの根幹を揺るがすもので、特に問題なのは核兵器保有が国連での拒否権と同様に国家としての示威行為の道具として利用されているのであれば、そのこと自体が核兵器の本質的な危険性を甘く考えている証拠なわけであり、そういった態度を続けることは核拡散防止においては想像以上にマイナスに働き、NPTへの求心力を削ぐことになると思われる。
7.核兵器国はNPTが求める核軍縮を誠実に進めるべきである
ところで、NPTが核兵器国に対して核軍縮を強く求めているのは、核兵器国の核保有を既得権益として固定化するのでは余りにも不平等が過ぎることに加え、現実問題として核廃絶の流れを完全に無視できないことから、核兵器国に核軍縮を誠実に進める義務を負わせることにより、なんとか非核兵器国との均衡を図りたいということであろう。
現下の状況を冷静に受けとめるならば、核兵器国は条約に従い誠実に核軍縮を進めるべきである。
すでに21世紀も四半世紀を過ごしているのに核軍縮の進展がないというのは、NPTが内蔵している構造的欺瞞の何よりの証拠であろう。という状況にあって、さて中国が核軍縮の方向にあるのかという疑問が提起されている。むしろ、近代化といわれている質的増強の方向ではないかというのが国際的な共通認識といえる。他国に軍国主義化しているといった認知戦をしかける前に、自国の核兵器の縮減が先ではないか、東アジアでの安全保障を語るのであれば、まず北朝鮮の核化を阻止し中ロともに自国の核兵器の縮減を先行すべきであろう。
いずれにせよ、核保有には偶発事故を含めて確率εの危険が付随している。その危険性にそれぞれの国民が早く気付いて欲しいものである。非核兵器国の人びとは核保有国の政府が暴走することはないとは考えていない。もちろん、かならず暴走するとも思っていないが、確率εがある以上警戒するのは非核兵器国の国民としては当然であろう。
8.AIの危険性に着目するのは妥当といえるが、核兵器の危険性は明白に存在するもので、決して忘れてはならない
最近AIの危険性が注目されている。莫大な資本を投下している企業の経営者が慌ただしく警告しはじめているのは「最終的にAIシステムの統制に責任が持てない」つまり自信がないということであろうか。言いかえれば「事前措置」の提起である。それに対して米中の首脳はその危険性に備えるよりも技術覇権の獲得の方に力が入っているようで、重大な事故があればということで明らかに「事後措置」を見据えていると思われる。重大な事故がAIシステムの統制不能を意味するのであればそれは手遅れと言うべきであるから、事前措置の問題提起には正面から向き合うべきであろう。事実、米国内ではそういう方向に動いていることは評価すべきであり、その文脈においてこそ「SI」が受入れられると思う。
いささか場違いな話であるが、昭和時代の発想は不都合が起これば電源を切ればいいという感覚であったが、人に反抗するAIシステムはまず電源系統を抑えるであろうから、人の手で電源を切ることを不可能にするであろう。ということでこの場合起こってからでは意味がないといえる。
ところで、筆者にはAIシステムの使い方での問題ではなく、本質的に備わっている危険性への対処という点が今ひとつ不鮮明なので、問題の所在について十分には理解できていない。だからといって、問題が起こる日までは開発を進めればいいとは思わない。つまり、この問題については楽観してはいられないと感じている。
というのは、データセンタへの狂わんばかりの巨額投資や膨大な電力消費という宇宙船地球号への過酷な環境負荷を強いるという問題がすでに見えていることに加えて、さらに勝者総取りという資本主義的競争が人びとの理性を麻痺させていることへの警戒が高まっている。
そういえば、1942年からのマンハッタン計画も「ヒットラーに先を越されるな」という集団的な脅迫観念のもとで、兵器開発物語としては奇蹟的な成功を収めたと言われている。しかし、原爆は区域を例外なく破壊し、放射線は生物を長期間にわたり傷つけるものであることを知ったうえで開発したのかと問えば、本格的な被害調査は投下以降のことであったという。被害の検証を後回しにしたことから、今でも保有する核兵器の数だけ大規模な惨劇が起こりうるという悪夢から人類は逃れることができないのである。
幸いにも人類は膨大な核兵器を抱えながらも80年以上生きながらえている。それはそれで多とすべきと思いながらも、一抹の不安を感じている。すなわち思いがけないことから「こんなはずではなかった」と頭を垂れる人さえ居なくなるかもしれないという不安である。つまり、思いがけないことが明らかではないのに、山ほどの核兵器を保有しながら泰然としていられるその胆の大きさに驚嘆しながらも、同時に軽蔑しているのである。
AIシステムも同様の危険をはらんでいるのであろうか。開発スピードのスローダウンがうまくいくとは思えないが、AIシステムに核兵器統制システムがジャックされることが最悪中の最悪なことなので、そこは何とかして欲しいものである。その日がくるのを見越して核兵器に関するすべての情報を滅失させるという人類救出プロジェクトなどが考えられるが、かなりSF小説的である。しかし、完全消去というのはきわめて困難なことである。また、人類を滅ぼそうという悪意がAIにおいて発生しなくとも、外部から人手で悪意の種が注入されるかもしれない。悪意とAIと核兵器が結びつくと死者10億人程度には納まらない被害となることは必至ではないかと恐れおののいている。
つまるところ、人類には最悪の事態を回避する統治上の仕掛けが必要である、それほど核兵器は危険であるし、それができないのであるなら急いで核廃絶を実行すべきであるが、簡単には廃絶できないのも現実であろう。政治的にも感情的にも技術的にも難しいといえる。残念ながら人類は核兵器については単体の廃棄プログラムはあるが、システム全体の廃絶プログラムは持っていない。というよりもそもそも廃絶確証については入口にさえ達していないのだから、半永久的に廃絶できない可能性があり、むしろこれこそが人類共通の課題といえる。
しつこいようだが、政権だけが暴走するのではない。極論をいえば大多数の国民がともに暴走する事態がありうるし、比較的少人数グループの扇動が政権の暴走を誘発するケースも少なくないのである。
もちろん、すでに1945年のヒロシマ・ナガサキの体験から核兵器使用による被害の酷さや悲惨さについては被ばく団体の活動もあり共通認識ができていると思われるが、それだけでは使用禁止を担保することはできない。さらに踏み込めば、使用する確率を残しているところが核抑止のキーコンセプトであるかぎり、どう考えても安心できないことは自明であり、詰まるところ廃絶しないかぎり核兵器のリスクをゼロにすることは不可能であるといえる。
という論理に憑りつかれているのであるが、核兵器の廃絶には特有の難しさがあり、現在のような国際関係のもとでは不可能かもしれない。
9.全面核戦争の前に、少数の戦術核の使用という段階がある
また、核兵器を使用してしまった後の言い訳として「これほど酷いものとは思わなかった」という方便をまず自国民が受け入れるかどうかであろう。しかし、その言い訳は通用しない。なぜなら、人類としては3回目の使用になるから、どう考えてもそのような言い訳は通じない。殺意なき原爆投下というものがありうるのか、と言えばそれはない。したがって原爆投下はあくまで未必の故意そのものであり、広範囲での破壊と殺戮を意味する。
また、多数の有権者の賛同あるいは連帯がなければ核兵器の使用は為政者にとっては心理上も無理であろうから、大量破壊、大量殺戮の正当化のための目論見書つまり物語を事前にでっち上げなければならない。ということは早い話が自国民を洗脳しなければならないということで、予兆の観測は可能である。
予兆と言えば、核兵器の使用はまず保有国の仕業であること、次にその国民がおおむね罪悪感を感じないこと、あるいは心の中の検察官の追求を逃れられる心的スキルを有していること、という条件の下で可能といえる。
だから、人びとが自然な罪悪感や心中の検察官を育むことは極めて大切な事である。もちろん、核兵器の使用抑制は倫理観による部分が大きいと言える。しかし、過去のホロコーストの事例によれば、個人の倫理観はやすやすと越えられていくことが多く、状況によっては無力化されるのである。
そこで倫理観に依存しない抵抗線をたとえば核使用に限って構築できるのか、そんなうまい手立てがあるのかと言えば、暴走する政府だけではなく、通常走行の政府においても政府が核兵器の使用を決定すればそれを止める合法的な手立ては失われるというのが一般論であろう。
だから、逆に核兵器を「使って当然」と主張できるケースがこの世にどれほどあるのかという問いかけに、保有国がどう答えるのかということに議論を置きかえることになる。
当然、「国の存続」の危機での使用は可能性として残されているが、この場合理由の正当性を判定するのは困難である。たとえば、某国が恣意的にレッドラインだと宣言したことをもって「理由の正当性」とは認められないとしても、主張は主張である。また、核保有国Rが非保有国Uに核兵器を使用する場合の正当性なんてあるのだろうか。この点で言えば、先制使用と非核兵器国への使用を否定している中国の姿勢は評価できるし、そもそも核使用のお墨付きを国際社会が出せるはずがない。だから使用できないということではなく、各国政府の判断で主体的に必要に応じ核兵器を使用するということであろう。これは権利でも許可でもない、国家意志であるというのが重要な形式なのである。だから、これを阻止するには武力行使しかないというのが悲しい現実である。
わが国には未だに国連を高尚な役割を担う機関であると言う楽観的な論調が残っているが、こと安全保障に関しては米英仏ロ中の勝手な世界というのがリアルな姿であろう。各種の専門機関についていえばそれなりに成果を上げているが、大なり小なり各国の覇権争いの側面もあり、一筋縄では捉えられない。
だからと言って悪し様にいう必要はない。いくらトランプ氏が無視を決めこんでも、世界の問題解決の場としては他には何もないのであるから、根気強く改善に取り組むということであろう。継続は力ではあるがそれ以上に信頼醸成といえる。
まあ敵国条項の扱いも方向性は大昔に総会で確認されており、今さらの蒸し返しであるからこれ以上は無用であろう。中ロの嫌がらせにつきあう必要はない。
問題は国連の目的である世界の安全保障については残念ながら「国連が機能できなかった」、「国連に機能させなかった」現実を考えれば、各国の安全保障の骨格が個々の軍事同盟に傾くのは仕方のないことで、5か国の波長があわない限り起動できないという金縛り状態は構造的であるから、国際世論への対応は必須ではあるが安保理への対応は自ずと限界的にならざるを得ない。
ということで、これまでに議論してきたのは核兵器の管理というハードパワー中心であった。しかし、時代の方向はそれだけではなくソフトパワーからの「核兵器使用の抑制」さらに「核兵器保有国への文化的嫌がらせ」に向かっていくというか、それしか手がないと思われる。
たとえば、核兵器の「先制使用の倫理的許容度」は「ほぼゼロ」であるというのが今日的な相場に見えるが、核廃止の立場から言えば「ゼロ」でなければならないのに、それでも「ゼロ」ではなく「ほぼゼロ」としたのは「多くの宗教は平和主義ではない」という筆者の偏見があるからであって、個人的にはこれは「適正な偏見」であると考えている。
つまり、倫理的許容度という概念世界では、人びとは最終判断を宗教に委ねる傾向が強いので、宗教指導層が宗教上の正義を優先すれば「ほぼゼロ」の「ほぼ」が効くことになる。「ほぼゼロ」という認識は筆者の望むところではないが、そこは宗教界がこぞって「ゼロ」と言い切ってくれれば、核兵器の倫理的立ち位置が明確になり、人びとは遠慮なく核兵器に存在悪の烙印を押すことになるであろう。
もちろん、多くの宗教や宗教団体また宗教家が「核兵器廃絶」を表明しているのであるが、「多く」と「こぞって」との距離を埋められないのが現実といえる。例えばの話で宗教を取りあげたが、これは宗教に責任を押しつけるということではなく、たとえば、核保有国の37.7億人が多少なりとも核抑止を信じ、それに依存している由来というか原因には、保有国政府の核政策が深く浸みこんでいると思われるし、当然保有国政府と宗教とが相互に忖度ないし牽制しあって「核政策への不可侵」というバリアを形成しているように思われるのである。宗教勢力が核兵器使用における抵抗線といえるのか、筆者は少し否定的である。
非難がましく言うのではなく、倫理観の大底が個人の自由意思だけで形成されているわけではなく、外からの影響も大きいと思われる。また、相互に影響しあって葛と藤が絡みあうように倫理観の中心部が形成されていることもありうる。ということであるから、37.7億人が現在の政府の核政策を正面から批判したうえで、核廃絶運動を始動するということにはなっていないことからも、37.7億人を中心とした核廃絶運動を起動するためには、歴史的な特別な切っ掛けが必要であると思われる。
これは、政治家あるいは専門家の対極に位置する大衆と呼ばれる人びとこそが「自国が核兵器を使ったこと」に対して重要な役割をはたすのではないかという視点と連動するもので、「核保有と人びとの心理」と言うべきかどうか迷うところもあるが、「核兵器を使用した」ことに対して少なくとも人びとがどう思うかについては、たとえ専制的な政権であっても軽く扱うことができない、つまりは事後処理は統治者だけでは完結しない構造にあるといえるのではないだろうか。
大量破壊兵器は、使用した側に立つ人びとにも深い心の傷を残すもので、人それぞれに応じて背負っていくのであろう
核兵器の使用は隠すことができない。また、人道に対する犯罪であって、とくにヒロシマ、ナガサキに続く3回目の使用は意図的な、酷い結果が分かっての使用であるから正に大量殺戮行為といえる。
問題のひとつは、「自国民が許すのか」ということである。おそらく、時の政権が勝手にやったことだというのが、人びとの側、被統治者の事後におけるもっとも安易な言い訳であろうし、その言い分の通りかもしれない。なぜなら、ほとんどが軍事機密であるし、使用に先立って国民投票にかける権力者はいないのだから。
しかし、事後の人びとからの非難を考えれば、事前に最低でも過半数の国民の理解をえていなければ、事後の収拾が難しく政治的にも危険であるから、為政者は巻きこみを図るのあろうが、事前の了承は事後の承認を担保しない。つまり、人びとは大いに豹変するから、核兵器の使用に関わる者は予め身を守る手立を考えておくべきかもしれない。とくに、連鎖核戦争の切っ掛けともなれば人類の滅亡につながることから、加担した者も厳しく問われるであろう。もっともそんな話が蒸発するほど核破壊が進めば静かな地球になるだろう。
10.通常兵器への抑止効果が効かない事態なのか?ドローン兵器の登場
さて、たとえば核兵器の保有個数では世界一といわれているロシアでさえ、ウクライナのドローン攻撃にはほとほと手を焼いているようで、世界一の核兵器保有国の首都であるモスクワ郊外の製油所が燃え上がっているのはどういうことなのか。とりわけ通常兵力に対する核の抑止効果が現実には効いていないと受けとめているモスクワ市民がゼロなわけがない。あるいはこんなにひどい状況になっているのに「戦術核さえ使えないのか」という短絡的な疑問が生じないことを祈っている。
だから、2022年2月からプーチン氏が始めた「特別軍事作戦」が多数の戦死者をはじめ日々の生活を大いに圧迫している現実に、今までの核への莫大な投資は無駄であったのかという疑問などが生じることも気になるのである。
一般的に、戦術核使用後を考えれば自国民からの非難への対処がもっとも難しいと予想されるから、国内世論の動向には神経を使わざるをえないといえる。
さて、莫大な投資を今こそ役立てるべきだという大衆の声が湧きあがるというような状況にはないが、終結を模索する過程で10月の選挙結果と核兵器の存在にプーチン氏の思考(選択肢)が縛られるのであれば、きわめて残念なことである。いよいよ長期戦の様相を呈し始めているが、仮に終結したとしても政治的にはロシアに明るい材料はない。まずは戦死者の墓標を数えることから始まるのだから、どう考えても茨の道であろう。あれやこれやで、きわめて重大な岐路にプーチン氏は立たされているのではないか。
何年か前に、「プーチンの居るロシアと、プーチンの居ないロシアとではいずれが危険か」と弊欄に携載したが、現時点ではプーチン氏の現実指向に期待するということではないか。確かに「特別軍事作戦」の張本人に期待するとは言語道断との声があるのは分かるが、そのような通り一遍の反応も陳腐なもので、むしろ張本人こそが事態の収束を担うべきと、まあ言ってみたいのである。
ここにきて、2022年から糸のように細まった日ロのパイプの重要性が浮上している。なぜなら、たとえ戦術核であっても使用されれば世界は混乱する。その危険性、背徳性あるいは(使用国にとっての)破滅性を知悉しているのはロシアにおいてはプーチン氏が一等であろう。その彼が何を考えているのか、についてのヒントの一つも手に入らず、すべて遠回りの二次情報に頼るというのでは話にならないのではないか。なにかしら硬直しているように見える。
さて、現状におけるウクライナとの戦闘についてのロシア国民の声を知ることは難しい。しかし、国民の多くが頼りなさともどかしさを感じていると思われる。そこで、一番そう感じているのがプーチン氏本人であるといえば、反論する者はいないであろう。
「特別軍事作戦」を始めた本人が気持ちの上でも一番追い込まれていると思われる。また、戦局転換のための戦術核の使用という悪魔の囁きに悩まされたこともあったのではないか。くわえて、その権限を有するのも彼だけであるから、牽制のために遠回しに触れたことはあったとしても、今日時点まで使わなかったことも事実である。そういった懊悩や苦渋の結果として、少なくとも現時点までは、彼は使わなかったのである。もっとも、このことが今後も使わないことのどれほどの保証になるのかは分からないが。
また、プーチン氏の歴史観あるいは世界観によれば、ウクライナとベラルーシは同系の民族による兄弟国家であるとことさら強調している。同国のエリート層では同様の考えをもつ者も多いと聞く。
とは言いながら、5年近く戦闘を続けているのであるから、そういった歴史観や世界観はほとんど方便の類であるということで、核兵器の使用においてどれほどのブレーキになるのかは不明であるというべきであろう。
この件に対する筆者の率直な感想を言えば、米ロ中のいずれの国も他の2か国の顔色を伺いながら、核発射ボタンに手を伸ばすのであろうが、仮に国家存立の危機と切迫性があったとしても、政治的にも事後処理のコストが高すぎるというか、たとえば民族あるいは国家の歴史を黒いコンクリートで固めて身動きできなくしてしまうほどの恥辱を受ける可能性を考えれば、米ロ中が先制使用する確率はきわめて低いと考えられる。
くわえて、ウクライナの戦争目的が祖国防衛であり、ロシア領域内への攻撃も相応の報復の範囲であるかぎり、プーチン氏は踏みとどまらざるをえないと言うべきか、あるいは手を汚さずに行けそうだというべきか、いずれにしても現状は現時点での妥当な判断の範囲(必然性)内に置かれていると多くが考えているのではないか。
もちろん、プーチン氏を支持する気はない。それでもプーチン氏の居ないロシアの方が核兵器の運用においてより安全であるという保証は全くないのである。だから核兵器国の首脳に対する「ターゲット作戦」などは危険すぎるといえるし、北朝鮮が核保有にこだわる最大の動機もそこにあると考えれば、国民のためではなくあくまで皇帝陛下のための護身兵器という性格が強いといえる。
11.完全廃棄までの核兵器ライフサイクルは未完成
もし、国際社会が「不要な核兵器を買い取ります」と提案すれば、諦めていたサンクコストの回収が可能になり、老朽化対策や廃棄という厄介な義務からも解放されるのであるから、核兵器国としては一挙両得といえる。しかし、不用品買取だけでは国際社会の方に利がないし、逆に核兵器の近代化を手助けすることになる。問題は、完全な検証システムが確立されてないこと以上に各国間の相互不信が払拭できていないところにある。
国と国が信頼し合うことが可能であるのか、それも例外なくということであれば、本質的な国家の仕組みにまで議論が遡らないと埒(らち)が明かない。また、遡ったところで簡単に結論がでるとは思えない。
大規模なシステムを基盤にする耐久兵器は、一般的に初期導入費よりも維持費のほうが高くなるといわれている。規模にもよるが米ソが保有する核兵器システムの維持費用は軽く兆円を超えているであろうし、もともと使わないことが最善の兵器なのでサンクコストでなくなれば、とんでもない惨劇が生じているはずだから、そう思えば、サンクコストで結構ということであろう。
費用負担の面だけで言えば核軍縮の可能性はありうるが、大国間の不信が増悪している今日、可能性だけを語り合っても間に合わないのである。
また、廃棄の直前まで老朽化対策が必要であるから、とにかくカネがかかる上に環境問題にまで視野を広げれば、持たないことが最善といえる。もちろん、国際社会が買い取るいわれはないので、いずれにせよ保有国の責任と負担で核兵器の廃棄までのライフサイクルを完遂すべきであるというのがとうぜんの国際世論の趨勢であろう。
したがって、核保有国が自己負担で核兵器の廃棄をする以外に選択肢はありえないのである。また、兵器として廃棄できても弾頭用の核物質は残り、一部を核燃料として活用できたとしても高濃度汚染物の多くは地層処分ということになる。核保有国のエゴと事情で大量に保有しているのであるが、「人類は厄介なものを抱えこんでしまった」と表現したときの「人類」というのは9か国38.1億人のことであり、残りの44.9億人については関係ないと強く言いたいのであるが、そうもいかない。
国連安保理の常任理事国の拒否権と同じでどう考えても理屈に合わないのであるが、宇宙船地球号に乘りあわせたのも何かの縁であるから、身の定めというか共同体であることを受けいれることしかないのである。であればこそ核保有国の責任は重大といえる。それにしても過剰保有もいいところではないか。
12.核実験禁止が廃絶の入り口であるが、保有国の抵抗も強烈である
核実験については、大気圏内では1980年の中国を最後に今日まで行われていない。1963年10月に「部分的核実験禁止条約(PTBT)」が発効し、大気圏内、宇宙空間および水中での核実験が禁止されている。中国は核の独占を図る企てとの解釈で締約国ではない。
PTBTで禁止されていなかった地下核実験は、フランスと中国が1996年に行った後、2017年に北朝鮮が行ったものが最後の実験になっている。
現実問題として、核実験の被害が広範囲におよぶことから強い反対運動もありPTBTが採択されるにいたった。あらゆる場所における核実験を禁止する「包括的核実験禁止条約(CTBT)」は1996年に採択されたが、発効条件である主要44か国(内35か国が批准済み)の批准が整わず、未発効のままとなっている。署名済み未批准国は中国、米国、エジプト、イラン、イスラエル、ロシアの6か国である。ロシアは2000年には批准していたが、2013年「批准撤回法」を発動し未批准国となった。
また、未署名未批准国がインド、パキスタン、北朝鮮の3か国である。名前の挙がっている国は、核問題では常連というか、常に問題がらみといえる。
いずれにしても「核実験はやらせない」という強い国際合意を維持していくことが重要である。
13.核保有への願望が消えることはないのであろうか?
視点をかえて、最近ではドローンが主役のようで、その背景には費用対効果への関心の高まりがあり、安全保障のためなら予算の額は問わないことがナンセンスになりつつある。ということから、なにやら兵器体系そのものの革新さえ起こりそうで、廉価、軽量、小型、大量、簡便、分散、低威力、自律などの視点から急速に見直されると予想される。全ての兵器がそうなるということではないが、戦略兵器よりも戦術兵器の方が大きく変化するということであろう。
それでも、最終的な抑止を担う兵器として核兵器に対する取得願望は残ると思われる。この願望は核兵器があるかぎり消えることはないということなのか。
(つづく)
加藤敏幸
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