遅牛早牛
2019年 政治と労働の主要課題について
労働が論壇の主役の時代に
◇ すでに労働の時代である。1985年以来30年余続いた資本(金融)の時代は終わった。資本の時代、働く多くの人々にとっていいことは起こらなかった。カネがカネを産むという何の感動もない仕組みのために犠牲にしてよいものなど地上には無い。すでに資本は後衛に退き、労働が前衛にせり出す時代が来ている。そして労働の意味と価値が問われる時代となった。(とはいっても、まだまだ資本が大きな顔をして跋扈するであろうが、社会的にまた倫理的に被告席に座るべき時は近づいている。)
労働組合の組織化は構造的課題を抱える
◇ 労働の時代であるが労働組合の時代ではない。心情的にはそうなってほしいと思うが難しい。なぜなら労働組合の結成と維持には資本と技術(オルグ)が必要であるが、その調達が随分と難しくなっているからである。たとえば現在の連合など既存組織の資源投入をベースに考えれば年10万人規模の組織化が限界ではないか。この規模では10年で100万人、100年で1000万人のペースでありとても間に合わない。つまり、既存組織からの支援は社会的な要請の規模に比べ小さいであろうし、また限定的である。
労働組合の組織経営も企業経営と同様であり、組織化のために投下した資本が増大裡に回転・回収できなければ組織活動として持続しえない。投下、回収、再投下という正スパイラルが可能であるためには、組織化対象自体にスケールメリット状態があり、かつ投下資源量がスケールメリットを得られる規模を超える必要がある。さらに大規模事業所が減少し、小規模分散型かつネットワーク型が増大している現実を考えると、組織拡大の現場を支える努力は多としつつも、一度発想の転換を試みることを提言したい。
労働組合にとって組織率は社会的影響力をはかるうえで重要な指標
◇ 合金は複数の金属元素を組成とするもので、それぞれの比率に応じて物理特性が変化する。労働組合の組織率(推定ではあるが)がどの水準にあるのか、これが極めて重要な指標であると最近教えられた。しかし17%未満の状態をどのように表現するのか、詳しい説明はできないが、社会的影響力という意味においてさらなる低下は好ましくない。組成比率の変化が物性の顕著な変化を引き起こすがそれは線形ではない、特異点がある。労働組合の場合それはある日突然にということであろう。
◇ 社会は構成員たる個人だけの単なる集合ではない。家族、知人、地域、サークル、学校、職場など幾重にも重なる部分集合(クラスター)で構成されている。この構造が災害など思わぬ事態への対応力を支えるものである。労働組合もその一つであり、災害時のボランティア活動を見れば強い組織対応力を有しているといえる。また各種審議会、委員会への参加を見ても社会的発言力を有する政治アクターといえる。この労働組合が影響力を喪失する、それも突然、ということは鼎の足が突然外れるようなことで、あってはならないと思うが、ゆるゆるとした組織率の低下であっても、その影響は複雑かつ非可逆的に社会全体に及ぶであろう。
組織化の「新方式」に向けての議論を
◇ 労働組合の組織化が逆風下にあることは半世紀以上続いている。また未組織労働者の未組織ゆえの苦労や不都合も半世紀以上続いている。だから状況から言えば組織化の潜在需要は大きいといえる。ではなぜ供給が不足しているのか。それは労働組合の過半を占める企業(資本)単位に結成されたいわゆる企業別労働組合に組織化の動機がないからである。
多くはユニオンショップ制であるから企業内(正規雇用対象)組織率は100%に近いうえ系列企業の組織率も総じて高い。組織率をみれば現状は飽和状態に近く、また利害背反排除の組織原則があり、あえてユニオンショップ制を壊す組織化に取り組む動機はないといえる。ということで、いくらあるべき論を説いてみても効果は上がらない。
ここまでは労働界の常識であるが、時代の要請に応えるために「新方式」の模索を始めなければならない。
低賃金にこだわる経営者がまだまだ多い、合成の誤謬は経営団体の課題ではないか
◇ 経営者の労働あるいは労働組合に対する理解はさらに浅薄化すると思われる。もちろん初めに資本ありきであるとしても、労働がなければ資本主義は成立しない。資本は労働を通貨で調達するから、ここでの労働とは賃労働であり、労働の再生産には通貨による消費が発生する。という基本に立脚すれば、低賃金を喜ぶ経営者はきついパラドックスを抱え込む。
その一つとして1990年代の賃上げ交渉において「合成の誤謬」が指摘された。個々の経営者が賃上げに後ろ向きあることは個別企業(ミクロ)においては合理的判断といえるが、それが日本全体におよぶと消費不調を引き起こし不況に至ることからマクロでは不合理である。このやりとりを聞いたある経営者が「だから上げられる企業はどんどん上げるべきだ」とつぶやいた。合成の誤謬の克服は個別企業のレベルでは困難である。
◇ どこまでも低賃金にこだわる経営者は三流といわれても仕方がない。低賃金を追いかける経営には輸出に軸足をおく企業が多く、常に国際競争力を意識していて、国内の事情については気にかけない。国内の消費よりも為替動向が大事で、本質的にグローバル化している。いわば立地収奪型でありおよそ社会貢献からはほど遠い。またコスト削減第一主義は調達ピラミッドの各階層に極度の削減要求を突き付けることから社会的には問題を残す。
あるべき賃金水準の議論においてスイスほどとはいわないが、ある程度高賃金を目指さないと国内市場は支えられない。失われた20年はデフレを口実にデフレを深化させた時代だったともいえる。ここにも合成の誤謬が潜んでいる。長年潜在成長力を引き出せない原因の一つは賃金をコストとしか見ない経営者にあるのではないか。残念ながらこの病は当分治らないだろう。
経団連への期待は大きい、経世済民の今日的解釈と実践を
◇ 日本経済団体連合会(経団連)にアマゾン・ジャパンとメルカリが加盟したことは前進である。さらに加盟促進が図られるべきである。先の国会で議論された「働き方改革」は実質働かせ方改革であるから、働かせる側の経営団体が改善策をまとめることは当然であるが、労働三法が邪魔だと考えている経営者がいるとは思わないが、労働者の犠牲の上に制度改定を進めることは許されない。労働者の立場からの「働き方改革」でなければ労働生産性の向上には繫がらない。
労働生産性の基本は高付加価値生産であり、その肝は市場の支持である。低賃金を強く志向する経営者は低価格路線の発想しか持たないだろうが、それはデフレ思考でありまたデフレ志向である。これも合成の誤謬である。隣の中国を「デフレのブラックホール」と感じた経営者も多かったと思うが、賃金で見れば状況は大きく変化しており、2000年代初頭の経営の思考は古い。付加価値を国内に投下し消費を喚起する必要性について経団連はどう考えるのだろうか。政府の財政出動は借金と背中合わせである、その危険性は経営者も十分承知の上のことであろう。経団連への期待、2019年の大きなテーマの一つであろう。
規制改革の議論は偏りがあるのではないか、改革推進が国民の利益になるのか
◇ 規制改革の議論が利害関係を背負ったメンバーによって偏向し、正統性(国会審議)を欠いた政治資源の投入あるいは政治過程の短絡化はおそらく広く国民に裨益する結果をもたらさないであろう。「主要農作物種子法」の廃止、「魚業法」の改定など今後の評価を待つべきではあるが、密度の濃い議論をパスした単なる迅速化が国民に犠牲を強いる結果を引き起こすことは避けるべきである。
経済財政諮問会議もしかり、実態は官邸翼賛会、政策立案プロセスのあとづけ工作に近いとの見方も多い。官邸御用達ではない証明を求めるつもりはないが、構成員の選出をはじめ説明すべき事項は多いと思う。
昔「トリクルダウン」という言葉に欺かれたが、責任をとれない会議が重要事項決定にどの程度かかわりうるのか、諮問という迷彩服を羽織っているが、この際明確にしていただきたいものである。特に経団連はうまく立ち回るための団体ではないわけで、期待を込めての一言である。
かまびすしい特定空間での議論 もてあそぶな同時選挙
◇ 7月には参議院選挙がある。同時選挙の可能性は消せないが、有権者としては「やりたいならやったら」という気分もあり、しかし「どんな結果を期待しているの」と問い返し「ではそうならないように投票するわ」という人が一割以上はいるだろう。そろそろ「好きな時に解散できる」解散権という解釈にとどめを刺す時ではないか。
◇ 日ロ平和条約交渉は国境線の確定をもって終結する。二島先行返還で解散総選挙という噂話が流れたが、領土交渉は国内政治でありいずれ世論に立ち向かわなければならない。国内のアンケートを読み二島返還でも国民は納得するだろうと簡単に考える向きもあるようだが、先行返還などごまかしで、二島返還すなわち二島断念であり、それを総選挙で問うてどうするのか。議席が過半数割れしたら交渉をひっくり返すのか。過半数を超えたら日本国民は喜んで受け取りますというのか。それとも手柄話にしたいのか。怪訝な話である。
日露戦争を終結させたポーツマス条約は日本にとって歴史的成果であったが、国民は日比谷公会堂を焼いた。全権大使であった小村寿太郎は家の外に出られなかった。歴史に学べば、下手な政治利用など論外で、主権者の土地、財産を為政者が勝手に処分できるほど甘くはないと思うがどうだろう。
平和条約交渉は国家100年の計に立つべきで、交渉にあたっては野党も含め全権を交渉団に委ねるべきである。二島断念は首相一人の進退では不足であるが、その決断が歴史に残ることは間違いない。毀誉褒貶を超えての決断であるべし。
参議院選挙は結果から議論が起こる、バックファイアー型になる?
◇ 今年の参議院選挙の政治上の意義づけは、7月の結果もさることながら、それを受けての8月の世論の動向次第であると思う。ここからは近未来物語である。先ずは民進由来の野党二党に投じられる非難である。2016年の参議院選挙では11の一人区を野党が制した。11を超えなければならない。「なぜ超えられなかったのか」と野党二党は詰問されるだろう。また「逆転は難しいが伯仲は射程にあったのではないか。投票結果からしてうまく協力していれば議席を伸ばせられた。結局与党を利したのではないか。」と。これらは政党の現実に目を閉ざした、また結果論に基づく理不尽な非難だと思うが、理屈を超えたところに野党に投票する有権者の心情があることも事実である。
「反安倍、安倍政治の暴走を許さない」といってきたからには、それなりの策が講じられるであろうと有権者は強く期待している。結果次第ではあるが野党二党それぞれどんな総括を行うのか、総選挙につながる重要事項であるから、このことを頭に入れて今年前半の舵取りが大事である。(この理屈は杞憂であって欲しいと思うものに対する誘導である。逆説的に、巧みな協力を促しているつもりであるが、事態はそんなに甘くはないようだ。)
連合は全力を挙げてまず10名の当選を
◇ さらに難しい状況に置かれるのが、連合と主要産別の幹部であろう。比例区では10名の当選が必須である。現下の支持率から悲観論も聞こえてくるが全力を挙げて取り組まなければならない。死力を尽くしても届かない事態も起こりうるが、先ず尽くすことである。
8月の議論は8月にやればいい。政治と労働の関係はいつも流動的である。疾風に勁草を知る。幸いなことに現在の労働界は勁草にあふれている。今は10名の当選に集中すべきであるし、実現すれば連合の評価は劇的に変わるであろう。黒雲は去り、抜けるがごとき晴天となるであろう。(そんなに悲観的にみる必要があるのか。与党の関係者もずいぶんと心配しているとも聞くが、双方のギャップを感じる。特に国民民主の気合を強めるべきだと思うが。)
複数区は激しいたたかいが予想されるが、対応を間違えると、一瞬にしてしらけ状態に
◇ 複数区については調整する気がなさそうである。「当面のこと」なのかどうかわからないが、時が経てば経つほど調整は難しくなる。押し迫れば迫るほど大義名分が必要で、候補予定を差し替えることは難しい。ということは激しい選挙が予想されるが、骨肉相争うという言葉は使えない。なぜなら当事者が骨肉とは万に一つも思っていないようだし、むしろ不倶戴天の敵というのが当たっているのか(とても残念)、このあたりいい加減にしておかないと先で苦しむよといいたいが、難しいか。今年の最も憂鬱なことではある。
ではいっそのこと徹底的に闘い合って自公を吹っ飛ばすくらいの選挙をやればとも思うが、労働界はついていかない、なぜなら連合内に恨みを残す必要はないから。頑張りすぎて恨まれたのでは、骨折り損のくたびれ儲けで、笑い話にもならない。
民間労組の組合員は冷静であり、官公労組も民間労組の理解と支援が最重要であることは分かっている。民主、民進党時代から「この人たちは本当に労働組合のことが分かっているのかしら」と思う場面があったが、上滑りのしらけ選挙にならないよう、まあ心配だわ。
そろそろ安倍政権の評価が始まるのか
◇ 「政治と労働」という視点において今年の最大のテーマは安倍政権の評価である。特に労働者の多くは実のところどう考えているのか、ということと歴史的にどう位置づけるのかという二つの課題がある。
このあたりの論考は実に難しいもので、たとえば「ポピュリズム」だと論難してみても、ではポピュリズムでない政権がこの世にありうるのかと問われれば、政治家の選出を普通選挙に委ねる以上「ポピュリズム」性を皆無にすることは不可能だ。だからステレオタイプの批判やレッテル張りの決めつけからは離れ、立場を極力忘れながら熟考する必要がある。
また、安倍政権論は民主党政権論というネガフィルムを現像したものかも知れない。当然立憲民主党や国民民主党との比較論も重要であり、与党ではあるが公明党との関係論も考察においては無視できない。
労働運動にかかわっている多くの活動家は近いうちに政治と労働のかかわり方、あるいは距離感においてパラダイムチェンジともいうべき変革をなすべきであると考えているようだ。議員職を離れてから多くの方に触れながら対話を重ねてきたが、そんな感想を持っている。
労働界でのパラダイムチェンジの議論がどうなるのか
◇ やや漠然とした雰囲気の話になっている点は申し訳ないが、問題の発生源は、実は民主党政権にあったと確信しているわけで、肝腎な点は「民主党政権失敗」の本質が見えてこない、つまり現場で支えた人々に何が悪かったのか、一片の指摘すらフィードバックされてないという寂しい現実である。
期待の喪失。それも双方向。議員も期待しないし、組合員も期待しないそんな空間、時間を放置してきた。目に入るのは「連続テレビドラマ」としての政治、政権交代、民主党の蹉跌であって、現場からいえばそこには自らにつながるリアルな接触感はなかった。
戦に負けた武将は、涙ながらに悔やみ、後悔し、罵倒し、もがき苦しみながらも再起を決し、ついては死ぬほどの支援を求めてくるものであるが、それも無くただ淡々と乾いた面で平気を決め込んでいた。中には被害者面を堂々と引っ提げていた豪の者もいた。死ぬほど悔しがらないから、応援する側も死ぬほど応援しなければとは思わない。
なぜそうなのか。それは執着する思い、情動がないからである。政治は祭りごとであって、それは論理という仮面をかぶった情動の芝居に似ている。一幕が終われば仮面だけが残り、ぶら下げられた仮面が空気を制する。それを見て若者は仮面がすべてと勘違うだろうが、動かすのは情動(感情)であって仮面ではない。マニュフェストは仮面である。情動に触れずして何の祭りごとか。そういえば民主党政権は視覚聴覚政権であった。現場での感じをいえば、匂いもなければ味もない、触感はさらにない、愛着の湧かないきれい好きで、すました政権であった。それを偽善という。その裏返しは欺瞞である。「偽善に走る民主、欺瞞を含む自民」これは悪口ではない。もちろん誉めているわけではないが、政治のリアルであり本質だと思う。偽善か欺瞞か、堪えられるのはどちらか。戦後の日本政治は偽善より欺瞞を選んだ。偽善性を高め国民を結集させるか、現実問題を欺瞞のうちに処理するか、いずれも善悪ではない、手法、テイストの問題である。憲法9条を死守する護憲派は偽善的であり、同盟国の要求に法制局判断を変更して対応するは欺瞞的である。
そろそろ偽善性と欺瞞性からの脱却を
◇ 労働運動でも、方針において偽善が混じり込み、交渉では欺瞞の誘いが頭をもたげる。きれいごとでは済まされない問題処理にあたり、損失あるいは犠牲を最小にし、利益や利得を最大にする場合において発生する方法論的現象であるが、それらに流されぬよう踏ん張るのが見識であろう。政治における偽善性と欺瞞性の克服は永遠のテーマとも言われているが、喫緊の課題となりつつある。
中道政治のイメージをクリアーにすべきだ
◇ 政治において、まず現状を肯定するのが保守である。逆に現状を否定するのがリベラル、革新である。では中道はどうなのか。中道は現状を受け入れるが決していいと思っていないから改善を図ろうとする。保守に近いようだが、保守は肯定の上、拘泥する。中道は受け入れても賛同はしていないから改善、改革しなければと考える。リベラルは現状とは違うモデルをもって置き換えようとする。現状は否定すべきものであるから、支障がなければ壊してもいいと考える。保守は拘泥の余り、改善のタイミングが常に遅れる。また改善すべきモデルの作成をさぼろうとする。リベラルは現状否定であるから過去や経緯などにはお構いなしで、モデルを自賛、信奉するあまり経過措置などをないがしろにする癖がある。
大まかにいって、この3パターンに集約される。
◇ 自民党の保守性が顕著に表れているのが、外国人材確保にかかわる出入国管理法などの改定にかかわる一連の動きである。技能研修制度の改善を怠っているうえ、少子高齢化が喧伝されて久しいにもかかわらず、対策が置き去りにされ、人手不足に火がついてにわか仕立ての法案を提出、細部が詰まってないから、あとは政令、省令に委ねるという。現状拘泥が過ぎるから長期対応に弱い、つまり少子対策や財政改革には向かない。現状拘泥とは先送り、借金依存と同義である。
旧社会党は日米安保体制を受け入れることができず、完全な現状否定に走ってしまった。立脚すべき地面を否定しているものだから、何をいっても政策的リアリティが無く、絵空事、無責任と感じさせてしまう。仮に反対であったとしても日米安保体制の土台に乗っかっているのだから、そのことを受け入れたうえで自らの考えを提案すべきである。長らく応援してきただけに残念であった。今は反面教師としている。
このジレンマを整理して国民の理解を得なければ、左派政党が政権に近づくことは難しい。とかく政党は知らず知らずのうちに支援者好みに変貌していく、これが左派政党のポピュリズムである。日本に本格的な左派政党が必要であることは論を待たないし、また条件は整っている。だから現状反対は構わないが、橋舟でいいから足場を確保して欲しいものである。
◇ 国民民主党が中道改革であるなら、現状を受け入れる理由を明確にし、同時に改善策を打ち出さなければ、保守の現状肯定と区別がつかない。先進国の政治の分断化が進行する中で、左右に寄れない中道政党は埋没傾向にある。しかし、分断状況を是としない立場からは強い期待を持たれるかもしれない。確かに間に立ち仲介できるほど容易な事態とは思われないが、それでも連立政権を通じ、妥協的であっても統合の匂いを、あるいは微風を送り出すことができるだろう。という意味で中道政党は潜在的可能性を持つ。いってみれば分断症に対するワクチン効果である。あることが安心であり、希望なのである。
少しくどいようだが、本格的な中道政党が育ちにくい政治風土にあって、左右対立の激化が危惧される中で何とか伸びて欲しいと思う。自民党が中道色を弱め右派というより右翼的性格を強めている現状を憂えながら、中道政党に期待したい。
米中経済闘争はジグザグと時間がかかる
◇ 昨年秋口に米中経済闘争について少し述べた。中国はやりすぎた、これが主文であり、また対米対応としては初歩的ミスではないかと思う。
ところで「韜光養晦」はどこに行ったのか。「六韜三略」は日本でも人気の兵法書である。政治論、戦略論でもある。中国の政治家にとって一般常識だと思うが、鄧小平が唱えたといわれている「韜光養晦」は1990年代半ばから、当時の中国の外交方針を分かりやすく表わしたもので「目立つな、出すぎるな、力を蓄えろ、時期を待て」と解釈されている。見方によれば怖いものでもあるが、中国らしい現実主義的な言葉である。
問題はそれで国際社会を渡っていけるのか、経済規模2位というポジションからいって許容されるのかということである。目立たないといっても知財の蚕食は犯罪である。これは国際ルールだ。
「韜光養晦」には国際ルールを守る趣旨は含まれてない。当面の手段としてルールを守るが時期が来れば新しいルールを打ち立てるということである。中国にとってこの対応は歴史的に珍しいことではない、あくまで中華なのである。
だから国際間で確立している正義、人権についてどう考えるのか。中国と先進国、ともに避けて通ることができない事態に至ったということであり、たまたまトランプ大統領が米中貿易の不均衡の是正を求めたことがきっかけとなったが、これはどうしても決着をつけなければならない問題であった。
中国がなりふり構わず軍拡路線を走り続ける以上どうしても決着をつけなければ、必ず熱い紛争を引き起こすだろうという米国の懸念は議会、経済界、軍において強い。ということでラストチャンスだったと思う。
一方の中国の選択肢は多くはない。人権と正義を受け入れ時間をかけてでも国内システムを改革するか、経済成長を断念するかである。核心的利益は中国だけの専売ではない、どの国にもあるものでそれらをどのように整合するかが国際政治ではなかろうか。核心的利益と自分勝手に宣言して振りまわすようでは嫌われ孤立するだけである。またIT技術を駆使した人民監視体制の強化は欧米社会にきわめて強い拒否反応を引き起こす。五十歩百歩ではないかとスノーデンなどを引用しながら論じる段階ではない。人権をベースにした国としない国とが仮に同じことをやったとしても社会に与える脅威は本質的に異なる。加えてすぐ不買運動に走る仕組みとメンタリティーがよく分からない。グローバル化で大いに潤ったのだから分かっていると思うが、お客様あっての商売ではないか、孤立した国が貿易で栄えるわけがない。(小さなあるいは中ぐらいの中国であれば看過されただろうが、ここまで大きな影響力を持ち、意思決定のプロセスが見えない状況では不安は増幅される。国家と深いつながりを疑われるサイバー問題などは放置できない。米国の対応は少し遅いと思うが、一貫した対応を求めたい。冷戦とは表現として行き過ぎているが、意味としては当たっている。古い表現だが共存共栄できるか、共存脅威に落ち着くか、共滅か真剣に考えて欲しい。)
ということで本質的課題である以上時間がかかるから、世界経済にはマイナスである。先々の発展を楽しみに、ここ二十年間見て見ぬふりをしてきた中国問題の本質的解決を期待したいが米国の振れ幅が気にかかる。
この事態を思うに中国人は本当に「六韜三略」を読んでいたのか、疑問が残る。同時に少し安心した。
何でもかんでも経済成長に巻き込むのはもうやめた方がいい!
◇ 先端技術などによるイノベーションが重要課題であることはその通りである。しかし経済成長にはあまり貢献しないようである。理由はイノベーションがもたらす効率化の裏側は省力化であり、労働分配率は低下する。したがって雇用者所得の伸びは低く、個人消費は低迷しGDPは伸びない。一時期、イノベーションに期待し、環境や生命科学などを成長戦略対象として熱く語られていたが、マクロ経済での成長率とはあまり関係ないようだ。これらは大量生産・大量消費に結びつかなければ成長率には効かない。目くらまし政策であった気がする。
医療技術の進歩は病気を直し寿命を延ばすことには貢献できるが、経済の活性化とは次元の違うもので、なんでもかんでも経済成長の論理に組み込むべきはない。アベノミクスも行き詰まり、金融政策は進退いずれも難しい膠着状態にある。改めて経済政策のあり様を考える時期ではないか。
特に国民負担率を真剣に取り上げなければ、この先行き詰ることは必定である。この先日本政治に欺瞞を漂わせる余地は寸分もない。
富の過度過度集中が最も問題だ
◇ さようならGDPとまではいわないが、経済成長さえしていれば政治は安泰という時代は終わった。問題は質であり個別の実態である。世界の富の50.2%が人口比1%の富裕層に集中しているという話を聞いただけで吐き気がする。彼らは成長の果実の80%以上を年々手にしているわけで、実に強欲としかいいようがない。ユニセフの広告を見ていないのか。今年もこの問題には手がつかないようだが残念なことだ。この格差の実態は悪魔の仕業、悪霊のたたりではない、人の為せるところである。この事態を誰が許しているのか、人々の疑問が深まるほどに政治の道は厳しさを増していくであろう。
◇ 寒の日は 吐息も惜しく 縮こまり
加藤敏幸
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