遅牛早牛

夏に向け、憂鬱感の払しょくに腐心―民主党を支援してきた人々の思い

◇ 子供にとって親のいさかいほど憂鬱なものはなかろう。同じものではないが似た憂鬱感がかつて民主党を支援してきた職場に漂っている。2007年夏の参議院選挙から2009年夏の総選挙まで、本格的な政権交代をめざし職場には熱狂とまではいかないがそれでも軽い興奮があった。

 あれからおよそ十年。今民主党、民進党由来の野党二党の相克を伝え聞く職場には何ともいいようのない憂鬱感が漂っている。

◇ 仲間内での政策をめぐる論争はどちらかといえば陽性である。しかし切り崩しとか引抜きとか良く分からない情念に動かされた陰性のいさかいは耐えがたいし、誰しも関わりたくないと思うだろう。それも最近まで応援した人々の間で起こっているわけだから、支援者のとまどいと失望は相当なレベルに達している。

 もちろん政党も生き物であるから熱心に勢力拡大に注力することを難ずる気はない。やればいい。しかし程度と手口の問題がある。今のままでは支援の輪は広がらないどころか逆にしぼんでいくのではないか。心配である。

◇ 「政治と労働の接点」と表したので、点でしかつながらないのかと指摘された。もともと深い意味はないので、「政治と労働のかかわり方」であると答えている。とはいえ政治と労働を相互独立的に対比しているわけだから、頭のなかでは別個のものと捉えている。さらに本来交わるべきものではないとの思い込みがあるのは事実だ。あるいは政治を迂回する癖があるのかもしれない。しかし政治は人々の生活全般に深くかかわるもので、無関係とか無関心では済まない。労働組合にとっても正面の課題である。

 だから選挙支援までを視野に入れた政治活動の取り組みを広げてきたわけであるが、その取り組みの死角にあるのが、野党間の仁義なき争いである。よく整理され、きれいに書かれた政治活動方針が絵空事に映る泥仕合に労組執行部は言葉を失っている。

 やはり距離をおくべきか。「政治と労働の接点」を通底する基調の一つに双方の距離感があり、それは長い周期で振れる。民主党政権樹立を一つの頂点、すなわち陽の極みとすれば、今は陰の極みか。政党との距離がますます遠くなっている。

◇ いくつかの産別では国政選挙ごとに組合員の政治意識調査を行っているが、仄聞するに組合員の野党支持は決して高くなく、むしろ低落傾向にあるという。「この十年、政党不信が政治不信を生み、ひいては労組不信につながっているのではないか」とある産別トップは危機感を語っていた。

 現場の悩みは深い。政党側の理屈は理屈として分かるが、そのむき出しの理屈が結果として政党への支援力を蚕食してきたことは事実であろう。誰彼が悪い、悪くないといった議論ではなく、政党と労組との関わり方をどうするのか、改めて考え直す時期が近いように思える。いつもボールは政党の側にある。

◇ 30年前連合が誕生したときはまだ社会党、民社党時代であった。労働戦線統一は一応の決着を見たが、では政治戦線はどうなるのかと考えを巡らせているうちに、政治改革論議が勢いを増していった。同時に自民党からの離脱者を中心に中道右派グループが新党を結成し、またリベラル新党が誕生するなど中道を核に政界再編が行われた。地殻変動ともいえる動きの中にあって労働界が意識していた支援政党(社会党・民社党)の統一は矮小すぎて話題にさえならなかったが、1996年から1998年までの民主党の形成に社会党から多数が合流し、この課題は意図せざる形で決着を見た。今思えば連合に結集する労働組合の問題意識は社会党の体質改善であった。「社会党がなくなってせいせいした」と語る労組幹部がいたのを覚えている。官公労系の右派の幹部だったが、彼らは政権を目指さないことは政治責任を放棄するに等しいと考えていたし、当時の社会党が反対に始まり反対に終わるのを、快く思ってはいなかった。

 もともと労働現場は職務執行の場であり、執行責任と格闘する場でもある。だから「反対のための反対」路線は労働現場からは最も遠いもので、相性が悪いといえる。特に民間はそうである。

 反対のための反対を作風とする政党を応援せざるをえなかった30年以上前の憂鬱を封印するためのまじないはなさそうである。

◇ もう一つ忘れてならないことは、初期の民主党の雰囲気として「反連合」とはいわないまでも、「非連合」といった気分が非公式空間に漂っていたことである。由来はいろいろだと思うが、支援政党に対し労組幹部は往々にして強い口調で語る癖があった。「総評政治部としての社会党」と語られることもあり、同様に同盟と民社党も攻守同盟体の様相を呈していた。丸抱えに近い支援体制を組む以上、いうべきことはいわせてもらうと考えるのは当たり前といえば当たり前である。しかし議員側の受け止めは違っていたのではないか。大会や中央委員会での議員たちの低姿勢を装うあいさつの中に選良としてのプライドが隠されていたのを覚えている。日頃の立ち居振る舞いにも政治と労働の微妙な関係が感じられたものだ。昨今労組幹部がスマートになり、議員が感じるかつてのストレスは相当に改善されたと思うが、その分支援が淡白になっているようだ。ことほど左様に潮目が変わりつつあるのか、あるいは変えなければならないのか、思案の季節ではある。

◇ 件(くだん)の二つの政党が一つに淘汰されるとの見方もあるが、何が淘汰されるのか掘り下げて考える必要がある。そもそもことの発端は民主党時代から党内に流れる二本の水脈すなわち中道路線と左派路線の軋轢にあったわけで、それは安全保障政策、エネルギー政策を論じるときに表出している。また憲法論議にも微妙に影響を与えており、それは改憲に対する何ともいえない居心地の悪い立ち位置の原因にもなっている。

 また小池新党に強く共振したのは右派、中間派であり、左派は新党に受け入れられるのかと心配していた。いってみれば小池新党は右からの砂嵐であった。しかしこの砂嵐はにわかつくりの杜撰なもので、露骨な選別に過ぎないと見透かされ一挙に力を失った。幹を忘れ枝葉末節に走った咎めを受けたわけで、誰が作ったシナリオなのか、今となっては知る由もないが、素人細工であったことは間違いない。特にその後の展開を見るに、まるで崩落事故さながらの惨状にその罪の大きさを改めて思い知る。

◇ 一方、立憲民主党の創設は枝野氏の功績である。それは救命ボートであり、左からの巻き返しといえるが、枝野代表自身に左派としての基盤があるのだろうか、また同党の主要メンバーの顔を思い浮かべるに、この人を左派というべきかと首をかしげることも多く、ここらあたりのちぐはぐ感が野党領域にいいようのない混迷を生んでいるのではないか。だから「国民民主党を解体する」などと、いう必要のないことを発するのは、右への位置取り欲求が相当に強いことの表れと思われる。

◇ 「思想左翼で行動右翼」あるいは「思想右翼で行動左翼」とは労働組合の思想と行動を分かりやすく類型化したもので、会議の後などで議論が跳ねたとき時折盛り上がる話題である。大昔のことだ。

 ところで昨今のとがった国会対策は行動左翼にピタッとはまる感じがする。労働運動における行動左翼の特徴はストライキ至上主義である。方法論であるべきストライキが目的化し、威勢のいいのは結構だが、結局問題解決につながらない。竜頭蛇尾だから組合員から足元を見られる。また要求に固執し「要求満額獲得」と煽り立てる。騒ぎを大きくすることを目的とするならそれも一つの方法だとは思うが、問題解決には役立たない。責任回避である。実質の成果がないものは長続きしない。

 労働運動と国会対策は大いに違うものであるが、では思想は左翼なのか右翼なのか。無粋な問いかけかもしれないが、ここらあたりを鮮明にして欲しいものである。

◇ もう二十年になるかしら、自公の連立政権が始まってから。よく続いたし、よく堪えたと思う。堪えることができるのが大人の証かもしれない。2009年の総選挙で有権者は300を超える議席を民主党に与えたが、同党はそれを維持できなかった。その理由の一つが「堪える」ことができない個々の議員の資質にあると思う。堪えることは溜めることに通じる。同志がともに堪えなければ次につながらない。

 状況はさらに悪化している。長期政権への飽き、あるいは不信から参議院選挙の地場は野党有利に向かっていると思われるが、好機への対応がずれ出している。口では反安倍、一強打破を唱えているが足の運びは緩やかである。これでは参議院選挙は盛り上がらない。思い切って連立政権構想でも出してみたら、といいたくなる。

◇ どれだけ堪える力が身についたのかは連立政権で試される。妥協できなければ連立解体、ともに不利益を被る。いつも足して二で割る妥協をやるわけにはいかない。五分五分の妥協では役に立たない代物になることが多い。だから時として引くこともあろう。仲間からは弱腰となじられるかもしれない。しかし連立関係の交渉は譲るところから始めなければ長続きはしない。政策に通じていることは大切ではあるが、それ以上に堪える能力を涵養することが大切である。

 「まあ七三で相手の立場を考えることだ。」「七は多すぎませんか。」「いやちょうど良い。」労使交渉における心構えを今は亡き師匠はそう語った。また「長い目で見て借り方貸方左右のバランスが取れるぐらいが良い。毎年帳尻を合わそうとすると綻びる。」「不満が出たらどうするのですか。」「自分で考えろ。」

 

◇ 分裂した野党が政権を握る方法は連立しかない。さざれ石が再び岩となるには気の遠くなる時間が必要である。また時間をかければ可能というものでもなかろう。つまり一党には戻らないし、それは現実的ではない。

 ところで「この参議院選で国民民主党を解体し衆議院選に臨む」という覇権主義は、どんな政党にもなじみの支持者がいるわけだから、主権者からいえば暴論の類であろう。少し自信が過ぎるようだが、今はそんなことよりも妥協点を探りながら有権者の支持を維持・拡大することが大切ではないか。国民民主党は解体されなければならないほどの罪を犯したのか。との反発も起ころう。立憲民主党はソフトな政治センスを養うべきである。それに時代はとっくの昔から連立である。

◇ 連立時代は甘い政策の時代でもある。政権維持のため長期政策は遠景に、痛みを伴う政策は先送りされる。

 さてラクダは最後の一針で死ぬとして、最後の一針を刺したものはごうごうたる非難を受けるが、二つ前の一針と三つ前の一針、あるいは最初の一針それぞれどれだけの責任を問われるべきであろうか。

 今日膨大な借金を抱えた財政に余力はなく、金融は伸び切ったゴム糸で、あとは縮むしかない。まさに余裕ゼロの状態にあり、次に来る金融危機への対応は難渋を極めるであろう。金融危機に遭遇した政権は最後の一針の責任を問われ、あたかも全針を刺した犯人のように扱われるが、本来は刺されたすべての針の責任を問うべきである。

 厳しい指摘であるが、たかだか半世紀の歴史における政治責任さえ詳らかにできない人々に民主政治を語りうる資格があるだろうか。もっともっと粘着力をもって政治を見つめなければ、後は野となれ山となれ式の政治をはびこらせることになるのではないか。膨大な政府債務を抱える今日、中長期の時間軸を踏まえた政治責任についての議論と合意が必要である。

 また連立とは相応に政治責任を共有する前提で成り立つもので、当座の選挙での審判だけでなく、歴史の評価に耐えうる責任意識が必須であると思う。

◇ 寒緩み 梅紅白に 咲き乱れ

 

  

加藤敏幸