遅牛早牛

時事雑考 「外事多難、めざすは助演賞か」

◇ 飽き足らない、というべきか。あるいは、物足りないというべきか。昨今の政治(まつりごと)である。万事芝居が小さいからか、ときめき感に欠けている。その上、見え透いている。

 たとえば、六月には日露首脳による大筋合意の予定ではなかったのか。重ねに重ねた首脳会談、少し期待していたのだが、一体何があったのか。また、北の首領と会う日は来るのか。拉致家族に朗報がもたらされるのか。さらに、南の大統領とは疎通しないのか。加えて、日没する国の統領とは何を語るべきなのか。

 と、並べてみれば、隣接国との外交が不本意な凪(なぎ)状態にあることが浮かび上がってくる。もちろん、先方の事情によるとの解釈が妥当と思われるが、それでも残念である。いつまで凪っているのか。

◇ 戦後レジームからの脱却を標榜する安倍首相が精力的に取り組んできた外交課題について、その成果を議論するにはまだ早い気がするが、それでも目鼻立ちぐらいは示さないと、遠い国々とはよしみを通じているが、近くの国々とはうまくいっていないとの印象論が一人歩きしそうである。もともと近くの国々とは難しい関係にあるのだが、それにしてもリアクションはあってもアクションが見えないではないか。

◇ 外交を国内政治の争点にすることには慎重であるべきで、昨今の国会内での議論も十分抑制的である。加えて、日露交渉についての政府答弁も、交渉中につき差し控える、との一点張りで、まるでとりつく島がないというか、愛想のないこと甚だしい。とりあえず、前進を期待しながら待つことにするが、竜頭蛇尾あるいは大山鳴動ネズミ一匹とならないよう願いたいものだ。

◇ 日朝交渉は、米朝交渉の成り行き待ちのようである。だから、拉致問題はその重要性こそ日米間で認識されているものの、着手は後景に退いている。仮に、米朝決裂ならどうするのか。小泉時代の記憶を思い起こすならば、局面の大転換がはかれない場合、問題の難度がさらに増してくるのではないかと危惧せざるを得ない。誰しも米朝会談の鮮やかな着地こそ、拉致問題の完全解決の前提ではないかと考えているだろうし、非核化抜きで日朝間にどんな交渉があり得るのか。大構造に巻き込まれたことも含め、ある意味不器用だったのではないか、と苦い思いがよぎる。

◇ 日中・日韓関係は、外交を国内政治に利用する性癖をもつ中韓による不安定性の造出に大きく影響されている。だからといって、むやみに嫌中、嫌韓とあおることは何の解決にもならない。むしろ事態を悪化させるだけであろう。

 いずれにせよ、国内の正義を国外に投射することは、外交的にいえば、いずれその後始末が環流してくることから、対等原則に立つ以上、どのようにこなしていくのか、結構途方に暮れるものである。特に、愛国に結びつくさまざまな正義の主張は取扱注意で、老練な政治家は巧妙に芽摘みを謀るものだが、自らの政治的立場を強める意図から、それらを恣意的に放置することは、一流の政治家のとる道ではなかろう。

◇ 相手の鏡に映るわが身の姿を正確に把握した上で、外交上の方策が思案されるべきで、自分たちの正義を主張するだけなら、外交はいらない。いま、ある隣国は自らの罠に足を捕られている。もって他山の石となすべきか、右旋回のつけは内外に残る。

◇ 国の内外で正義を使い分けるのは、向かい合う二つの正義の決着が武力でしかつけられない最悪の事態を避けるために必要だと思うからで、誰しも二枚舌といわれたくないだろうから、必要悪あるいは政治的知恵というべきものであろう。しかし、賞賛されることではない。いずれ清算されるべきもので、そのことも含め事を為す政治家には覚悟がいる。

◇ どう考えても日韓の協調が必要であるのに、そうなっていない現実をどう受け止めればいいのか。よく敵の敵は味方といわれるが、北という共通の敵がいてこその日韓の協力関係であったのではないか。南北和解という幻映を権力維持の基盤とすることも、内政のために外交を利用する便法ではなかろうか。簡単なことではあるまい、和解も和解してからも。南北間の歴史認識の差は日韓以上に厳しいと思われるが、これらを地道に現実処理していくことは、夢見る左翼にとって重すぎるのではないか。

 それにしても、脆弱な側面をあらわにした日韓関係に、あらためて隣国との付き合い、とくに安全保障と経済の相互補完関係を維持強化してゆくことの難しさを感じるとともに、わが国の外交力の粘性の欠如を痛感する。日米同盟に乗っかっただけの日韓関係の危うさ、共に主体的関係を構築しなかった政治のサボタージュを思いながら、政治家だけに任せておいていいことなのか、難しい課題である。

◇ メインプレーヤーではない、国際外交におけるわが国の立場はそうである。その理由の第一は、国家安全保障体制にある。核戦力を保有しない、同時に通常戦力においても米国の保障下にある。端的にいえば、ロシア、北朝鮮、韓国、中国との外交において、大きな仕事はすべて米国との共同行為である。第二は、日米同盟が対等かつ双務体制でない、つまり攻守同盟でないことである。第三は、自己完結性において脆弱な経済体制にある。もちろん、世界三位のGDPを誇っているが、四位のドイツとの差は縮小している。また、資源貧国、人口減少国、地震多発国、食糧低自給国であり、現状変更によるマイナス影響が大きいことから、エッジの効いた提案や開き直りが難しい立場にある。第四に、近隣国との歴史経過が悪すぎる。歴史がマイナス資産となっており、経済交流が活発化しても強固な経済圏を形成できないでいる。第五に、以上の結果として、国連安全保障理事会の常任理事国ではない。

◇ しかし、メインプレーヤーでなければならないということではない。国力でいえば、「ジャパン アズ ナンバーワン」といわれた頃がピークであった。悪い冗談でもうれしいと思った人も多かったと思うが、昔から国力において一番になったことはなかった。また、夢見てもいけない、条件が整っていないのだから。条件が整ったからこそ、中国は世界二位の経済大国となったわけであるが、この勢いで一位になれるかどうかは、さらに条件次第といえる。たぶん、難しいと思うが、それでも中国は外交においてはメインプレーヤーである。

◇ 日いずる国が今やたそがれ国となっている、とする鬱々感が妙に愛国的気分を呼び戻し、一時の宴をきらびやかに盛り上げようとすることを非難する気はない。問題は、そのような国内の気分と外交は無関係であるべきで、郷愁ではなく現実を直視し、未来を想像し、次に好手を残すことである。

 そのためには、政治家が大上段に振りかぶらないことである。また、正義や愛国を振りかざさないことである。政治家が正義や愛国をいい募る時は亡国のはじまりである、と強く思う。

◇ 近年における英国の政治不信の原因の一つはイラク戦争への参加である。大量破壊兵器が存在しなかったことが明白になったときに、出兵の大義が崩れ去った。

 イラク戦争の大義や大量破壊兵器の存否をめぐる国会質疑における、当時の小泉首相の答弁は歴史に残るもので、正直であることは美徳ではあるが、正義は簡単にはその姿を現さない。日米同盟が大切であることに異論はないが、だからといって大義を失っていいということにはならない。お付き合いでやってはならないことがある。長年の親友であっても、是は是、非は非と毅然と対応しなければならない。それが出来ないのであるなら、日米同盟の深化はほどほどにするしかないだろう。日米同盟は日々磨かれなければならない、とくにわが国の主体的責任が大きい。

◇ さて、バイプレーヤーの道であるが、助演賞もあり、決して捨てたものではない。そしていま、米中関係が軋んでいる。いろいろと役割もあると思うが、バイプレーヤーの限界を痛感することになるかもしれない。ということで、わが国としては、最悪の事態を避けること、それとわきまえることが大切だと思う。

◇島萌えて 靄か霞か 輝ける 

加藤敏幸