遅牛早牛

時事雑考 「代表されない人々―絆が薄くなっている―」

◇ 「絆(きずな)」は、東日本大震災の折りにメディア空間に出現し広がった。ことばの響は平易であるが、意味はむつかしい。言葉としては連帯の方が分かり易いと思う。しかし、連帯ではポーランドのワレサを連想するかもしれない。また、労働運動あるいは反権力運動に連なる感じもあり、政治的ニュアンスが薄い絆のほうが好まれたのであろう。たぶん、絆を使う方が無難、つまり無用な雑音を生じさせないという意味で、日本的な選択であったと思う。

 さて今日、この絆はどうなっているのだろうか。そもそも、絆とは、人と人のつながりであり、そのあり方でもある。さらに、つながりにともなう心情を含みながら、個々のつながりを社会全体におよぶ巨大な集合体として捉えたものでもある。

◇ 東日本大震災に限らず、災害体験は国全体としても家族、地域、団体の結びつきを再評価し、そのことの強化に向かわせる。ゆえに、社会の絆を強めようという主張は容易に受け入れられやすい。

 しかし、絆を強めるとは具体的にどういうことを指すのか、はっきりしない。たとえば、疎遠であった遠縁の者と音信を復活させるとか、同窓会名簿を改めて眺めてみるとか、自治会の会合に出て近所づきあいを濃くするとか、いろいろなことが考えられるが、端的にいって地味すぎるし、長続きしないと思う。

 防災についての具体策を進めるうえで、絆という言葉はあまりにも抽象的かつ情緒的すぎるのではないか。

◇ 似た言葉に、しがらみがある。しがらみにはネガティブな語感があるが、人々を結びつける力は絆より強い感じがする。しかし、社会のしがらみを強めようとはならない。結局、しがらみとまでいかなくとも、せめてご近所の名前、家族構成、暮らし向きぐらいはお互いに知り合って、いざという時には助け合える、効果的な活動ができるぐらいの関係は作っておこうということであるが、これこそ簡単そうでもっとも難しいことであると思う。

◇ というのは、近年つながらない人たちが漸増しているからである。電話がつながらない、連絡が取れないということではなく、社会とのつながりが細く、弱い人たちが増えているのである。いってみれば、絆の薄い人たちである。好き好んでそうなったのか、致し方なくそうなったのか、事情はさまざまであろうが、増えていることは間違いなかろう。一口にネット社会というが、反対につながらない人たちが増えているのも現実である。たとえば単身老齢者、引きこもり、DVから逃れている親子、普通に孤独が好きな人。また、定職を持たない人、ひとり親世帯、老々介護家庭など、日々の生活のうちに、蓄えられていた絆が薄らいでゆく傾向にあるのではないか。絆が薄らいでゆくことは、外とのつながりが弱くなることで、いってみれば安全ロープが弱くなることに等しい。

◇ この現象を、仮にゆゆしきことと考えるなら、何故そうなったのか、またどうすればいいのか、の二点を明らかにしていく必要がある。

 もちろん、明らかにすることは簡単ではないが、資本主義経済体制が大きな枠組みを作っていること、またその枠組みからもたらされている問題であることは確かである。すべてがそうであるとはいわないが、多くは構造的で解決策を見出すのは容易ではない。

 

◇ 薄まっていく絆問題と、薄い絆しか持ちえない人たちの問題は決して同じではない。今日の政治課題としては後者がより重要ではないか、と思う。ということで、薄い絆しか持ちえない人たちについて少し触れてみる。

 その前に、今の世の中、社会につながる方法は以前に比べ格段に開けている。たとえば、GAFAと呼ばれている社会ツールである。活用によっては片時も手放すことができない、身体の延長ではないかと思えるほどの密着ぶりであるが、その割に絆を深めているという実感がいかほどにあるのだろうか、疑問である。

 不可思議なもので、本来人々の結びつきを強めると思われていた仕組みが、結果として逆に働いているのである。世界につながっているという幻想の中で、人々の日常は逆に希薄化している。朝から晩までスマホにかかりっきりで、どうして近所づきあいを濃くすることができるのか。薄まっていく絆問題がここにもみられる。

◇ 問題は、発達を極める社会ツールが、つながらない人たち、あるいは絆が薄らいでいる人たちにとって、何の助けにもならないことである。彼ら彼女たちに起こっていることは本質的な社会関係のあり方において発生している事象であって、生活上の方法論ではないのである。

◇ たとえば、この国の選挙は喧噪のなかにある。旗と鉢巻とビラとポスター。昼夜を分かたず電話が鳴る。閉口しているという人も多い。当然ネット空間も騒がしい。しかし、どこからも電話も声もかかってこない人がいる。そういう人たちが増えている。特に、つながらない人たち、絆の薄い人たちの中に増えている。これらの人たちにとって、選挙空間は空白化しているといえる。つまり、この国の選挙には空白に近い空間があるのではないか。そして、その空間においては選挙につながらない人たちが増えており、これらの人たちは、投票を依頼されたと実感することもないうえ、日ごろから選挙が象徴する、そういった世界に接触する機会も極めて少ない。つまり、絆の薄い人たちは、選挙空間や政治の世界とは、もともと縁の薄い立場にあるのではないか。そしてこの人たちが投票に行かないとすれば、それは自発的棄権ではなく、またうっかり棄権でもめんどうくさがり棄権でもない、いわば空白棄権ではないだろうか。

◇ これら、選挙から離れている人たちは政治からも離れている。政治から離れる、あるいは離れているということは、結果としてどのような日常であるのか、一日一日を生きるのが精一杯で、余裕がないということなのか。であるなら、そういう人たちこそ政治に強くもの申すべきなのではないか。すなわち、政治を必要としているのではないか。いろいろな事情があるのだろうが、投票が、自らの生活の改善や社会的地位の向上につながるとの確信を持ちえない、あるいは自己の存在を証明する社会行為である、と考えることも気付くこともない人々が、確かに存在し増えていると思う。

◇ だから、つながっていない人たちの、また絆が薄くなっている人たちの政治参加をどのように促していくのか、これは政党にとって支持層を拡大するためにも極めて重要なテーマではあるが、それ以上に政治の本来任務として、正面に据えるべきではないか。当然のことではあるが、政党の基本は代表性である。何らかの形で民意を受け止め、その民意を表明する人々を代表する。そして、すべての有権者がこぞって支持する政党などあり得ないし、同時に、だれもが支持しない政党も存在しえない。悲しむべきは、支持すべき政党がないことであり、多くの有権者が、自分たちの直面している諸問題の解決策として、政治を、あるいは政党を選択しないことである。そして、つながらない人たち、また絆の薄い人たちは、今述べた悲しむべきことのさらに枠の外にある。政策でも行政でもない、政治の空白地帯である。

◇ 政治に空白地帯があることに同意されない向きには、では投票率が50パーセントから65パーセントの範囲にあり、棄権率が35パーセントから50パーセントに及んでいることをどのように受け止めているのか聞きたいものだ。

 棄権は消極的賛成であり、投票者の意思を外延的に、つまり投票者に一任していると解釈していいのでは、といった無茶な議論はさすがに見かけなくなったが、高い棄権率をどのように解釈するのか、さらに深堀する必要があると思うが、果たして既存の政党にその気があるのか、いささか疑問である。

◇ 棄権率の中に潜む民主政治の危機という観点から、投票場に足を向かわせない何かについて、それらを単なる怠惰、無関心、逃避という言葉で切り捨てないで、たとえば自発的、非自発的棄権という概念がありうるのか。また構造的な棄権空間にはまっている、前述のつながらない、あるいは絆の薄い人たちをさらに異なるグループとして議論しえるのか、あらためて「棄権の研究」が必要な時期にきていると思われる。

◇ つながらない、絆の薄い人たちの、生活上のあるいは政治にかかわる要求をどのように形成し、政策にまで高めていくのか。また、声を出さない、出せないものを、権利の上に眠れるものはこれを保護せずとばかりに、見捨てていいのか。どうも政治の原点、基本にかかわることのようである。

 このままいくと、つながらない、絆が薄いという空白空間がますます拡大し、選挙の空白化、政治の空白化そして民主政治の衰退に近づくのではと深く危惧する。

◇ 赤芽らは 日に輝きて 葉をそらす

加藤敏幸