遅牛早牛
時事雑考「政界三分の相、保守グループの巻」
「政界三分の相」とは
◇ 2022年1月時点で、わが国の政界は三グループに色分けできるのではないか。一つは自民党および公明党による保守グループであり、現在ここに政権がある。二つは、中道路線をいく日本維新の会と国民民主党の中道グループである。三つは、2021年10月の総選挙において政策協定を結んだ立憲民主党および日本共産党などによる左派グループである。ここでグループとしたのは、理念や政策あるいは政治手法において少なくない共通点をもっているだけではなく、何らかの「結合力」を有していると考えられるからで、具体的には第一の保守グループは連立し政権を担っている。
また、第二の中道グループは昨年の総選挙の結果をみるかぎり追い風状況にあるが、中道路線の意義を有権者にアピールしながら支持の定着を図ることが先決であろう。当座の国会対策において共同歩調を模索しているようであるが、支持層としては対立よりも協調のほうが受け入れやすい。
残る第三の左派グループは、立憲民主党の新代表の口から明快な路線表明がされていないので霧の中ではあるが、路線が大きく変わることはないと思われる。多少の流動性をふくむが、表現系はともかく実態としての選挙協力は変わらないと考えている。
さらに、小政党や諸派の動きも注目すべきであるが、ここは概説なのでしばらくは触れないことにする。したがって、今回は現下の政界が三グループによる「三分の相」を呈しているという、人相ならぬ政相の話である。
政界三分の計ではない
◇ この政界「三分の相」は政局に即した見方であるから、さまざまな異論が出てくると思う。たとえば、連合(日本労働組合総連合会)が立憲民主党と国民民主党との再度の合流を意図するなら、この三分の相という見立てははなはだ邪魔なものといえるだろうし、立憲民主党の新代表にしてみれば何とか中道層からの支持を取り込みたいと苦労しているのに、いきなり水を掛けられたと思うかも知れない、ということからいたって遺憾な見立てであると受け止められる可能性が高いことは承知している。
◇ といった思惑をふくむ反応が起こりうることを十分わかっていながら、あえて「三分の相」をこのタイミングで提起するのは、それが「三分の計」ではないからである。もし、計略として三分を提起するのであるなら、現役の邪魔をするものと非難されても仕方がないかもしれないが、現下の状況を「三分の相」と見立てることはすぐれて認識の問題であるから、実害など発生のしようがないと断ったうえで、関係の向きにはこのような認識があることを踏まえ当面の政局への対応を考えて欲しいと思う。
保守グループは、行き先不明の政権共有結合体である
◇ さて、第一の保守グループであるが、20年近く自公連立の「御代(みよ)」を生みだしてきたことは事実であり、誰もそのことを否定することはできない。としたうえで、しかしその功罪については一度思いっきり洗濯してみる必要があるというのがここの主旨である。
とくに、行き先不明の国家運営はその時々の問題処理に没頭するだけの、悪くいえば「出たとこ政治」であり、良くいっても「状況適応論」を超えるものではない。だから優れた官僚組織という高性能の羅針盤があっても、目的地が不明であるから高度な航海術とともに宝の持ち腐れであるといえる。くわえてどんな状況においても「その場の適応」が最優先されるので、戦略はおろか戦術さえも不要ではないかとさえ思われる。見方を変えれば、すごく原初的な国家運営といえるのではないか。
この原初的という表現は悪口ではない、原初的対応が必要な局面もありうるが、もちろん誉め言葉でもない。問題提起の一種で、いいかえれば直面する課題を構造化する意欲の低さが大いに気になるということである。そんなことで大丈夫かと先行きに不安を覚えるものである。
ただし、何もやってないということではない。低効率であってもまた先の見通しが曇っているとしても、何とか前に進もうとしていることは間違いないし、緩慢であったとしても前進は前進である。もちろん、この世界に百点満点の国家などはなく、先進国といえどもそれぞれ難しい課題を抱えていることから、わが国の自公連立政権が際立って低評価ということではない。ただ、女性参画などの国際的指標が軒並み低いということはいえる。
相対評価に安住してはダメだ、その相対評価もあやしいぞ
◇ そこで問題は、「どの国の政府もけっこう失敗を重ねている。だから(わが国も)いいだろう」とはいえない事態にわが国がおかれているということである。ここで問われているのは相対評価ではなく、絶対評価において自公連立政権あるいはその中核である自民党政権をどう評価するかということだから、率直に足らざるところを指摘すべきであろう。つまり、絶対評価としての自公連立政権論が必要なのであるが、この絶対評価というのは天下の難題であって、そんな難儀なことをだれがするのだろうかという疑問もあるが、要は当事者が評価について真剣に取り組まなければ「絶対」というものの本質を明らかにすることはできないと思う。
つまり、相対評価は比較であるから外部からでも可能である。しかし、絶対評価となると最終意思決定のプロセスを明らかにしたうえで、とくに結果との因果関係を解明する必要があるのだが、こういう作業は性格的に粘着質成分がかなり高くないと論理の息が続かないので、やる人は稀であろう。で、結局闇に埋もれてしまうのである。最終意思決定プロセスと結果との因果関係といった、最も重要なところが埋もれてしまっていては、芯のない鉛筆で字を書くようなもので、まるで評価のしようがないといえる。
また、国家運営の貴重な経験が後世に活かせないという、資本主義の世界での資本がたまらない悲劇と似通っているもので、経験を蓄積し歴史に学ぶという基本動作を怠ることは民主政治の足を引っぱるものといえる。原案の作成から意見の聴取、関係団体からの要望、水面下の調整などはもちろん重要であるが、さらにもっと重要なのは最終決定にいたる過程での意思のありようであろう。表にできないことも多いと思われるが、だからといって闇に葬ることは許されないことで、かならず後世の検証に資するというのが民主政治における基本であると思う。
この点に限っていえば、公文書管理法の生みの親ともいえる福田康夫元総理は失礼ないい方ではあるがまともな政治家であると思う。いいかえれば、公文書およびその管理の重要性を認識することが政治家としての第一歩と考えるべきで、ここに民主政治の生命線があると筆者は考えている。これは筆者に限らず多数の声ではないかと思う。
という政治の基本を踏まえるなら、長年与党の重責を担ってきた両党こそ率先して同法の実践にいそしむべきであると思うのだが、まさか「決裁文書改ざん」が茶飯事のごとく扱われる時代がくるとは夢にも思わなかった。これはあまりにも情けないことで、また民主政治の劣化の始まりではないかと鬱々とした気分になってしまう。たった一件であろうとも「改ざんは大罪」との倫理観が確立しなければ民主政治としての国家運営は成り立たないと厳しく考えているのだが、このことが自公政権に対する評価を考えるうえでの第一の基準であろう。
相対評価は平易で説得的であるが、役に立たない
◇ 筆者が、相対評価が何ら役に立たないという思いにいたったのは、第二次安倍政権において何かにつけて民主党(当時)時代を引き合いに悪夢のようなといった酷評を耳にしたからで、どう考えても民主党時代がどうであれ安倍政権としての評価こそがまず議論されるべきであるのに、ことさら民主党時代との比較に議論を誘導するのはわざと的をはずしていくレトリックの類ではないか、つまり巧妙な逃げあるいは議論の遮断といえるのではないかという疑問を抱いたからである。
安倍氏の方便を待つまでもなく、相対評価は平易で説得的である。しかし平易なるものは安易に流れやすいといえる。一方、絶対評価は厳格で難解であるが、時に創造的である。いいかえれば、相対評価に安んじる者が一世を画する事柄を成し遂げることはきわめて稀であるといえる。
ここで論理がつながっているのかどうかは措き、新しいことを成すためには絶対評価で叱咤激励しなければ「もの」にはならないと、少し思いが強すぎる表現であるが、政治における絶対評価とは、より良い政治をひたすら目指し、一人でも多くの人により良い政治の果実を届けたい、またさらなる可能性を与えたいという百点満点をどんどんのり越えていくあくなき精神が為すもので、安易な評価に安住することとは違うものである。また、自らを律することなく絶対評価に触れることはできないのである。
今世紀に入ってからの20年間において、保守グループがなしとげた前進とは何であったのか、それを人びとの側にたち数値で表せるならその数値を、数値で表せないのならその前進の様子を明らかにしていくことが今日時点で必要なものではないかと思う。
だから自民党にも公明党にも、自らを律する原理原則を明快に示してもらうことが、絶対評価を進めるうえで必須であるといいたいのである。さらにくどいようだが、野党がだらしないから自分たちもだらしなくてもよいという論理は絶対評価においては通用しない。野党がどうであれ、やるべき仕事はやらなければならない。そもそも、保守グループの最大の長所は、厳正なる自己規律ではないのかと問うているのである。
長期低落のなかで、この国の行き先に不安がある
◇ 「自らを律する原理原則」のつぎに明らかにしてもらいたいのは、この国の行き先である。めざすべき目的地とか目標を「言葉だけの政治」の表現系におわらせるのではなく、「実体をもつ政治」としての行動系に改めなければ、国民の気持ちを高め活力を引きだすことにはならない。いってみれば、巧言令色多めのキャッチフレーズがいかに中身すなわち仁(じん)を欠いているかという政治の裏を、今世紀に入ってから民主党政権時代もふくめ、嫌というほど思い知らされてきたので、すでにうんざり気分が人びとの間に蔓延している。このような社会全体の気分は「ひどく良くない」という表現にとどまらず「精神における停滞」までも生みだすにいたっているのではないか。いいたくないが、わが国は長期低落傾向ではなく低落そのもの、つまり低落の真っただ中にあるのに、そのことに最大議席を有する保守グループが決然と向き合っていないことが「現在日本の政治的不幸」であり、そこに若年層の憂いがあるといえる。
「先送り」と「なしくずし」が議論をダメにする
◇ 思えば戦後営々と築きあげた産業国家がむざむざと切り崩され今やスカスカの朽木に化しつつあるではないか。それだけではない、道路、鉄道、港湾、空港、橋梁などの交通をはじめとするインフラ全体のメインテナンスをどうするのかといった後年負担にかかわる問題などは、保守グループにとって得意とする分野であるべきなのに、現状は国土強靭化などと気障(きざ)なキャッチコピーを使わなければ政策にならないのかと思うが、それにしても先々の維持整備(メインテナンス)がそんなに不得手なのかと不思議である。
くわえて長期視点にもとづくとか、全体を俯瞰しながら細部をつめるといった構造型思考も同じように不得手なのかと不思議に思う。インフラなどはまだまだ目に見えて分かりやすいが、年金制度などの多少なりとも抽象度の高い課題にたいしてはことのほか糊塗的対応が目につく。たとえば、安定財源としての消費税率増はどうなったのか。毎年の社会保障給付負担を国の借金として後年世代に先送ることを多少なりとも改善する方途として与野党合意に至ったにもかかわらず、いつの間にかなしくずしにしてしまうのであるから、まともな議論をする意味も意欲もなくなるではないか。「先送り」と「なしくずし」が真剣な議論を空しくさせている。
だらだらと現状追認を積重ね、気がつくと先代までの貴重な蓄積を食いつぶし身代が傾くというよくある没落物語、であってはならないのだから大阪商人風にいえば「始末」の政治が必要ではないかと思う。やはり、保守グループの真骨頂は歴史や経験に学び、不首尾の始末を新奇に求めず、過ちは堂々と改めるところにあるのであって、現在の自公政権は保守の王道を勘違いしているように見受けられ、至極残念である。
◇ さらに根源的なのは、わが国の人口動態が先進国において最速で少子高齢に向かうことは、1970年代から自明であったにもかかわらず、その対策は「先送り」あるいは「対症療法」に終始するばかりで、前もって構造的対策を講じることは皆無であったといわざるをえない。また人口動態が与える影響はほとんどの政策分野におよぶうえに、それぞれの関係も複雑であり決して単品では対応できないと理解されていたのに、総合的体系的対応がいまだに遅れていることは、政治センスの問題だけではなく政治集団の意志あるいは使命そのものが問われているといえる。
この点について、たとえば労働力の確保についても、質としての教育や能力開発など他国との比較において劣後するものも多く、結果としての人材不足が政治のみならず行政あるいは産業に無視できない停滞をもたらせてきたといえる。また外国人労働者の扱いが40年ちかい年月をかけても、今日バラック仕立てから脱せられない原因は、総合対処方針を政治家がもっていないからではないか。どんなに優秀であっても官僚には越えられない壁がある。その壁を破り道をつけるのが政治家の責務であると思う。いいかえれば、官僚にいい仕事をさせる環境づくりが政治主導のめざす一面であろう。そこで、いわゆる「忖度」問題の核心は、課題を明確にし目標を設定するという政治の責任をはたすことで、彼ら彼女たちの能力を十二分に発揮させるという本来のあり方が徹底されてないから、あれこれ憶測がうごめくのではないかと思う。
構造問題への着手こそが、長期政権の責務
◇ さて一般論ではあるが、ITとかデジタル化に専門省庁は不要で、本来は中央省庁再編つまり20年前に、全組織・機関に内在させるべきものであったと思う。その頃が時期としては世界標準といえるのではないか。また、2007年から「消えた年金(データ)」問題であれだけ大騒ぎをしたのに、少しも身についていない実態を聞くに、本当にがっかりするしまたトホホとなってしまう。
こういった行政機構の業務執行部分に問題を抱えるのは、政治が本来はたすべき基本機能である行政監視力が衰弱しているからではないかと、また今までの政・官の役割分担に基本的な認識の過誤があったのではないかと、政治に多少の責任をもつ筆者としても反省モードになるのであるが、今日のわが国が低落の途上にあるのも、また国としてあるいはマクロ経済として長らく生産性の向上をはかれなかった原因として、行政機構とその影響を受けるもろもろが非効率を抱えこんでいるのに、その改善に政治が力をふるえなかったことなどがあるのではないかと、しみじみ思うところである。
だから、少し強引ではあるが、長期政権が引き受けるべき責任とは本質的な構造問題であると考えるべきであり、ということは現実問題として「自公政権たのむから構造問題を改善してよ」と現政権に対し期待する立場に流れることになるのであるが、いままで着手できなかったのに今さらできるわけがないというのも一面の真理であるから、くわえて野党の皆さん方がさらにご立派なので筆者の悩みはますます深まるばかりである。
わが国では、保守グループが長らく国政の重責を担い、さまざまな意見があるとはいえ少なからず功績のあったことは明白である。しかし、近々にも脱炭素社会へ突入せざるをえない時代状況において、保守グループが問題の解釈においては構造的でなく、政策の立案においては体系的でなく、さらにその執行においては情意に偏るといった、困った性癖をいささかなりとも改めなければ、かならず国家運営が危殆に瀕することになるのではと心配しているのである。
安全保障にかかわる議論には必ず後日の責任を明確にするべきである
◇ 今日の自由民主党が右傾化しているかどうかといった議論をどれほど煮詰めても、意義ある結論を導きだすことにはならないであろう。そもそも右傾化といった批判自体、為(ため)にする議論であって、それもいわゆる左から見ての話であるから、そのような文脈についてはどうでもいい議論としてミカン箱にでも入れればと思う。
それよりも、「日米同盟関係の深化」という高い頻度で使用されている言葉の真意についていろいろと気になるので、くわしい説明を聞きたいものである。とくに、国の行き先を明らかにしないまま、お得意の現状追認だけでのり越えられると思っているのか、わが国をとりまく国際情勢はそんなに甘くはないと思うが、いずれにせよ保守グループとしては、近未来ビジョンを国民に提示し説明をしなければ社会全体を覆っている不透明感を払拭することはできないであろう。
ここで、対中関係などを考えれば防衛力を数段強化しなければという意見に対し、過剰反応であると全面否定に走るのか、あるいは脅威を共有したとしても抑制的に構えるべきと考えるのか、いや米国はじめ有志国と連衡し積極的に拮抗対処すべきと考えるのか、または単独での抑止力の確保に向け議論を加速させるのか、といった対応が考えられるがいずれにせよ地政学上の分岐点にあると思われる。
だから、台湾有事は日本有事であると条約にも憲法にもいかなる法規にも記述されていない主張がどのような反響を呼ぶのか今のところ見当すらできないでいるのだが、おそらく連想ゲームよろしく、「では本来の日本有事とは何か」と岸田政権は国会において厳しく説明を求められることになるであろう。もちろん米国にならって曖昧戦略も頭の体操としてはありうるが、わが国にとって侵略されるところの危機の定義を曖昧にすることがどれほど国益にかなうのか、というよりも曖昧戦略は逆に危機を誘発する危険性が高いと考えるべきではないかと思う。つまり日本有事を明確にするためには、台湾有事を明確にする必要があるわけで、そのためには米国が考える台湾有事が解明されなければならない、といった論理の筋を逆向きにたどることが可能であるのか、また国益にかなうものなのかとなると、台湾有事とは一線を画すことになるというのが論理的帰結ではないかと思うのだが、「日本有事は米国にとっての(安保条約上)有事」という論理は、一連の事態に対して実は日本側に引き金があるというレトリックを暗示していて、わが国の世論にコペルニクス的転回を迫っている面も疑いえるのであるが、結局のところ議論が輻輳するのを避けるためには憲法解釈としての集団的自衛権のさらなる上書きが必要になるわけで、とくに解釈だけでは実際のところ自衛権を発動できないと思われるので、ここは思い切った憲法改正が必要であるというのが、保守グループ内の一部の主張であり、まさに危険な挑戦ではないかと推察しているところである。他方、旗幟不鮮明、不作為こそがさらに危険な対応であることも真理であるから、戦後国全体として逃げ回っていた平和主義の裏側である米軍依存を土台とした同盟の深化の真相と行き先をリアルに議論すべき時期であることは間違いないといえる。
この議論は、保守グループだけではなく政権交代あるいは政権への参加を標榜する政党にも鋭く突き刺さるもので、本心をいえば国民こそがこの課題に真剣に臨まなければならないのである。甘やかされているだけでは主権者とはいえない。また、国民を甘言のうちに眠らせる政治は害悪をもたらせる。もう止めるべきである。
このような重要な時期にあっては、国内分断を招くことなく、主導する政治家の先々の責任を明確にしながら議論を進めるべきであるという主張なのである。いいかえれば、責任をとらない政治家が重要な議論を主導することを許すようでは保守グループとはいえないということである。
本来、保守グループは正直で率直で責任感に溢れていた
◇ この国に沈滞したあるいは鬱屈した空気(臭気)が漂っているとすれば、それは潔く責任をとる政治行為が皆無であるからであって、隠したりごまかしたり転嫁したりといった下品な行為が多すぎるからではないかと。下品というのは行儀が悪いというにとどまらず、普通にある世の中の規範を蚕食するところが罪であり、危険というべきものである。時の最高権力者が窮したためとはいえ虚偽となる答弁を百を超えて国会でなしたことに対し、保守グループがどのような判定を下すのか、これは保守グループに属するすべての政治家が問われているのである。その場しのぎや先送りを見逃していては、取り返しのつかないつまり永遠に弁明の機会を失うことになると指摘しておきたい。
他方、政治行為が際立つのは責任が裏張りされているからである。しかし、言説に責任をもつ政治家が政界の花となるべきというのはしょせん書生論でしかないのか、そうではない、今保守グループに欠けているのは正直さと率直さそして責任感ではないか。
今、国家ビジョンが求められるのは、わが国が衰退しているからである
◇ 保守グループが実のところ国家ビジョンを有していないと決めつける証拠はない。ただし、国家ビジョンの必要性も保守グループにとって希薄であるといえる。なぜなら、現に政権を握っている以上またそれが長期化できると思える時に、ここで下手なビジョンなどを提起することで有権者から余分な期待を持たれたりすればそれはそれで厄介なことになると無意識にも考えているからで、そもそも保守グループの基本は現状肯定であり現状維持であるから余計なことをする必要はない、都度必要なことのみに集中すればいいという考えであるから、無くて当然ともいえるのである。
この点野党は、現状否定から出発せざるをえないから、変えるべきビジョンを提示する必要があるといえる。最近この現状否定という態度が気に入らないという風潮もあるようだが、ここを否定されては野党の存在価値がなくなる。そうなれば論理の流れは翼賛政治へと向かい、それは民主政治とは180度向きを違えるものであるから、現状否定にもとづく批判を遮(さえぎ)ることは民主政治に反するといえる。
問題は、長期政権下の保守グループが「自らの政治」に対し拮抗する「新たな政治」を提起できるのかということで、かつて喧伝された党内疑似政権交代が、本格的な政権交代に代替しうる内実を持ちえるのかという最大の疑問に行きつくのである。そこで、見方を少し変えて、そういった疑問が発生するのは現状に大きな矛盾あるいは従来方式ではのり越えられない壁を多くの人が感じているからであると思われるのであるが、現状はそれ以上に今日のわが国が多くの指標において、その指標がどのくらい適切であるのかということを横においても、各国との比較において大いに劣後しているとなれば、本格的に、この場合政治そのものを見直す必要があるのではという声は毫も非難されるものではないといえる。
では、そういった状況において、有権者が投票を通じて保守グループに対し警告を発することがあってしかるべしと思われるが、有権者の多数がむしろ安寧な状況に満足している場合にはどうすればいいのかとなると非常に難しい。ある意味、国が衰退過程にはいってしまった場合、脱出の糸口をつかむのは簡単に見えても、実際はとんでもなく難しいというのが歴史の教えるところではないかと、残念ながらそう思わざるをえないのである。
ということで、筆者が保守グループの国家ビジョンの有無について、やや無理筋の注文をつけていると受け取られそうであるが、野党のそれが不発で有権者からの支持がうすい場合、どうしても保守グループの政治そのものに矛先を向けざるをえないのである。という流れからの国家ビジョンにかかわる批判である。でなければ、与党のビジョンの有無など筆者の経歴からいって気にする必要がないのである。
だから、今一度強調すれば、このまま衰退を是として受け入れるのか、将来世代に対しそれでいいのかということである。
一強多弱の10年は保守グループへの権力集中であったがどんな成果が?
◇ 過半数議席を有する保守グループの御代(みよ)とともに衰退の道をたどるということであれば、多数決原理は貫徹されているわけだから、それはそれで民意の反映ともいえるから、とぼけた顔つきで「なにか問題あります?」といっておればいいということになろう。
さて、民主政治の優れているところは、問題に対して複数の解法を用意できるところにあると思う。複数用意されるからこそ国民は選択できるのである。しかし、選挙の現状は表紙である人を選択することができても肝心の解法(政策)の選択はできないということで、選挙は政策選択としては間接的すぎるということになり、民主制度の中にエアーポケットが発生していると見ることもできる。(たとえば、TPP反対であったのにTPPが批准されたり、消費税率が公約とは関係ないところで上がったりしているのは、選挙と政策選択が完全な写像関係にはないことを表しているといえる。)
では、対案だ選択肢だと騒がれても世論もふくめ混乱するだけであるから、むしろ一つの道を突きすすむことのほうが結果的に正解に近づけるのではないかといった考えも可能である。それがいってみれば一強多弱の10年だったわけであるから、そのうえで、この国の何が良くなったのかと考えてみれば、安全保障といったハードコアにかかわるところでは少なからず前進があったといえるが、それらには見解の相違があるので、数値表現はできない。数値表現ができる分野では残念ながら成績は芳しからずで経済は停滞気味であった。ということから失われた20年に10年が加わっただけともいえる。つまり、保守グループに権力を集中させても、わが国の経済的衰退を止めるのはそうとうに難しいことであり、そもそも衰退の原因について科学的分析すらできていない現状を前に、つい考え込んでしまうのである。
自民党憲法改正草案からにじみでる国のあり方
◇ そこで、国家ビジョンなどという張り子みたいな議論ではなく、国のあり方に近接している憲法にかかわる議論の中から、保守グループが考えている国のあり方を少しのぞいてみることにする。
たとえば、自民党による憲法改正草案が第一条における天皇の位置について「元首」に書き換えるとしているが、現在の「象徴天皇」と、提起されている「元首天皇」とは一体どう違うのか、ここがはっきりしない。さも天皇を推しいただく臣民の雰囲気を醸しているようではあるが、筆者にいわせれば不要不急の典型である。どこが不要不急なのか、まず天皇家の存続が厳しさを増している事態への対処を欠いて何の元首論なのか、将来の状況によっては象徴のほうが納まりがいいかもしれないとも考えられる。また、家族のあり方を中心に規範性を高めたいようだが、わが国の現状はそういった家族像が成立するケースが漸減しており、逆に孤立化、独居化が進行している。その原因の主なるものは経済産業の変遷による環境変化などと考えられる。また、たとえば非正規労働者が40パーセントを超える現実を無視して、正規労働者をもっぱら対象とする社会をうたい上げても現実との乖離が加速するだけであろう。
ということで、保守グループが議論のベースとしている、家族あるいは家庭像を標準系とするには現実に無理があり、まして憲法論議にふるきよき時代といったノスタルジーを持ち込むことは「特別な、恵まれた人」の改正論議であって、「みんなの」憲法改正とはいえない。
同様に、労働条件にかかわる性差別はじめ各種の差別状況が、いくら女性の活躍だとか一億総活躍と得意のスローガンを飛ばしてみても一向に改善されない現実を受けとめれば、方法論そのものを変えて公正処遇など基本的人権にかかわる視点からの改善を実現しなければ、北欧並みの生産性を達成することは不可能ではないかといった思いが強まるのであるが、わが国の保守グループはこの点を巧妙に避けているのではないか、とさえ思ってしまうのである。
いってしまえば、現状は一億総活躍には程遠い、良くて半分活躍ではないか。そういう意味では、国民の力を解放できないことが、また時代遅れの政治が経済不調を呼びこんでいるのではないかと、そしてここらあたりが保守グループの限界点のような気がする。
さらに辛辣にいえば、悪夢のような民主党政権を倒したまではよかったが、民主党政権時代に提起された各種の課題に限っていえばようやく緒についたようで、こうなれば人びとのために全力全速で進めてほしいと思う。
解散権の明文化は独裁への道ではないか
◇ また、衆議院の解散を第7条に基づいて総理の専権事項のごとく既成事実化している点については、「内閣総理大臣の決定」として明文化をしてはいるが、これは不信任決議への対抗措置としての解散権という文脈から大きく逸脱するもので、いってみればいつでも勝手にやれる独裁行為としての解散権への跳躍であり、衆議院議員を選んだのは主権者たる有権者であるという民主制のもっとも重要な基盤を侵食するのではないか。そもそも、内閣総理大臣一人の意思によって衆議院議員全員の議員資格を剥奪する権能の根源はどこにあるのか、またその必要性に対し議会内の話しあいという途中過程があってもいいのではないか、さらに解散理由の説明責任を免責していいのかなど民主的運営からの疑問もあり、くわえて抑制装置を欠く新たな権能を認めることがどのような政治的災厄を招来するのかという心配もある。電撃解散の忘れられない味が動機であるならあきれた話である。
常に解散ありきの国会運営を「常在戦場」などと新人議員を洗脳しているが、それは議員の党首脳への隷従に近く、議員の質を大きく劣化させていることは再三指摘されてきた。したがって、時の総理による独裁的解散権の明文化は一党独裁あるいは一人独裁への実質上の道を開くきわめて危険なものといえよう。
今でも十分すぎるほどの権力集中ではないか、それをさらに加速する必要がどこにあるのか、筆者としては均衡をうしなった強いこだわりを感じる。
とくに、この10年間の強権政治を思いかえせば明々白々のことがあるではないかといいたい。さらに、現在の保守グループが政権を握り続ける前提での草案であって、いかなるグループがいかなる構成で政権を握るかは未然のことであるから、それへの備えも要るのではないか、また自分たちが暴走するはずがないとの前提のようだが、そうである保証は一切ないのである。ということから、国民からみれば権力乱用への抑止機能が後退しているように思えるだろう。
ここでの簡単な結論をいえば、保守グループの保守たるゆえんである復古主義、懐古趣味をいちじるしく反映させたもので、わが国あるいは国民の多数が遭遇している諸問題に決然と対峙したものとはとうてい思えないといわざるをえないのである。保守グループの長所は長所として多とするものであるが、憲法改正草案の一部からは後ろ向きあるいは現実逃避の残念な気分が漂っているように感じる。
◇ 国家ビジョンをもたないということは「今のままでいい」という現状肯定あるいは現状維持であると考えれば、それはそれで「あり」とは思うが、しかし停滞から衰退へと顕著な今日のわが国の惨状について「どうなってるの」と聞かれたら人びとにどう答えるのか。
まさか、政権さえあれば後のことはどうでもいいとは間違っても考えていない思うが、人びとの疑問は今日の経済不振の原因は何かという素朴なもので、それはそれで核心を衝いた問いかけでもある。
ながらく政権の座にあった政党が、もっぱら政権奪取とその維持を目的化する権力至上主義とでもいうべき要素を持ちながらその正体を常に水面下に隠していたとしても、人びとはそれは「頭隠して尻隠さず」であると見抜いているものだが、他方で過酷な政治闘争を勝ち抜くための重要なエネルギー源ともいえるものであるから、まあ今さら不思議がる人もいないであろう。
たしかに不思議がる人はいないとしても、国民生活に対し失われた20年というラベルを賞味期限を貼り変えるごとく、新たに成長戦略だといって語呂のいいフレーズをあれこれ吹聴してきたが、結局芳しい成果をもたらすことはできなかった。今思えば本格的な診断も処方もまるでない品質期限切れの20年ではなかったかと皮肉る人もいるであろう。そして、その挙句の果てがいよいよ経済成長から見放された国として落ちぶれていくのかと憤怒を吐く人も増えていくであろう。
人びとはうすうすではあるが、政治家という連中は、権力には執着心を持つが国民の暮らしや国の将来について本気で心配することのない鉄面皮であると考えはじめているのか、いやそこまでは考えていないだろう。そう意味では国民の覚醒は未だしで、あるいは現実を直視するのが怖いのかもしれない。分かる気はするが、そうはいってもそろそろ目覚めないと間に合わないではないか。
たぶん、まもなく目覚めるであろう。でその時に、国家ビジョンをもたずに保守グループとして国民に何を訴えるのか、また何を聞いてもらいたいのか、といったことを本気で考えているのか、と問うているのである。
国家ビジョン、価値体系、規範など基本項目を明確にしなければ、どろなわの名人だけで信任される時代でもなかろうに、おそらく2020年代のどこかの総選挙で保守グループが大敗する可能性が高いというのが筆者の予感、あくまで予感であるがそう感じている。とくに2025年はおそらく衆参同時あるいは同時期選挙を選択する可能性が高いと思われるが、結果はおそらく期待外れとなるであろう。
政権にとって安全保障政策の重要性は高まる一方である
◇ 各論として、たとえば安全保障問題はどのような展開をみせるのか、とくに与党の一角を占める公明党にとっては、何のために政権に参加するのかと問われるであろう。たしかに与党内でのカウンターバランスそれもハト派としての存在は必要不可欠であるという主張は、「平和と福祉」に照らしてみても至極当然の主張であり、そのことは有権者においてもほぼ理解されていると思われる。
では、2015年の安保法制に対して全面賛成であったのか、あるいは集団的自衛権に関する憲法解釈変更を是とするのか、きわどいところもあるように思える。きわどいというのは、国家ビジョンにおける主要な価値観を共有していることの具体証明なしに抽象的議論をあれこれ展開してみても、実際のところ与党でいることの政治的価値が実感をもって明らかになることはないであろう。ということで、大衆議論においては、何のために政権をとるのかという目的が欠落した形で、政権を維持することが目的化していくという、目的と手段の入れ替わりが日常化していくと思われる。
そうなると、とくに国全体が低落していく過程においては、手に政権があればそれだけでいいのかという問いかけがまじめであればあるほど重たくなっていくであろう。また、波乱含みの国際情勢とそれへの対応にはそうとうの覚悟が必要となるであろうから、くわえて与党内カウンターバランスを効かせることが本当に可能であるのか、いな必要といえるのかなど緊迫した議論が待ちかまえていると予想される。おそらく安全保障にかかわる与党責任というのは事態が切迫すればするほど簡単なものではなくなることは衆知のことであろうから、当然支援団体にも反射的にいい分がでてくると思われる。
米中関係の展開また中国の出方次第によっては、与党として背骨にひびが入るほどの重たい決断を求められるかもしれない。これは自民党としても同じことであり、もちろん場面によっては中道グループも同様であろう。
くわえて、落日日本を皮肉な表現ではあるが、力強くリードしてきたはずの与党として、決算書と請求書が長年の評価と責任として、一日遅れかひと月遅れか一年遅れか、いずれにしろ追いかけてくることだけは間違いない。
日米関係と安全保障政策そして日中関係など現実論としてシビアな議論に遭遇する保守グループにとって緊迫の一年となると思われる。
保守グループと労働者対策
◇ さて最後に、保守グループとして最大の課題は労働者対策であることを指摘したい。わが国は歴史的に親労働者ではなかったといえる。これは長年にわたる筆者の実感である。戦前の抑圧はもちろん戦後においてももっぱら管理保護対象でしかなかったと思っている。そういう意味では労働者が国家再建のパートナーという立場をえることはなかった。今でこそ政労使の三者構成が仕組みとして普及しているが、その原理が社会の隅々までいきわたっているとはいえない。
国と労働者との関係は、国によってさまざまであろう。それぞれの歴史を無視した言説は有害だし、また詳しいことは分からないので各国の事例を引用するのは控えるが、労働者あるいは労働運動の社会的位置づけに少なからず差異があることは事実である。
だから、ここでは国家政策の基調としてわが国は親労働者ではなかったと表現しているのであるが、その原因の一つが戦後に解放された共産党員が当座の活動拠点として、また組織攻略対象として誕生間のない労働組合に照準をあわせたことにあると、筆者は考えている。
わが国の敗戦時すでに米ソの対立は予見されており、東西対立構造は急速に顕在化していくのであるが、国家体制として立憲君主制を表見上も継続するかぎりにおいて、共産党員の影響を受けていく労働組合が国家権力と親和性をもちうる可能性はほとんどゼロであったといえる。
さらに決定的なのは、戦前において労働組合法制定の萌芽があったのであるが、残念ながら潰えてしまったことで労働組合が相応の社会的地位を得る機会をえられなかった。もし、戦前において労働組合が合法化され、さまざまな制限が課されていたとしても、産業別労働組合として自立していたならば大いに事情は異なっていたと思われる。
歴史における「もし(if)」は法度ではあるが、国内産業の発達にともない労働者あるいは労働団体を正会員として位置づけられなかったところが、国として未熟であったということであろう。もちろん労働運動関係者としての感想ではあるが。
戦後の東西冷戦体制のはざまで苦悩した労働運動
◇ さて、わが国の国家権力がなかなか親労働者というスタンスをとることが難しかったもう一つの原因は、日米安保条約を中心とする安全保障政策への対応であったといえる。もともと親米反ソあるいは親ソ反米という二つの水脈があり、その上に自由主義陣営に居を構える以外に選択肢がないとする権力側と反戦平和反核運動をベースに日米安保に異を唱える勢力との厳しい政治闘争の中で、過半をこえる労働組合が反安保闘争に与したことにより、政治的に反政府すなわち反自民の位置取りとなったことが、国民がもった印象もふくめ決定的であったといえる。(このあとの歴史的振り返りは付録として末尾に)
◇ という歴史を踏まえながら、保守グループへ提言といいつつ少し注文をつけるとすれば、労働者を中心とする運動体はすべての労働者を代表しているわけではない、もしそうであるならわが国の政治情勢はとっくの昔に大きく変わっていたはずである。したがって、労働者をとりまく諸課題の解決が、かかる運動体の手柄としてその組織発展に大きく寄与するものではないということが重要なのである。もっといえば、2000万人を超える非正規労働者と呼ばれている、比較不安定雇用におかれている労働者の処遇などの改善は、政治的にきわめて中立性の高いもので、それは一般的国民の福祉の改善以外のなにものでもないということである。ただ、2000万人の政治的結合が弱いことから、悲しいかな政策の真空地帯に置かれているのが真相といえよう。
とにもかくにも、2000万人を超える労働者の能力向上なくしてわが国の生産性の向上は考えられないことから、企業経由ではなく直接支援をはかるべきではないかということである。
少なくともこの2000万人に対しては親労働者的政策を早急に展開すべきである。
雇用労働者の活性化が経済復調の鍵である
◇ さて、ながらく親労働者とはいえないスタンスであったが、しかし、国富の大半は労働の成果であることは事実である。また、今日わが国が先進国において経済的輝きを失いつつあることは、その労働にも陰りがでてきているからであって、この陰りは企業体の規模に関係なく、徐行運転のような速度ではあるが全体に広がっているといえる。
そこで、重要なのは6000万人に近い雇用労働者の活性化が、今後の労働力不足を考えてもきわめて重要なテーマであるといえる。また、雇用労働者は消費者であり、労働の再生産者でもある。したがって、諸課題に苦しむわが国にとってその活性化こそが希望の光であり、救世主であるといえる。やや表現過剰ではあるが、そのためにも親労働者対策としての政策が重要であるといえる。
労働基本権は基本的人権である
◇ そこで、親労働者的政策を考える場合、たとえば労働基本権を与えないことは、どんなに理屈をつけても基本的人権を制約することに等しい。自民党の憲法改正草案は、公務員の労働基本権制約を第28条にいれているが、公務員が全体の奉仕者であるから憲法や法律で制限するというのは少なくとも基本的人権の尊重原理とは激突するのではないか、また先進国からは意味不明と受け止められるであろう。ここで指摘しておきたいのは、憲法論議は国内問題であるとはいえ、その議論は国内で完結するものではない。もちろん批准条約との整合性が問われるし、外交と連結していることから、海外からの批判にさらされることは当然といえる。過度の干渉は論外ではあるが、相互理解あるいは国際協調の範囲で対話を重ねることはあらぬ誤解を防ぐ意味でも大切である。
さて、詳細な議論は後日にするとして、保守グループがこのような非対称的思考から脱却できないところにわが国の沈滞の原因の一つがあるという論理を述べていくが、非対称的処遇は公務員に限らない、これはほんの一部といえる。すなわち世の中公正でないのである。とくに労働基本権にたいする政府の歴史的対応の基本は、まず性悪説に立脚しており、良からぬことをたくらむ集団との予断を常にまとっているのであり、それは紛れもない偏見であり、また差別につながるとの自覚すらないのである。政治家は国民の諸権利について真摯に向き合うと同時に、権利において公正であることをリアルタイムで保証しなければ基本的人権という言葉は使えない。
生産性と公正処遇の関係
◇ そこで、いわゆる生産性と公正との関係であるが、どんな人でも自分が公正に処遇されていないと感じる時に力いっぱい仕事に励めるであろうか。毎年理屈をつけて賃上げを回避している経営者のもとで気持ちよく改善提案をする気になれるだろうか。労働者は無知ではない。孤立しているわけでもない。職域外にさまざまなネットワークをもっていないわけではない。
職域での労働への分配が不足気味であるとか、自分への処遇が不公正であるとか、賃金体系が偏向しているとか、もちろん誤解もあれば偏りもあるだろうが大きく見れば適切な指摘であることが多いのである。
こういった、職域における諸問題を合理的に解決していくことができてはじめて生産性の議論に入れるのであって、労働者への支払いをコストと考える経営者が過半になり、労働をいつでも調達できる生産要素であると経営者が考えている限り、残念ながら労働はコストになり、生産性向上が労使の共通課題になることはないであろう。
資源に恵まれず、立地の悪いわが国が世界に伍していくには何といっても人の力であると考えてきたのであるが、現在はそういった考えは通用せず、ビジネスライクな個別労使関係が主流のようである。
そんな中、先進国の中でわが国の賃上げが劣っていることを政治家は誇りと思うのか。公正競争基準としての賃金という考えは過去のものになったのか。さらに、個人消費を支える賃金、税としての賃金、社会保障をささえる賃金、いずれにしても国の主柱といえるではないか。
わが国の賃金の今日的貧困性を目の当たりにして、これでいいと思う政治家がいるとは思えないし、そういう人が選挙で当選できるとも思えないのである。絶対水準が低いことにくわえ、公正労働基準に揺らぎやほころびがみられることが、人びとの内心にばかばかしい思いを招いているが、今日では著名な経済人でさえ公正労働基準の大切さを忘れているのではないか。
親労働者的政策とはいわないが、ともかく労働基準の公正化を本気で考えないと国の安定を損なうことになるのではないかと危惧するところである。がけ崩れは起こってからでは止められない。
(中道グループ、左派グループについては次回といたします)
◇ 冬鴨は風避け浮かぶ波の間に
【付録】
◇ 1960年をはさんだ10年間は、労働界における民間労組の力がまだ弱く、官公労組が影響力を発揮していた時代で、政党でいえば社会党中心であった。その社会党でさえ総評政治部と揶揄されていたが、揶揄どころが実態がそうであったと筆者は受け止めている。1955年体制下の自社対立構造は政権交代を予定しないものであったが、それでも政府にすれば労働組合は目の上の瘤と考えていたと思われる。
◇ 民間労組がリーダーシップを持ち始めたのは、賃金交渉において鉄鋼労使が主導権を握り、金属産業労使が春闘の中心に躍り出た1960年代後半からで、とくに1970年代に入ってからの石油ショックへの対応として金属労協が賃上げ抑制に協力したのが決定的であったと考えている。このあと話し合い春闘といった協調路線が主流になり、くわえて日米自動車摩擦への対応など産業課題を労使がともに議論をするなど政策課題が労使間の中心になっていった。
こういった活動を通じて労働組合が問題解決の当事者として社会的に認知されていったが、あくまで労働問題や産業課題の領域に限られていたといえる。
◇ この後、円高ショック、バブル崩壊などの産業基盤を揺るがす事態のなかで、問題への対処を通じて政労関係は徐々に成熟していったが、1987年の民間連合結成と1989年の連合結成を契機に、政労使関係も新たなステージにいたり、国際的にも高く評価される段階に達し、国内的にもその立場は確立したといえる。
◇ それでも政党との連携では社会党、民社党支持は動かなかったことから、権力政党である自民党とは、水面下はいざ知らずそれ以上の進展はなかったといえる。1993年の細川政権が樹立から短期間で崩壊したが、自民党単独では政権を作ることができず「自社さ」という空前の連立政権ができるなど、政治体制が不安定化していった。
◇ そんな中1998年に結成された民主党による政権交代への期待が徐々に高まっていった。政治活動においてこの時期が労働組合としては黄金の日々であったといえるかもしれない。しかし、同時に連合と自民党との関係が微妙に揺らぎ始めたなかで、2007年参議院選挙での与野党逆転、さらに2009年の鳩山政権の成立により関係悪化が決定的となり、自民党の労働組合への見方が反感へと転じていった。
◇ 2013年以降、労働組合が支持してきた政党が低迷し、さらに分裂再編をくりかえすなど極めて残念な状況にいたり、このままでは政権交代を期待することができないという声が増えるなど、職場での政治活動の理解が揺らぎ政党支持に変化が見られた。しかし、労働組合が政治にかかわらない理屈は見当たらないうえに、労働者の生活の改善を図るためには政策制度課題をはじめ政治に積極的にかかわることは必須のことであった。同時に、労働者であり、社会人であり、有権者であることから選挙権の行使をはじめ何らかの政治参加の必要性について議論が続いているといえる。
◇ 以上筆者の振り返りであるが、政治と労働との距離感が時代により微妙にあるいは明瞭に変化していることが分かると思う。これからも、おそらく安定した関係は難しいように思えるのであるが、要はそういった関係と労働者政策とは無関係であるべきで、前述したように何千万人の労働者を対象にする政策は中立的に策定されるべきで、労働団体も支援政党との関係もふくめ紛らわしくないよう設(しつら)えることが求められるのではないかと思う。
〆
加藤敏幸
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