研究会抄録

ウェブ鼎談シリーズ(第3回)「労働運動の昨日今日明日-ILO100周年に向けて-」

講師:熊谷 謙一氏、長谷川真一氏

場所:電機連合会館4階

 来年2019年はILO設立100周年にあたり、オリジナルメンバーである我が国にとっても大変感慨深いものであります。特に100年の歴史を振り返りながら改めてILOの意義について認識を共有しあうことも必要かと思います。  同時にこれからのILO活動をどのように展望していくのかは、アジア地域における労働運動の展開と密接不可分なものであり、多くの経験を持つ日本として特段の役割を求められると同時に、政労使それぞれの立場でアジア地域の平和と労使関係の発展による経済的豊かさなどの実現に寄与していく必要があります。  「ドアを開ければそこはベトナム」と言われる今日のグローバル状況の中で、個別労使としてもILO基準を常に意識していくことが求められています。  ILOの世界では貴重な経験をお持ちの長谷川氏と熊谷氏をお招きしての鼎談となりました。労働運動の活動家にとって大いに役立つものと思います。(鼎談は2018年4月3日午後行いました)
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「連合結成記念にILO条約批准を」が指示だった

【加藤】   来年はILO設立100周年ということですが、連合においてILO課題に熱心に取り組まれてこられ熊谷さんから総括的にお話しいただきたいと思います。(International Labour Organization:国際労働機関)

【熊谷】   ILOの課題は加藤さんが連合におられたときに、重点活動として一緒に取り組んだテーマです。

 1987年、民間連合が結成され、「欧米並みの生活」を掲げたときにILOは一つの軸だろうという話があり、当時の山田事務局長もそう考えられて、担当の局長であった加藤さんと二人三脚でチャレンジを始めました。

 それまでILOというと官の話という雰囲気がありましたが、民間の領域でどれだけできるのか、民間連合がしばらく続くかもしれなかったので、ILOの問題を運動課題として確立しよう、そのためには具体的に何をすべきか、そういうテーマをいただいて奔走したわけです。

 まず、組織の中で民間のメンバーにILOに関心を持ってもらおうということで、ILOの専門会議を立ち上げました。少し心配でしたが、各産別から多くの参加があり、多彩な講師をお願いして進めました。各産別の反応をみて、これは運動になる、もちろん基本的権利の問題が最大ですが、同時に、欧米並みの生活、ひいては「日本の常識が海外の非常識」ということを打ち破っていく新しい運動という側面もあると思いました。  そこで、名前を「ILO条約勧告の専門家会議」ということにしたのです。というのは、条約というのは最低基準ですが、勧告の中にはこれまでのILOの知恵が散りばめられているからです。その委員会には、現在の連合会長代行の逢見さんをはじめ、各産別のそうそうたる方々がメンバーとしてスタートしました。そして最初に大きな山が動いたのが、1992年のILO条約批准です。第159号、障害者条約です。実は、私が加藤さんとILOの担当になったときに、当時の労働省の課長さんに声をかけましたら、「熊谷さん、いま批准できる条約は一つもありません」という話でした。これは謎かけかな、批准したくてもできないということかなとも思いましたが、1992年に職業リハビリテーション及び雇用(障害者)[1983年・第159号]条約の批准が動いたのです。

 つまり、これは加藤局長体制の大きな仕事で、92年ということはまだ民間連合の運動の果実といえます。官民統一の連合としてみても、その立ち上がり時期にほぼ7年ぶりの批准を動かした。しかし、そのとき加藤局長からは、「何を喜んでいるのだ、これからは毎年批准させるのだ」との叱咤激励がありました。93年は衛生(商業および事務所)条約[1964年・第120号]が批准されて、94年はパート条約が成立し、95年には家族的責任を有する労働者条約[1981年・第156号]の批准ということで、ほぼ毎年批准が進むようになったということです。これには加藤さんの大変な仕掛けがあったと思います。つまり、民間連合がキックオフをして、続いて官民が統一した。民がそうやるのなら官も一緒にやろうではないかという連合の力が出てきて、ILO条約批准が動き出したことに、私は当時非常に感激した覚えがあります。

 そのなかで、1994年はILOの75周年で、そのときは加藤さんのお計らいで、私は1カ月以上ジュネーブへ行きまして、この75周年をめぐるいろいろな動きを経験しました。やはり批准が動き出したからと言って喜んでいてはいられない、日本にはまた連合には大きな役割がある、ILO対策というのは連合の柱になるというのをジュネーブで思いました。当時は、私自身の仕事の3分の1分ぐらいのエネルギーをこのILO対応に費やしておりました。

 ですから、ILOが100周年を迎えようとしているのは、大きな節目として、感慨深いものがあります。しかし、当時の加藤さんの言葉を思い出せば感慨深いと言っている場合ではなくて、日本は何しているのだと。連合はこの問題にさらに踏み込んでいくべきではないかということになるでしょう。あのとき担当課長さんがありませんと言っているのを、条約批准を動かしたわけです。初心に戻って大いにILO対策を進めていただきたいなと思っております。

【加藤】  私の名前が出ましたが、熊谷さんの能力と努力で、条約批准を動かすことができました。実はここだけの話というわけではないのですが、1987年に民間連合ができたときに山田事務局長が私を呼びつけて、「加藤君、連合ができたので、民間連合結成記念にILO条約を批准してくれないか。」と指示されて、えっと思いました。何で結成記念の引き出物がILO条約批准なのかと。よくわからなかったのですが、上司の強い思いだし、それまで4団体体制の中で批准が進んでいなかったことは事実でした。そういうことで、山田事務局長としては連合結成の勢いの中で、労働組合がまとまればこんなこともできるのだ、という統一の成果としてのILO批准ということも当時頭の中にあったのではないかと思っています。

 それと、民間連合の中ではいろいろな役割を果たす人たちが多くいましたが、熊谷さんは、法規対策局という少数のグループ所属でした。特に条約とか法律については非常に緻密な、ある意味人を得たということで、先ほどの会議を開くとか、あるいは、300ページを超えるILO条約に関する総覧もまとめることができました。私はいまでも労働界のなかでは手引書としてはこれ以上のものはないと思っています。熊谷さんの丁寧な仕事抜きでは語れません。

 しかしその3本の条約を批准して、それで、そのことはそのことで意味がありましたが、ではその後の労働運動全体の、日本の労働運動にとっての位置づけとか、そういうようなことにつきましては、先ほど熊谷さんが少し触れられましたが、ILOと言えば、これは官公労のテーマだと。それで、その心は基本権問題でした、たしか87条ですか。基本権問題というのが大きなテーマだったので、民間としては、ILOは官公労の話だよねという雰囲気でしたが、しかし、あの初期のスタートダッシュでやはり基本権も含めたILO条約というものについての理解が進み、実は89年以降の官民統一のナショナルセンターである連合が、基本権問題について非常にポジティブな姿勢を持つことができた。これは前回、山本幸司さんを含めて話をしたのですが、官公労にとって89年の官民統一は非常にプラスであったと言えます。

 それは民間も含めた労働界全体として基本権問題を背負うことができるという意味ではプラスだったのではないかという話も出ました。私は統一との関係で言えば、今、熊谷さんが指摘されたように連合の共通目標としてILO条約批准や関連する運動を位置づけるということで意義があったと思います。

これは労働側から見ての話です。では一方、省庁、政府、あるいは経営者から言えば労働側の動きに巻き込まれるという気持ちがあったかもしれません。その辺はどうでしょうか。

労働運動におけるILOの位置づけ(三者構成が原則)

【長谷川】  4団体から連合になったことについて言えば、ILOというのは政労使それぞれ三者が意思決定機構に参加するという独特の国際機関であり、労働側の代表というのは労働者全体を代表するということですから、一つの国で一つのナショナルセンターになったということは、ILOとの関わりにおいても非常にうまくいくというか、やりやすくなって取り組みが進むと思います。おそらく条約批准をと言った山田さんもそういう問題意識ではないかと思います。

 また、政府も使用者側もある意味でILOというと官公労という認識がずっとありました。労働基本権問題を労働組合がILOに訴えて、それに対応することが中心で、特に87号、98号条約の批准以降ずっとそうだったということです。ILOはいろいろな条約もつくり、世界の労働雇用問題の情報センターとしていろいろ利用できるところがあるわけです。なかなかそこに目が行かないという現実があって、それは今でも続いているので、もう少しうまく利用できるのにもったいないなというのが、ILOに長くかかわった私にはあります。

アジア地域での連合の役割、発信力の強化を

 それから100周年ということで言えば、ILOができたころは日本の雇用労働問題への対応は非常に遅れていたわけで、それが戦後高度成長の中で、労働条件が上がってきた。そういう中でILO条約も随分使われて、政府の法律レベルでもILO条約を参考にしていろいろな法律ができて、だんだん進んできたということです。そういう意味では日本もILOに助けられたというか、活用してきたわけです。

 しかし、今後は日本からの発信も課題です。というか、アジアの国々はまだまだILOの基準、水準には達していないところが多い。そういうところへの関心あるいは問題意識を政府も、労働側も、使用者側も持っていると思います。現在行われている議論で言えばサプライチェーン問題への取り組みなどがあります。今後、日本の政労使にとって大きな課題は、こちらから発信する、あるいはこちらから寄与するということをもう少し強くしていくことが必要だと思います。

【加藤】  今、お話しいただいた日本が発信あるいは問題提起、ある種イニシアチブをとっていくという、そういうステージでの役割ということもあるのではないかというご指摘で、これは大きなテーマとしてとっておきたいと思います。

 その前に、基本権の問題とは別にILOの効用は日本の民間労働組合からいって何だったのだろうと。今、うまく使ってという、確かに1950年代から日本の労働条件は民間を中心に改善されてきた。そのときに、先進国のレベルが、それはILOを介して、我々としては目標として大きなモチベーションになったと思います。その最たるものが、労働時間短縮だったと思います。1987年新・前川レポートが出され、我が国の長時間労働が国内、国外から問題視されました。(前川レポートは1986年4月、中曽根康弘首相の私的諮問機関である経済構造調整研究会が取りまとめた「国際協調のための経済構造調整研究会報告」のことで、1987年、新前川レポートとして年間労働時間1800時間の達成などを提言)

 あの時代私は労働時間短縮担当でした。例えばフォルクスワーゲンはじめドイツの自動車産業の労働組合、ドイツ労働総同盟(DGB)加盟ですが、そこが日本の自動車産業に対して公正競争基準としての労働時間という意味で、たしかあのころドイツの自動車労働者は1,600時間前後という状況で、日本は2,200時間のあたりでしたから、何百時間という差があったということで、これでは競争にならないということで国際会議においては結構ドイツの労働組合から、責められました。

 1987年当時から、ざっと言って300時間近く労働時間が短縮されてきているという意味で、これは労働条件としては実質的な前進があったと思います。また当然労働基準法などの改善とうまくシンクロナイズされた形での行政の努力もあったと思います。そのあたりも成果の一つと言ってもいいのでしょうか。

【長谷川】  そうですね。戦後労働基準法ができたときの日本の産業の労働条件のレベルは労働基準法よりはるかに下でした。しかし、ILOの基準に合わせて労働基準法などをつくったということで、労働基準法で定めた水準はほんとうは最低基準だけれど、最初はそこへ向けて努力していくというのが実情だったと思います。それが高度成長の中で民間労使の努力で向上してきた。そうなると、今度は労働基準法の水準も変えていけるとなってきたのが、80年代、90年代の話だと思います。

 ILOでは、1号条約が8時間労働条約です。現在100年たって働き方改革、労働時間の議論を日本ではやっているということですね。ある意味100年たっても変えられないのかという見方もあるし、逆に100年たっていろいろ進歩している見方もある、こういう話かなと思います。

【加藤】  そうですね。そのあたりは熊谷さん、どうですか。

【熊谷】  新前川レポートが労働組合のプッシュでまとめられたというのはやはり労働運動の一つピークですね。レポートを作成した6人衆の中のお1人は労働界の代表で、レポートの1丁目1番地が時短です。日本の40時間労働制を実現するという重い課題にILOという国際的な風が追い風として吹いてほしいと。それもあって政労使の枠組みが広く受けとめられたのではないかと思います。

 同時に今の働き方改革の最大の課題は長時間労働の是正に加えて同一労働同一賃金ですね。これはILOのパート条約が密接にかかわっています。

 実はILOの75周年の1994年には、この条約ができるかできないかの勝負がかかっていました。国内でも最初のパート法の盛り上がりのあった年でしたから、ここでILO条約ができなかったら大変だと。同一価値労働同一賃金が中心ですから。私が労働代表委員として参加し、いろいろ努力しました。加藤さんには、とにかく経営側とうまく話しをするようにといわれました。いわば「巻物」をいただいたのです。

【加藤】  本省訓令です。

ジュネーブでも労使関係の深化が成果を生んだ?

【熊谷】  私はジュネーブでは連日使用者側メンバーと意見交換と交流をし、労働側も非現実的なものを通そうとしているわけではないと。この条約ができるかできないかは労使関係の分かれ道になると、いろいろ話し合いを進めました。日本の経営側委員はパート条約には個別の判断としては反対でしたが、反対の働きかけはしませんでした。結果として、パート条約の投票は僅差で可決されたのです。

 だから、あのときに加藤さんに「巻物」をいただけなかったら、そして、経営側が反対しているというので、押しかけるような、糾弾のようなことをしていたら、パート条約はできなかったかもしれません。ですから、国際舞台のILO対策はもちろん重要ですが、それだけでは批准という大きな仕事は動かない。トップが動く、それからそのもとにいた加藤さんのような方が動いていただいて、アジア最大の経営者団体が、俺は反対だけれど反対のオルグはしないというところまでいった。日本の経営側がもし猛烈な反対キャンペーンをしていたら、パート条約は成立しなかったでしょう。

 こうして、政労使の枠組みの中で連合が果たせることはたくさんあるなというのを感じて、「加藤さん、条約ができました」と報告をしたのが1994年でした。ですから、今の働き方改革につながる前川レポート、そしてその次にやってきた非正規の問題の入り口ですが、ILOでいい形でリンクして、何とか乗り切ったと思います。構成組織の皆さんにも頑張れよと言っていただき、連合全体としてこの問題を扱っていたという実感がありました。

ILOパート条約と国内パート労働法がシンクロナイズ

【加藤】  国際条約としてそれを議論する場と、パート労働法を成立させようという国内の場が、運動としてシンクロナイズと言うのですか、強い連携のもとで、いい影響を与え合った事例だったと思います。

 パート労働法については各方面からの批判がたいそう強くて、私も、女性活動家の皆さん方からは総スカンを食らって、半ばつるし上げ状態でした。特にこんなもの(法案要綱を読む限り)は法律ではない。法律事項がないではないかという批判を受けながらも、小さく産んで大きく育てる。何もないということでは、あとどうにもならないので、小さな苗でもいいからとにかく植えましょうと説得してまわりました。正直に言えば経営者団体対策を中心に置いていました。同様にILO条約3本を批准したときも、実は日経連の国際部長をターゲットに、お互いに労使協調するべきとか、逆に経営者が困った場合、我々も話を聞かないということではなくて、聞く耳は持ちますよ、良い意味での相互理解を進めましょう。という感じでいい関係を作ることに専念しました。具体的には、ILOの場を使って労使が理解のレベルを高める。もっと言うと、相互関係を深化させる。日米関係の深化みたいなものですけれども、私は国際的な場における取り組みも大変重要ではないかと思っています。(1993年「短時間労働者の雇用管理の改善等に関する法律」として成立、以降改正。)

 逆に言うと、前川レポートが出てきたときの背景というのは、やはり日本の経済、産業が強くなって、国際競争力が伸びていった、そういう時代背景がありました。労働条件が低いのに競争力が高い。欧米からは、労働条件を上げてフェアな競争をしましょうという強い要請がありました。

 アメリカは露骨に言ってきましたが、アメリカ自身はILO条約をテコにはしない。というのは、アメリカはILO条約をあまり批准していません。ところが、ヨーロッパは極めて厳しく日本に圧力をかけてきた。国際的な要請というか、圧力の中で、前川レポートというのは日本の労働条件を向上させるという流れをつくっていったと記憶しているし、あのときは政府、労働省もそうでした。それから経団連もそういう国際的な位置づけをよく理解していましたし、連合自身もこの際、前進させようとムードは高まっていきました。

【熊谷】  ILOとの関係で2点あります。労働基準にはILOという心棒が必要だと思います。一つは、週労働時間を48時間から40時間に短縮するときのことですが、段階的にまず1日9時間で週45時間というのをつくったらどうかというアイデアが霞が関から流れたことがありました。それを受けて、(労働界としての)内部の会議や検討を経ずに、当時の労働界出身のILO理事が直ちに9時間労働はILO基準違反だと記者会見を開いて、それが4大紙に載りました。なるほど国内的には、確かに9時間という暫定解はあるかもしれないが、それはILOという目から見たらあり得ない選択であることを、労働側理事がアピールし、この案は消えたのです。

 それからもう一つは労働契約法です。加藤さんと「就業多様化研究会」を立ち上げ、いろいろな種をたくさんまいたのですが、その中で、1990年ごろですが、労働契約法をつくるべきだという考えを打ち出しました。就業形態が多様化している状況の中で、核となる考え方が出てきたわけです。それの前に、内々霞が関に耳打ちしたら、労働契約法という形を提案したら他の役所に口出しされて、なかなか大変ですよ、といわれました。しかしILOというのは省庁を超えたものであって、働く人のためのルールを新しい形でつくるということと縄張りは関係がないだろうと思いました。結果として、労働契約法を策定すべきだと提言しましたら、これも労働専門誌にかなり大きく扱っていただき、連合の労働契約法運動のキックオフになりました。

いずれもILOがその心棒になってくれました。そして前川レポートの大きな流れとILOがいろいろな形でリンクしたと思います。全国的な展開がさらにできればよかったかなと思いますが、最大限やった思いがあります。

社会的対話(ソーシャルダイアログ)の重要性

【加藤】  ここは長谷川さんも先ほどから言われているように、政労使、三者構成というユニークな構造を持っているということと同時に、労と政だと、ある種話の早い部分、言いかえればわかりやすいところがあります。つまり行政の問題意識、あるいは連合の問題意識はそんなにずれているわけではない。ただし難しいのは、この国の権力構造を考えたときに、政権はほとんど自民党が専売特許でやってきたし、それからそれとの関係で言えば、経営者団体が強い影響力を持っているという構造の中で、仕事を前進させるにはいろいろな工夫が要るということで、当時の労働省の皆さん方とはざっくばらんに、結構本音で話し合える関係を作ることに努力しました。

【熊谷】  ざっくばらんですよね。

【加藤】  本音ベースの、従来の4団体ではあり得ない対話ができていたということで、それも非常に成熟した関係がある程度できてきたのではないかと思います。同様に経営者団体と連合は、行政を介しない部分でどういう会話ができるのか、これが顕著に表れるのが最低賃金です。最低賃金における経営者側委員と労働側委員がどこまで深い会話をすることができるか、人間同士のやりとり、人間くささをお互いに感じながら、それを受け入れていく、対話プロセスの重要性があると思います。例えば、大島造船会長の兵藤さん(使用者側委員)なんか人間国宝みたいな存在感がありました。

 だから申し上げたいのは、三者構成という字面で言えば堅苦しいですが、それを日常とか個別の人間関係という変数で解析をすれば、個別のそういう人間関係というものの日々の集積があり、その上に三者構成という仕組みが載っているのではないかと思うのですが。

【長谷川】  戦後日本が先進国やILOの法制を取り入れたときに、労働関係では三者構成主義を全面的に取り入れているわけです。審議会も労働委員会もそうです。そういう中で、そこの委員になった人の間で信頼関係が、対話の中で醸成されてきたということだろうと思います。

 これは非常に重要な話で、少し話題がそれてしまうかもしれませんが、労働委員会に実際に出てくる中小企業の事案というのは、労使の委員が、どちらかと言うと大企業の労使から出てくる人が多いので、そういう中小企業の現場の問題をよく知りません。でもそういう問題に接していく中で、全体の今の日本の労働者や労使関係の実情がどうなっているかについて共通認識ができて、人間として皆同じような考えを持っていると、信頼関係ができる。やはり三者構成の仕組みをいろいろなところに入れたということが、日本の労使関係の安定と向上に非常に役に立ったのではないかと思います。

アジアの現状と未来へ努力(日本の役割)

【加藤】  さて、そこで熊谷さんにお聞きしたいのは、日本の場合はやはり三者構成の現実的解釈あるいはその実践レベルで、いろいろな物語ができている。ここ何年かは昔ほど濃密でなくなったという問題は少し置いておき、アジアの各国においての三者構成について、ILO的精神で見て、あるいは熊谷さんが経験した、労と使のナショナルセンターレベルでのお互いの人間関係の各論を含めて見たときに、アジアの現実はどうでしょうか。

【熊谷】  75周年から100周年、それから100周年を越えていくという区分わけをしてみると、75周年から100周年の間、今日までには働き方改革をはじめいろいろな国内の問題がありました。ここから先はアジアの中でどのように、ILOとともに連合が進めていくかということが大きな課題になると思います。

 今民間の職場はグローバルにつながっています。中小企業を含めて、そこのドアをあければもうそこはタイの事務所です。こっちのドアをあければ、そこはブラジルのオフィスです。それが当たり前になってきているときに、現実に、例えばアジアの各国に行って話す舞台としてILOは有効だと感じます。

 例えば、南アジアのバングラデシュの話をいたしますと、国際労働財団でそのプログラムを初めて持って行くときに、使用者側とどう話し合うかということになったのです。そうしたら、ジュネーブでILOの会議に出ていたあの人がいるではないかと、それでお会いしたときにILOの話が出たら、すぐに打ち解けて、ILOということを言ってくれるなら一緒にやりますよということで、現地の人たちにもとても感謝されました。

 つまり、日本の連合とILOということで、これなら私たちも三者構成で一緒にやりましょうということをアジアにもっと広げていく必要がある。では、現実はどうかと言うと、アジアの三者構成というのはおよそ世界の中でも一番低いレベルにあるところがまだたくさんあります。アフリカや南米というのはいろいろな経済問題等はありますが、社会制度はアジアよりしっかりしている点がある。アジアはやはり日本がこれだけ経済成長をし、また進出をしていますから、その中の三者構成的なものを育てていくということが、ディーセントワークを実現するためのほんとうの鍵になっていくはずです。しかし、実際はそれぞれの国の三者構成を見ると、例えば最低賃金ではなんとか三者構成が立っているが、一つ一つの労働政策のテーマについてきちんと三者で話し合うようになっているところは極めて限られています。

【加藤】  アジアの各国が。

【熊谷】  はい。アジアの国のほとんどはILOに加盟しています。それを単に加盟して援助を受けるというだけではなくて、これから中進国、工業国になっていくわけですから、三者構成の考え方をちゃんと正面から受けとめるとこが必要です。例えばマレーシアです。マレーシアは中進国から成長国になる境目にいますが三者構成はうまくいっていない、そういうところに1つずつ地道な応援をしていくことが重要です。アジア諸国は、三者構成のレベルはまだ低いが、今まで経験を積み重ねた日本の政労使がすぐそこにいますよということが、1つの鍵だと思います。

【加藤】  今、熊谷さんから実践的な、経験をベースにしての話を伺いましたが、10年ぐらいですか、現実に関わられたのは。

【熊谷】  そうです。

ILOから見る、アジアのサプライチェーン・ルート

【加藤】  長谷川さんはILOのアジアの責任者という立場で役割を果たされたし、ILO機構の中からアジアを見てこられたと思います。今、熊谷さんが言われたアジアの現状ということについてお願いいたします。

【長谷川】  労働組合もそうでしょうし、使用者団体、あるいは政府も含めて、アジアでは労働に関係する組織はすごく弱いのです。そういう中で、ILOはかなり存在感が強いですから、影響力は大いにあります。またアジアの中では、日本がどうしているかは注目されているし、各国に対し日本の動きは影響する。日本は国内の労使の議論をやっているわけですが、各国からは、例えば日本がILO条約を批准していないのはどういう訳なのか、というように注目されてしまうので、日本での問題解決というのが非常にアジアに影響します。

 中国とかベトナムなど社会主義国から移行した国は少し違いますが、一般的には最初に言ったように、アジアの国々の政労使で労働雇用に関係している組織は非常に弱いので、三者構成主義を普及することももちろん大事ですが、それだけでは問題解決しない。インフォーマルセクターと言いますが、公式の経済社会でカバーされていないところをどうするか。これにも社会保護なり、社会保障を適用していかなくてはいけないという問題もあるので多国籍企業、日本の企業で言えば日系企業がアジアに入り込んでくる中で、サプライチェーン・ルートの問題解決というやり方も必要でしょう。労働組合が問題に取り組むのが本筋ではあるけれども、国によってはNGOとか、いろいろ地元の団体がある意味労働組合になりかわってというか、本来は労働組合が取り上げるような問題もやっているところもあるわけです。それはだめだと言ってしまってもいけない。

 実際に働いている労働者の生活をどう向上さるかをアジアの中で考えると、いろいろなルートでやっていかなくてはいけないのだろうなと思います。ILOも技術協力活動を現場でやっていると、その国の影響力のあるNGOとか、いろいろな団体と連携しながらやっているというのが現実だと思います。

【加藤】  先ほど熊谷さんのほうから就業形態に関する研究会報告をずいぶんと昔にまとめ、労働契約法などいろいろな問題提起をされ、二十何年かかりましたが、少しずつ進展していますし、加えて育児休業に対する雇用保険からの給付ということは、これは次回花井さんが来られたときに政策制度課題の具体的取り組みということでお話をしていただこうと思いますが、ある意味うまく前進してきていると思います。それから非正規対策についても当時問題提起をしていました。それで、パートタイム労働者の組織化に取り組むことで一部前進をしていると思います。しかし組織化だけで非正規が抱える問題を解決するということについては、私は少し迂遠というか方法論として心もとないなという感想を持っています。

 それで、熊谷さんの感想をお聞きしたいのですが。まず労働組合が法律を含め実体的にも、そして一番大事なことは民主的な労働組合活動ができているかということが大切なポイントだと思いますが、そのような視点から見て、アジアとはいっても多様性のあるアジアというのでしょうか、いろいろな場面があって難しいなと思わざるを得ないと思います。労働組合という仕切りで対応していくことについてもある種の限界はあるなとも。

 そうすると、NGOが現実的にそれらの国では問題解決の主体者としての位置づけがある、または実績もあるということになったときに、連合自身が、ではそういうNGOの団体との交流をも視野に入れて、例えばアジア全体の労働者の労働条件向上のために実効性のある対策を取っていくということを、発信していく、運動のネタにという、そういう意味合いも多分長谷川さんはお持ちだったのではないかなという気がしましたが、その辺はどうですか。

NGOとのコラボがこれからの課題

【熊谷】  まさにキーポイントだと思います。

 私は連合ではまずILO、その後OECD(Organisation Economic Co-operation and Development:経済協力開発機構)の会議にも出るようになりました。そこで勉強をしたのは、NGOのメンバーとの交流やコラボを積極的に進めようという動きです。ただ、これは組織の中にもいろいろな意見があって、イギリスの労働組合会議(TUC)がそれをディスカッションする場に招かれましたが、これからもっと一緒にやるべきだという意見と、彼らは信用できるのかという伝統的な意見がTUC(Trades Union Congress:英国労働組合会議)の中でもありました。

 しかし大きな流れとして労働組合は、NGOは市民と一緒に歩むべきだということだと思うのです。そういう点で言うと、日本の労働界がこれだけ一生懸命やっているのにだんだんシュリンクしてきているように見られがちだというのは、志を同じくするような市民やNGOとの連携が限られているからだと思うのです。ですから、私は大胆にNGOの皆さん方と連携する。全部一緒にやる必要はないのです、労使交渉がありますから。ただ、いろいろな社会的側面では一緒に取り組む。そこから改めて社会運動全体の中で共感を呼ぶような運動にしていくということが、これから非常に重要になってくると思っています。

【加藤】  鷲尾さんが会長のときに、企業別労働組合の持つマイナス面、これを克服していく必要があると言われて、それで、ベテランの活動家にすれば、それはそうだけれど、それでは仕事にならないと。いわば日本の労働組合の構造的な部分を、そんな一階を壊して空中に浮かべてどうするのだという受けとめ方もありましたが、私は不思議な気がしているのは、ILOの活動や国際労働運動から最も距離のあった企業別労働組合の、企業別の労使関係が、実は一番最前線でその問題に直面しているのです。

 それは、いわゆるサプライチェーンが国際的になったグローバリゼーションの中で、ドアをあければベトナムの事務所、こちらのドアをあければ上海のエレベーターの関連会社につながっているという意味で、そこで発生する諸問題について日本の企業別労使の経営協議会の議題に直結している。そこの場面でILO関連、国際的課題をどう扱っていくのかということです。

 それから労使紛争が起こったために、あるいは、水害が起こったために現地の部品工場が操業停止になり、国内の組み立て工場が何日も動かなかったとかいうことを含めて、企業別のレベルが一番海外と直結しているとの認識のもとでこの問題を捉えると、従来にはない考え方の切り口が浮かんできたような感じがするわけです。その辺も含めて、長谷川さん、サプライチェーンの問題を含めて、企業別の、特に企業サイドから強い要請だとかニーズがあるのではないかとか、現地で発生する労働問題ということで。

【長谷川】  日本の企業がアジアを中心にしたサプライチェーンとつながっている中で、サプライチェーンで起こっている問題が直に前線では分かるわけです。そういうことを扱っている若い人にこれでいいのかという問題意識が出てきている。サプライチェーンにおける労働問題も、もう人権問題と言ってもいいような問題を何とかしなくてはいけない。これはCSR(Corporate Social Responsibility)をやっている人たちの問題意識が中心かもしれませんが、そういうものを企業別の労働組合も取り上げていかなければいけないのではないかと思います。

【加藤】  わかりました。

  そこでILO100周年、連合も近く30周年、そういうふうな節目にあって、活動家熊谷さんとして、今活動している現役の皆さん方に、言葉として何かありましたら。

ILOの場を活用し多様な人材開発を

【熊谷】  ILOは来年100周年を迎えるわけですが、この100年間に世界に広がった政労使の三者構成により、よりよい職場、働きがいのある職場をつくっていくことが、ほんとうに実現できる段階を迎えていると思います。

 世界の生産力はこれだけ上がっているし、第四次産業革命も進んでいるわけですから、それを三者構成でいい形に持っていくまさに正念場です。これからの若い人たちの大きな課題だと思います。企業別組合についてもいろいろ言われます。企業の中には世界に誇れる多様な人材がいますから、その人たちを活用して、企業別組合、あるいは会社からILOに出向する、国際NGOに出向する、その経験をサプライチェーンを含めた企業グループに持ち帰るというダイナミックな取り組みをすれば、日本がこれまで培ってきたパワーは、ILOを媒介にして新しい日本とアジアの関係をつくるために役に立つ、この分野では相当なことができるはずだと思いますが、これは若い人たちにかかっています。

【加藤】  なるほど。なかなか壮大な問題提起です。これはこれでテーマとしてさらに掘り下げていく価値があると思いました。

 それでは、長谷川さん。

国内にあっても国際的な視点に立った議論を、またうまく活用してほしい

【長谷川】  企業がアジアや世界とつながる、ドアをあけるとベトナムだという話が出ましたが、そういう状況はこれからもどんどん進むでしょう。そうなると、日本の国内だけで通用する議論をしていてはいけない時代、つまり、国際的な議論がどうなっているのか、それが全ていいというわけではないのですが、それを踏まえた上での議論が、大いに必要になる。そういう中で、ILOというのは政労使が参加している情報センターみたいな機能があるわけなので、条約の批准はもちろん大事だけれども、条約だけの話ではない。さっき熊谷さんが、ILO勧告に触れられましたが、それだけではなくいろいろな議論が行われているILOに注目をしていただきたいと、100周年を機に私としては思います。

【熊谷】  ひとつつけ加えますと、政労使がほんとうにインフォーマルに腹を割って話すことはアジアでは可能だと思います。 私は海外に行くと、いつも、政労使のインフォーマルな話し合いの場をつくってはどうですかと話しています。単にインフォーマルだと言うと何か怪しげに思う人もいますが、そこにILOが一枚かむことによって違ってくる。ILOを身近にすることにもなると思います。これは加藤さんに教えていただいたことですが、自分の本来の原則を胸に持ちながらインフォーマルな対話をすすめるということの意味を、アジアに広げたいと思っております。

【加藤】  なるほどわかりました。ILO1号条約が8時間労働。そして100年。現在の日本は8時間労働法制を一応達成したとも言えると思いますが、現実は三六協定が付随していて、イエス・バット・ノットになってしまって、何かそこに今日働き方の問題が、それも安倍政権の下で白日にさらされて、その中で今起こっていることは、人手不足でもう引っ越しができない。ドライバーの勤務状況から言ってとても無理だという、昔では考えられない事態が発生しているということです。100年間の歩みの中で、いろいろありますが、私どもが抱えている課題もなお前進させていくという必要もあろうかと思います。

 今日いただいたお話というのは、私は現在の労働組合の活動家の皆さん方が明日に向かう運動を再定義していくときの参考にしていただければいいのではないかと思います。

 どうもありがとうございました。

【長谷川】  ありがとうございました。

【熊谷】  失礼いたしました。

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【講師】熊谷 謙一氏、長谷川真一氏

熊谷謙一氏:日本ILO協議会企画委員、国際労働財団アドバイザー、政策研究フォーラム理事。
自動車工場勤務、全国団体を経て、1989年から連合法規対策局部長(加藤敏幸氏が局長)、その後、労働法制局長、経済政策局長、国際局長など。2009年JILAF副事務長、2013年同タイ事務所役員。このほか、政府審議会委員、ISO26000国際起草委員など。2016年「アジアの労使関係と労働法」で日本労働ペンクラブ賞受賞。
長谷川真一氏:日本ILO協議会専務理事、ものつくり大学理事長。
1950年東京都生、1972年労働省入省、労政局労働法規課長、労働組合課長、労働基準局監督課長など歴任、厚生労働省総括審議官(国際担当)を経て、2005年ILOアジア太平洋総局長(バンコク)、2006年ILO駐日代表、2012年日本ILO協議会専務理事、2015年ものつくり大学理事長

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