遅牛早牛
「政党・政治の歴史を踏まえた今後の政治」ー電機連合NAVI №65(2018年Ⅰ号)から転載ー
目の前にある悲嘆と悲観
2018年は例年にも増して騒がしい年になるだろう。地球は一つ。国境はあるが宇宙船から眺めるとそんなものはない。だから壁を造らねばと、彼の国の大統領はいう。そんな中、壁があっても無くてもイエメンの惨状はさらにひどくなるだろう。港湾の封鎖は大量死への確実な一歩となる。
昨年12月末台風27号がフィリピンを襲い大量の雨を降らせた。気候変動を原因とする自然災害が多くの人々を害する。干ばつや山火事の被害ははかり知れない。
さまざまな紛争の出口は死者、負傷者、生活破壊、避難民の山である。終わりのない悲劇の中で当事者は自身の正義を叫ぶばかりだ。
世界人口の約半数36億人分の総資産と同額の富が8人の富豪に集中していると2017年オックスファムは伝える。富の集中は加速度的だ。タックスヘイブンに置かれている個人資産はおよそ7.6兆ドル。その推定節税効果は1,900億ドルで毎日1ドル1年間5億2千万人に配布できる額である。所得再分配における金の流れでいえば逆向きである。加えて異次元の金融資産集中。これで災いの起こらないはずはない。
強欲資本主義と指弾されたのはリーマンショックの後だったか。否もっと前から金融経済化の弊害は指摘されていた。働かない金が金を生むことをどう説明すればいいのだろうか。子どもたちに。
これらの悲嘆と悲観から本当に脱却できるのか、たしかなのは悲嘆と悲観の放置が暴力を生み、暴力はカタストロフィー(崩壊)を招くことである。
保守主義の発生と役割(フランス革命への対抗)
1789年にフランス革命が起こった。驚愕した英国のエドマンド・バークは翌年『フランス革命の省察』を出版し革命への異論を提起した。今日につづく保守主義の嚆矢である。イギリスは名誉革命いらい王権を制限し、民衆の声を議会制度で政治に反映させながら王制国家の発展をはかることに腐心してきた。バークはイギリス政治の自負を背負う政治家である。
このときのバークの心情を宇野重規は『保守主義とは何か』(中公新書)において「フランス革命は王国の過去の原理の回復どころか、むしろ歴史の明確な断絶としてなされた点にバークは注目する。これに加えて、フランス革命は、何らの歴史的根拠ももたない抽象的な原理に自らの立脚点をおこうとした。」「過去に回帰すべき範を求めるのではなく、抽象的な原理に基づいて未来へ跳躍すること―バークが震撼したのは、そのような事態であった。」と述べている。
歴史の断絶は営々と積み重ねてきた先人たちの知恵の放棄であり、海のものとも山のものとも分からない抽象的な原理に人々の未来をゆだねることは無責任極まりないというのが保守主義の主張である。
社会主義国の誕生と資本主義の軌道修正
1917年ロシア革命が勃発し世界は震撼した。とくに資本主義体制のもとで大いに発展を享受していた欧米列国は社会主義国の誕生に恐怖心と敵がい心を隠さなかった。資本主義と社会主義をめぐる論争のなかで保守主義者が持ち出したのは理性のみを羅針盤としてもちいることの危険であった。
唯物論は理性を基盤とする。しかし理性は人のほんの一部である。だから理性のみを羅針盤とすることには無理がある。かかる保守主義からの指摘は唯物主義のみならず啓蒙主義や進歩主義の脇腹を刺す。たとえば人々の感情がなせる理不尽ともいえる数々の行いをどう説明するのか。また理性で抑制できるのか。できないではないか。ならば永い時間をかけ紡ぎだされた、また多くの経験に裏打ちされたやり方のほうが適切ではないか。少なくとも犠牲は小さいはずだ。古い家でもしっかり補修をすれば十分住めるわけで、それを打ち壊して奇妙な建物を建ててどうなるのか。この、元も子もなくなるとの指摘は十分な共感を勝ちえた。あとは社会主義国家の推移を見まもるだけだ。
このように社会主義国家の行きづまりを期待しながらも、同時に社会主義という強敵の出現によって資本主義は強欲の呪縛からとき放たれ、福祉政策の導入はじめ民生重視に舵をきり体制の維持をはかる機会をえることになった。いわゆる軌道修正であり、保守主義が内包している改革機能の発揮である。
保守優位の時代へ(浮かび上がる保守主義の死角)
さて二つの革命にたいする体制側の反射反応という側面をもつ保守主義ではあるが、歴史の継続性、文化・伝統の重視、コモン・センスの尊重、理性を超えるものの存在や感情・感覚など森羅万象にわたる人間のありようを主張することにより人々に正気を取り戻させた。
守るべきものがあり、発展させるべきものがある、と多くの人々が感じることが基盤となって社会を支えることができるし、安定した社会があってこそ人々の安寧がはかられるとの主張はきわめてわかりやすい。しかし見方を変えればそれは現状肯定でありまた自己肯定でもある。
では守るべきものがないと考える人々にとって保守主義とは何であるのか。そもそも守るべきものがあると思えることは自らの優位性の発現ではないのか。という批判を完全にかわすことは困難であって、ゆえに議論は持つものと持たざるものの、例のごとく終わることのない論争に化してしまうのである。生きるに切羽つまった人々にとって保守主義者とは倉に鍵をかけたまま理屈を唱える人であり、他人の不幸に鈍感で動きの鈍い恵まれた人のことである。
また社会のバランサー(平衡器)として保守主義にはある程度の評価があるとしても、フランス革命、ロシア革命の原因となった人々の悲惨をなくす、あるいは予防するといった役割を期待できるのか、との問いには、社会矛盾を是正する積極意思に欠けているという否定的評価が返ってくる。つまり革命などという大業なことがないかぎり、また社会主義などという競争相手が出現しないかぎり何もしない状況追認主義におちいるのではないか。これが保守主義に対する根本的批判である。
保守主義者への警告(今守らなければすべてを失う)
さて、ここで保守主義者に対する批判を述べたのは、目の前にある悲嘆と悲観に真剣に向きあうべき人々の第一に保守主義者をあげたいからである。なぜなら現時点で保守主義は主流である。少し譲っても保守優位であることは疑いようがない。つまり主流にあるものが背負う責任である。
振りかえれば1980年代にはリベラリズムが静かに衰退し、同時に進歩主義の劣勢が顕著になっていった。特にレーガン・サッチャー政権の出現は保守革命であり保守からの改革であった。そして東西冷戦はソビエト連邦の崩壊をもって終結した。また新自由主義の勃興は理想主義に傾くリベラリストや進歩主義者を追いつめ、政府から救済者としての役割をもぎとった。また社会主義国はその意義を見失った。
リベラリストや進歩主義者が主張した、世界をまるごと救済しうる政治経済体制とは資本主義に対する異議申し立てであった。しかしもはや異議申し立て者はいない。改革開放経済という二重基準の中国を除き、社会主義国は虫の息である。加えて情報技術の進展がグローバル化を加速したことから資本主義とくに金融資本主義の暴走に歯止めが効かなくなった。金が金を生むのではない。逆向きの所得移転であり、それは金が金を吸いあげることであり、巧妙な収奪である。問題は審判も警官も裁判官もいない、やりたい放題の世界になっているところにある。
誰が審判となり警官となり裁判官となるのか
さて今日、問題解決の重責を背負っているのは200近い国家・地域である。これらの国家・地域の多くは、成立過程においてそれぞれ異なる歴史上の桎梏を有しており、それゆえ共通認識を作りあげるのは極めて困難といえる。
また国家・地域をまたぐ課題についての総括的な解決手段は開発途上であり、基本となる原理・原則の確立さえ容易ではない。
今ある悲嘆と悲観の解消は、ほんらい国連と国家・地域に期待すべきであるが、個々の国益優先を制御できない現状において前進は難しい。
難しいことは分かっている。だから極端すぎるとは思うが、この半世紀主流となった保守主義者こそ、目の前にある不都合な現実を直視し人々の悲嘆と悲観を解消する何かをなすべきではないか。すなわち世の仕組みとして、また政治体制の変革をともなう恒久的解決策として何かを提起しなければ、守るべきものがあるとか、歴史の継続性とか、文化・伝統の重視とかいろいろ言ってみてもむなしく聞こえるだけだ。
保守主義政治家よ、今日なすべき何かがあるのではないか。強欲資本主義の暴走を許し、少しばかりの分け前に喜々としている手先に堕する気はないだろうに。
日本が抱える政治課題
経済と同じく政治もグローバル化している。地球の片隅で起こっている悲惨は世界の共通課題である。遠く離れているから、また宗主国ではないから、あるいは別に原因を作ったわけではないからと、かかわらなくてもいい理由を山のようにあげたところで、いずれ、かかわらざるを得ない。世界の課題はわが国の政治課題であるからつねに一歩踏み込む気持ちが必要である。
今日EU諸国において移民嫌悪感情をあおりたてる政治勢力が台頭している。「どんな政策であってもその負担は国民の肩にのしかかる。難民への支援にしても年々細っていく年金からと思えば人道という言葉が色あせていく。移民が仕事をうばっている。もう限界なのだ。きれい事はいい。誰がこの気持ち、この立場を理解してくれるのか。代表してくれる政党はどこにいるのか。」といった声がある。わが国においても移民問題ではないが同種の主張がある。余裕があればその限りにおいて人は暖かく援助をおこなうものであるが、現実は厳しい。余裕を失った今すべてを背負うことはできない。その背負いきれない現実と思いをかき集めるのが現場本音主義である。
現場本音主義へのすり寄り
現場本音主義の兆候がすでに見られる。たとえば生活保護制度(不正受給)をことさらたたく。身を切る改革が先だと迫る。公共政策を負担の側からしか見ない。公的年金は損だと言い募る。
これらの声を主張として受け止めながらも、それらには政策遂行にあたり政治的にいくつかの整理が必要であると人々に理解を求めなければならない。
しかし現実にあるのは現場本音主義へのすり寄りすなわち迎合である。その原因のひとつはリベラリズムや進歩主義の衰退にある。世界まるごと救済政策が仮に夢物語だとしても、そういった理想論の可能性をきれい事だ、建前だと粉砕してしまったことから、現場本音主義に対しあなた方の主張より優先すべき事がらがあると胸を張って言い切る根拠を政党、政治家が見失い、すり寄ること以外できなくなっているのではないか。
主権者との対峙が政治家の任務
政治とは主権者との対峙である。対峙するから政治は磨かれ進化する。おもねるだけなら芸人や太鼓もちで十分である。たとえば「社会保障と税の抜本改革」。安倍政権は景気への影響を理由に消費税率の引き上げを再度延期した。社会保障の持続可能性を高め、とくに若年層の公的年金制度への信頼を高めることが喫緊の課題であると、立場の違う三党が合意に達した、にもかかわらず媚びた、と思う。現場本音主義にもとづく当面の景気対策が統合政策論である社会保障と税の抜本改革に優先するという政治判断が現におこなわれた事実が今後どのような影響を与えるのか。財政規律のみならず各方面への影響を危惧する。
統合政策論がないから理念なき政治と言われるのだ
現場本音主義は個別政策第一である。だから現場本音主義の意向に沿う政策とは政策間の整合性にこだわらない。体系化とか統合化とは無縁のものである。しかし単一の政府が議会とともにおこなう政治が部分において相反関係や内部矛盾を包含することはあってはならない。混乱のもとである。
だから現場本音主義にもとづく政策はいずれ上位の統合政策論によって評価すなわち取捨、改定される運命にある。他方、現場本音主義を無視し統合政策論にうつつを抜かすようでは政権の屋台骨が揺らぐ。
現場本音主義は帰納的であり統合政策論は演繹的である。現在のわが国では帰納的手法が主流であるが、政党たるものまずは統合政策論の創造に着手すべきである。また主権者が現場本音主義に傾きすぎると、政党・政治家は迎合政策に走りやすい。
そういう意味において保守政治家こそ統合政策論にかかわる議論を積極的になすべきで、これによって保守主義の現状追認主義という病癖から逃れられる。
安全保障をめぐる議論に欠けるもの
わが国の安全保障における日米安保重視が統合政策論に値するとは思えない。現下の安全保障上の環境は大きく変化し従来になく複雑かつ緊迫化していることは間違いない。ということから日米安保重視という部分政策(ピース)だけでは不十分である。なぜならわが国の安全保障上の脅威は軍事上のものに限らず、自然災害やエネルギー・食料などの資源確保をはじめきわめて多岐にわたり、それらへの対応は政策相互に調和がとれたものでなければならない。加えて政府、地方自治体、民間など多くの主体の参加が必要であり、相当に大がかりな話である。だから安全保障上の統合政策論が日米安保重視という単品で結構ということにはならない。
1951年のサンフランシスコ講和条約締結いらい東西冷戦下にあってわが国をとりまく情勢はあるいみ単純であった。西側陣営として米国のリーダーシップのもとで選択肢の限られた政治状況にあったことは確かであり、とくに全面講和をとなえた日本社会党は親ソ反米の立場から教条主義的対応に終始し議論の前進をはばんだ。日本社会党の無策と自民党の怠慢がなすべき統合政策としての議論を凍結させたといえる。
日米安保重視を基軸にするとして、現実の安全保障政策の展開には多くの選択肢がありえる。しかし同盟国の軍事的側面が強調されればされるほどわが国の選択肢は狭くなり、とくに外交的要素は軽くなる。逆に軍事的側面が緩めば選択肢が広まり、外交的要素は重くなるが、自衛隊の任務は質量とも増大する。皮肉なもので、憲法9条への思い入れを強めれば強めるほど、同盟国の軍事的側面が強くなり、わが国の外交の独自幅が狭くなる。また自衛隊と米軍との関係はかぎりなく深化する。関係の深化を歓迎する向きもあるが、何事も程度の問題であろう。北朝鮮の核とミサイル開発により安全保障上の脅威が高まっている現状において、そもそも論のぶり返しはもう遅いといわざるをえないが、統合政策論としてなすべき議論がありえたと指摘しておきたい。国の独立をどこに求めるのか、本来右翼陣営こそがかまびすしく言い募るはずなのに、米軍追従という不本意状況のリスクをどのように考えているのだろうか。強い相手と組むことが最善だということであれば、何をか言わん、それは議論の打ち切りではないか。(2018年1月)
追記
2018年春、米朝関係が動いた。11月の米国中間選挙を意識した演出との見方が多いが、事態を動かしえたことは事実である。これが今後どのような成果に結びつくのか今は分からない。しかし利害を異にする周辺国にとってどのような結末がいいのか、「非核化」の具体とあわせ他の事項も重大関心事であろう。特に半島の安全保障体制の行方については東アジアの安保構造に直結するものであることから、我が国としては交渉の推移に対し能動的に対応する政治行為と受動的に対応する政治行為とを分別した対応が求められる。前者は当事国である米国への注文であり、後者は交渉結果を前提に我が国の安全保障体制の見直しに着手することである。すなわち防衛体制の前提基盤の変化であるから「変えなければ」ならない。変えるためには基本論議が必要である。この点、現在の政権の専制的手法では国論の統一は難しい。それこそ戦後レジームの変革をいうなら、日米の役割を含め周辺国の行く末を洞察しながら総合的なビジョンを描かなければならない。これは統合政策論である。
残念ながら現下の日米関係は、慣例となっている表記上の国順を変えてもいいぐらい実態からいえば米日関係であって、我が国の依存性がきわめて高い。普通、右翼勢力は国家中心主義の傾向が強く、行動は愛国主義を表象することが多いが、我が国では親米主義ともいえる対米無批判が黙契となっているようである。思わず「あなた方は本当に愛国主義者ですか」と声が出そうな、まことに不思議なことであり、国民にとって不幸なことである。なぜなら右翼勢力の思考と行動の質が国家の団結力と品格を下支えしていると考えているので、その意味において現在のあり様は相当に不幸であり残念なことである。
右翼に限らず思考停止に近い状況にあるのが戦後の日米関係の日本側から見た実相ではないか。だから安保条約にかかわる論争が沈静化してからの約50年、半世紀におよぶ思考停止に終止符を打ち、改めて国家存立の条件を吟味し地域の平和と繁栄を確保すべく安全保障のあり方を広く議論すべき好機として米朝協議を受け止める必要があるのではないか。まさに保守主義者の出番である。(2018年9月)
加藤敏幸
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