遅牛早牛

暑い夏は静かに国体を思うべし ③ 皇紀は2600年

 「金鵄上がって15銭、栄えある光30銭、朝日は昇って45銭、紀元は2600年、あゝ一億の金は減る」と母親が口ずさんでいた、昔の話である。

 国民歌「紀元二千六百年」は皇紀すなわち神武天皇即位紀元2600年を祝して創られたが、前述の替え歌のほうがはるかにはやった。皇紀2600年とは、1940年、昭和15年でありすでに日中戦争は泥沼化し、時の政府は戦費調達のためタバコの値上げを断行した。もちろん不評で、国民の反発は替え歌に表れている。

 ところでこの皇紀紀元は明治5年に定められている。明治政府の力作である。正しくは肩に力の力作である。

 国体論のスタートは明治維新にある。なぜ神武天皇即位を紀元としなければならなかったのか。西暦645年「大化」が元号の初出であるから、紀年法として使うなら「大化」元年を、さらに元号の連続性を重視するなら西暦701年の「大宝」を起点とすれば何の問題もないうえにすごく便利である。にもかかわらずなぜ、在位年数はおろか実在すらあいまいな伝承神話から類推しての紀元を創作したのか。もちろん歴史学ではなく国民の伝承として神武天皇を初代とすることに異論はないが、紀年法は別である。

 中国の元号の始まりが西暦紀元前115年前漢の武帝の「建元」と言われていることから、それよりも古い西暦紀元前660年を紀元として採用したかったのではないか。つまりは明治政府の精一杯の見栄であったと思う。王政復古を果たしたものの、公方様と天子様、どちらの方が有名か、あるいは値打ちがあるのか。明治政府の金看板である天皇の付加価値を最大化したいとの切実な思いは十分理解できる。とはいえ神武天皇即位紀元はやりすぎであった。制定した明治5年は皇紀2532年にあたることになるが、2531年間は全く使われなかったことになり、とんでもなく高い下駄を履くことになる。またその2531年の根拠もあやふやである。

 根拠薄弱。こんな真似をしなければ天皇の正統性を主張できなかったのか。そんな無理をせずとも天皇の正統性は疑いもないのにと現在に生きる私たちは思うが、当然それなりの意図があったと思う。明治初期の時点から過去に向かって2500年も時間軸をスライドさせる意味は、260年余続いた徳川の御代といえども2500年に比すれば話にならない、矮小であるとの印象の生成であろう。

 つまり明治維新における国体とは2500年におよぶルーツを持つ天皇による親政であり、たかだか300年に満たない徳川政権とは雲泥の差がある。つまり月とスッポン、格が違うと言いたかったのだろう。とあれ世間に対しありがたがらせるのはいいとして、明治維新による天皇親政とは専制君主政治を目指すものなのか、あるいは「君臨すれども統治せず」なのか、誕生したての明治政府としても悩みは深かったであろう。とにかくこの時点で天皇を絶対君主と位置付けるには実力において相当の無理があった。また絶対君主制を支えるインフラが整っていなかった。絶対君主制を支える最も重要なインフラとは何か。それは統治上の正統性であり、軍事、治安、徴税などの集権体制である。

 絶対君主制としては不十分であったが、天皇の権威を最大限活用しながら、旧来の幕藩体制の弱体化を図り、中央集権体制を急いで打ち立てなければならない新政府は欧米列強の圧力と折り合いをつけながら、綱渡りのごとく国家建設にまい進し、なんとか明治憲法発布、帝国議会開設にこぎつけた。ここまでは金色の揺籃期といえる。

 問題は絶対君主制の表衣装と「君臨すれども統治せず」つまり君主委任制ともいえる肌着あるいは内衣装の二面構造を無批判に内在せしめたことではないか。「万世一系」「天皇大権」「統帥権」など憲法上は現人神として位置づけられながら、実態上の政治は元老あるいは内閣総理大臣が辣腕を振いつつ、19世紀末から20世紀初頭にかけ、日清、日露戦争を戦い抜き、第一次世界大戦を経て列強国の一角を占めるに至った。そののちは国際連盟の常任理事国など国際的地位を高めながら、国内においては政党政治の進展ならびに普通選挙の実施と民主化の敷衍を着実に進めていった。ここまでは銀色の成長期といえるが、国全体の政治の現実は立憲君主制であり、普通選挙に支えられた政党政治色が強まり、憲法条文の形骸化が目立つようになった。銀は次第に酸化し黒ずんでいく。

 もはや「天皇大権」も「統帥権」も憲法表現の綾であって実質は「天皇機関説」で間違いはなかった。明治政府を支える憲法上の各種の仕掛けがもはや不要になった1920年代、憲法改正に取り組むべきではなかったか。

 歴史批評は後知恵との批判を免れない。開き直るつもりはないが、ここは思い切り後知恵でいうなら、軍部が跋扈する根拠を憲法上無力化する重要な作業が維新の後始末として残されていたと思う。では不磨の大典と呼ばれた明治憲法を手直しする大仕事はだれがなすべきであったのか。それは元老の責任であるし、元老以外にできるものではない。そもそも、後世の批判を受ける憲法の瑕疵は伊藤博文たちにとって使い勝手の良い、ある意味ご都合主義を具現化したもので、その時代にあっては確かに必要な、つまり政治的合理性を有すると考えられるが、不都合な事項をいつまでも放置してよいことにはならない。という意味で、伊藤博文公の責任は重大と考える。もっとも暗殺による死は早すぎたことは間違いない。

 元老は憲法、法律に根拠をもたないことから、範囲などについて諸説があるが、いわゆる元老といわれている伊藤博文、黒田清隆、山縣有朋、松方正義、井上馨、西郷従道、大山巌、西園寺公望、桂太郎の9名の内、1920年代に存命であったのは3名だけだった。そのうちの山縣は1922年、松方は1924年に没し、残された西園寺は1940年すなわち皇紀2600年に没している。

 本来、明治憲法の不具合を手直しすべき元老たちも、1920年代半ばには西園寺一人体制となり、総理大臣の奏薦だけでも重荷であったと思われる。つまり維新の元勲が元老として国家建設の大任を果たしていったが、いつしか西園寺一人を残しみな旅立ったのである。大きな、大きな宿題を残して。

◇ 薩長の 栄光かすむ 大荷物 一人公望 やがてしりもち

 伊藤、山縣、井上、桂は長州であり、黒田、松方、西郷、大山は薩摩であった。残された西園寺は一人公家である。 

 「天皇大権」「統帥権」と高らかに謳いあげるが、「侵すべからず」と天皇に責任はないという。では誰が政治責任を負うのか、それは不定であるともいう。そんな憲法のもとで国家経営が可能なのかと聞けば、大事なところは元老が司り、たとえば内閣首班、総理大臣の奏薦は元老の任務だと答える。ということなら、この国の責任は元老が負わなければならない、という結論になる。元老健在な間はいざ知らず、不在となればどうなるのか。

 歴史は過酷で、このあとワシントン、ジュネーブ、ロンドンと軍縮交渉は続き、軍部の突き上げは日々激しさを増す。軍人の雇用問題である。軍部は憲法の瑕疵を執拗に突き、政府は統制力を弱めていく。本来銅色の成熟期にいたるべきものが暗黒の闇に導かれていく。

 最後の元老西園寺公望公が没した皇紀2600年は明治国家の機能不全が決定的となった時期であり、国家崩壊の導火線に火が付いた年であった。

◇蚊やりおく 姿なき敵 思いつつ

加藤敏幸