遅牛早牛

財政審、31年度予算編成等への建議について(「悲劇」ってなに?)

財政審の建議がらしからぬ表現

 財政制度等審議会(財政審)の平成31年度予算編成等に関する建議(11月20日)には「悲劇」が4回使われている。「共有地の悲劇」として2回、「悲劇の主人公」として1回、「悲劇から守る代理人」として1回。他に「負担先送りの罪深さ」、「歪んだ圧力に抗いきれなかった」、「憂慮に堪えない」、「エピソードに基づく政策立案」、「甘い幻想」と審議会にしては異例の表現を連ねている「平成財政の総括」という6ページほどの文章を一読して、これは言い訳なのか敗北宣言なのかはたまた何なのかと戸惑う。(以下「 」は同建議からの引用)

警告は政治家に届いているのか

 政府が膨大な借金を抱えることを是とする人はいないが、時としてやむを得ない場合があることは理解されている。災害あるいは経済恐慌などへの緊急対応のための借金は致し方ないし、ある程度の、言い換えれば返済できる範囲であれば問題ないと思われる。という次元の議論ではない。聞けば頭がクラクラするほどの天文学的金額で、どうすればそれほどの借金ができるのかしら、と不思議がりながら冷たいお茶を一杯、妙に冷静に受け止めながらも実感ないな、と思いつつまあいいや何とかなるでしょう。と思う国会議員は早くやめた方がいい。財政審は異例の表現を並び立てて警告を発しているつもりだろうが、表現が上品すぎて警告になっていない。思えばはるか昔200兆円ほどの借金(国・地方の長期債務残高)に大騒動した時代があった。社運をかけ大キャンペーンを打った新聞社もあったが、今更ながらあれは何だったのかと慨嘆すると同時に慣れることの怖さを改めて思い知る。あれから30年さらに借金を重ね続けたが、何も起こらなかった。つまりオオカミは来なかったが、本当にそうなのか、これでいいのか。多くの人が気迷っている中で気の利いた理屈を後付けに安心宣伝係の評論家はいろいろ宣っているが、学者は沈黙している。古来借金はやめられない止まらないもので、赤字公債は常習性の怪物である。財政法が赤字公債を禁じている真意は、この常習性に対する耐性を政治が持ち合わせていないことから政治家には赤字公債を止めることはできないと喝破したうえで、それなら端から禁じてしまえということではないか。すなわち財政審の警告はもともと政治家には届かない宿命にあるといえる。

「悲劇」とは何なのか

 来年も再来年もおそらくその次の年も国の借金は積みあがっていくだろう。薄氷を踏むという表現があるがいつまで踏み続けられるのか。それは氷を踏み抜いて冷水につかるまで止まらないのか。やめられない止まらない、だからといって来年あるいは再来年にも日本政府が多額の借金ゆえに倒産するかといえばその可能性は極めてゼロに近い。対GDP比238%にも及ぶ借金が何をもたらすのか。誰も答えない。財政審も「受益と負担の乖離」を指摘しつつ「悲劇から守る代理人」を目指すそうであるがズバリその「悲劇」とは何なのか、いろいろ説明はあるが大事なところははぐらかされているように思われる。それもかなり意図的に。

返さなければならないのか、誰が返すのか

 また最後の6行に「当審議会は、現在の世代の代理人であるとともに、将来世代を負担の先送りによってもたらされる悲劇から守る代理人でありたい。」と述べている。これは将来世代の代理人たりえなかった平成の時代を反省し、これから向かう新しい御代における決意を新たにしているわけであるが、代弁すらできなかった時代を反省し、最低でも代弁ぐらいは遠慮なく行うということか。「今年度末には平成2年度(1990年度)末の5.3倍にあたる883兆円もの公債残高が積み上がり、一般政府債務残高は対GDP比238%に達しようとしている。」という悲惨な現状は「第2次世界大戦末期の水準に匹敵している。」のである。まさに大変な状況にあることは間違いないが問題は、これは返さなければならないのか、また誰が返すのかであり、これらに対する明確な答えがない状況でどんな代弁をしてもらえるのか、将来世代としては鼻白むばかりではないか。

財政審とは

 財政審は財務大臣によって任命される委員により構成され、会長は委員による互選で選ばれる。現在前経団連会長の榊原定征氏が会長を務めている。国の予算、決算および会計の制度などについての調査、審議や財務大臣への諮問、建議を行う。(財務省設置法7条)

「受益と負担の乖離」とは世代間不公平のことか

 およそ借金とは、した本人が返すものである。もちろん住宅ローンには親子リレー方式のものがあるが、これは住宅を相続する前提での話で、少なくとも不動産は残る。しかし特例公債はたとえていえば生活費である。遣ってしまえば何も残らない。残らない上に負担は次世代に覆いかぶさる。これを財政審は「受益と負担の乖離」と上品に表現するが、世間には「やらずぶったくり」という表現もある。負担の先送りは少子世代を直撃する。受益なければ負担なしが常識の世の中で、莫大な付け回しを受ける世代の不安は並大抵ではなかろう。せめて若者に偉そうに説教することはやめるべきだ。なぜなら負担なき受益はただ飯、ただ酒の類で、それに甘んじている世代がお世話になる世代にえらそうに言うことはなかろう。また、建設公債にしてもインフラとして次世代で役に立たないものは不要であるだけでなく、維持・撤去費用を考えればマイナス資産化する恐れが強い。将来においてもなお有用性があってこその建設公債ではないか。現状を見れば無駄な公共投資の尻拭いをかわいい孫たちにさせるのかといいたくなる。以上は世代に着目した議論で後年負担が長期(多世代)に及ぶ莫大な規模であることから世代間の不公平など明朗ならざる議論がに発展している。

役に立つ税という発想がない

 さらに深刻なのは、「受け取る便益はできるだけ大きく、被る負担はできるだけ小さくしたい」との思いが強すぎて、本来税負担が果たしている役割や機能への正当な評価を棚上げし、もっぱら損得勘定からくる表面的な評価に着目している税意識そのものではないか。税に対しては常に被害者の立場に固執し、収奪されるばかりだから少なければ少ないほどいいという根っこに染みついた意識からは国民にとって役に立つ税という発想はみじんも出てこないであろう。

政治が財政の問題を自らの問題として受け止めたくない国民にすり寄っている

 加えて受益の源泉が負担にあるという極めて簡単な原理に立ち相互扶助を原理とする社会保障制度をどのように構築していくのかについて正面から議論すべきであるのに現実はみんな逃げているばかりである。また建議は「国民の受益と負担の均衡をはかる」ことが制度の持続可能性を高める重要な条件であるとのコモンセンスがなかなか生まれてこない状況下で、「受益と負担の乖離が、国民が財政の問題を自らの問題として受け止めることを困難にし」ているとも指摘している。これは重要な指摘ではあるが、同時に政治が財政の問題を自らの問題として受け止めたくない国民にすり寄っていった結果が「受益と負担の乖離」を助長した側面もあるのではないか。民主政治の基盤は公正な選挙である。その選挙を通して国の困難な財政状況の実態を直視し厳しい打開策の理解を有権者に求めることがなければ、有権者も選ばれる政治家も何とかなるとの無責任状況に陥るのは必定であり、結果いつの日か破滅的危機に遭遇するのである。

被害者意識と税意識

 被害者意識が底面に横たわっていると税意識の健全な発展は難しい。健全な税意識は少なくとも負担が意味を成す、つまり合目的で有用であるとの認識がなければ育たない。健全な税意識を欠くとただ取られるだけの損の固まりとの思いに負けてしまう。つまり負担と受益をバランスよく受け止められてはじめて建設的な対応が可能になるわけで、言いかえれば国民に公正心がなければ議論は進まない。税制において得をすることをとがめない風潮がある。誰かが得をすれば誰かが損をする。誰の損になるのか分からないうちは国の損にしておく。このゆるい倫理観こそが世代間の不公正と不公平を助長し、放漫財政を許しているのではないか。「税財政運営は常に受益の拡大と負担の軽減・先送りを求めるフリーライダーの圧力にさらされる。」わけだが、政治家がそれではいけないと圧力に対する防波堤になるべきなのが、逆に圧力を導きいれる船頭(先導と扇動)になり下がっているものだからどうにもならないわけで、「歪んだ圧力に抗いきれなかった時代」とは税制度も税意識も芳しくなかった平成時代後期をある意味適切に批判しているところは多とすべきと思う。もちろん最も反省すべきは誰なのかについては言わずもがなではあるが、あえて発言すればそれは国民であり迎合する政治家である。

「エピソードに基づく政策立案」ってなに?

 さて今回の建議における修辞上のヒットは「エピソードに基づく政策立案」と「甘い幻想」であろう。前者については「たまたま見聞きした事例や限られた経験(エピソード)に基づき政策を立案すること(「統計改革推進会議中間報国 参考資料」(平成29年4月)より)」との注釈がついている。どんな具体事例を指しているのか不明であるが、「エビデンスに基づく政策立案」を掲げる財政審として看過できない何かがあったということであろう。消費税引き上げの延期なのか。そのために使ったエピソードとは何なのか。言わず語らずの共感あり。しかし可笑しな時代になったね。まるで戦前のよう。

大切な国民負担率の議論

 いろいろ意見はあっても、国・地方を合わせたプライマリーバランスの黒字化が財政健全化の入り口であり、そのうえで利払い費をどう賄うのか、借金本体の返済をどうするのかなどやるべきことは明確であろう。本来ならば国民負担率の議論が初めになければならないが、政府と政治に対する信頼が低い現実においては土台無理なことかもしれないが、されどここを外して何の国論なりや、と言わざるを得ない。時として国民に対峙するのが政治家ではないのか。

◇落ち葉舞い路端野菜の姿消え

◇いてう葉は踏みつけられて水気出し

加藤敏幸