遅牛早牛

時事雑考「第197回臨時国会閉幕、審議の在り方に問題を残す」

◇ 第197回臨時国会は12月10日閉した。もともと会期が短いうえに首相の海外日程が多く国会での審議日程の確保の難しさは危ぶまれていた、それにしても酷い国会であった。たびたび指摘してきた三権分立の感覚比率(行政府対議会対司法)を今まで80対15対5と表していたが、いよいよ85対10対5に変更しなければと思う。それにしても「一割国会」とはあまりにも悲しいではないか。筆者の偏見に留まることを願う。

◇ 野党の質問の中にはあからさまな政権攻撃があり、些末なことを繰り返ししつこく追及してばかりで生産性に欠ける傾向が強い。と政権担当者が思っていることは間違いないだろう。メディアの一部もそのような野党批判をしている。加えてネット空間では相変わらず理由なき政権擁護が盛んなことから、国会運営を多少乱暴に扱っても、世間の評価は悪くて五分五分といった政局相場観が政権担当者の周りに蔓延している感じがする。また野党の分裂状況やメディアの不活反応などから怖いものなしの官邸の気分が永田町や霞が関界隈にも伝播しているよう

◇ 前国会では大いに火を噴いた森友・加計問題も消し炭状態で、官邸も与党も消火寸前と判断していると思る。しかし「なめている」と感じている人は思いのほか多い。自らの野党時代を思い起こせば、野党の質問のベースラインが政権批判にあること自明のことで、それを生産性という言葉であげつらうのは体質になにかしらの専制性をもっているからではないか。謙虚さを失い「慢心している」権力集団に人々は、黄昏時に帰宅せぬ子を尋ねるような不安感を持つ。ということで平成最後の年のテーマ「政権に対する支持と不支持のはざまに繁茂する不気味な政治不信を誰が直視しうるのだろうか」としたい

◇ いい面の皮とは誰のことなのか。出入国管理法改正案は12月8日未明に成立した。衆議院から参議院へ送られたのは11月27日だから12日間の滞在であった。この間の委員会での質疑時間は18時間という。衆議院での17時間を上回ったから十分なのか。おかしな話だ。今回はどう見ても野党の言い分に理がある。技能実習生の実態の扱いがまるでおざなりではないか。この現実に目をつむり、滞在資格のあり様だけを議論してみても政策的に不十分であることは明らかである。にもかかわらず日程を強行した与党参議院は政権の下請けと言われても仕方がない。来年4月1日からの施行だから急いだとのいいわけには、それならなおのこと延長してでも議論を尽くすべきでは、と言いたい。議会の惨状の横でにんまりしているのは誰だ。

◇ 国会での審議を軽んずる与党国対に苦言を呈したい。そもそも国会での審議は何のためにあるのかと。国会での質疑応答は先々の行政の指針である。提案された条文にある不明事項を明らかにすると同時に細部を埋めていく。やることやらないことの境界を際立てる。また反対論をその論拠とともに歴史に残す。選挙で選ばれた議員が全力で議論を尽くし、それらを鏡に成立した法が適切に執行されていく。これが民主政治の基本である。しかし今回のように議論が不足した場合には何が起こるのか。それは執行上の生煮え状態である。議会での反対論とはたとえて言えば、広い牧場の境界に在る川とか断崖の指摘であり、この先は無理、不可能、危険であることを示唆ものだ。また各種の議論は牧場の柵作りともいうべきもので、これより先は不経済であることを示す。超えることはできても草が少ないとか日の高いうちには帰ってこられないとか、法の執行に際して現実的な効用を示すもので、執行機関にとっては優れて重要なものである。これらの議論を抜かして4月までに行う準備は民主的プロセスを経ないもので大いに問題があると思う。

◇ それにしても後日の政省令に委ねるということは国会での審議を経ずに、すなわち民主プロセスを経ないで権力を行使することに繋がるもので不都合極まりない。特に争いが生じた場合の判断が難しくなる。政・省令は議会での議論の結果に基づき、議論された範囲で細部を埋めるもので、議論されていない部分については改めて施行細則などを国会で定める必要がある。これは議会たる国会の任務である。今回のような政・省令への依存は議院内閣制の欠点を助長するもので国権の最高機関としての国会を浸潤するものである。国会の権限が侵食されているにもかかわらず、平然と構える衆参議長の言いようにはニュアンスを超える何かが感じられるが、それはさておき一強の弊害は深いと言える

◇ まことに「あるがまま」を受け入れることは難しい、特に政治においては。「連合には票はないのよ」だから気にしなくていいから、とは脱労組の勧めであろう。その通りであるがそうではない。実のところ投票することを期待されていない議員に対し投票するケースは稀である。なぜなら投票は期待に応える行動でもあるからだ。議員から入れてほしいと強い期待がないにもかかわらず大量の票が集まる。議員にとって夢のような話ではあるが、著名人が候補者である場合、時として起こりうる。しかし普通の人には起こりえない。だから連合に期待しない候補者に対し連合から票が届けられることはない。つまり「ほっておいても連合はついてくる」と本気で思っている議員は未熟である。届くのは自らを連合とは思っていない票である。これは連合にとっては頭の痛い話であるが、別の機会に論じたい。

◇ 一般的に有権者において人柄も含め候補者のイメージが定着するには0年以上かかる。つまり与党に在っては大臣候補に名前が挙がる頃で、意外と時間がかかるものである。だからスキャンダルではない悪評ぐらいならテレビに出る方が得である、というのもあながち間違いとはいえない。また政治家の知名度はブランドによく似ている。売り出しではとにかく名前を覚えてもらうこと。仮に十年の議員歴があったとしても全国的には無名に近いのが実態である。次に名前が売れてきたなら信念、政策、行動で筋を通し、いわゆるブランドの確立を図る。そのあとは好き放題やる。これが定石である。「連合には票はないのよ」とか「ほっておいても連合はついてくる」とは好き放題のレベルであって、盤石の選挙態勢を持たない議員は騙されてはいけない。連合はあなた方が思うほど、うぶではない。

◇ 複数の産別調査によると、民主党政権崩壊以降の国政選挙における組合員の自民党支持率は格段に上昇している。問題は来年の参議院選挙の動向であり、調査から職場の現実を推察するに対処すべき課題が多々あるように思える

◇ 民主党が民進党にそして民進党が国民民主と立憲民主に分かれたことは実でるが、職場で民主党に票を投じてきた者にとって忌まわしいことであった。この政権崩壊、政党分裂という流れを理解し是とする者は少ない。理解しても納得はしていない。それでも民主党時代に閣僚などを務めた主要議員がなお当選しているではないか、また立憲、希望、無所属と少なくない議員が当選を果たしているではないかとの指摘はその通りである。が問題はその当選の意味である。誤解を恐れずに言えば、これほどの落胆を職場に与えながら、知名度に支えられた当選は有権者の情である。知名度のない当選は、他に適当な選択肢がないという現政権支持の第一理由と同様のものである。代わるものがない。つまり第二選択肢までの価値序列にあるというのがまぎれもない現実なのである。つまり期待はあるが政党としての評価はまだ定まっていないうえに、評価されるべき事項がぼやけているし、行動においても試行錯誤状態にある。また評価にあたり政党と所属議員は連関しており議員像だけで評価は完結しない。評価というステージにおいても民主・民進由来の二党ともに政権選択対象にはまだ届いていないといえる。という認識のもと、昔民主の野党議員に呼びかけたい

◇ 「あなた方はセカンドチョイス以下の価値序列にあるという現実をあるがままに受け入れられますか。であるなら、今あなた方が行っていることは第一選択肢への道に繋がるものですか。少し表層の流れに振り回されていませんか。分裂したものが再び元に戻るには二十年いや三十年以上の歳月を必要とします。これは労働界の話です。元に戻れとは言いませんが、連立政権構想ぐらいは持つべきでしょう。時代は連立です。現在も自公連立政権です。自公に出来て立国に出来ない理由は何でしょうか。同時選挙になればなおのこと一致しない政策には条件を付ければいいのです。政権選択選挙に臨む覚悟が試されていると思います。」これは職場からの声でもある。

景色見えず来(きた)るは寒のみか

 

加藤敏幸