遅牛早牛
時事雑考「臨時国会、野党は足並みをそろえ、しっかり議論を」
◇ 来月4日から臨時国会が始まる。2019年7月の参議院選挙の結果を受けて、顔ぶれも新たに久しぶりの活発な論戦が期待できそうである。ここ三か月あまり国会は本格的な議論を閉ざしたままであった。官邸の意向はともかく国会は国会として国民の負託にこたえる必要があるのだから、日米、米中、米朝、日韓など外交・環境問題、台風被害、消費税、景気下振れ、金利緩和競争と為替など経済と国民生活、年金など社会保障、幼保無償化など子育て支援、働き方改革など山のように溜まっている内外の課題に対し国会の場で積極的な議論を進めることは当然である。
ここ数年、議会が官邸の付録の趣を漂わせてきているといった苦言も聞こえてくるが、この手の苦言も毎回聞かされると聞く方もいささかいやになると思うが、倦まずたゆまず言い続けることが大切ではないか。小さなあきらめが積もり積もって民主政治の弱体化をもたらすと思われるので、批判者は勇気をもって続けてほしい。野党に対しても同じ扱いが求められる。これは私を含めてのことである。
◇ さて、臨時国会での論戦内容とあわせ気になるのが野党の会派統一である。9月20日に代表者間で合意に達したが、選挙のしこりが残る参議院で実際どうなるのか、波乱含みといえる。それでも「共同会派」という表現から参加する立場への配慮がうかがえることがせめてもの救いであり、希望につながるのではと思う。
しかし、国民との距離、わけても職場との距離は依然遠い。職域からは、支援してきた政党の基本政策が軽く扱われるのではないかといった懸念がでていると8月10日のコラムで指摘したが、2017年10月の総選挙以降、およそ2年間にわたり民進党の崩れゆくさまを目の当たりにせざるをえなかった支援者の思いは複雑である。
すでに再生過程に入ったと思いたいが、基本政策の扱いが信じがたいほど軽いのはいったいなぜなのか、それでいいのかといった疑問がモクモクと湧いてくる。また、政党の統一ではなく会派だから、といいつつ最終的には政党の合同を目指すという声もちらほら聞こえるが、それなら政党って何なのかと聞きたくもなる。理屈は後から貨車でやってくるとか、君子豹変も芸のうちとか、永田町にはたとえ話と格言がたくさんころがっているが、世間には通じない。理屈は乗車の前に、豹変するなら説明をというのが常識ではないか。おりにふれ説明すること、また発信することが大切である。
◇ 会派なのでハードルが低いから議員として参加しやすいので一定の集結効果が期待できるとは思うが、臨時国会の期間中にどれだけの成果を生みだせるのかが焦点であろう。また、政治家集団としていかなる凝集力を発揮できるのか。たとえば、基本政策について違いを主張しあうレベルから政策統合レベルへ止揚できるのか。さらに、新たな機軸を提起できるのかなど課題も多い。
一方で、選挙互助会への準備と陰口をたたかれているが、真剣な議論と着実な成果こそがつまらない陰口を粉砕する唯一の方法である、と激励をこめながら指摘したい。
◇ ここまでくれば応援団としては順調な成り行きを祈るだけである。それにしても、昨日までの言葉を忘却しきった見事なもの言いに、生きた政治のダイナミズムを感じるものの、またまた置いてきぼりを食らう職域がさらに冷めていくのではないかと心配している。そして、「いまさらダイナミズムをいうのなら初めから党を割るな」とか「参議院選挙の前にやれ」と静かな怒りを含みつつ職場には「もうついていけない」感が広がっていること、さらに、与党への肯定感がじわりじわりと高まっていること、そして職場には「もう後がない」こともつけ加えたい、それほどの関心が残っているのかという声も付して。
◇ 衆議院選挙への恐怖が主な動機なのだろうか。解散権の乱用が議員に恐怖心を植え付け、トラウマとなっているようだ。とはいっても、議員が選挙を恐れるのは当たり前のことであり、民主政治の基本である。また、選挙は主権者である有権者が使う鞭で、これがなければ政治家が国民の方に顔を向けることはないであろう。いま起こっていることは、いつか分からない選挙の恐怖に原理原則をわきに置き、ひとりでも仲間を増やし集団対抗すべきという現実論が衆議院野党に広まっているということで、これについては、政党の本来の在り方と有権者との関係など土台からの議論が必要であると指摘したい。
しかし、そんな原則論をいっても、当事者がそう思い込んでいるのだから、外からとやかくいっても仕方がないという声もあり、それも分らないことはない。しかし、それでは感動を呼ぶことにはならない。2017年総選挙における枝野新党には少なからず感動があった。しかし、先の参議院選挙での立民、国民両党にいざこざはあっても感動はなかった。感動があったのは山本れいわの方だった。
有権者に伝わらないあるいは理解されない理屈はほどほどでいいのかもしれないが、それにしても感動を呼ばないのではどうにもならないだろう。もっといえば、自分たちがふるえる情動を持ちえないのにどうして有権者を感動させることができるのだろうか。当座の打算も大事だが、大きなストーリーのほうがより大事ではないか。
◇ 現状見えてくるのは総選挙を前に劣勢組が理屈抜きで肩寄せ合ってたたかう、いわば寄合抵抗路線である。もちろん、それでも幅広で少なくない支持を集められるだろうが、それだけでは政権交代に結びつけることは難しいわけで、いくら「反安倍、打倒安倍」と叫んでも、簡単には現在の権力構造を変えることはできない。なぜなら、どんなに的確であっても批判だけでは主体にはなれないのが政治の本質であるからだ。だから、今必要なのは安倍政治を超克する主体あるいは本質を獲得することではないか。いいかえれば、受け身の抵抗路線では国民に感動をあたえることはできない。
◇ (ここは余談なので読み飛ばし対象)で、2009年9月民主党による本格的な政権交代が実現した。この交代は2007年7月の参議院選挙で与野党の議席逆転が実現したことから始まるもので、「逆転の夏」とはよくいったものである。では、この「逆転の夏」はいかにして成し遂げられたのか、忘れた人も多いと思うが、これは政治結集の成果であったといえる。まずは2003年の民由合併(当時の菅民主党と小沢自由党の合流)である。リベラル系と保守自由系が合流し、政党支援のすそ野が大きく広がった。
また、労働団体でいえば2006年秋、民主党と連合による共同宣言の締結により、従来の政策協定方式からは一歩踏み込んだ連携へとレベルを上げ、小沢代表がすべての地方連合を訪問(それも2巡)し協力を求めたことが、29の一人区のうち23を獲得するという成果をもたらせた。連合参加組織の本格的結集が結実したといえるが、毎回の選挙で本格的結集ができているのか、地方の事情もあるが、燃え上がるものがなければそうはならない。これは連合あるいは地方連合サイドの問題ではない、政党と候補者サイドの問題である。まして、複数政党で足並みに乱れが生じた今回の選挙では力が半減しているではないか。正直もったいない話である。
問題は、たとえ衆議院において過半数を制しても、参議院が少数でねじれてしまうと政権は行きづまるということで、第一次安倍政権が頓挫したのも、福田・麻生政権が成果を出せなかったのも、菅・野田政権が苦しんだのもすべて参議院が少数であったために起ったわけで、このことから政権交代は衆参両院において過半数を獲得しなければ安定したものにならないといえる。衆議院は時の勢いで過半数を獲得できるが、参議院は最短でも3年かかるわけで、2回連続して合計126以上の議席を獲得しなければならない。これがどんなに難しいことであるのか、いまや一強といわれている自民党でさえ達成できていないことを見れば明らかであろう。
具体例でいえば、32の一人区で25勝7敗、13の複数区すべてで1を確保した上に+3、比例区では22以上、これで計63以上となる。丁寧に見ればこれらの数字がきわめて高いハードルであることが分かると思う。
つまり、参議院での単独過半数はきわめて難しいもので、長期にわたってそれを維持するにはどうしても連立を視野に入れざるをえないことになる。政権交代は衆議院から起こり参議院で崩れる。衆議院だけで完結するものではない。
◇ さて、「永田町の数の論理には与しない」とは一つの見識ではあったが、旧民進党程度のアライアンスを模索する連合にすればずい分と窮屈で頑なで正直困ったものと感じたのではないか。それが数の論理に与するというのだから、機に臨み路線変更をはばかる必要はないと思うが、最低説明責任はあるだろう。とくに安倍政治を越えていく中身、すなわち政権構想を聞かせてほしいと、願っている連合関係者は多い。
それにしても、統一会派を提起せざるを得ない事態をまったく予見できなかったのか。静岡でのあれもふくめ、誰の仕業か知らないがまったく大局観のないこと甚だしい。
◇ ということで、そう恩讐の彼方ではないが、政治家としてしたたかに腹太くならなければ自公政権を凌駕することは不可能であろう。野党といえども土台は権力世界であるからドロドロとあるだろうし、これからもあると思うが、国民が見たいものはそんなものではない。国民が見たいと思っているものを見せないと政治は始まらない。立ち居振る舞いは端正に、出処進退は潔く、強きをくじき弱きを助けるかっこよさがないと国民の関心は寄らない。少し説教じみている上に、現状をみればハードルは相当高い。しかし、私は悲観していない、心は脱皮できるから。
◇ 糾合して国会の対応を強化することは重要である。行政監視機能を強めたいという気持ちもわかる。モリカケ問題も生煮えだった。とはいっても、数をそろえるだけでは不十分である。また、舌鋒鋭ければ道が拓けるものでもない。追及するものが自身何者であるのか、なにを身につけているのか、何を目指しているのか、結局、国民はそれを観ているのである。
議員一人ひとりがさらに力をつけ幅を広げ、国民から不審の目で見られることがないように自身の陶冶が必要である。とくに党首や首脳といわれる人たちの魅力を引きだすことが大切ではないか。「ずい分変わったなあ」といった新味がなければ人々は昔の絵姿にひっぱられるものである。
◇ それぞれ政党として違いがあり、それは支援者の違いでもある。それを大切にしながら政権交代を現実のものとするには、野党による連立政権構想しかないのではないか。
◇曼殊沙華白もちらほら彼岸かな
加藤敏幸
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