遅牛早牛

時事雑考「やはり環境問題でしょう、頭の痛い」

 「国連気候行動サミット」が922日開かれた。報道ではスウェーデンの16歳の少女グレタ・トゥンベリさんが大きな注目を浴びた。発言や立ち居振る舞いもさることながら、多くの国で確認できないが400万人以上が彼女に同調し、授業を休み座り込むなどの行動(Fridays For Future)をとっているという。その影響力に各方面が驚いている。「われわれを失望させることは許さない」と思いつめた鋭利な迫力が世界を駆け巡り、例によってプラスマイナスの反応を生んでいるようである。

 若い世代がこの先何十年かの地球環境に強い関心を持つことは当然で、平均気温が2℃以上も上昇すれば、地球上の生態系が破壊されその悪影響がもたらす災厄は計り知れない。被害という言葉を超える壮絶な悪事象を想像する力や、それらに対する感受性に世代間では違いがあることは間違いのない事実であろう。

 32年前の話であるが、1987年の民間連合の発足を期して、若年層の意識調査が行われた。その調査で政策・制度課題の優先順位を聞いたところ、トップが環境問題であった。当時の竪山会長(故人)が、報告書を眺めながら、「意外だけどなるほどなあ」とつぶやいていたのを覚えている。

 そのアンケートに答えた若者たちもすでに50歳台である。グレタ・トゥンベリさんの映像を眺めながらどう感じただろうか。知りたいと思う。

 行動サミットなので、2015年のパリ協定(COP21)に対する取り組みを中心議題としたことから、前向きでないと受け止められた国々は発言の機会を得られず、わが国も与えられなかったと報じられている。とくに、「石炭火力の段階的廃止」では、わが国は原子力発電所の稼働を低く抑えられていることから、当面計画停電を避けるため、不足分を火力発電に依存せざるを得ない事情の中で、燃料調達やコスト面を考えると石炭火力の比率を下げることができない状況にある。また、石炭火力といっても、旧来のものと最新鋭のものとでは温室効果ガスの排出量に相当な開きがあり、とくに古い石炭火力を最新鋭のものに置き換えることによる削減効果も大きいことから、国内的には説得性が得られていると政府は判断しているようであるが、これに対する海外のまなざしは厳しい。ここに環境問題で国際的なリーダーシップを取ることができないわが国の深刻な現実がある。

 さて、新任の環境大臣として国際会議に臨んだ小泉進次郎氏であったが評判は芳しくない。原因は準備不足だと思うが、これは時間が解決するだろう。

それよりも、福島の汚染水の処理をめぐり、前任の原田義昭大臣が処理水の海への放出に言及したことに対し、それを謝罪する形で現地を回ったと聞くが、原田氏の発言は政治家として考え抜かれたもので、他人が謝罪する類のものではない。その上、小泉氏の発言が「安全基準以下のレベルでの海洋放出」を否定するニュアンスを含むのであれば、問題含みといわざるをえない。お得意の切れ味のいい反射的発言はすこし控えた方がいいのでは、親切な年寄りのひとりごとです。

 今日、原子力発電比率(2030年)を20~22%とする政府の方針が環境政策の土台となっていることからも、温室効果ガスの排出量だけを考えるなら、既存原発の稼働率を上げるべきである。このあたりの説明責任が政治家には求められているわけで、国民の多くが抱いている「ゼロリスク」への淡い期待感を早く現実の世界に引き寄せ、科学技術を基盤とする現代文明は決して「ゼロリスク」を前提にしていないこと、そしてリスクをゼロに近づける努力は当然のこととして、生活を取り巻くすべてのリスクの最適最小化をはかることが政治の役割であると国民を説得すべきと思うが、火中の栗に似てだれも拾おうとはしない。ここでそれをポピュリズムと論じるのは勇み足に近いと思うが、生活を取り巻く各種のリスクについてさらに踏み込んだ議論ぐらいは政治の場でしてもいいのではないか。

 温室効果ガス削減の観点から考えても残念ながら原発を全廃できる状況にはないことやある程度の期間依存せざるをえないことを説明することも政治家の役割だと思う。父親である小泉純一郎元首相が原発ゼロ運動に熱心に取り組んでいる中での環境大臣就任はある意味皮肉なことであるが、この際親子関係は抜きにして、それよりも期待されるだけの小泉進次郎からの脱皮が大切であるので、この機会を活かせるかどうか。期待を本物にするには、有権者におもねることのない勇気ある発言が必要であろう。

 ところで、環境政策の基本は規制である。排出規制、開発規制、消費規制などがあるが、規制は自由主義とは相いれない。また、規制なしに抑制できる構造になっていない。つまり、このまま何もせずに生態系が大きく崩れたとしても、いつの日か地球の復元力が働くかもしれない、とひそかに期待する向きもあると思うが、その時に生き残っている生命体に人類が含まれていたとしてもごく少数であろう。すなわち、新たな規制を作るか、すでにある規制をさらに強化するかなど、規制なくして環境政策は始まらないといえる。

 長きにわたり、人類の欲望は事象を取り巻くさまざまな「限界」に閉じこめられてきた。いわば、「限界」が規制の役割を担ってきたが、今日までの科学技術の進展が直接「限界」を押し広げることにより、人々の欲望をさらに膨らませてきたといえる。しかし、その「限界」が人類を含む地球上の生命の生存線に接しはじめた、つまり「臨界点」が近いというのが、環境問題の最も厳しい解釈であろう。なぜ厳しいといえるのか、それは踏み外したその瞬間しか「限界あるいは臨界点」を実感できないので、残念の極みであるがほとんどの場合「あとの祭り」で「取り返しが効かない」のである。極論すれば、人類が滅亡の坂道を転がり始めて初めてその臨界点を知るといった代物で、これはけっこう厄介なものである。

 もともと人類は自らの欲望を規制するのは苦手である。だから、なにがしかの外的な力に頼らざるをえないことになるが、今あるのは一歩間違えると絶滅の谷底に転落してしまうという究極の限界に人類全体が立ちいたっていることをみんなが思い知ることで、それによってギリギリ踏みとどまることができるであろうという結構あいまいな仮説をみんなで信じ、かつそれに従ってやることでしかないということであろう。

 ここで、最も重要なのは後がないという認識の共有化であるが、本当にそうなのか、との問いかけはこの30年の間にも間断なく投げかけられたし、今なお活発である。とくに富をもてる側の心理的懐疑は簡単な構造にはないようである。(もっといえば、どんなにひどい状況になっても、金さえあればなんとかなる、と事態を甘くとらえているのかもしれないが、コンクリートの要塞の中で生き残ってどうするの、1972年神戸三宮で時間つぶしに入った映画館でやっていたのが『ソイレント・グリーン』だった。映画は2022年の環境破壊された世界を描いていて、相当にショッキングであった。時間つぶしに見るようなものではなかった。)

 といった大人たちの緩慢さに16歳の少女はいいようのない憤りを感じているのかもしれない。

 さて、大人たちが緩慢なのは、地球の平均気温の上昇を産業革命前に比し2℃未満に抑えるとか、1.5℃以内に抑制などと難しい目標を強引に決められても、そうしなければならない緊迫性を客観的に証明するものが手の内にない、早い話が状況証拠だけで物証がないのと同じで、それでは逮捕状を請求できないということである。まだまだ、証拠不十分であるから極端なことはできないというのだ。

 ではどのようなことが極端なことなのか。たとえば、2050年には温室効果ガスの排出量を2013年比で80パーセント以上削減するためには、毎年2013年比2.2パーセント分だけ排出量を削減し続けなければならない。これは大変なことである。国の経済運営の重要な柱の一つは経済成長である。たとえば、その成長が毎年基準年の2.2パーセント分減りつづけるなんて、どんな世界なのか。たかが排出量だけの話だととらえる向きもあるかもしれないが、どう考えてもこれは強烈なデフレ要因である。今日明日のことしか考えなれない政治にとって手に負えることものとは思えない。

 もう一度繰り返しになるが、環境政策の基本は規制であり、規制には排出規制、開発規制、消費規制などがあり、いずれも削減すなわち右肩下がりを目指すものである。だから、極端なことはできないと、行政府も議会も経済界もみんなそう思っている。

◇ また、仮に日本列島の上空だけ温室効果ガスを産業革命前のレベルに抑えたとしても、直ちに周囲から温室効果ガスが押し寄せてくるのでおそらく徒労感に苛まれるだろう。これは一国主義では歯が立たない種類の問題で、地球に乗っかっているすべての国や地域が本気で、そして一番大事なことは誠実に約束を果たしていかなければものにはならない。で、世界は不誠実に満ちているから、老練な政治家ほどうまくいかないと思っている。老練な政治家はたいてい年寄りだから、未来に関心がないのではないか、と件の若き環境活動家は感じているのだろう。たぶん当たっている。

 多くの人が「極端なことはできない」と考えているわけだが、「極端なことをしないと間に合わない」と考えている立場にすれば、分かり切ったことをうだうだといいつのるのは時間稼ぎではないか、人類存亡の危機になんで時間稼ぎをする必要があるのだろうか、じつに馬鹿げているということになる。

 ここには埋めようのない谷間があり、環境政策が背負っている困難の根本には、生態系の破壊とか計り知れない災厄とか人類の滅亡といった、いかにも大げさな表現を使わせている「悲鳴を上げている環境」への想像と感受における埋めることのできない「差異」があること、と同時に、たった1パーセントの経済成長率の低下が時の政権の政治生命を奪ってしまうかもしれない危うい状況の中で、今日のことに埋没せざるをえない政治の現実があるのではないか。

 やがて、そう遠くないうちに「その日はくる」であろう。その時に、やはり1.5℃までに止めるべきであったと、激しい悔恨の中で苦しむとして、その苦しみは現実に気温上昇によってもたらされる物理現象のひどさに由来するものと、これ以上の生産拡大が続けられない限界状況の中で生活全般にわたりいかに縮小をはかるのか、人類として初めて遭遇する「引き算・割り算」の合意形成の地獄に由来するものがあると考えられる。前者はそれなりの対応をせざるをえないし、苦しみながらもやれるだろう。しかし、後者は人と人との闘いである。また、集団と集団、国と国との闘いでもある。本当に合意に達することができるのか。合意ができても実行できるのか。核兵器削減交渉と同じですべては検証システム次第である。想像を絶する巨大な検証システムに人々の日常生活が規制されていく。疑心暗鬼と監視システム。まるで、ジョージ・オーウェルの描く世界ではないか。そんなおぞましい世界の中で、日々の暮らしをしのいでいこうと人々は切ない努力をつくすであろう。そして、人間として絶望せざるをえない人の本性に直面し、苦しむかもしれない。

 たぶん、ここで「たぶん」とコーヒーを口にするようにあいまいな言葉を使わざるをえないのは思考の限界が近いからで、今遭遇している環境問題は、「極端なことをしないと間に合わない」路線を選択しても、「極端なことはできない」路線を選択しても、多少種別の違うものではあるが、どちらにしても人類にとっては絶望に近い苦しみであると思われる。

 排出量の多い国ほど、他国の陰謀だととぼけてみたり、表面だけ、口先だけの目標を述べてみたり、「極端なことをしなければ間に合わない」と考えている人たちの感情を逆なでどころかおろし金を当てるがごとき発言と態度を見せて、一向に恥じていない。

◇ だから、無理ではないかと思う。それでもパリ協定は奇跡のようにまとまった。しかし、求められている取り組みは大げさであるが地球の自転を止めるぐらいの大仕事である。隠れてこっそり楽しむ国がでてくるかもしれない。もうすでに臨界点を超えているかもしれない。あやふやな中であやふやな恐怖がうごめき、新たな恐怖を生み出す。そして、多くの人は絶望するであろう。大海は絶望の海、そして苦しみの海である。

絶望に近い苦しみの中から生まれるものは何か。遠い先の話ではない、今世紀中の話である。

◇ 石榴の実落ちて踏まれて腐りゆく

 

 

加藤敏幸