遅牛早牛

2020年からの課題と予想-②- フェイク・ニュースと解散風が政治を劣化させる

字数が多いので結論を記す。「政治家は嘘と噂から人々を守るべきなのに、近ごろは嘘と噂を利用し、あるいは嘘と噂を作り始めている。規律の問題である。」

 この年明けに、ニューヨークでは桜が咲き、千葉ではヒマワリが咲いた。すぐさま気候変動に結びつける気はないが、吉兆とはいえない。では、凶というべきか。否、花の咲くのを凶とは無粋に過ぎるではないか。凶ではないが、不穏である。

 さて、今回はこの世を惑わせる不穏なるもの、人々を狂気の世界へいざなう「フェイク・ニュース」とわが国の政治をどこまでも劣化させる「解散風」を2020年の重要課題と見立て、ささやかな論考を試みる。

 それにしても、人は嘘が好き、噂が好き、そして嘘と噂に踊らされるのがもっと好き、なのである。

世界の政治をゆがめるフェイク・ニュースの危険性

 2003年のイラク戦争は大量破壊兵器の存在を示す間違った報告が直接のきっかけとなったが、この時のブレア首相(英国)は米国と行動を共にしたものの、後年、間違った情報による他国への侵攻の責任を問われ退陣を余儀なくされた。

 また、2016年の英国EU離脱を決める国民投票の主役は、根拠のない「離脱による利益(EUへの拠出金、週3億5000万ポンド)」であったといわれているが、2020年になっても英国はEUとの離脱交渉を前に国内世論は分断状況にあり、連合王国はもがき苦しんでいる。

 議会制民主政治のお手本であった英国もフェイク・ニュースに翻弄されたわけであるが、このようなミスはなにも英国に限ったことではない。

 今日の地球上には、上述のような典型的なフェイクだけではなく、採用してはいけない情報が氾濫している。そして、多くの政府、行政機関がその被害を受けている。また、受けた被害の程度が不明なことも多い。

フェイク・ニュースへの対応は万全だと思われるが

 政府、行政機関がいわゆるフェイク・ニュースを受け取ったとき、多くの場合当然のこととして必要な「裏とり」を行うなど、適切に対応していると思われるので、時間と人手のロスはあるが、厄介な問題を引き起こすことは少ないであろう。

 それでも、問題が起こるのは、急いで重要な決定を下す場合で、裏とり作業などが間に合わず、真偽入りまじった情報をベースに決定がなされる場合である。もちろん、大災害の発生や他国からの攻撃などの緊急時の対応はしっかりと確立されているはずなので、それ以外の平常時における政府、行政機関のフェイク・ニュースへの対応についての人々の関心は低い。仮に関心を持っているとしても、それは漠然としたものであり、ことさら問題意識を持つとか、何かしらの不安を覚えるということはないと思われる。

 という教科書的説明に対し、本当にそうであるのか、先ほどの英国の例を手元に寄せて考えれば、人々において存外にフェイク・ニュースが混入した状態で重要な決定がなされているのではといった素朴な疑問が持たれているかもしれない。

 逆にいえば、重要な決定に用いられた情報の真偽のほどや、それらが決定に与えた影響などが、事前はおろか事後でさえ周到に点検されたかどうか、まるで明らかにされていないことから、そういったことが気になる人々は、まるで音のない暗闇に入れられた時におちいる「見当識喪失症」がもたらす恐怖あるいは不安を覚えているのではないか。

フェイク・ニュースに強い国と弱い国

 政府が間違った決定をする可能性があり、その原因の一つがフェイク・ニュースである。という漠然としているが、割と確かな感じの不安をかかえながら、2020年は、おそらくフェイク・ニュースに代表される意図的に間違った、真偽が判然としない、ガラクタのような情報群がウェブ・ネット空間にあふれ、どうでもいいことが真剣に議論されたり、驚くような決定がにわかに飛び出したり、民主的手続きを厳正にとったにもかかわらず元が偽であったため結局間違った決定につながった、といった現象が増えてくると思われる。

 となると、端から情報を厳重に監視している(国の)方が有利ではないか、とここで、2016年のアメリカ大統領選挙上に起こった事象がにわかにクローズアップされ、対抗的に中ロの選挙へのアクセスの難しさ(選挙がなければアクセスは絶対ゼロ度であるが)などが国家競合モデルの一つの事例として浮かび上がってくるわけで、そういった多少もやもやした思いが、そこに極めて重要な今日的課題が潜んでいるのではないかと気づかせ、何かを考えさせるであろう。そして、たとえば1990年代からインターネットが持つ脆弱性についてさまざまな議論がなされてきたことを思い起こしながら、なおざりにしてきた重要問題が今にも火を噴くのではないかと半分後悔しながら、半分気を揉んでいるのではないか。

 そう確かに、監視国家の方が強いかもしれない。そんな、今はかすかな疑問であっても、それが次第に強化され、後戻りのできない強迫観念に育ち、大きく人々に覆いかぶさり、あらぬ方向に歴史を導くかもしれない。そんな分岐点が2020年なのか、と思う。

「必ずしも正しいことをいう必要はない」となれば、この世は暗黒に包まれる

 一方、現象としてまるっきり偽、いや偽とはいえないが真ではない、あるいは直ぐには裏の取れない、または思惑に満ちた噂などフェイクを適量混入させればウェブ・ネット空間は修羅場になることを、コロンブスの卵として世に示したのは外ならぬ政治家、それも著名な人たちであり、政治上の効果を考えれば必ずしも正しいことをいう必要はないと本心から思っているのか、疑いは深まっている。

本来、政治家は世の静穏なることを祈る立場にあるにもかかわらず、やっていることは「かき混ぜ」て「混乱させる」といった行儀の悪いことだらけで、行儀の悪い話だけに終始するならまだしも、話が、オープンなウェブ・ネット空間とクローズドなウェブ・ネット空間とを比べ、どちらが脆弱なのかといった社会経済体制のあり方を背景においた、まるで冷戦時代を思いおこす文脈へと流れゆくのであれば、行儀の悪さよりもその罪深さを指摘せざるをえない。

話の発端がウイルスも怖いが、フェイクも怖いということであったとしても、今日における地政学上の課題あるいは政治上の意味合いからいえば、サイバー攻撃はもちろん危険であるが、それ以上にフェイクの大量投入がオープンな電網空間にもたらす致死的危険性について直ちに深く知覚する必要があること、と同時に、2020年以降の新たな紛争の種になることを今一度考えなければならないだろう。クレジットのつかない情報に果たして価値があるのかと普通の人は反問するだろうが、意図を持つ者はクレジットの有無といった視点ではなく、毒を含む情報が持つ魔力についてよく心得ており、しかも場面によっては極めて有用であることを知悉しているので、これからもおびただしいフェイクがウェブ・ネット空間を飛びかうことであろう。

 流言飛語が数えきれない命を奪った歴史を持つ私たち人類が忘れてはならないことは、人は「嘘と噂が好き」で、「嘘と噂に踊らされるのが、もっと好き」な生きものであり、ウェブ・ネット(電網)空間はそんな性向を思う存分遊ばせ楽しませてくれるものであることを肝に銘じるべきである。

欲しい情報しか受け付けない、バイアス受動が言論空間の息の根を止める

 話はガラっと変わるが、最近の際立った傾向として、情報を受け止める側が自らの政治スタンスだけをものさしに情報を評価するバイアス受動に徹してきていることが散見され、故に本来受け入れるべき適切な情報さえも「フェイク」として直ちにゴミ箱に放り込み、結果まともな議論ができなくなっている。

 いいかえれば、不毛の言論空間になっているのである。こうなると、正直、原情報の真偽などはどうでもよく、要は自分たちにとって都合の良し悪ししか判断基準として残らないわけで、とても議論とはいえない。

 こういった、不毛の言論空間に長らく滞在していると、人々は「批判」を忘れ、「議論」を無意味で、無駄だと思うだろう。

 つまり、情報を受けた時点でほとんど瞬時ともいえる速さで分別するから、批判とか議論などは不要なのである。とくに政治の世界においては批判と議論の座るべき席はない、という時代になった。

 批判と議論が不要になり、結果として言論が無力になった今日、どうやって社会全体の合意を言論なしで紡いでいけばいいのか。目の前に山積する諸課題、気候変動から地域紛争まで、目がくらむほどの多くの課題の解決策をどうやってまとめていけばいいのか。と人々は思い悩むが、問題は、その任にあるべき政治家がはやばやと批判と議論を溶鉱炉に投げ込んでしまったという、とんでもない事態そのものである。この辺りは日米同時進行劇を見ているようだ。批判を忘れ、議論をしなくなった政治をどうやって立て直すのか、小さな糸口でもいい、それを見つけるのが今年の課題であろう。

情報操作の蔓延と忖度、破棄が民主政治を静かに侵食する

  さて、フェイクとは一味違うが、情報操作が蔓延している。入れ替え、抜き去り、引き延ばし、漏洩、遮断などの手法により真正であった情報が嘘に変わっていく。さらに、破棄、捏造とまるで階段を降りていくように闇に染まっていく。

 正義のための嘘、国家のための嘘、政府のための嘘、あとは組織のためと、嘘の坂道を転がり落ちていく。しかし、どんなに理屈をこねても嘘は嘘、そして身を守るためについた嘘はいずれ亡霊のようにわが身に帰ってくるのである。

 わが国も例外ではない。否、さらにひどい状況に至りつつある。それは忖度と破棄である。忖度は、真の首謀者を秘匿する行為である。つまり、責任をかき消すことで、これは民主政治の根幹を揺るがすものである。一般論ではあるが、行政行為は、選挙など正当な資格を持つ政治家の責任で為すもので、議会での質疑、選挙での審判を受けることによって、その正統性が保証されるのが民主政治の仕組みである。残念ながら、忖度されて喜ぶ政治家が多いのが実情ではあるが、これは権限と責任への侵食現象である。

 また、破棄は場合によっては証拠隠滅であり、歴史文書の破壊である。データ、情報、文書、報告書などその有用性を判断するのは、本来、後世の人々の役割である。当世の政治家などにとって不都合であると判断されることをもって、それらを破棄することは許されない。不都合であると判断されるところにこそ、有用性が潜んでいる。このことについて、いろいろな意見があると思われるが、「判断は後世にあり、当世はただ残すのみ」という原則を外すことはできない。

あれこれいっても、報道に生きる人々の活躍に期待するしか手立てはない

 現代は、あらゆるレベルで情報操作が行われており、日々接触する情報の真偽を見分けることが難しくなっている。その原因は、情報端末の進歩と普及および情報空間の想像をこえる広がりにある。あふれる膨大な情報を発生時点でその真偽について点検することはまず不可能であり、広大な情報空間での垂れ流し状態を受け入れざるをえない。しかし、これらの垂れ流し情報も、海での食物連鎖における最終捕食者への濃縮・蓄積のように、情報空間においていずれ分別、濃縮されていくと思われる。

 問題は、分別、濃縮される段階での情報の扱いがどうなるのかであるが、比較的早い段階において、意図をふくむ情報を選別し、系統的にその真偽などを点検する必要があると思われるが、要は誰がやるのかという分担論に帰結する。その答えは、多くの個人、団体が自発的にやるべきということで、なぜなら情報空間の適正な運営は、今日において高い公共性と公益性を有することから、みんなで守っていくことが必要であり、負担の公平性からいっても理に適うからである。

 そのうえで、オピニオンを扱う報道機関はじめ各種のメディアが上述の中間段階にある諸情報の真偽などを点検し、たとえていえば保証書付きの加工情報として応需していくことが当面の対応策として考えられるし、適切だと思う。

 とくに、選挙が近くなると、ウェブ空間は誹謗中傷はじめ、さまざまなフェイクであふれかえるのだから、迅速に流れる情報の真偽を有権者に知らせるためにも報道・メディアの一層の活躍が期待される。

 このように、ウェブ・ネット空間での政治や選挙にかかわる情報の真偽のほどは極めて重要で、嘘と知ったうえでその情報に乗っかって判断する事例をどう考えるかという問題は残るが、嘘を嘘と認知してもらうことは極めて重要なので、ここらあたりは、報道に生きる人々に大いに期待したい。

解散をもてあそんではいけない、政治の劣化を恥じよ

 2020年は、夏のオリンピック・パラリンピックまでに、4月立皇嗣の礼、7月都知事選挙と立てこんでおり、さすがに解散総選挙は無理であろうと思われるが、都知事選とのダブル投票の可能性が残る。目前に迫ったオリパラに全力を傾注すべき時期に何をテーマに総選挙を行うのか、都知事選の日程は仕方ないとしても、無理やりの総選挙はいただけない。それこそ、異常な発想である。しかし、今や異常が当たり前で、有権者も度重なる解散によってずい分慣れっこになっているのか、また投票権の行使の機会が増えることを評価する文脈においてか、強い抵抗感が見られないことから、可能性がゼロとはいいきれない。

 という些末な見通しを書かざるをえないこの現実がわが国の政治の劣化を象徴している。だから、書かなければいいのだが、気になる。という空気の中で、永田町では解散話が日常化している。解散話をふりまく方は愉快だろう。ちょっと袖振れば、それまでのけぞっていた議員連中が慌てふためく。桜問題でミリミリ責められはじめると11月解散、野党の合流話が現実味を帯びてくると通常国会冒頭解散。ネタバレではあるが、ひょっとしてという疑心の中、議員は浮足立つ。

議員間格差に支えられている政権が、選挙に弱い議員を痛撃するのが解散

 「もっと法案の中身に集中、専念しろよ」といっても選挙に自信のない議員は浮つく。そんな中にあって、落ち着いているのは常勝化しているベテラン議員、堅固な組織に支えられている人、そして世襲議員である。ここにも格差があり、淘汰がある。政界の新陳代謝を願う立場にしてみれば、せっかく植えた種や新芽が大雨で押し流されていくのを見るのは忍びない。だから、思わず頑張れよと声と手が出る。

 公正な選挙で選ばれた議員を任期途中で解任することについては慎重でなければならない。選んだ有権者の信託を無効にする理由は厳格に問われなければならない。わが国の憲法は、内閣信任・不信任決議への対抗策として衆議院解散を認めているが、その他の解散を積極的に規定しているわけではない。もちろん、政局打開の手段としての解散権を禁止すべきとの立場を取るつもりはないが、いかなる時でも理由・動機を問わず解散ができることを支える理屈はない。

また、頻発する解散総選挙がもたらすマイナス効果は計り知れない。一方、そういったマイナス面もあわせふくめて有権者の投票行為によってその是非が判断されるわけだから是認されるべきであるという論もありうるが、解散の理由・動機が気に入らないからそれを投票行為の判断要因とする、すなわち投票先を変更すれば良いではないかという論にはやはり無理がある。なぜなら、有権者の投票の意義は政権政党を選択すること、焦点となっている重要政策等について判断することそして議員にふさわしい人物を選ぶことに集約されるが、手元の小選挙区と比例区の二票で解散への賛否を表現することは事実上困難であるといわざるをえない。ということで、選挙の結果から解散についての有権者の評価を読み解くことは難しいので、別建てで問うべきである。

 そんな中、議員側は「常在戦場」などと分かったような口をきいているが、問題は実質任期が2.8年程度でどのような議員活動が想定されるのか、さらに選挙の時期が不定で、当選後一年を過ぎれば選挙準備を、2年の折り返し点を過ぎればいつあってもおかしくないと、年がら年中警戒を怠らない態勢を余儀なくされていてはなかなか議員活動に専念できないと思われる。とくに新人議員や資力にかける者には厳しい試練であると思われる。

 わが国の政治が長期課題の解決に弱く、気がつくと構造問題だけが取り残されている戦術先行、戦略欠如の対症療法型政治に陥っている原因の一つに、議員に落ち着いて仕事をさせない解散による不安定症候群に多くの議員を追いやっていることがあるのではないか。多少強弁ではあるが、多様な国民のそれぞれの利益を代表する大切な衆議院議員の質をあえて貶めていく解散の乱発に対し、歯止めをかける必要があるのではないか。これも2020年の重要課題である。

◇ 冬温し 枝を行きかう インコ二羽

加藤敏幸