遅牛早牛

2020年からの課題と予想-③-国内政治は波乱含み

 今年の国内政局の焦点は(1)解散総選挙の時期と結果、(2)中国最高首脳の来日、(3)景気の悪化、(4)野党の協力体制の成否、などであるが、夏から秋にかけての風水害や新型肺炎も微妙に影響をおよぼすものと思われる。総じて小局にこだわり、大局を失う流れになるのではないか。

解散総選挙の時期と結果

 まず、安倍総裁を看板に総選挙を戦いたいと思っている人は少ない。総裁4選がないとの前提にたてば、わざわざ議席を減らす必要はないわけで、大幅に議席増が狙えそうな条件が整えば別だが、そんな条件が整うとは思えない。

 だから、来年9月に次期総裁を決め、任期満了による総選挙となるだろう。しかし、このケースには党内実力者たちから嫌われる点がある。それはイシバ氏が総裁に選ばれる可能性があり、そのうえ、イシバ氏を看板にすれば選挙は大勝の確率が高い。そうなれば、与党内政権交代説を絵にかいたようなケースとなり、1990年代の自民長期政権の堕落に端を発した政治改革論議をスキップしながら、2大政党による政権交代システム論を葬りさったうえに、古き良き55年体制を再構築することができるという、与党にとってはとてもおいしいシナリオが浮かんでくるが、それがとても嫌だという人が結構な数いるのである。

 その人たちは、自分の思惑を軸にいろいろなシナリオを思い描いているのだが、とくにイシバ氏が総理総裁になれば大幅な人事刷新が予想されることから、自分は重用されないと思う人たちは猛烈に別路線を打ち出すであろう。ということで、イシバ氏嫌ならキシダ氏という二択になる可能性が高い。

 問題は、キシダ氏を確実に総裁にするためには、総裁の任期途中の辞任による国会議員中心の選挙がいちばん好ましいので、そのためにはアベインタイが必要である。オリパラの成功を花道にと誰もが思うところであるが、そううまくことが運ぶかどうか、一癖も二癖もあるベテラン議員や取り巻きが簡単に納得するとは思えない。野党が弱ければ弱いほど、最大与党には波乱が生まれる。

それらの波乱を芽のうちに摘むには、早期対応しかないと思う。そのうえ政策面でもアベノミクスはじめ多くは八方塞がりだし、加えてこの間の首相答弁は憲政史上最低、最悪ともいえるもので、長年の支援者の悔しさは想像を絶するレベルにあるのではないか。この際、未練を残さず、予算の成立を機に後進に道を譲る(思い切って都知事選とのダブルなど早期の解散)のが正?解と思うが、どうなることやら、時宜を失えば野党を巻き込んだ大乱となるだろう。

その予兆が、わざとらしい菅長官辞任説の流布であり、昔はやった「君側の奸」を彷彿とさせる険悪な雰囲気である。今の段階では誰が奸なのか、未確定だが、もめればもめるほど、変則日程を立てることが難しくなるので、そうなれば、総選挙は来年10月任満選挙であり、政界は大再編(リストラ)となる。

 余計なことではあるが、与党、とくに自民党内の底にたまった滓を処理するにいい機会だと思うが、そういった刷新のエネルギーが党内に残っているのか、できなければ政権はさらに腐っていくし、国民にとっては大迷惑であろう。

 

 

 

中国最高首脳の来日

 暗雲が立ち込めている。新型コロナウィルスによる新型肺炎の終息が先ではないか、という中国国内世論をのりこえての訪日となれば成果への評価もハードルが上がるであろう。また、他にもさまざまな障害が立ちはだかっているが、外交儀礼上わが国からの延期はありえないし、外交上の果実も大きいと想定されることから、前向きにとらえるべきで、ここは充実した中身を期待したい。

 という建前は大切ではあるが、同時にこの際考えるべき本質的課題がある。その一つが、日米関係を10点とした場合、日中関係を何点ぐらいに位置付けるのかという序列化の問題である。何事にも面子を重んじる国情を考えれば露骨に表す必要はないが、深謀すべきことである。

 最近、日本流おもてなしが喧伝されているが、これには危険な要素がある。もちろん、国民の間に広がる牧歌的な情緒は結構なことではあるが、外交は国益の真剣勝負である。誤解を与える接遇は慎むべきで、間違っても組みやすしとの印象を与えてはならない。隣国との関係は長期視点で捉える必要がある。また、利害衝突が日常化する関係でもある。限りをつくしても、媚びへつらっていると思われたのでは為政者として国民に申しわけないではないか。受け止めるのは先方であり、解釈は先方の文化による。

 また、共産党による専制体制についても多くの人々が違和感を持っている。くわえて、安全保障上の課題もあり、経済関係の深化だけで全体を語ることはできない。両国の国民感情についても漸進的に理解を進めることが大切で、急く必要はない。わけても、米中関係が視界不良というか、先行き不透明というか、微妙な状況にあることを思えば、ここで確たる日中関係のあり方を固めるには材料不足の感じがしないでもない。あくまで、米中の距離感が定まっての日中関係ではないか。この視点についてはおそらく議論のあるところで、たとえば独立した日米中の三か国関係を先出しした議論も確かにありうるが、そのためにはわが国の防衛体制を自主の方向に寄せたうえで日米安保体制を再定義する必要があるわけで、是非はともかく、現在のこのことに対する米国の認識は、日本は日米一体での防衛に軸足を置いているというもので、トランプ大統領の折々の発信に擾乱される今日この頃ではあるが、落ち着いて考えれば、日米中の三か国関係はどこまでいっても正三角形ではなく不等辺三角形で、日米間の辺がもっとも短くあるべきだし事実そうなっている。

 かかる関係に、韓国あるいは北朝鮮、ロシアを加えた東アジア安保相関を考えるとき、確かに日中関係に新機軸を打ち立てる試みに少しく魅力を感じないわけではないが、そのためには関係国に対しなにがしかの利益を生みだす工夫が必要で、とくに米国にとって自身の国益を支える意義が日中新機軸に見出されなければ暗に妨害を企てるであろう。というような、骨が折れるうえに相当デリケートな作業が簡単におこなえるとはだれしも思わないであろう。無理に進めるとなると、それはやはり冒険主義ではなかろうか。

 ということで、今回は大過なくこなせれば可とすべきであるが、いずれ大議論が必要であろう。そのためには、国民の意見あるいはそれを代表する国会で大きく意見集約する必要があるが、今までの安倍首相のスタイルでは対立の議論ができてもまとめの議論は難しいように思える。残念ながら余分な言辞が多すぎたということか。

景気の悪化

 これはもう仕方のないことで、「2020年は回復基調」という淡い期待は半年ちかく後ずれしている。世界経済に対し新型コロナウィルスは明らかに伏兵であった。そのうえ、まだ有効な対処策は確立していない。とはいっても、時間の問題であることも事実である。2月はある意味仕方がないとして、3月には重症患者への処置が成果を上げだすだろうと勝手な仮説を前提に、温かくなる4月中にはピークアウトするのではとの期待予想を前提とすれば、世界規模での成長率でいえば0.2%程度の落ち込みで切り抜けられるのではないか。もちろん中国国内は最大2%規模の落ち込みもありうるが、中国政府の統治力を考えれば悲観する必要はないであろう。リカバリーショットに長けている国である。

 問題は、むしろわが国の方で、インバウンドの大幅減が不気味である。大手観光業は何とか切り抜けるであろうが、中小規模にとっては存続上の厳しい試練となるであろう。観光業は機会ビジネスなので失われた月日は取り戻せない。特段の対策が望まれる。

 中国拠点の休業が今後どの程度になるのか、ずい分と心配であるが、サプライチェーンにどの程度の実害が発生するのかについては、2月中に見極め作業を終え、早急な対策が打ち出されると仮定すれば、早くて3月、遅くとも4月には平常化できると思われる。

わが国の経済にとって、この間の落ち込みが、昨年来の消費低迷と重畳し全体的には芳しくない、良くない数字となり、残念ながらオリパラ前から雰囲気が悪化し、みじめな年後半を迎えることになるのが最悪シナリオではないか。

 新型肺炎が4月ピークアウト、遅くとも5月、6月終息という結構気楽な前提でのシナリオであるが、これが2か月も後ずさりするとオリパラへの悪影響は避けられないし、相当深刻な事態といえる。

(付録、新型コロナウィルスによる新型肺炎について)

 中国本土における致死率が高いことから世界規模の不安が発生し、やや過剰な反応が生まれていることは残念である。これは武漢市等の初動に大きな問題があったことや中国の医療体制が経済規模に比べ見劣りしていたことなどによるもので、制度災害という面もあると思われる。この先、高齢者や基礎疾患のある人への対処が進めば、毎年流行るインフルエンザ(わが国の年間インフルエンザ感染者数はおよそ1000万人、同関連死亡者数はおよそ1万人)程度あるいはそれ以下に収まるのではないか。もちろん、突然変異による劇症化など注意すべき点もあるが、今後各国の水際対策の成果が期待できるので冷静な対応が望まれる。問題は、武漢市閉鎖前に500万人余りが出市しており、その中に無症状感染者がいた可能性は否定できない。仮の計算としていろいろ考えられるが、あまり表に出ていないこともあり不思議ではある。わが国はすでに数次感染のレベルに至っているとも考えられるので、水際対応もさることながら、一般的な対応に力を注ぎ、時間を稼ぎながら春の到来を待つということであろう。手洗いの励行などインフルエンザ対策と重なるので大騒ぎすることはない。というあたりが、妥当な線ではないだろうか。

  

野党の選挙協力、政党合流について

 昨年12月6日から始まった、立憲民主党、国民民主党を中心とする野党間の政党合流は、本年1月21日当面棚上げとの決着をみた。もちろん、共同会派は継続するわけなので、後退ではなく現状維持というべきだろう。

 では、今後の展開はどうなのか、を念頭に置きながらいくつかの課題を並べてみたい。

第一は、大きなかたまりを作るのは何のためか、である。もちろん「政治は数だよ」といった声にも一定の説得力があるとは思うが、今一度、掘り下げる必要がある。

 たとえば米国のように、共和党と民主党の二大政党体制の下では、政党と政策がセットとなり、赤と青2つの選択肢しか提起できないシステムとなっているが、有権者の政策ニーズが多様化しているこの時代にあって、そのシステムのどこが優れているといえるのか、疑問も少なくないが、現実は日本のように党議拘束が強いわけではなく、とくに上院ではダイナミックな妥協が繰り広げられ、個々の議員の柔軟な判断が結果をもって多様な有権者のニーズに応えていくという応答性を担っているように思われる。この点について、わが国では党議拘束が強すぎて、議会での議論がどうであれ、党内での決定が最後まで貫徹されることが多く、いわば過度の硬直性を有しているといえる。

 したがって、過度の硬直性を有したままで、二大政党体制に突入すると、党内での結論を、議会での議論を通じて変更することは相当に難しく、議論のための議論、現在の国会がそうであるように、パターン論争化した議論、すなわち議会の形骸化が促進されると危惧するところである。

もちろん、党内議論をないがしろにすることは政党政治の存立を危うくするものであるから、米国のように上下院の絶妙な役割分担など議会政治の歴史が生み出した黄金の工夫があってしかるべきであるが、わが国の現実は残念ながらそうはなっていない。

という現実において、数にのみ着目した大きなかたまりつくることは、仏作って魂入れずのたとえに似て、いい結果よりも悪い結果が表に滲出するのではないか、との恐れが国民民主党支持者、団体に共有化されていたのではないかと思われる。

 第二は、それぞれの政党が持つ政党理念が有権者の認知レベルではまだまだ不明確であることから、理念そのものが支援を広げながら、かつしかるべき方向に向かわせる凝集力を生み出す状況に至っていない。この点については、あらためて、政党への凝集力とは何であるのか、について再考する必要があるのではないか。一点指摘したいのは、凝集力とは個別政策の集合体から生じるものではなく、通底する問題意識とその解決に向けての意志の方向性であると考えられる。

その意味で、問題意識がばらばらで、解決のための意志の方向性がまとまっていない今の野党が党を融合させる力を持ち、その力を凝集させることができるのか、疑問であり、そういった問題意識に立てば速やかに共通の理念を形成できるのかが喫緊の課題ではないか。残念ながら、今は方法論としての戦術論しか感じられない。これでは世の中は動かないだろう。

 

という論を踏まえて、第三に、集団のエネルギーを生み出す大きな情動を提起できていないと指摘したい。このあたりの議論において、現状を一強多弱と受け止め、一強の象徴である「アベ」を打倒するためには野党は一丸となって戦わなければならない。といった勇ましい声が聞こえてくるが、しかし、ちょっと待ってよ、という声もある。

 簡単にいえば、「アベ打倒」という目標が共有されているのか、疑問であり、さらに、「アベ打倒」を野党に求めている有権者がいかほどおられるのか、冷静に考えてほしいものだ。鉄板底のような内閣支持率を眺めながら、仮に有権者の多数が野党の力で「アベ打倒」を成し遂げてほしいと考えるのなら、内閣支持率はとっくの昔に2割台になっているであろう。内閣支持率がなかなか下がらないのは、有権者が与党自身の手で「アベ打倒」を成し遂げるべきと考えているのではないか、と思う。まあ、エネルギーが感じられないから期待できないという堂々巡りの論理構造ではあるが、こういった有権者の思いを察してほしいものである。

 大きなかたまりを作る道筋はいくつか考えられるが、政党の合併あるいは合流は簡単なものではない。政党も法人であるから、権利義務関係に財産処分が絡む。とくに、政党助成金由来の資金の扱いは慎重に考えるべきである。法的ラインに加え、政治倫理上の制約も重く考えるべきで、ここを間違えるとその後の政党活動に災いをもたらす。

 また、選挙制度との関係でいえば、衆議院議員選挙における小選挙区での候補者の絞り込みを中心とした調整が初めにあり、続いて比例区の扱いが焦点になるが、ここには制度的な分かりにくさがある。衆議院の比例区では、ブロックごとの政党名投票により当選議席数が決まり、重複立候補者のうち惜敗率の高い順に議席が割り当てられることから、統一名簿などの言葉に象徴されるように、この比例区では政党統合効果が高い。また、名簿内での競争がし烈で、前半は党外と争い、後半は党内と争うといっても過言ではない。諸外国のそれと比べ、選挙制度としては二大政党を強く志向しているといえる。

 こういった制度の下で、議員を続けるうえで比例区はいわば保険の役割を担っており、ゼロよりは1、1よりは2というように多ければ多いほうが良いと、ほとんどの議員が考えるわけで、その結果、極論すれば理念、政策よりも統一名簿の活字ががぜん大きく見える時期がある。統一名簿がどういう状況で機能するのか今のところ判然としないが、解散総選挙の噂がまことしやかに流れだすと政党合流話が活発化することは事実であり、いかんともし難いことである。

 仮に合流話の発端が、衆議院議員の選挙への不安にあるとすれば、政党の理念や政策を評価しての政党支持ではないかという建前からは理解につなぐことは難しい。理念や政策をさしおいて、政党の合流を語ることは、もちろん議員個人の置かれているきわめて不安定な地位について知悉しているがゆえにすごく同情的になるところがあることは正直に表明しつつも、話にならないと処断するものである。まして、マニフェストで総選挙を戦った政党の系譜ではないか、プライドを持ってほしい。

 しかし、議員ならびに候補者は政党の宝である。いつも風前の灯のようなみじめな思いに追いやってはいけないのであって、もう少しセイフティネットを整備しなければ、政党の土台の強化にはつながらないだろう。今や政党も、人的投資を本気で考えるべきである。

 おそらく、各政党もその存在価値と持続性の確保を念頭に置いた本格的議論に着手する年となるであろう。あれこれいっても、これが先でしょう。

◇マスク剥ぎ 頬切る風に チェーン鳴く

加藤敏幸