遅牛早牛

時事雑考 「新型コロナウイルスがもたらす三層構造の災厄」

人類の歴史は感染症の歴史でもある、過去に学ぶ謙虚さが大切である

◇「感染症が歴史を変える」とわけ知り顔にいってみても、もう少し分かりやすく説かなければ話は前に進まない。もちろん、話をどれほど前に進めても未来は常に不確定であるから、話は話に終わり、なんの役にも立たないことが多い。

 新型コロナウイルスの蔓延が引き起こした災厄は実のところ、いとも簡単に感染していく私たち人類の問題であって、ウイルスに責任(?)があるわけではない。保健所の数を減らしたのはウイルスではない。人口当たりの医師数を抑え込んでいるのもウイルスではない。医療用マスクや防護服を海外依存にしたのもウイルスではない。2009年の新型インフルエンザに学んだはずなのに、すべてこちらの問題なのだ。

   

◇日ごろ、世の中を動かしている自分たちが、勝手に思い込んでいた繁栄が、あてが外れてダメになったのは、「感染拡大を止められなかった○○の責任である」とするなら、この○○に当てはまるものは、「人」を先頭に「人が作り出したもろもろ」が当てはまるだろう。そのうえ、たいして凶暴なウイルスでもないのに(性質が悪いことは間違いないが)、右往左往しているのは、「強いものが生き残るのではない、環境に適応するものが生き残るのだ」とダーウィンの言葉を引用する割に覚悟が不足しているからなのか。

 考えてみれば、これで人類絶滅ということにはならないだろう、つまり、地球上の生命群のちょっとした動きでしかない現象にもかかわらず、政治家たちが慌てているのは備えが本物でなかったからで、日ごろの傲慢さが現れたのか。まあ突然のことで、同情する気もないではないが、「初手の侮り」が取り返しのつかない失敗を導くものだから、国民の困窮を考えれば深く反省しなければならない。

 さて、今日の仕事は今日のうちに、できれば明日の仕事の段取りをつけて、それから川の流れが変わるにしても、慌てて船を転覆させないようしっかり竿をさばくことだね。肝心なことは、できないことに気を取られずに、できることをしっかりやることだ。そう、落ち着いてしっかりと。

集団免疫の議論は難しいうえに危険である、犠牲はいつも貧しい者から

◇集団免疫を防波堤とする議論は難しいし、危険でもある。それは、集団免疫ができるのに必要な感染率が不明であることと、たとえば人口の60%以上の感染が条件であると仮定すれば、前にも述べたが、日本では7400万人が感染する必要(?)があり、その場合、致死率1%で74万人、同0.5%で37万人、0.1%で7.4万人の死亡者が発生する。昨年の死亡者総数が137万人余であるから、中程度の致死率を想定しても、相当の衝撃といえる。

 くわえて、重症者は感染者の20%程度といわれているが、そうであれば1500万人近くが要入院となる。これには対応できない。医療崩壊による想定死者数を計算する方法なぞは知りたくもないが、とんでもない数字であろう。それ以上に、治療という希望を失った社会が正気を保つことができるのか、医療崩壊がもたらす災厄は今のところ想像すらできない。

◇過日、ニューヨーク州が行った抗体検査(3000人)によると13.9%が陽性で、この数字を用いれば、抗体保有者比致死率は0.65%であり、インフルエンザの致死率とされている0.1%よりもはるかに高い。

◇現在、「命を守る」ことを軽視する議論は、世界中どこにも表面上は見当たらない。では、都市封鎖により営業を止められた飲食業店主が家族そして従業員ともども路頭に迷うケースはどう扱われるのか。国の財政でどれだけ、いつまで補償されるのか。共助が続くのか。そして、いつ封鎖が解除されるのか。休業による災難、被害の全貌を想像すると暗澹とした気分に襲われる。

不確実であることが不安を膨らませ、不安はリスクを増幅させる

◇「命か経済か」といった二項択一問題に落とし込んでも答えはでない。それに、日ごろ「命」最優先の政策が実践されているとはとても思えない。今の社会の仕組みはどこかで「命」に区切りをつけている、否つけざるをえないもので、これは古来からの仕組みでもある。

 何事にも限度、限界がある。仮に自粛ベースであったとしても、何カ月も経済活動を基礎代謝レベルに止めることはできないであろう。

 だから、適切なのは「命か経済か」ではなく「命も経済も」である。命を軽んずる経済は支持されないし、経済をないがしろにして命を守ることはできない。だから、私たちはどこかで折り合いをつけなければならない。

 その折り合いをつける前に、経済活動再開の声が沸き起こるであろう。都市封鎖は人々にとって大切な経済をひどく攻撃するもので、今は政府の援助で何とかしのいでいても、これがいつまでも続くと考えている人は少ない。経済崩壊は社会崩壊である。貯えのない人々は仕方なく経済崩壊よりも感染リスクを選ばざるをえないという厳しい状況に追い込まれている。

◇結局、集団免疫を防波堤とする考えが受け入れられないのは、まず不明なことが多すぎることであり、また、最終的に人口の1%近い死者を前提とする非人道的響きが政治的な困難を生みだすからであろう。非人道的といえばその通りである。また、最前線で感染リスクを乗りこえ、献身的に働いている医療従事者の努力をないがしろにする文脈もいただけない。

 しかし、経済崩壊が希望を粉々に砕いてしまうなら、とくに、豊かな国にあっても低所得者や貯えのない者にとって経済崩壊こそが災厄そのものであり、それをもたらした都市封鎖は自分たちを滅亡させる悪魔の仕業と受け止めるかもしれない。大げさに聞こえるかもしれないが、貧困であるということは、状況次第でそれほどまでに追いつめられるものなのである。

 今は、緊急措置としての都市封鎖である。このストレスにどこまで耐えられるのか、同時に解除条件をどうするのか。新型コロナウイルスによる死者を最少化するだけが政策目標ではないという事実が政治家に対して突きつけられる日が近づいていることだけは確かである。振りかえれば集団免疫の防波堤に守られていた、となるかもしれない。

先進国が手いっぱいな中、途上国わけても最貧国はどうすればいいのか

◇他方で、医療水準が低く、日常生活にも事欠く最貧国における議論は少し違ってくるであろう。もともと、清潔な水がない、石鹸も消毒用アルコールもマスクもない状態で何を議論すればいいのか。全く不平等な現状を前に感染症対策として先進国と異なる方策を受けいれざるをえないことをどう理解すればよいのか。ベットも人工呼吸器もECMOも不足しているし、頼りの先進国は自国の感染症対策で手いっぱいである。先進国は経済対策のために巨額の資金を用意しているが、これは海外への援助ではない。そう、海外からの援助が期待できない状況下で、最善を尽くしても行き着く先は集団免疫による安定である。もちろん、集団免疫がどの程度機能するのかわからない時点であれこれ予測するのは軽率であるが、いえることは、おそらく途上国においては多少の対策が取られるかもしれないが、今のままだと、集団免疫による安定を期待するということになるであろう。昔からそうであったように。

◇国際機関の役割を思い起こせば、少しは峻厳な気分になるだろう。自国の対応に手いっぱいな先進国に代わって、公平公正な判断に基づき、途上国への支援を執行できるのはWHOなんだから、今、分担金問題を提起することが何をもたらすのか、火事場で消防車のキーを取り上げてどうしたいのか、実にわからない。永遠に分からないだろう。

人が歴史を変えていったが、そのベースは天与のものである

◇ところで、感染症だけが歴史を変えたわけではない。1970年代の石油ショックは産油国の同盟値上げによるもので、その結果、石油関連商品を手はじめに百貨におよぶ価格体系が変更され、その影響は地球上すべての地域におよんだ。

 原油価格の変更が生活用品の価格体系の変更に止まらず、各国のエネルギー、安全保障、物流などの社会インフラの構造変革をも促し、さらに国際政治における産油国の地位を向上させ、石油の戦略物資化を加速させた。

 この時の価値秩序の巨大な変更は「石油」が引き起こしたものではなく、産油国政府、すなわち「人」がもたらしたものである。すなわち、「人が歴史を変えた」と考えるのが妥当であるが、石油の埋蔵地と埋蔵量は人為ではなく、天与のものである。

 もし、埋蔵地が中東ではなくモンゴルであったなら、北海でなくインド洋であったなら、「今の歴史」が大きく変わっていただろうことは容易に想像できる。したがって、「人が歴史を刻み、歴史を変えていった」ことは間違いないが、その基底に天然としての地形、気候、資源が重要な条件として横たわっていることは確かであり、人が歴史をつくる舞台は天然が与件的に準備しているのである。

 さらに、感染症が大きな役割を果たしていたことは、ジャレド・ダイアモンドの『銃・病原菌・鉄』を読むまでもなく、現在では人々の共通知となっている。

国際政治をかき回しているが、これこそ病ではないか

◇今日、世界的大流行を起こしている新型コロナウイルスについて、それが天然物であるのか人造物であるのか、また由来や第1号発症者などについて、さまざまな疑問が投げかけられている。もちろん、これらの議論がどういう展開を見せるのかは国際政治上すこぶる重要ではある。仮りに人造物であれば厳しく追及されるのは当然のこととして、多数の見方が一致している天然物であったとしても、新種の感染症への初期対応に関する当該国の責任は正しく追及されるべきである。それは、今後の対策を講じるうえでの共通基盤となるべき知見を守るもので、それらの正確な知見に基づき、国際専門機関の在り方とあわせこれからの対応策について包括的な国際ルールとして再度検討される必要がある。

 しかし、今は感染症対策に集中すべきで、各国の国内事情、とくに感染症への初期対応の失敗を希釈するカモフラージュとして政治利用するべきではない。

直接被害としての一層目の災厄

◇さて、表題の「三層構造の災厄」の意味であるが、まず一層目の災厄とは新型コロナウイルスが引き起こす肺炎などの直接被害である。日々報告される感染者数と死者数が感染症の広がりとその酷さをあらわしている。また、医療資源と、関連する公共サービスの激しい消耗も直接被害といえる。

社会的被害、経済的被害としての二層目の災厄

◇二層目の災厄とは、新型コロナウイルスの大流行がなければ起こらなかった被害である。二次災厄ともいえるそれらの被害は、社会的被害と、経済的被害とに分けられるが、分類してもしなくても、被害そのものは変わらない。失職、休校、外出制限、文化活動・行事の中止、娯楽・旅行の禁止など人間の根源的欲求を強く制約すること自体が社会に大きな損害をもたらす。動物園に入れられたも同然の事態である。感染への恐怖が、平穏だった日常生活を破壊し、人々の心に深い傷跡を残し、社会を傷つけていく。

 また、人々の社会活動を厳しく制限すれば当然のこととして経済活動は停滞する。感染症対策の基本は隔離であるから、経済活動停止に近い。まさに、経済恐慌を呼び込む経済凍結策の執行に、各国の政府が全力を傾注しているのであるから、残念ながら世界経済は確実に失速し、その災厄を経済的に弱い人たちが順次受け持つことになる。このことがどれだけ酷い惨禍をもたらすのか、過去の都市封鎖の惨劇を思い起こせば十分であろう。まだ、先進国の住民は、ライフラインが保たれ日用品に困ることはないかもしれないが、そうではない国々において封鎖が長引けば、主要都市においてさえ水も食料も医薬品も不足するといった、生存危機地域化する恐れが高い。こうなれば、感染症以外の理由で落命する人の数も数えきれないのではないか。とくに、発展途上国はいうにおよばず新興国においても世界恐慌となれば自国民を守り抜くことは簡単ではなかろう。

政治不信を生み出す三層目の災厄

◇そこで、三層目の災厄であるが、二層目の災厄の中で人々は大きな不安を覚え、さらに大きな不満を抱くことになるが、不安と不満の結合は、多くの場合社会への帰属意識を弱め、社会を統合する政治への不信を日常的に持つようになる。三層目の災厄とは、不安と不満が引き起こす対人嫌悪、流言飛語への同調、暴力、差別行為、政治的権威への挑戦、略奪、暴動などによる被害であり、政治不信そのものである。政治不信が蔓延すれば政治的権威が崩壊し、無秩序となり、人々はさらに酷い被害に直面することになる。

 

それぞれの災厄のこれから

◇このように今回の災厄は三層構造で、一層目の感染症災厄はその「終息」をもって解消する。治療法の確立により致死率が一桁下がれば不安は大きく後退するであろう。また、時間がかかるが、ワクチンが完成し普及すればさすがの新型コロナウイルスも普通のインフルエンザと同列に並ぶであろうし、集団免疫も十分な状況になるといえよう。

◇やや楽観に傾いているが、そうなれば、二層目の経済的災厄は急速に解消に向かうであろうし、世界経済は表面的には空前の復興を果たすであろう。しかし、社会的災厄は漸進的で、経済復興の力を借りながら、地震で傷んだ道路や橋梁を逐次修復するように緩やかに時間をかけて昔の豊かな文化的生活と穏やかな社会を取り戻しに向かうであろう。というシナリオは大変魅力的であるが、一層目の解消が二層目を、二層目の解消が三層目をと、まるで階段を上っていくように上手く運ぶことに、ならないというのが哲学、歴史学、倫理学方面の気分である。あくまで気分なのであるが、経済学者が長らく見逃してきた「経済格差は不正義であるのか」との問いかけが、すでに発生している大きな犠牲というエビデンスを前にしながら、従来以上の迫力で表通りに飛び出してくる。率直にいって経済学者は見逃していたのではない、それはこの世を動かしていると自負している政治家や経済エリート連中の恣意的怠慢だったということを人々は認識し始めているのであって、単純ではあるが「それは間違っていた」とするのが犠牲を受け持つ人々の大勢であろう。気分といったのは、気分は論破できないからで、何かしら妖怪の卵に出会った感じがするのである。理不尽で受け入れがたい惨禍は人々の社会認知や認識の変容をもたらすものである。

◇もちろん、楽観シナリオに沿った展開と悲観シナリオに沿った展開が地球をまだら模様に染めていくと思われるが、感染症対策が遅れれば遅れるほど世界から遮断され、隔離される国、地域がでてくるかもしれない。支援から見放された悲惨は世界を分断する。

◇ところで、問題は政治的災厄である。たとえば、感染症で直接亡くなった人よりも経済恐慌がもたらす困難が引き寄せた不幸が多くの人の命を奪っていれば、人々は何を思い、どのように行動するだろうか。乏しい想像力を駆使して思いつくのは、まさに不穏なるものである。

 復興してゆく経済は本当に経世済民なんだろうか。それはどこまでいっても富めるものにさらなる富を与える仕組みでしかないではないかと、深く疑うであろうし、復興とは、しょせん不平等の再生産でしかない、と思って当然である。

 「あなた方はまだ悲劇を見ていない。底なしの悲嘆や絶望を目の当たりしていない。だから、今まで通り強欲に走るのだ。」という声が聞こえてくる。

 悲劇の幕はまだ上がっていない、今は幕間の休憩である。幕が上がれば、悲劇と地獄の区別がつかなくなるだろう。

 だからといって直ちに暴動が起こるということではない。しかし、自らが目撃した、あるいは体験した事実がその人々を導く方向はおそらく現在の政治、経済体制を支持することではなく、残念ながら、現状否定から出発するアナザーワールドを求める旅路となるのではないか。

テロリストの好む土壌が広がるのが心配

◇ここで、危惧すべきは体制否定や現実逃避などの、テロリストが好む土壌を涵養する流れが強くなることである。災厄という慣れない言葉を使うことにはいささか抵抗感をもっているが、天災といって責任逃れをさせたくないとの思いで使っているわけで、たとえ原因が天然のウイルスに起因するものであっても、引き起こされ増幅された被害がその時の政治経済体制に深く因果していることに、人々とくに被害の直撃を受けた人々が焦点をあてていくだろうし、そのことが今後の政治を大きく揺るがすと思われる。世界が一様にそうなるわけではないが、容易ならざる事態が静かに進行するのではないかと思う、残念ながら。

 飛躍したいい方になるが、感染症が歴史を変える契機は人々の政治不信からもたらされるといってよいのではないか。

気がつけば国際レベルの課題が横たわっているが、誰が解決するのか

◇三層目の政治的災厄はいくつかの重要な国際レベルの課題を提起すると思われる。

 1は、今後の新種の感染症対策として考えられるのは、国際保健機関(WHO)の役割と責任の強化であろう。確かにWHO事務局長の発言とその背後にある認識は、何も米国大統領の口を借りなくとも発生国中国への配慮があったことは間違いないと思われる。新種の感染症対策は国際協調が前提であるからこそ、国際機関の対応は厳正中立でなければならないし、加盟国以外の国・地域への対応も特段の配慮が必要であろう。昨年末、台湾からの報告を黙殺した対応は非難されるべきものであろう。

 2は、生物兵器というくくりではなく、新種の感染症が安全保障上の脅威になったことから、今後の安全保障議論の重要課題となるであろう。(乗組員が大量感染した空母が運用から除外されたことの影響は大きい。)

 3は、国家目標の順位と政治体制の選択という久しぶりに重たいテーマが覆いかぶさってきたことである。感染症対策の基本は国際協力である。国を閉ざす以外に一国での対応はありえない。つまり鎖国ができないのであれば協調するしかないのである。一国主義が感染症に対して通用しないことが明白になった以上、それぞれの国家目標の順位替えが必要ではないか。また、政治体制とまで大げさにいう必要はないが、国内の感染を国外に正確かつ迅速に発信することは、国内の人々への情報開示を進めることと同値であろう。今回、経験したことは命の危険と経済停滞が同時に起こることであり、それらは天災というより少なからず制度災害に近いものであるから、今のままでよいとはならない。少なくとも、政治権力と人々との信頼の在り方について議論が深まらなければ、体制は安定しないであろう。

 4は、国家連合あるいは同盟の新定義である。まず、有効なワクチンが完成すれば、それは数年間戦略物資となるだろう。理想をいえば、国連あるいはWHOが管理をすべきだと思うが、はたしてどうなるのか、国連が試されることは加盟国が試されることである。

 とくに、治療薬とワクチンの生産と分配は重要事項であり、外交の修羅場である。激突する国益をめぐる駆け引きは壮絶で、決して美しいものではなかろう。できれば、中立国とか北欧において成功すれば気が楽になるのだが、それはわが国でもいいのだが。

 たとえば、ワクチンの効果性が「使えなくはない」とか「一定程度の効果」といったレベルなら、気前よく開放されると思われるが、相当に高ければ隠匿されるかもしれない。世界がまだ集団免疫を形成できない状況下では、高性能ワクチンは戦略物資であり、まず軍用に供されるであろう。マスクでさえ、外交手段と化しているのだから、さてさてどうなることやら。

 これ以上余計なことに触れる必要はないが、期せずして、生物兵器のシミュレーションを見た思いである。国家間の信頼が崩れ、米中関係が不安定で、不確実である。液状化後の港の光景を思い出す。

◇わが国への影響については、次回とする。

◇平熱に若葉映えるメーデーかな

加藤敏幸