遅牛早牛

時事雑考 「新型コロナウイルス禍にあって、松明を掲げるのは?」

まだまだ分からないことだらけ(新型コロナウイルス)

◇素人ながら、新型コロナウイルスについて耳学問とウェブ検索で、何かしら詳しくなったつもりであったが、まだまだ分からないことが多い。まあ自粛、自粛で時間の余裕もあるので、ゆらゆらと書きすすめたい。

◇レムデシビル、アビガン、アクテムラ、イベルメクチン。なんだか四銃士のようで心強いが、ここは五銃士、六銃士と続いて欲しいものだ。これらの薬剤などで効果的な治療法が確立されるなら、今ある不安の大部分は解消されるだろう。さらに、死者数が減少すればまるで何ごともなかったかのように、元どおりというわけにはいかないが、人々の気分は2019年の景色に戻っていく。

 

◇そのうえ、ワクチン開発が成功すれば、さすがのCOVID-19も普通のインフルエンザのなかま入りということか。いずれにせよ、抗ウイルス治療薬とワクチン、そして自己免疫抑制剤がそろえば少なくとも収束が射程に入るわけで、そうなった時点で、ようやく新型コロナウイルスの影響について改めての議論ができそうである。もちろん、いつごろかが最大の問題であり、近ければ楽観的に、遠ければ悲観的に議論は運ぶであろう。

◇しかし、不安も多い。先ずは、免疫の持続性である。麻疹(はしか)のように何十年も持続してくれるのであれば、時期はともかく流行終息の可能性は高いが、巷間ささやかれてる数か月から3年程度ということであれば、高性能ワクチンなしに終息させるのは難しく、おそらく周期的流行をくり返すのではないか。

 この新型コロナウイルスの厄介な点は、感染力が比較的強いうえに感染力を有する無症状感染者が多いことで、感染が起こりやすく、始まると大流行になりやすい。だから、治療薬の登場で致死率が大きく下がったとしても、入院、隔離治療が必要であることから、院内感染防止への対応もふくめ、医療現場の負荷は思いのほか大きく、場合によっては地域での医療崩壊が起こりうる。したがって、医療崩壊を防ぐためには何らかの行動規制が必要であるから、かならず経済停滞を引き起こす点が、社会・経済にからんでの難問である。

 他に、一般的にインフルエンザウイルスは高温多湿あるいは紫外線に弱いとされているが、このウイルスの特性は現時点では不明である。弱さの程度も含め、次第に明らかになると思われるが、南北半球で季節が逆転すること、地球規模での交易、人的交流の規制には限界があることなどから楽観に傾くことはできない。

 また、BCG接種との相関を指摘する声もあるが、いま世界を回り巡っているさまざまなデータの多くは厳密な定義がされておらず、図表を見ただけの考察では限界がある。各国ごとの感染者数、死亡者数も不ぞろいで、疫学上の分析は先のことではないか。散発する議論の整理も必要で、推測や仮説だらけの言説は科学的のようで非科学的で、時に反科学的になるおそれもある。嘘と噂から人々を守らなければならない。

◇ということで、どういう収束の形になるのか、時期も含めて今の段階では確たる見通しを述べることはできない。しかし、いずれ収束するだろうが、問題は人的、経済的被害の規模であり、人々が受けた心的衝撃である。それらの、一つひとつの被害が連鎖、影響しあって巨大化し、その結果予想を超える大きな政治ムーブメントが生みだされるであろう。そして、それは少なくとも数年間にわたり、各国それぞれに政治波乱を生じさせるのではないか。この政治波乱がもたらす被害も想像を超える規模になるのではと危惧する。これが災厄三層論のいちばん上の部分である。

私たちの近未来は抗ウイルス治療薬とワクチンとに握られている

◇ここで、重要な認識は「私たちの近未来は抗ウイルス治療薬とワクチンとに握られている」ということであろう。これは、今日の私たちの生活が「電気とその応用」を絵具として描かれた絵画に似ていて、どんな絵であっても絵具がなければ絵にならない。絵具は絵画の本質ではないが、今さら水墨画の世界に戻ることはできないにように、「電気とその応用」なしの生活は、生活とはいえない。と人々は信じている。信じなければそれまでのことなのであるが、薬剤がなければ人類は滅亡すると信じ込んでいることが地球規模の「共同認識による歪み」現象を起こすのである。それは、薬剤抜きでの問題解決の選択肢をはじめから排除することである。簡単にいえば、薬剤が届かない世界が現実にありうるのに、なぜそのことを思考の対象から除外するのか、という基本的な問題が残されているのである。

 嫌味ではないが、救世主としての薬剤の出現を待ち望むことは、それへの依存を高めることであり、過剰に依存することは薬物依存に似て、いずれ支配されるのである。

グローバリゼーションが途上国や新興国の生活改善を促したが、感染症拡散に手を貸し、地球温暖化を加速したといえる

◇話は変わるが、とくに今世紀に入り、グローバリゼーションの進展が、途上国などの貧しい国々を、ひとり一日1ドル以下から2ドル、3ドルへと高め、貧困であることは変わらないとしても貧困の中身はずいぶん改善され、多くの恩恵をもたらせたことは確かである。このような小さく見えるけれども途上国に多くの生活改善をもたらせたグローバリゼーションはもちろん新興国にとっても経済発展の原動力となり、一段上の生活をもたらせた。

 とはいっても、負の側面があったことは確かで、その一つが、爆発的な人の移動であり、移動がもたらす感染症の拡散である。人の移動と感染症の広がりが同期していることは歴史的にも明らかなことである。

 もう一つは、地球温暖化の加速である。この感染症拡散と地球温暖化への対策を持たなかったグローバリゼーションは、今日急停車を余儀なくされ、各面からの点検を受けようとしている。今回の、新型コロナウイルスの災厄はグローバリゼーションの副産物のひとつであり、今はそのツケ払いに苦労しているといえる。

人は「薬」と「電気」と「情報」に依存しながら傲慢になった

 

◇さて、私たちの近未来が、いくつかの薬剤(抗ウイルス治療薬とワクチンなど)の完成時期や効能あるいは生産量によって「規定」されるという、まるで虜囚になった気分の中で、人々は将来をどのように捉えているのだろうか。今は、社会的にも経済的にもそして政治的にも大変不安定な状態にあるが、これから人々が未来をどのように紡いでいくのか、不確実性の靄にかこまれながらも、明日以降のあり方を想像することは重要である。

◇そこで、「人は、少しは謙虚になるのか」と思う。人は、「薬」なしに生きていけない。「電気」なしに生きていけない。「情報」なしに生きていけない。つまり、依存症候群であり、ほとんど囚われの身に近い。にもかかわらず、「薬」と「電気」と「情報」で、力と自由を得たと思っている。この勘違いが傲慢を生んでいる。内心の傲慢と存在の傲慢、自然界では個体として滅ぶ条件が整っているのになお寿命を延ばしている。そのことを非難する気は毛頭ないが、そこに何かしら疑問を感じないのか。という思いから、謙虚さについて問いかけてみたいのである。

依存することに幸せを感じる者には、感染症は管理できないのか?

◇いつ、どこで、誰と居たかが、完全に「当局」に筒抜けになっているから、感染症に打ち勝てたと単純に思っているわけではないだろうが、それでも世界で最初に収束を果たしたことは、得意であり幸せだと彼ら彼女たちいう。しかし、今回の災厄はどこからやってきたのか、考えてほしいし教えてほしい。依存することに幸せを感じる者には、知る必要のないことなのか。しかし、世界は知りたいと思っている。国際社会からの調査要求あるいは責任追及は日々広がりを見せるであろう。これらの要求のあて名の最後の行には、依存することに幸せを感じているあなたたちの名が、実に多すぎて書ききれないが、記載されている。あなたたちには、説明責任と実質責任があると考える人が増えていくであろう。遺伝子情報だけでは収まらない。

「薬」への過度な依存がもたらす災厄もある

◇この新型コロナウイルスがもたらした災厄の中で、先進国に住む私たちはなぜ薬剤がないと元の生活に戻れないと考えるのか。逆に、戻らなくともいいとどうしていえないのか。戻らなくてもいいのなら、べつに薬剤を待つこともなかろうに。

 要するに、依存し過ぎているから戻らなければならないと考えるのだろう。ではどこに戻るのか、それは2019年の医療万能であったと思っていた世界へ帰ることなのか。しかし、それは幻想かもしれない。2019年も人々はさまざまな理由で死んでいるのだから、新型コロナウイルスで死ぬことを特別に忌避しなければならない理屈は何であるのか。

 そういった理屈の展開だけではなく、薬剤がなくとも私たちはある覚悟をもって現実を受け入れる気持ちを持つべき時を迎えていると考えるべきなのか、遠い祖先たちがそうしたように。

◇今この瞬間にも、新型コロナウイルスがもたらす災厄を受け、防御策がないままひたすら薬剤の完成を待つ、そう待つためには時間が必要であるから、時間稼ぎに感染の拡大を抑制するといって、人々から自由を取り上げ封鎖・自粛といいつつ籠城作戦に出ているのである。もちろん、医療崩壊を防ぐためには感染抑制が必須ではあることは間違いない。

 薬剤が完成するまでのしばしの籠城ではあるが、糧食が尽きれば死人の山、これは籠城がもたらす別の災厄である。二つの災厄を天秤にかけてはいるが、先の災厄は確率論で死人を選び、後の災厄は貧しい者、力のない者に分け隔てなく不幸を与える。貧しい者、力のない者から順に犠牲となっていく、格差社会のおぞましい闇が静かに近づいているのだ。新型コロナウイルスが奪う命と、籠城がもたらす悲劇が奪う命との釣り合いを考えることが、医療崩壊下のトリアージと同じものなのか。新型コロナウイルス側ではなく、人類の側の問題ではあるが、本当のところ分からない。

 ところで、ひとり十万円の意味は、贈与金か、祝い金か、賠償金か、慰謝料か、それとも弔慰金か、何だろう。劣化した政治が向かう次のステージを何と呼べばいいのか。これも、悩ましいところである。

経済崩壊がもたらす悲劇、途上国では医療崩壊よりも大きな被害が

◇思い出してほしい、一日ひとり1ドルで暮らしていた人々が、2ドル、3ドルになって日々の暮らしに小さな喜びを得たというのに、それをまた元の1ドルにするなんて、どうして許されるのだろうか。

 また、一日ひとり10ドルで暮らしていた人々から一日ひとり5ドルを取り上げないで欲しい。

 ことほどさように国、地域、人によって災厄がもたらす悲劇の広がりと悲惨の程度は異なっている。崩壊の心配をしなければならないほどの高い医療があるといい切れない国や地域がまだまだ多いのである。だから、医療崩壊よりも経済崩壊の方がはるかに狂暴だし危険なのである。

地球上に国家間の連帯を呼び戻し、自国第一主義の罠から抜け出そう

◇見方を変えれば、過剰に反応し、過剰に防衛することがもっとも合理的であったとしても、その結果が別の経路でおびただしい不幸を生みだしているとするなら、それは小さな狭い合理性であって、そうであれば言葉は合理性ではなく利己性とすべきではないだろうか。といった議論を国連の安保理でやらないのはなぜなのか。

 国際社会が一体となって新型コロナウイルスがもたらす災厄に立ち向かうための基本方針とは、各国の個別方針の集大成で通用するのか。対策の議論は入口で足踏みを続け、前進していない。

 だから、やはり問われているのである。

「われらは、いづれの国家も、自国のことのみに専念して他国を無視してはならないのであって、政治道徳の法則は、普遍的なものであり、この法則に従ふことは、自国の主権を維持し、他国と対等関係に立とうとする各国の責務であると信じる。

日本国民は、国家の名誉にかけ、全力をあげてこの崇高な理念と目的を達成することを誓ふ。」とは日本国憲法前文の一部である。

 世界で起こっていることへの共感なくして平和は築けないし、自国の安寧も達成できない。まして相手は感染症である。貧しい国には限界があり、他国の援助に頼らざるをえない。頼みの先進国は自国のことで手いっぱいであり、残念ながら期待できない。となれば、悲しいかな集団免疫で切り抜けるしか手はないのかもしれない。それには大きな犠牲をともなう。しかし、想定される致死率を飲み込んでしまえば、道は開けると思うかもしれない。そして、当面の恐怖は無理やりに克服されるが、経済崩壊の傷は深く、悲劇は続くであろう。災厄は二重三重に襲ってくるのである。

◇国連の安全保障理事会の責任は重いが、今の事態をいえば、常任理事国の怠慢は覆い隠せない、堕落である。WHOはあくまで専門機関である。すでに問題は感染症対策を超えている。多くの国の自国自身への経済制裁の結果、世界経済が凍結されてしまった。実に異常である。説明する気が起こらないほど分かり切ったことだが、一国だけの解決はない。感染者ゼロを達成しても、自国のみでは経済は思うほどは回復しない。前述の憲法前文は政治道徳の法則を表しているが、経済法則からも「自国のことのみに専念して他国を無視してはならない」のであって、協調による繁栄を目指さなければならない。

70億人へのワクチンの供与は困難、さてどうするのか

◇一日千秋の思いで治療薬やワクチンの開発完成が待たれるが、それで問題のすべてが解決できるわけではない。また、理想通りの薬剤が十分得られるという奇跡はそうそう起こるものでもない。

 医療に対し過剰に依存している者に限って、過剰に期待するのであろうが、それらが地球規模の解決をもたらすものになる可能性は低いであろう。70億人に行きわたるには日量2000万単位が必要である。いつになるのか。毎年必要となるかもしれない。あくまでも経済的に恵まれた10億人対象の解決策ではないのか。

 新型コロナウイルスが人類社会の醜い格差を鮮やかに浮かび上がらせたが、開発されたワクチンをめぐる不平等の地獄絵図が繰り広げられる時に、耐えられる者がいるであろうか。自国第一主義なんて、命がかかってくれば、それは醜い利己主義に過ぎないもので、踏み越えてしまうと永遠に回復できない汚辱であることを忘れてはならない。

◇2019年に戻ってはならないし、戻れないのである。それは、恵まれた者だけが救われる世界を表すもので、政治道徳的に戻ってはならない道である。他人の献身や犠牲のもとで、ひたすら富を蓄えた者には分からないだろうが、松明を掲げる者がいるから暗闇を歩めるのである。松明を捨てた米中に続くのは危険であろう。これは、新型コロナウイルスの問題ではない、人類自身が抱える課題なのである。

◇自粛なりまだ咲くでないアジサイは

加藤敏幸