遅牛早牛

時事雑考 「新型コロナウイルス感染症がもたらす変化(一層目)」

 新型コロナウイルス感染症(COVID-19)がもたらす災厄が三層構造であり、一層目は感染症そのものによる災厄、二層目が社会・経済が被る被害としての災厄、そして三層目が最終的に政治が受ける変化と変調としての災厄と、とりあえず分けたうえで、影響全体の把握を図りたいが、三層構造といっても当然層目が鮮明になっているわけではなく、それぞれの災厄を構成する個々の被害ともいうべき事象によっては、細部の形態に違いがあるので、結果、総覧したときにまとまりの悪さが残るかもしれないが、このことについてはあらかじめ容赦願いたい。

新型コロナウイルス感染症による直接的影響について

 さて、一層目の新型コロナウイルス感染症の影響であるが、直接的には医療分野に新たな変革がもたらされると思われる。それは、検査体制、入院、隔離、感染経路の探索、感染予防などの感染管理の分野から、治療法などの分野や薬剤開発分野など多くの領域において、感染力の強いケースを想定した方向で改善が図られると思われる。また、医療機関の物理的構造も大きく変わるであろうし、パンデミック時の緊急対応への備えも格段に強化されると思われる。

WHOをめぐる米中の対立が壁に

 国際的には、専門機関であるWHOの財政基盤と執行力の強化が図られるべきとするのが本来の方向であるが、近年の国連専門機関への中国の対応が政治戦術に傾きすぎている、と複数の主要国が受け止めていることから、多くの案件における表裏の駆け引きが機関運営に不要な複雑性を持ち込んでいることから、生産的な議論や行動を期待することが難しい状況にあるといえる。もちろん、3年前からの米国政府の国際機関への姿勢の変調が、さまざまな混乱や摩擦を生みだしていることも確かであって、この米中間の巨大摩擦を解消させる方途は今のところ見つかっていないのが世界の悲しい現実であろう。

 もちろん、専門機関にかかわる問題は、本来安全保障理事会で整理を行うべきであるが、その本家本元に病巣があり、問題解決のための議論が「ここからスタートだ」といわれると正直気が遠くなりそうである。つまり、過去何回か国連改革が議論されてきたが、現行の常任理事国体制に国連の目的や意義を削ぎ落す動機と権能を与えているのだから、早い話がどうにもならない、のだ。

 ということで、これからもWHOをめぐる議論は激しく争鳴すると思われるが、米中の息がそろわない限りまとまる対策は弥縫策を超えるものとはならないだろう。せいぜい、リアルタイムでのデータギャザリングができればラッキーといった感じではないか。

 この感染症の発生から初動における中国政府の対応は、結果から類推するに充分であったとは思われないし、その後の対応も著しく透明性を欠いたもので、これでは非難されてもやむをえないと思われる。どんなにプロパガンダに手を尽くしても肝心のところが見えてこなければ、疑いは永遠に消えない。疑いのまま放置することが、どれほど中国にとって不利になるか、真剣に考えるべきであろう。米国の狙いは強い疑惑の固定化であって、真相の解明ではないと考えるのが国家間駆け引きの定石であろう。

 また、なんといっても事務局長が疑われていることの傷は深く、中国への同調行動は会議のたびにターゲットになり、いま世界が期待している役割を果たす上での大きな障害になるおそれが強いといえる。残念なことである。

治療薬とワクチン開発が熾烈化、国際協力が求められるが、現実は厳しい

 当面、抗ウイルス治療薬とワクチンの開発が活発になるが、ささくれだった陰湿な競争になると、そのことが「新冷戦」の象徴となり、悪い時代がしばらく続くと思われる。米中ともに重心は国内政治におかれ、米国は11月の大統領選挙、中国は習体制の維持が最優先課題となっていることから協調は絶望的である。したがって、この開発競争の成り行きを甘く見てはいけない。それは、冷戦時代の核兵器開発競争に近似する、きわめて戦略性の高いもので、今や覇権闘争という不道徳で非生産的な政治ゲームに仕立て上げられつつある。困ったものだ、というしかないが、米国の民主党の立ち位置も、このおぞましき摩擦を緩和する方向にはなく、火に油を注ぐことがあっても水を注ぐことにはならないだろう。さらに、抗ウイルス治療薬とワクチンが首尾よく完成したとしても、その後の量産化と分配などがさらに難しい問題として横たわっている。まあ心配するのは完成の目処が立ってからのことではあるが。

 各国とも、医療体制の弱点がそれなりに露わになったことから、迅速な立て直しが求められるが、そうでなくとも財政に余力がないので、とくに弱通貨国においては権力体制のあり方にまで議論がおよぶであろう。これは、三層目の災厄の議論である。

政治システムとは別の共益システムが医療分野での国際協力を担うか?

 国際政治に生じた軋轢や駆け引きにかかわらず、医療分野では研究者をはじめ医療従事者や民間企業などの連携が強化されると思われる。70億人の強い需要を背景に、一部の政治家の愚かしい突っぱりあいを横に、ネットワークを駆使し、ミッション・ファーストで成果の山を築くのではないか、と期待を込めて予想したい。米中の泥仕合が酷ければ酷いほど、政治からの距離を十分取ったネットワーク組織が機能する可能性が高いと思う。まるで、近未来小説のようであるが、「トランプ習反面効果」を予想したい、心は「人類はそれほど馬鹿じゃない」である。

 とはいっても、国家安全保障を核とする国益に縛られる政治システムを解体することを目指すべきではない。解体は最も悲惨な事態をもたらし、とくに貧しい人々や力のない人々を苦しめるもので、代替システムなど周到な準備をした上でさらに熟考し結局思いとどまるほどの慎重さが求められるものである。

 だから、既存の政治システムとは独立した、人類の共通益を追求する共益システムが政治システムとは別の論理で構成されても何らおかしくはないと思われる。すでに、国際ボランティアを中心とする共益システムともいえるグループが多くの実績を残している。それらが苦労して手当てをし修復したものを、政治システムが破壊しているのだ。それもよく分からない、私には二束三文の値打ちもないとしか思えない大義や教条を理由に。これも、三層目の災厄の議論である。

共益システムとして期待できない国際連合

 共益システムの最たるものが国際連合であったはずだが、今では政治システムの下部機関に貶められ、手足を縛られている。国連改革については少し述べたが、表面的な改装ではダメで、常任理事国体制などの基本構造を変えなければ各国政治への従属性を克服することは難しい。つまり、次元の違う発想に基づくシステムが必要だと思う。辛口すぎるが、期待を引きつけるだけ罪深いのではないか。

医療、薬剤への依存は常に不平等をはらんでいる 治療薬、ワクチンの開発が問題解決策のすべてではない 社会共同体の維持を図るべきである

 新種の病原体は、だれ一人免疫を有しないという意味で平等ではある。今日、薬剤開発に全力を挙げているが、完成後の投与は間違いなく不平等となる。これは、納得された、あるいは認知された不平等で、現実問題として受け入れざるをえない。

 問題は、この不平等を因数分解し、どういう理屈で並べ替えるのかということで、いわば人類の英知が試されている。英知の出どころは、哲学、社会学、歴史学など、日ごろ実生活に役立たないと思われていたところにあると思うが、ここは刮目すべき道筋の提起を期待したい。

 医療資源が有限であることから、緊急事態が起こるたびにトリアージが話題になるが、地球規模では地域単位のトリアージが普通に行われているように見える。また、厳格な皆保険制度のもとでも目に見えない受療格差があり、他方、皆保険制度がなければなおさら受療格差が露骨に存在する。これらの受療格差とトリアージとの違いが私には分からない。ただ分かることは、受療格差が感染症の抑制に立ちはだかる壁になっていることである。

社会共同体の維持が優先されるべきで、まず人と人との共存が大切

 これらの医療資源が有料、有限であるかぎり、受療格差がなくならないという現実を受け入れるならば、私たちは集団免疫についての考え方を整理する必要がある。つまり、70億人を視野にいれた時、区々の経済・生活の実態にさまざまな差があることは事実であり、それを前提に、安定した社会生活の維持を図るためにはどのような要件が必要であるのか、事前にまとめておくべきである。

 たとえば、医療資源の援助を受けたとしても、全員に対し迅速にワクチンが投与できるのならまだしも、そうでなければ、不平等が発生する中で、そこにある社会、あるいは集団の秩序を維持することが、多くの人々の命を守るために最も優先されるべきことだとしたら、あえて中途半端なワクチンの援助を断るケースが起こって当然といえるかもしれない。全員に行きわたらない場合の配分は、社会共同体の自律的な価値観に基づくものでなければ、余計な摩擦を生みだすであろう。

 ウイルスとの共存の前に、人と人との共存があり、共存を支えるためには社会あるいは集団の秩序の維持が必要である。その意味で、限られた医療資源を前提に、犠牲の最小化を図りながら集団免疫を獲得していくことも選択肢の一つとして視野に入れるべきで、感染症による災厄の多くは社会共同体(コミュニティ)の破壊からもたらされることを思えば、先進国の医療、薬剤偏重の方策とは異なる視点も必要になると思われる。

わが国の死因の多くは病死である

 異なる視点といえば、人は必ず死ぬが、問題はその原因である。多くの国では、毎年一年間の死亡者数とその死因を統計数字として公表している。

 わが国の2018年人口動態統計(概数)から、主な死因の構成順位を見ると、(1)悪性新生物(腫瘍)27.4%、(2)心疾患(高血圧性を除く)15.3%、(3)老衰8.0%、(4)脳血管疾患7.9%、(5)肺炎6.9%、(6)不慮の事故3.0%、(7)誤嚥性肺炎2.8%、(8)腎不全1.9%、(9)血管性及び詳細不明の認知症1.5%、(10)自殺1.5%と続いている。ちなみに、悪性新生物(腫瘍)の死亡者数は37万3547人である。また、同じく肺炎ならびにインフルエンザによる死亡者数はそれぞれ9万4654人と3323人である。(総数は136万2482人)

 だれしも自らの死亡診断書あるいは死体検案書を見ることはできない。死因は人生の重要テーマではあるが、多くの人が関心を示さないのは、考えて楽しいことではないからであろうか。たとえば、どうしても航空機に乗りたくないと強く主張する人が稀にいるが、理由の中に事故への恐怖が挙げられる。しかし、2018年の国際航空運送協会(IATA)の商用航空機の事故統計では乗客乗員の死者は523人で、乗せたのは約43億人であった。航空機事故の分析にもいろいろあるが、結論は自動車よりもはるかに安全であるということである。だが、航空機についての人々の印象は科学的に計算された確率よりもはるかに危険であるというもので、この認知の偏り(バイアス)が私たちが機械ではないことの証明であるともいえるのだが、それが時として重大な過ちを引き起こすことは決して少なくないのである。

認知バイアスを校正するためには、論理、統計、確率を尊重

 たとえば、政策をまとめるときに、先ほどの人間らしさつまり「ほとんどの認識あるいは認知に偏りを持っている」ことが、情報収集やものごとの判断に悪影響を与えないといえるのかと問われたら、十分にその偏りを自覚しているから心配ないと答えるしかないだろう。しかし、政策立案にあたり、正しい論理展開や、統計数字の適切な解釈、また確率論を踏まえた判断などが十分行われているといい切れるのだろうか。自覚はしているが、できていないことが多いのが人生というもので、分かっているけど止められないのが普通であろう。

 人は噂と数字は好きだが数学は嫌いなのだ。だから、エビデンスよりもエピソードを材料に政策を語り紡ぐのである。

人口動態統計の死因別一覧表でのバランスを十分視野に入れた政策

 話を元に戻し、人口動態統計に現れる死因の9割以上が老衰と病死である。2020年のものから、統計表に新型コロナウイルス感染症と記載されるのか、あるいは肺炎(新型コロナウイルス感染症)と記載されるのか、今は定かではないが、本日の777以上の数値が記載されることは確かである。少ない数字に収まることを祈りたいが、11月以降に第二波が到来との予想もあり、心配しつつも対策の拡充が求められる。

 さて、統計表の死因欄を眺めながら、○○で死ぬ確率を千人あたり死亡数である死亡率で静かに追っていくと、身の回りの人や知人友人の死を今までは個別情緒的に受け止めていたのが、それとは距離のある数字、それも確率として人情味ゼロで突きつけられると、白黒の乾いた世界に変わっていくのを覚える。

 この白黒の乾いた世界こそがエビデンスの世界であろうか。この死因統計の世界では、死亡リスクはゼロではなく100%である。問題は、どの欄に該当するかである。死因簡単分類コード5桁はあくまで機械的である。

 新型コロナウイルス感染症の死者との別れはガラス越しで悲しみと無念さを広く呼びおこすものである。感染から死へ、それぞれに事情があり、すべてが悲しみのエピソードとして記憶され、いずれ消えていく。

 そのエピソードからエビデンスへの渡し船のひとつは、統計表の該当欄の整数1と化すことであろう。

 ここでの問題提起は、残念ながら人情味ゼロでかつ白黒の乾いたものになるが、結論を一言でいえば、死因別一覧表でのバランスを十分視野に入れた政策に収斂するということである。おそらく、2年後に公開される2020年人口動態統計(概数)には新型コロナウイルス感染症による肺炎という欄が新設され、そこには777以上の数字が記載されると思うが、問題は他の死因の変動である。たとえば、自殺欄の数字がどうなっているのか、など総合的に分析する必要があると思う。そろそろ、自粛という行動制限が解除される時期と思われるが、運動不足などによる生活習慣病の環境は悪化しているうえに、在宅勤務のストレス蓄積から思わぬ疾病を発症するケースもあるだろうし、何より子供たちの生活の乱れや心的不調が心配される。また、介護の現場ではたとえばデイサービスや訪問介護が難しくなっているが、そのマイナス影響も出てくるであろう。そういった、小さいと思われる要因も集まれば整数(死者の単位)として出現するのが統計である。

 ともすれば、マスメディアをはじめ世間の耳目は新型コロナウイルス感染症に集中するが、死因が異なっても死は死として同じである。免疫ゼロという状況が、自分への罹患・発症の可能性を高め、一人ひとりの感染への不安が世の中における注目度を上げている面が強く感じられる中で、いろいろな死因に対し偏りのない扱いということも大事ではないかと指摘したい。

医療崩壊が現実味を帯びる中で、十全な体制の整備とトリアージの議論を 

 医療崩壊、あるいはそれに近い状況下では、医療資源が新型コロナウイルス感染症対応に大量に投下される結果、当然のこととして、他の疾病への医療資源の投入が大幅に制限される事態となり、需要が供給を超えた時点からトリアージが必要となる。また、医療需要の発生は均一ではないので、医療崩壊は地域ランダムに発生すると思われる。

 したがって、医療資源の規模と配置あるいは隔離施設の設置など、通常体制とパンデミック体制の2パターンを用意すると同時に、最悪時のトリアージの準備などが必要になるであろう。

 残念ながら全員を救えない事態が避けられない場合への対応は医学を超えているので、社会全体が認知し、かつ責任を負う仕組みが必要であり、この点が国会で議論されるべき第一の事がらではないか。最善を尽くしたうえでなお発生する不平等は、当事者にとって簡単に受け入れられるものとはいえないだろう。医療需要がオーバーシュートしない体制を築くことは政治、行政の使命ではあるが、時として至らざる事態が発生することもありうるわけで、その事態においての犠牲者とその家族の無念をしっかりと受け止める社会でなければならない。社会の意思は国会で表されるもので、与野党の枠を超えて早急に対応することが肝心ではなかろうか。専門家は第二波を警告する。そうであれば、残された時間は少ない。医療面の準備を精一杯行うと同時に、社会共同体のこころを守ることに尽力すべきである。

 わが国の人々は自然災害による多くの災厄を乗りこえてきたが、悲しみやむなしさといった心の傷は消えるものではない。そういった思いの中で、助けられる命を選別することがどれほど過酷なことか、そしてその過酷さが引き起こす悲劇こそが一層目の災厄のクライマックスではないか。トリアージは単なる技術論ではない。社会の総意がなければ支えられない。人が壊れ、共同体が壊れ、社会が壊れていくことがないよう、医療や薬剤ばかりに頼らないで、人と人の力で支えあっていくことが、絆ではないだろうか。

◇名は知らんと野花に掛けし雨の中

加藤敏幸