遅牛早牛

当面の政治情勢と課題(2020年6月)「地方主権、議会主権、新たな立ち位置」

1.政治情勢

1)政権への評価について

すでに政権末期の様相を呈している。一番の要因は経済動向であり、これのV字回復は難しい。中小企業は3か月、大企業でも6か月が籠城限界といわれており、梅雨時から夏場にかけて雇用情勢は急速に悪化すると思われる。とくに、接客飲食サービスや観光旅行業が壊滅的状況にあり、従来にない不況パターンとなっている。

 感染症対策では、欧米などに比べ人口当たり死者数が少ないと評価する声もあるが、東アジア、東南アジアの中ではダントツに悪く、対応が良かったとはいえない。政府に対する評価は各紙のアンケート調査が示す通りであろう。他方、感染症のこれからについての見通しは不明で、第二波の流行の可能性もあり、地球規模での収束は簡単ではないと思われる。

 新型コロナウイルスによる感染症は、わが国が抱えているさまざまな問題すなわち弱点を厳しく衝き、病巣を白日のもとに晒した。とくに中長期課題への対応が不十分であったことが明らかとなった。少子化対策、非正規労働者対策、中小企業対策などをみれば、この二十年間、スローガンだけの政治であったことを改めて実感させられる。そんな中、都道府県の感染症対策については、少なからず評価が高まっている。それとは逆に官邸・内閣への不満が渦巻いている。

 従来、内閣支持率を支えていた柱のひとつが外交であったが、ほとんどの案件が停止あるいは休眠状態となり、全体として低迷している。また、何とか一年延期で落ち着いたオリンピック・パラリンピックではあるが、まだ開催の見通しは立っていない。夏の終わりには判断が必要だが、進退いずれも茨の道で、あらためて政治的力量と責任が問われることになる。モリカケ桜クロカワへの対応がもたらした政権への不信は消えていない。さらに、カワイ問題が致命傷になる可能性が高い。

2)解散総選挙について

 現首相による解散の可能性は低い。来年10月の任期満了までには、条件として3つの要素が考えられる。それは、①カワイ問題と検察庁法改正案 ②感染症の状況 ③オリンピック・パラリンピック問題 である。

① カワイ問題は、現職議員の逮捕となればそれだけでもきついが、さらに前法務大臣であることや容疑内容、さらに100日裁判となれば、公判中の話題に事欠かない。加えて、党からのギョ額資金支援もあり、解散時期を誤れば、選挙違反が話題の選挙になりかねない。また、検察庁法の改正案について、内閣の判断で延長できる云々にこだわるなら、選挙期間中も含め反対・抗議運動は激化するであろう。こう考えると現職による解散は無理である。

② 感染症に関しては、緊急事態宣言下での解散が難しいことは確かである。また、主要都市で二次感染が発生しても同様であろう。選挙運動が感染を助長するようでは話にならないので、新様式での選挙になるだろう。逆に、非常事態宣言を出したくない動機がありうるかもしれない。

③ 今年10月までに来年開催予定のオリンピック・パラリンピックについての判断があると思われる。中止となれば、投下費用も含め責任問題が浮上する可能性が高い。世界の感染状況次第といえるが、不確定要素が多すぎて判断が難しいことだけは確かである。とにかく、中止決定後の暗い雰囲気のなか、人気ゲームソフトの着包みをつけていた現職による解散は困難で、あえていえば、次の人の解散がありえる。

 いずれにせよ解散時期は、2021年通常国会冒頭か。あるいは、今年の晩夏に体調不良で辞任、新首相による解散総選挙か。これが与党にとって魅力的なのは、野党の選挙協力が準備不足で、相対的にマイナスが少ないと想定できる点にある。この場合、総裁選のやり方をふくめいくつかのパターンが考えられるが、状況の好転がない限り、ベストな解散時期は無いだろう。

ということで、解散環境は決してよくないといえるが、米大統領選で、トランプ再選となれば、現職による解散、年末選挙が想定される。が、ここ最近のトランプ大統領の迷走は目に余る。「超大国の政治」ではない。「世界の指導者の中で直接話せるのは安倍首相だけ」と得意顔だったT政治評論家はじめ自民党の皆さんへ「だから、?」と問いたい。トモダチであることに意味があるのではない、トモダチという関係の中から何を成すかが大切なのである。変な日米関係を定着させてどうするの。

感染症未だ収束せずであっても、臨時国会で、リモート選挙導入などの選挙法の改正が予定されれば「やる気」と見立てて、騒ぎが大きくなるであろう。だが、そんな体力があるのだろうかという疑問が一等賞だろう。

3)野党(旧民進党由来)の動向

 衆議院での共同会派は定着しつつあるが、新たな支持を広げる視点からはイマイチ物足りないといえる。残念なことに、支持層の固定化がすすんでおり、多少取り組みに工夫を見せても支持なし層からは注目されず、支持層からの反応しか見えてこない状況にある。

 そんな中、立憲枝野代表が5月29日政権構想私案を発表し、ポストコロナ社会と政治のあり方として、「新自由主義的社会」と「小さすぎる行政」の脆弱さを指摘しながら、政策分野として医療・介護・保育・障がい者福祉を、政策対象として非正規・不安定雇用、「ホームレス」構造、貯蓄ゼロ所帯などをあげている。他の項目も含めこの私案への考察は別の機会にゆずるとして、私案とはいえ政権構想が示されること自体は歓迎したい。

 しかし、精強な与党勢力に対し、自らを外縁に置き、またそれほど強力でもないグループを糾合していかなければならない立場ではいろいろと制約があるからか、「過半数議席を展望する」構想としては、少し遠慮が際立っているように思える。たとえば「新自由主義的社会」の脆弱性との表現は生活破壊をもたらす暴虐性と表現したほうが現場感覚に合っているのではないか。

 また、「支えあう社会」は与野党の区別なく選挙用スローガンとしては使いやすい。また、大規模災害の後にはかならず出現するたぐいのもので、反対するものはいない。「で、どうするの?富裕税をやるの?」ということで、支え合うためには財源がいるのだから、将来世代へ借金を背負わせるのか、現在世代で帳尻を合わせるのか、はっきりさせるべきである。将来世代への負担に対し安易な姿勢をとる政党に革新性があるとは思えない。それでは自民党となんら変わらないではないか。一般的に、責任政党論には未来への責任が欠落する傾向がある。与党に対抗する政権構想とするなら未来への責任を論じてほしいものである。

思えば、2017年10月の総選挙以来、あるいは、2018年5月の国民民主党の結成以来、さまざまな折衝が重ねられたが、今年1月にとん挫してしまったという寂しい現実がある。寂しいとはいえ理由があっての結論である。

にもかかわらず焼けぼっくいのように再燃するのは、総選挙が視界に入ってくると議員一人ひとりの心がうごめくからなのか、気持ちはわかるが「もういいかげんにしろ」といいたい。

議論の熟成を期待するとの建前は建前として堅持しながらも、たまには本心を覗きたいと思う。いずれにせよ、連立を前提にした選挙区調整ができなければ協力の話は進まない。また、これができないと合流は難しい。ミクロを丁寧に仕上げないと、マクロ論議は始まらない。マクロでまとまってもミクロで壊れる、これが総論賛成各論反対である。

2.当面の重要課題について

1)地方主権(分権と責任の時代)

中央政府によって分け与えられ管理される「分権」概念はすでに古く、今日的状況に即するものではない。もとから地方がもつ政治上の権利と責任を合わせて「地方主権」とするならば、その第一の任務は、災害(疫病も含まれる)などから住民の生命、健康、財産、生活を守ることである。近年、地球気候変動の影響と思われる自然災害の激甚化により、地方、地域の被害が増大しており、住民の不安は予想以上に増大している。

また、今回の新型コロナウイルス感染症への対応を振りかえれば、官邸、内閣、行政府の対応は何かしら遅れているのでは、不足しているのではとの印象が固定化し、日頃、印象操作にはひどく敏感な官邸が今回は非常に鈍感で、心ここにあらずといった雰囲気であったのではないか。国民の各種調査への回答もそのことを裏づけている。

 反面、都道府県はじめ市町村の対応にはばらつきがあるものの、とくにいく人かの知事にたいする評価は国政担当者よりもはるかに高かったといえる。本来、大きな権限と財源を有する政府は、地方自治体に対し圧倒的な優位性を有しているはずだが、現下の評価において逆転現象すら見られるということは、いささか異常ではないか。何もかも中央が差配あるいは管理下に置くという方式が、今回の対応において迅速性、効率性、効果性では地方に大きく劣後しているという証明がなされたわけで、そういった反省も踏まえ、国と地方の権限の分担と責任の明確化を早急に整理するなど、精力的に地方主権の具体論を深め、一日も早く連携体制の確立を図り、今夏の台風シーズンへの備え、また感染症第二波への対応を強化しなければならない。

 くわえて、特別定額給付金(十万円)の支給をめぐり、行政事務上の不備が散見され、また教育現場へのICTの導入などにみられる通り、実に後進的で、歴代政権の取り組みが空虚、空文で実際には効果をもたらせていなかったことが露わになった。スローガン先行で内容が追いついていない、これこそ中央管理型行政の敗北といえる。

 

2)議会主権(官邸権力への隷従から脱し、議会主権を再活せよ)

 現行憲法は議院内閣制を示している。両院で指名を受けたものが、内閣総理大臣として組閣し、その内閣が行政権を行使する。一般に三権分立といわれているが、安倍政権下での実態的権力比率を感覚的に表せば、行政85%、立法10%、司法5%といったところであろうか。とくに、立法府である議会の力の低落には目を覆うものがある。これは、議会での与党の議席占有率が高いこと、長期政権により総理の閣僚人事権、政党人事権が大幅に強化されたこと、さらに安倍政権の性格によるもので、与党の官邸隷従が議会の力を弱め、為されるべき議論がなされないという、議院内閣制による民主制の堅持という視点からいえば、憂慮される事態に陥っている。また、議員政治家の堕落であるといって過言ではない。

とくに問題なのが、議会運営そのものが官邸にとっての手段と化している現状を、あたりまえのように与党が受け入れていることである。

 旧聞になるが、かつて参議院での与党勢力が官邸に対し諫言に近い意見具申を堂々本会議で述べるなど、作為的ではあったがそれでも二院制の意義を感じさせる緊張の創造であり、首班指名により「この内閣」を発足させた議院としての責任の表明という意味でも香しいものであった。

 世に強行採決と喧伝されているが、意味も定義も不定である。しかし、国会運営上、与党が自律的に判断したうえでことにおよぶ場合と、官邸の指示に基づく場合とでは、結果は同じに見えるが、内容においてまさに雲泥の差がある。前者は、質疑に内容があり、後の執行場面での細かな解釈において国会でのやり取りがものさしの役割を果たし、いわゆる立法の意思が適切に反映されることになる。そのための国会審議である。

 後者は、官邸が目指す日程優先で、審議は少なければ少ないほど結構だと考えているから、審議の中身がカスカスになり、法律が成立しても、執行場面では、立法の意思が不鮮明のままなので現場が大いに困ってしまう。

同様に、束ね法案なるものは、国会審議の練度をいたずらに落としめる悪埒な作法で、かつ官邸の回し者にしか思いつかない策略であって、普通に国民になり代わり誠実な審議を目指す者にはとうてい思いもつかないことである。束ねてもいいが、審議は国民のためにあるもので、官邸のためにあるのではない。

いずれも、国会と与党の問題なのである。大臣予備軍ではない国会議員なのだ、という自覚がなさすぎることが、議会堕落の真因である。もちろん、議会制民主主義を蝕み恥じ入ることのない厚顔無恥な君側の奸が悪いに決まっているが、本分を忘れた議会人の方がより悪いのである。

 議会主権とは、憲法が意図した議会制民主主義に基づく議院内閣制の運営にあたり、行政(内閣)側の恣意的な権限行使や議会対策を監視、けん制することにより本来の三権分立に基づく立法と行政の関係を正しく均衡させるもので、優れて、議会である国会総体の自覚によって支えられるもので、もって主権者たる国民の負託に応えるものである。という観点にたてば、安倍政権の国会対応は原理原則から大いに逸脱しており、無責任極まりないといえる。個々の問題指摘は省略するが、政治目標は政治価値観の帰結で常に論争のあるところであるが、手法は民主政治の本旨であり、誠実なる説明は国民への責務である。ここらあたりをよろしく担保するのが議会主権の真髄であると思うのだが、疾風に飛ばされた帽子のように未だ行方が知れない。誠に困ったことである。

 地方主権と議会主権が次回の衆議院選挙における重要争点として広く議論され、とくに新政権成立の後は速やかに議会主権が取り戻されることを強く望むもので、国権の最高機関たる国会が、首班指名以外では官邸の従属機関に成り下がっている現状は潔く改められるべきものである。

3)新たな立ち位置と交流

 新型コロナウイルス感染症への対応において、多くの国が自国第一主義に拘泥し、かつその壁の中に閉じこもり、国際協調への努力をおざなりにしているがゆえに、感染症の脅威が地球規模で拡大していることは実に皮肉な現象であり、国際連合設立の趣旨に反するものとさえいえる。もちろん、今更感があるが。

また、国内対策を目的とする強硬な対外対応は、効果的な感染症対策を減速させるばかりか、国家間対立の激化を生みだし、そうでなくとも激烈な経済後退局面をさらに悪化させるもので、超大国の得手勝手、わがままとしかいいようがない。

そのような、主権国家とはあらゆる意味で次元の異なる、たとえばNGO団体の国際ネットワークなどは先ほどの主権国家の枠を超えさまざまな分野で、人道上も、人権上も、平和維持においても少なくない実績を生みだしている。

 いままでは、主権国家をベースに、また国際連合を核にさまざまな専門機関が参画しながら問題解決に当たってきたが、昨今のごとき主権国家の対立が深まる状況下では、既存の国家単位の問題解決スキームがうまく機能しなくなっているといえる。

したがって、多岐にわたるさまざまな問題解決に対し、広域的にも微視的にも柔軟かつ機動的に対応できる国際ネットワークへの期待が高まってきているといえる。この傾向を生み出しているのは、かつての東西冷戦下、あるいはパックスアメリカーナの時代には、超大国が大きな役割を果たしていたが、それが今では、超大国といえども自国主義に閉じこもり、本来の国際共益任務を果たさなくなったことから、超大国あるいは主権国家に代わり国家安全保障以外の分野の面倒見を「誰が」あるいは「どんな組織が」担うべきかについて国際的に模索せざるをえなくなったからである。

 具体的にいえば、米中がいろいろな事由において対立を深めたとしても、各地で起こっている紛争や難民、疫病、貧困、飢餓、暴力、差別などの諸問題に対し実効性のある活動を展開する仕組みはかならず必要であるから、そのために米中対立など国家間対立から距離を取ることができる国際ネットワークをベースに問題解決を模索する時代、すでに多くの実績が積み上げられているが、に入っていると思われる。

 これは、問題解決に向けての創造的爆発であって、経営学でいうイノベーションでもある。ある意味、主権国家もしくは主権国家群からの分権である。もし、主権国家達が嫌だというのなら、自分達でやってくれればいいだけのことで、しかし今の状況は誰が考えてもうまくいっていない、とくに新型コロナウイルス感染症への対応では、まずさが目立っている。そして、その原因が国家主義、官僚主義からきていることを、人々はすでに看破していることも、国際間問題解決システムの変革が広く求められている要因のひとつだと思う。NGO、NPO組織の国際ネットワークがどれほどの解決能力を持ち、具体的成果をもたらすかはわからないとしかいえないが、しかし、現状を放置するよりははるかに生産的で健全であると思う。

 このことは、わが国における(次元が異なるが)問題解決における新たな発想を与えてくれるもので、従来の選挙、議員、政党、内閣、議会という手あかがつきすぎて手あかが見えないほど、日常化すなわちマンネリ化している既存の仕組みから一度離れることを強く示唆していると思われる。

 つまり、従来の議会制民主主義をベースにした正式な方法がさほど効果をあげていないという、世間では当たり前の感覚を受け入れ、日常的に政府サービスが行き渡らない側に立ったときに見えてくる、問題解決ニューバージョンとして、NGOネットワークにお任せしたらどうだろうか、ということである。

 民主党政権時代も含め、この30年間何がうまくいったのだろうか。デフレ脱却が異次元の金融緩和でいいのか、それは邪教といったMMTの信者に成り下がることではないか。新自由主義的手法の終着駅が保健所の削減だったり、「自民党をぶっ壊す」代わりに医療保険体制がぶっ壊れそうになったり、またIT先進国が聞いてあきれる教育現場や行政窓口の惨状をどう説明するのか。30年以上頑張ったが少子化対策は未完成で永遠の課題となっている。この国では、問題の分析と課題の提起はけっこう適切になされていると思うが、解決は下手というか、おどろくほど正確(?)に的を外している。この傾向は構造的で習慣的でかつ病的でさえある。そのうえ、この下手さに対処する方法がさらに的を外しているから、大きな問題が一向に解決しない。

であるから、発想を土台から変えて、構造的課題の解決を行政府には求めないで、NGOなど諸団体のネットワークに委託し、論議や形成過程の完全保存と透明化を図り、それらをベースに議会が立法化をすすめる。行政府が携わっているものの半分ぐらいはそうしたほうがいいのではないか。政府の政府による政府のための諮問会議や審議会の欠陥や弱点は嫌というほど知らされており、今や人々はその限界に気づいていると思われる。

 ここで、新しい立ち位置とは、与党とか野党とか、はっきりいって国民からかけ離れた理解の届かない区分があたかも重要な要素であり、その区分こそがわが国の進路決定に決定的な影響を与えるキーストーンだと、証拠も証明もなしにむき出しで突きつけてくる固定観念のゴリゴリ連中にどこまでつきあえばいいのか、いいかげんにしてくれという本音を正面で受け止める立場をいうもので、既成の政治枠組みからの離脱を目指す精神運動といえる。

 問題解決の手法は多岐にわたり多彩であるべきで、従来の永田町霞が関物語にはそれなりに活躍していただいて大いに結構であるが、30年かかっても一向に進まない課題については、国民としてはやり方を変えるしか方法がないと思い詰めるわけで、そして問題解決の資源を求めて遠い旅に出るのであるが、その旅とは抽象的にいえば交流である。

硬直化した直流の世界、与党と野党ガチガチの縄張りの世界、政労使も発言は定食バージョン、ちっとも面白くない、永田町霞が関は一年一年を借金で凌ぐ長屋バージョン。少しは変えなきゃ前に進めない。

 議会主権の基本は、政策立案や立法行為をより国民に近づけ、議会の事大主義、行政の怠慢、政治家の事なかれ主義などの弊害から、議会制民主主義を守り、政治全般の問題解決能力を高めるところにある。そのためには、集中性にこだわらず、事と次第によっては分散型の解決システムの導入も効果的と思われる。

4)労働組合の対応

 労働組合の使命は、民主的運営を通して、組合員の生活の改善と社会的地位の向上を実現するため、大会などの機関会議で承認された運動方針などにもとづき加盟団体と連携し、使用者との交渉をへて労働諸条件などを確保し、また、関連する政策・制度要求の実現あるいは改善を図ることである。

 そこで、組合員が生活の拠点としている地方自治体の政策や行政サービスなどが組合員の生活の質を直接左右することから、労働組合として格段の関心をもって地方政治に参加することは当然のことといえる。とくに、地震や風水害などの被害が頻発かつ激甚化している今日、またそれらにくわえ感染症被害を受ける中で、極論すればどこに住んでいたかが生死の分かれ道になりうることを考えれば、従来以上に都道府県、市町村への関心と関与を高める必要があるといえる。

ということから、労働組合の立場からも地方主権の在り方を改めて考える必要に迫られている。この場合、一般論としての地方主権すなわち責任と権限ならびに財政基盤あるいは行政権能の拡大と抑制原理という論域と、1800を超える単位自治体の現状を踏まえた個別の論域とに区分できるが、いずれも重要な議論であり、早急な対応を期待したい。

 後者の個別の論域については、単位自治体に向き合うその地域に拠点を置く労働組合組織が中心になることは当然であるが、その労働組合組織の執行部がどこまで主導すべきかについては実情に合わせ柔軟に考えるべきで、たとえば、行政単位ごとの委員会方式を中心とした自主性の高いグループ活動を主体とする道もありうる。

 労働運動が具備すべき機能として、対面性と密着性があり両者ともに類似概念ではあるが、対面性とはメンバーシップを持つ組合員と直接意見交換を行うことに重心をおいたプロセスに関する概念であり、他方密着性とは主題とすべきテーマを組合員にとって身近で直面しているまた日常性の高いものとするコンテンツに関する概念といえる。

 ちなみに、連合などで集約されている政策・制度要求については、対象とするテーマが大振りで、範囲も広く、組合員が自分の生活ものさしで理解するには広範すぎる面があり、結果的に関心の希薄化をもたらせていると思われる。しかし、そうであったとしても要求全体をみれば均衡のとれたものであり、多数にとっての妥当性も高く、労働者の立場からの普遍性を有していることから、引き続き中央での取り組みが期待される。

 したがって、ここでの議論は中央で集約され、対政府要求あるいは対政党協議などすでに洗練化されたチャンネルに供されている既存の活動はそのまま維持改善を図るとして、他方、組合員の間近にある日々の生活に直結した課題の位置づけをどのように整理し、活性化を図るかという点について改めて提起することである。

 もちろん、広域行政に関する内容などについては、県単位あるいはブロック単位ですでに議論が進んでいると思われるが、自然災害や感染症対策を新たな動機あるいはきっかけとした新しい問題意識を速やかに運動項目として組織化していくことはオーソドックスな運動論の見地からも多くの賛同が得られるものと思われる。という、中身を提起しながらの地方主権の旗揚げ議論であり、地域に軸足をおいた対面密着型の活動分野が今日的必要性の中で新たな意義付けのもとに点火発進となることが求められている。

 さて、次に議会主権である。議会制民主主義はその前提に代表性を包含するものと通常受け止められているが、選挙制度や執政制度のありようから、選挙時の有権者の思いがストレートに届かない議席構成を結果としてもたらすことが多々見られるようになった。つまり、代表性とはどの程度のものなのか、少なからず疑問に思う人々がいることは間違いない事実であろう。

 もともと、選挙制度からもたらされる得票率と議席率のギャップは、野党サイドからは辛らつに、与党サイドからは小選挙区制度のダイナミズムとして両側から指摘されてきたが、民意をすくうにあたりこぼれる量を最小限に留めるべきと考えるのか、あるいは民意を集約するためには少数意見の切り捨てはやむを得ないと考えるのか、両論がしのぎを削りながらも、現在はある種の妥協に基づく均衡状態にあるといえる。

 しかし、長期政権のおごりなのか、総理大臣の答弁の信ぴょう性をめぐり、通常は起こりえない事態が常態化しており、そのことが国会の審議効率の著しい低下をもたらすとともに、国民に不信感と無力感をもたらせている。モリカケ桜クロカワと数珠つなぎに野党や一部メディアから度重なる厳しい追及を受けているが、これは、当初の総理答弁に無理があったからで、この一点だけでいえばこれほどまでに不誠実な対応は憲政史上珍しいといえる。しかし、このことだけで議会主権への回帰を叫ぶ理由にはならない。問題は、このような明らかに議会運営上、異常といっていいほどの事実上の空転状態に対し、国民に責任を持つべき与党が何らの見識をも示さず、官邸に唯唯諾諾とまさに隷従している今日の実態こそが、議会制民主主義の危機というより崩壊であるという深刻な認識をもつからこそ議会主権への回帰を唱えているのである。

さて、その主張はとりあえず置き、そのことと労働組合の対応とがいかなる理屈で連関しあうのか、が次のテーマとなる。

 結論は、問題意識において関連するが直結しない、先ほどの地方主権ほどの切実性はない、といえる。この問題は、国民である組合員一人ひとりが自ら捉えるべきもので、労働組合の媒介を必要とするものではないといえる。とはいっても、わが国の民主政治の質あるいは根幹にかかわる重要問題であることは事実であるから、労働組合として一定の見解を表明すべき課題ではある。それ以上の取り組みとなると、運動の継続性からいっても中央組織が担当すべき分野であろう。

 もう一点は、いわゆる組織内議員といわれている定義未詳の議員集団こそが、オリジナルの議員活動という視点から、議会内勢力として議会主権の再活に取り組むことは大変有意義ではないかと思われる。

今日における詳しい実態はよくわからないが、連合系においても複数政党に別れていることから、政党を横断する形で議会主権の再活に取り組むとなれば、やや閉塞感が見られる議会に新しい風を呼び込むことになりそうで、考えるだけでも愉快ではないか。

 それに、支援団体は一体的に連合に結集しているのに、政治活動は別々の政党になっていることは何かと不便であると思うし、歴史的に考えてみても特段の役割を発揮しないか、あるいはひたすら政党に埋没するか、もしくは個人の力量で浮かび上がるかの三択だけでは、相当にもったいないと思う。

 もちろん、政党の統合の視点からの議論ではない。それは別の議論である。もつれ絡み合った毛糸玉をほぐすような話であるから、それはそれとして切り離し、せっかくの「連合系組織内議員」なんだから、共に取り組む意義深いテーマとしていいのではないかと、梅雨入り前の涼風の中で思いついた次第である。

 袋小路に入ってしまった政権の問題は国民にとっても重要課題であるから、その追求に一切手心を加えることがあってはならないし、それは野党の責務でもある。しかし、そうではあるが、たとえ舌鋒鋭い追求であったとしてもそれは国民にとって必ずしも尊敬の対象にはならないという現実がある。最近とみにこの傾向が強まっている。何事もメリハリを欠くとマンネリに堕す。また、共感なき追求は反感のるつぼと化す。いずれも、工夫が必要である。

 議会人たるもの、憲政の発展に寄与するのも使命のひとつであるから、ぜひとも議会主権の再活に取り組んでもらいたいと願うばかりである。

◇梅雨前の涼風(かぜ)が運ぶか父が声

加藤敏幸