遅牛早牛

時事雑論 「閉めるな国会、なめるな国民を。(第201国会閉会)」

◇第201通常国会が6月17日閉じた。質問が山のように残っているにもかかわらず、また逃げた。野党は、大幅会期延長を求めたが、与党が「新型コロナウイルスに関する委員会の閉会中審査、週一回」を約束したことを多とし、閉会をすんなりと受け入れた。閉会中審査は、すべての委員会と調査会の審査および調査を閉会中も継続するもので、毎回、会期末には本会議でそのように議決されるのだが、ほとんど実施されていないのが実情である。

 本来なら、憲法53条にもとづき、「いづれかの議院の総議員の4分の1以上の要求があれば、内閣はその招集を決定しなければならない。」とされる臨時会の招集を要求すべきであろう。安倍政権には過去、憲法53条に基づく臨時会招集要求を無視し続けてきたという憲政上の罪状がある。今回もう一度やれば、最高裁の判断を求めるべきと思うが、それも野暮だと思ったのか、関連委員会週一開催で野党は妥協したようである。これについては、その時の判断であるから是非もないが、表の争いを避け、実利をとったのであろう。この落とし所は、不満を持つ与党議員対策も念頭においた与党国対の狡知によるものと思われる。

 そういう経緯なら、理屈をつければ全委員会が新型コロナウイルスに関係することになるのだから、どんどん閉会中審査をやればいい。実質、開会中と変わらないようにすればいい。

◇河井克行衆議院議員(前法務大臣)、河井案里参議院議員が6月18日逮捕された。昨年7月の参議院選挙における、公選法違反(買収)の疑いである。確定するまでは推定無罪であるから、本人が辞職しない限り、議員身分は動かない。

 それにしても、絵に描いたような大型買収事案で、じつに単純で分かりやすい。しかし、「ベテラン議員がなぜ」というかなり複雑な疑念が残る。また、現地でこれほどのことが行われていれば当然党本部の知り得るところになると思われるが、その痕跡がないようで、これも面妖な話である。ところで、一陣営に1億5千万円と聞いて驚いたが、資金を出す側の思惑はいかなるものだったのか。どんな遣われ方がされるのか、心配で夜も眠れないのが普通であろう。それが、「そんなの関係ない」と最初から本当に「凄いこと」がいろいろ起こっていて、一番凄いことは、これほどのことをやっても、買収事案とは判断されないとの絶対の確信を持っていたような、そうでなければ説明できないほどの大胆不敵な行動であった。

 見方を変えれば、司法をなめきっていなければ取れない行動といえる。確かに、買収事案は選挙期間中あるいはその近傍での立件がほとんどであるが、数ヶ月前だから大丈夫とは決まっていない。政治活動でも渡した金品の性格によっては立件可能で、だから逮捕したといえるのだが、また同じ政党内での選挙組織破壊工作と見る人も多いようで、検察の見立てはわからないが、歴史に残る事案になる可能性もあると思う。「はっきりとはいえないがなにかこのままではまずい、なんとかとめなければ」という国民の思いを受け止めているのだろうか。検察がみずからを革新する、驚天動地のはじまりか。

 さて、いつも選挙違反が怖いとビビっている普通の議員にすれば、官邸権力に連なるもののおごりと受け止めるだろう。今、報道を通じて流れてくる情報が正しければ、公職選挙法を最も陵辱したお方が法務大臣になったという、これではまるで逆さま劇場ではないか。あの「身体検査」はどこにいったのか。これだけの金配りが党本部、官邸に届かないはずがないと仮定すれば、党本部、官邸が絶対的確信もつ事由、たとえば確信的交付仮説が浮かんでくるが、仮説はあくまで仮説であって、仮説を二重三重にかさねることは控えるべきであろう。裁判を見守ることに尽きる。

 しかし、これから数年間は広島地方は大荒れでしょう。「地方議員もピンチだね、こんな活躍をしていたのだから。」と広島出身の誰かがつぶやいていたが、活躍すべき土俵が違うんだよね。

◇新型コロナウイルス感染症対策の最前線は地方である。だから、地方にもっと財源を渡すべきである、といった地方主権の重要性を指摘する声はさらに高まっている。直近の政治家評価ものさしに知事の名が挙がり始めた。安倍首相を基準目盛りに、〇〇のほうが判断力は上とか△△の説明はわかりやすいといった、政治リーダーに対する比較ものさしは電線に止まる雀のように首長でめじろ押しである。雀とは失礼ないい方をして申し訳ないが、大臣より知事のほうが力量を計りやすい、といった序列変動は止められないだろう。政策も永田町霞が関の自己中物語は時代にあっていない。ここ何十年ものあいだ、課題先進国といわれるほど山のように仕事があったのに、ほとんど積み残しで、結局大したことは出来なかった、と国民から見限られつつある。その分、流れは地方に向かっている。

◇野党共同会派は衆議院では少し形が見えてきた。さて、それでは参議院はとなるが、しかし参議院は本来平衡器官だから衆議院に右習えすることはない。平衡器官とは反対運動で全体のバランスをとるもので、同調するものではない。与党であれ野党であれ、衆議院から邪魔くさいとか面倒だと思われるぐらいが丁度いいのであって、これは憲法の意図するところである。だから、ときには参議院の与野党が結託して、内閣とくに官邸の暴走をチェックすることも必要であろう。しかし、衆議院与党は官邸翼賛会から抜け出せないし、衆議院野党は国対的取引に埋没しがちで、どちらも鳥瞰視野を持っていないようだ。要するに、衆議院での運営慣習に参議院が連動する必要もないのである。

 こういった、やや微妙な感覚を大切にしながら、参議院が三権分立を支えていかなければ、官邸政治の暴走・脱線を防止することは難しいと思う。

 参議院の野党共同会派が衆議院のそれにくらべ歩みが鈍いのは、良くいえば民主政治の摂理であって、第二院の自覚が醸成されるまでは時間をかけるべきだと思う。第二院の自覚とは、参議院は衆議院の下部機関ではないということである。旧民主党時代には、政党の国会対策委員会の構成において、衆議院の国会対策委員長を正、参議院のそれを従とするとの考えが衆議院側に強く、民主党・民進党の歴代の代表、幹事長には衆議院優位のヒエラルキーから抜け出せない人が多かった。たしかに統制上の必要性はわかるが、しかし政党の判断がいつも合理的であるとは限らない。この合理性からの逸脱を仮に衆議院国対が追走したとしても、何も参議院国対までもが追走する必要はなく、堂々と信じる道筋をとればいいだけのことである。往時、輿石東氏が党の参議院議員会長として同僚議員から強い支持を得られたのは氏がそのように考えていたからだと思っている。

 とくに、国会対策は議会手続きの世界であって、人によっては表面的な、形式遵守のカビ臭いものと受け取るかもしれないが、民主政治を支える基礎は地下構造ともいえる手続き、手順、先例など相当カビ臭いものである。

 自らが正しいと狂おしいばかりに信じているものどうしが激突する場面を適切に処理し、次の場面に誘導するのに、手続き、手順、先例以外にどんな方法があるというのだろうか。この点において私は根っからの保守主義者である。

 視点を変えれば、議会が力を失い行政権力の暴走を許すきっかけは、先例無視や強引な解釈変更などといった手続き違背から始まるもので、憲政史を顧みればわが国もそうであったし、現行憲法はその反省から生まれたともいえる。

 したがって、憲法遵守義務を一番に背負っている国会議員が、憲法が指示している二院制を守らずしてどうするのか、という文脈からも、議会は政党とは別の原理で統理されるべきもので、議会運営の裏方である参議院国対が政党とは距離を持っていて当然といえる。法案の内容については党の決定が唯一であるが、議会処理は議会の原則によらなければならない。とくに参議院においては、そうでなければ不要論がもたげてくるだけのことである。

◇都知事選は、不調である。東京は地方主権のトップランナーでなければならないと考える立場にすれば、新型コロナウイルス対策で貯金を使い果たし相応の評価を得た小池現職は莫大な積立金に支えられていたからリーダーシップを発揮できたわけで、さように自主財源が重要であるのだが、そのような理屈の流れからいって、現職は地方主権の本旨を十分主張できていないのではないかという批判がある。そういった批判の一番は、今なお道府県には必要なだけの金がないということであり、しかも、行政需要は増大している。とくに、自然災害や今回の感染症を考えれば、命を守る最前線は地方自治体であって、中央集権体制ではない、間に合わないのだ、それに区々の戦いの現場に手が回っていないことが明らかになった以上、地方に金をまわせという声はあんがい正しいのではないかという国民の認識の変化をちかごろ強く感じるようになった。そういう意味で、新型コロナウイルスが白日に晒したわが国行政の弱点を克服する部隊は地方自治体であるという宣言が地方主権の新たな出発になるのではないか。

 ということであれば、野党第一党が主力候補を立て主義主張を明確にしなかったのは残念至極といえよう。現在の権力構造は中央集権すなわち主権中央主義である。それに向かって根本的な対立軸を形成する気があるのなら、主力政治家を擁立すべきであったと思う。まあ、民主党時代ははるか昔で、あの頃語った地方分権話は今は関係ないということでしょうか。

 それにしても、地方連合の功利主義は変わらない。もともと国政とは次元を異にするもので、是非におよばない、これが現実であり、合理性を有している。

◇6月15日、河野太郎防衛大臣は、山口県、秋田県に配備予定のミサイル防衛設備イージス・アショアの設置プロセスを停止すると発表した。理由は、落下ブースターに関わる安全性の確保には相当の改良と多額の費用が必要であることなどと説明されている。

 河野大臣の判断は小局面において合理的である。とした上で、でどうするのと聞きたい。発端は、北朝鮮のミサイル技術の格段の進歩や核保有などが、わが国の安全を著しく脅かしていることにあったわけで、その原因が消えない以上何らかの対応が必要であることは論をまたない。

 さらに、中国の軍備拡大が止まらずわが国への海域侵犯も頻発していることから、中国を対象とした今日的な防衛構想が国民の間からも求められていることも事実であろう。

 したがって、米国第一主義が日米同盟にどのような変化をもたらせるのか、今の段階ではあまりにも不確実性が高すぎて論評すら遠慮せざるをえない状況ではあるが、国際的にも重要な二国間同盟の近未来が不透明であるというのは、それだけで重大問題だといえる。米国製兵器の爆買で当座を凌ぐのも一法ではあるが、いずれその方向性を明らかにしなければならないのだから、基本論議はすぐにでも始めるべきである。

 米国第一主義がこのまま進めば、その時々の発言をいかに脚色したとしても、米中対立を裏で支える安全保障上の強固な基盤の浸蝕がすすむことになり、「ディール」といった交渉概念では追いつかない質の違う不利益が発生することは間違いない。ここに、関係者の戸惑いがある。「安全保障代金を払え」で強固な同盟を支えられるのか。長らく放置していた大局の議論に着手しなければならない。強行採決など乱暴な国会運営がもたらす不信感が大きな妨げになっているが、与野党ともに反省する必要がある。議会主権とは必要な議論は議会が責任を持って行うことである。

◇国家公務員定年延長法案、地方公務員同法案が廃案となった。震源は黒川氏かけ麻雀事件であり、その余波で世間の強い反発を受けていた検察庁法改正案が身動きが取れなくなったことの巻き添えといったほうが分かりが早いであろう。つまり、巻き添えであったわけで、黒川氏事件がひと月後であったなら、束ね法案は多少の無理をしてでも通過させたと思われる。もちろん、この一連の動きの背景には、官邸と検察との人事権をめぐる綱引きの存在を指摘する向きもある。絶対権力は絶対腐敗するという定理に従えば、7年を超える権力空間には相当の腐食点が存在するのであろうか、であれば、取締機関との相克は尋常ならざる形に相成り候ではないかと思われる。

 ともかく、世人の疑念は膨らみつづけける一方であって、巨悪を見逃す検察では国民からの信頼を失い、存立基盤を損ねることになる恐れがあることから、ここは「秋霜烈日」の仕事ブリでしょう。

 さて、5月19日参議院自民党世耕弘成幹事長が記者会見で、「公務員だけ定年延長されていいのか、立ち止まってしっかり論議することが重要だ」と述べ、突然の方向転換の可能性を匂わせた。いわば廃案の口火を切ったわけだが、公務員の定年延長の話の発端を、人手不足の経済環境・雇用環境を前提に議論されてきたと指摘し、新型コロナウイルス感染症によりその前提条件は大きく変わったと条件変更説を展開した。問題は、この言説に立てば、臨時国会での再提出は、経済・雇用情勢の格段の改善がない限り困難となるが、それでいいのかということである。たとえば、年金の支給開始年齢や公務員職場での非正規雇用のあり方、さらに民間企業への雇用延長を要請している高年齢者雇用安定法、全世代型社会保障、経済財政運営と改革の基本方針2019、成長戦略実行計画など、大きくいって政府方針を通底する重要課題が高年齢者の活用ではないのか。また、3月13日の法案提出までにどれだけの議論がなされてきたのか、とくに与党は事前審査にてすでに事実上承認しているのではないか。

 それらのプロセスをすべて破却して、立ち止まってどうするの、全てを逆まわしするのか。確かに、公務員の処遇は高位安定であり、世間の風当たりは厳しい。だからといって、ちゃぶ台をひっくり返すにはタイミングが遅すぎるのではないか。見栄を切っても、客がいなくなれば片付けて元通りに直すのが関の山でしょう。でなければ、責任を持って別の路線を実現するべき、たとえば、反公務員路線とでもいうべき、小さな政府政策である。そうすれば少なくない国民からの賛同は得られると思われるが、王道とはいえない。しかも、2013年からの安倍政権の社会労働政策とは不整合である。今国会での年金関連の改正などを評価し、反労働者政権ではないのではと、ちょっと評価して損した感じ。期待がしぼまぬうちに、ちゃぶ台を静かに直せばいいのでは、と思う。

◇地方主権、議会主権をもう一度考える機会がきた。また、新型コロナウイルス感染症が社会、経済そして政治を大きく変えようとしている。それは、感染症が意図しているのではない。私たちが、変わらなければならないと触発されたのである、だから、どう変わるべきかは私たちの手の内にある。とうぜん世界も大きく変わるであろう。それらと連動しながら一つひとつの課題と向き合っていかなければならない。といった議論ができることが大切なことである。

◇萌える芽を溜めおくごとき陰雨かな

  

 

加藤敏幸