遅牛早牛

時事雑考「新型コロナウイルス感染症がもたらす変化(社会・経済分野)」

感染症対策と経済対策はトレードオフ関係に、当面アクセルとブレーキの併用

 123日の武漢市封鎖から5か月あまり、新型コロナウイルス感染症(COVID-19)との戦いは延長戦にもつれ込んでいる。感染者が確認された国の多くは、都市封鎖など積極的に取り組んできたが、それらの強権的対策が経済に与えるダメージが感染症以上の被害を生み出すことへの強い反発を受け、感染状況に細心の注意を払いながらもソロリソロリと封鎖を解除しはじめた。大量の感染者が医療機関に押しかけることによる医療崩壊さえ避けることができるなら、経済活動との両立を図るほうがはるかにマシだと考えることは現実的である。

 消毒、手洗い、マスクの着用などが生活習慣として多くの国民に受けいれられれば、また、車間距離ならぬ人間(じんかん)距離やシールドカーテンあるいはフェイスカバーが広く普及すれば感染そのものを減らすことができると考えることは経験的に正しいといえる。

つまり、ワクチンや抗ウイルス薬が完成、普及するまでの戦いとして、大流行をいくつかの中流行や小流行にコマ割りし、規制措置を適宜コントロールすることで、疾病被害と経済被害の総合最小化を図る、すなわち抑制的集団免疫路線を選択しているといえる。

 もともと、このウイルスの完全封じ込めは難しく、たとえ一国で成功しても海外との交流が再開されれば感染リスクはふたたび高まることから、完全な鎖国が選択できない以上、インクが滲む程度の感染は甘受せざるをえないといえる。

現在のグローバル化した経済を前提にするなら、感染症対策の成功は経済的損失と背中合わせになっている、つまり逆相関関係にあることから、当面アクセルとブレーキをうまく併用することで対応せざるをえない状況にある。

新型コロナウイルスとその感染症については分からないことが多い

 仮に、新型コロナウイルス(SARS-CoV-2)が人類の敵だとして、その敵について、まだよく分かっていない状況で、どんな作戦を立てればいいのか。との問いかけには、泥縄であっても試行錯誤を繰り返すことしかないのでは、と答えるしかない。また、下手な鉄砲でも数多く撃てば当たると、おそらく結果的には恐ろしく効率の悪い方法だったと酷評されようが当面そうせざるをえないし、そういった努力をけなすことは穏当ではない。

と同時に、大作戦を立てるには、わからないことが多すぎる状況にあるともいえる。したがって、先々のありようを検討することも尚早である。

といった閉塞感の中で、アフターコロナの社会像(あり方)について共通認識を紡いでいくことには無理があると思われるが、それでも取り組まなければならないのは、不安と苦境と悲惨の中で多くの人々が未来に光明を見出したいと強く願っているからである。

 しかし、だれが光明を与えられるのか、その方向は正しいのか、語り過ぎていないか、どさくさに紛れて毒草を混ぜていないか、など懸念されることが多いのも事実である。

日常行動への規制が経済活動を抑制する

 日常行動にたいする規制が社会全体に大きな影響を与えることは間違いない。自粛といっても事実上の規制であり、それらによる社会・経済活動の停滞は著しく、特に首都圏、大都市圏の諸活動が1か月半(緊急事態宣言の発動が4月7日で解除が5月25日)にわたり休止となったことのマイナスは大きい。また、この間感染が薄い地方でも規制にともない約1月間の不自由をよぎなくされ、当然経済も強烈な打撃を受けている。解除後すでに1か月以上経過しているが、ただちにすべてが復旧しているわけではない。

 とりわけ、旧に復さないものが日常行動であろう。なんとなくもとに戻らない、といったものが最も厄介であり、消費活動に大きな影響を与えつづけると思われる。とくに、車間距離に似た人間距離である。普通ソーシャルディスタンスといえばほとんどの場合「心理的距離」であるが、ディスタンシングが付くと「物理的距離を取る」の意味で使われる。物理的距離が心理的距離を規定する傾向も強く、感染症が長引くようだと人類史上最大級の行動変容と社会学、心理学上の大変化が観測されるかもしれない。大げさなようだが、単に距離を取るという単純な行動を単純にとることが出来ないことに気がつく。距離をとることはそこに何かしらのリスクがあると表明することに等しい。今は誰もが理解しているが、問題は新型コロナウイルスだけではないということである。今後、新型インフルエンザをはじめさまざまな感染症に襲われるかもしれないし、手持ちの抗生物質が効かない耐性菌の出現もありうるなど感染症リスクが消え去ることは考えられないから、人々は日増しに用心深くなると思われる。

 要するに、社会全体に感じが悪くなるのである。ところで、集団生活を営む哺乳動物はお互いを癒やし合うグルーミングを頻繁に行い、序列や仲間意識を確認しながら、集団を維持している。同類である人類も、グルーミングを禁じられてはたして円滑に集団を維持していけるのだろうか。それとも非接触型の新しいグルーミングが生まれるのだろうか。

日ごろの何気ない行動の中に感染症への耐性を組み込んでいくことが大切な課題であると思うが、このような細部の予測が最も難しい。

目に見えにくいが、教育への悪影響は大きい

 教育機関の休校措置が長引き、それによる学習の遅れが著しいなど問題が生じている。とくに、3月2日からの緊急休校には疑問が残る。(安倍首相による突然の表明が、仕事を持つ家庭に突如混乱を引き起こし全国的なパニックをもたらしたが、専門家との事前相談もないまま、子育て家庭に奇襲をかけたようなもので、その時点では法的根拠もなく「よくやるわ」との声も聞かれた。他方、国民の行動変容を促す効果を認める声もあった。)

本来、それぞれの教育委員会の判断にまかせるべきものが、号令一下、右に習ったわけで、地方の事情を考慮しない強硬策に地方分権はどこにいったのかとの声も多く、結果として犠牲のほうが大きかったといえる。

 問題はそのまま新学期へ移行したことから、入学・卒業、始業・終業など節目行事が省略形となり、学習以外にも教育上の支障をきたしたといえる。もちろん、学習の遅れの回復や来年春の受験など直近の課題もあるが、さらに、教育現場での感染症対策や遅れているICT導入、給食、猛暑対策、困窮家庭への助力、教職員に対する支援などさまざまな問題が残されている。

職場は徐々に変化(多くの企業では経営計画が立たない)

 職域では、使用者の責任でさまざまな対策がとられるべきであるが、余力のない企業には大きな負担となるだろう。2019年に戻れないことだけは確かであり、さらに先行きの見通しが全く立たない中で、何をどのように変えていくべきか、業種・業態によってさまざまなプランが提起されるだろうが、最も重要な売上の見通しが不明では、対策のための第一歩を踏み出すことは容易ではない。

とはいっても、従業員の命と健康を守ることは最優先事項でもあるから、大手や余力のある企業では、在宅勤務をはじめ勤務形態の刷新を、同時進行中の働き方改革と合わせ進めていくと思われる。とくに、人事評価をめぐる新たな視点からの議論が活発になると思われる。また、ジョブ型採用など今までの人事制度を刷新する動きが出てきているが、社内がジョブ型で再構築されることは、宇治の平等院がウェストミンスターに変わるぐらいの大変化で、心配事は山ほどあるが、ここは期待したい。このあたりは古色蒼然とした湿った抵抗感が充満しているようだが、頭上からは「やりなはれ」と聞こえそうである。

 これらの変革は人事や総務だけの任務ではない。社長の仕事である。少なくとも事業本部を担当する役員の任務と位置付けなければ必ず失敗するであろう。本来、プロフィットセンターが主導すべき経営改革であるべきもので、経営陣が一丸となって取り組まなければ、ジョブ型への移行などできるわけがない。

 在宅勤務が組織内に作り出した小さなほころびはふつうに繕えばいいものを、それを新しい生地を買ってきて新たに仕立て直すことで対処するような、そんな感じがしないこともないが、本気なら革命である。

 革命と表現したいほどの変化として、労働市場は変革され、教育体系は組み替えられ、労働組合は職能組合へ向かうことなどが想像される。また、社内の職務構成はジョブ優先で再編され、職制も変革されるであろう。つまり、庸人から仕事人へ、働く側の意識も根本から変わっていくと思われる。もちろん、大東京は東京に、また中央集権から程々集権へ、永田町霞が関も様変わりとなるであろう。

 つまり、1868年に匹敵する変革となる可能性があるが、成功するかどうかは分からない。これは、政治家には出来ない、選挙があるから。では、だれがやるのか。だれがやるべきか。この問いへの答えが最も魅力的でなければならないが、同時に最も不確定性が高く、ある意味スリリングである。

 考えてみれば、政治とくに民主政治が、既得権益構造の刷新とか長期課題の解決などに極めて弱いことはすでに常識となっているが、どうしてもそれらの巨大課題を解決しなければという切迫事態にあるのなら、現行の政治システムとは別の方法を見出さなければならない。もちろん、ワイマール憲法のもとでの授権法のような邪悪なプロセスではない、問題解決に適した政治プロセスの開発である。このあたりの議論はまだまだ未開の部分が多く、こなれも悪いので残念ながらほどほどに収めるしかない。

移動における責任(公共交通機関は安心の創造に腐心、当分尻が重たい)

 619日に国内の県境をまたぐ移動が復活したが、もう少し地域の感染状況をふまえ柔軟性をもっても良かったのではないか。列島凍結は地方によっては行き過ぎた面もあり、地方経済には過剰な負担を強いたのではないか、と疑っている。首都圏、大都市圏の問題を無理に地方展開する中央集権的発想はもう止めにして欲しい。

 まだら模様の感染状況の中で、「新しい生活様式」というものは社会規制としては中途半端であって、たとえば、新幹線の指定席の発売はどの程度が適切なのか。夏の帰省シーズンを迎え、乗客の方にも不安があるだろう。自粛頼みの限界が指摘されるなかで最終的に運送事業者の判断に任せるべきではあるが、新幹線車両からクラスターが発生した場合の影響は大きいことから、事業者の責任の範囲を明確にした上で、不可抗力の存在を是認すべきと思う。具体的には業種業界ごとにガイドラインを設定するようであるが、基本的な疫学データの整備など行政の守備範囲も明確にする必要がある。

 自粛措置が内包する「責任逃れ」の構造が別の混乱を生むようでは政治とはいえまい。行政が強制することから発生する損失の相当部分は保障されるべきと思うが、あいまいな「日本モデル」では対処できないのが復旧と感染の激しい葛藤であり、それをいかに制御していくのか、永田町霞が関の本当の実力が問われる。

  移動の自由は憲法上の権利であるから、需要に合わせて供給していくとなると、感染対策は結果的に泥縄状態に陥るであろう。まだまだ需要が低いので議論にはなっていないが、夏の移動シーズンを迎える中で、移動総量を規制する必要があるのか、このあたりの基本論議は重要である。補正予算は、需要抑制ではなく需要喚起を目指しているのだから、政策として供給抑制の出番はないはずだが、重症化リスクを考えれば年齢層によって意見が異なると思われる。とかく、世論は供給抑制に傾きやすい。

 

客を待たせる行列にはそもそも無理がある(配給時代か)

 商業施設、それも対面販売の現場では入店者数規制を選択せざるを得ない。そのために、いろいろとガイドラインを検討するのだろうが、適切な入店者数の基準は難しく、「密です」といっている間は愛嬌半分であるが、入店規制による売上減少は死活問題である。また、倒産も急増するだろう。

 さらに、入り口で待たされる客の感情も気になるところで、スーパーマーケットでは待たされるのが当たり前であるといったことが「新たな生活様式」として定着するのだろうか、疑問である。そうなると宅配方式への顧客移動が予感されるが、コスト負担は消費者に寄せられることから生活弱者と呼ばれている低所得層の負担感は景気後退による収入減と重畳し深刻化するのは必至であろう。

冷え込む消費、必要最低限の消費へ

 生産から消費へ、需要に応じ毛細血管を血液が流れるように食料はじめ生活用品が物流を構成するのだが、消費者に接合する毛細血管の末端が多少の酸素不足でも構わないとなると消費の縮減が恒常化しかねない。もともと、消費は品揃えや新規性あるいは値打ち感などに触発されやすく、市場の雰囲気次第で盛り上がるものである。マルシェ効果を抑え込んだスーパーマーケットにとって新たな販売戦術が必要になるであろう。

 このように末端消費が縮減していく流れは経済活動の華やかな側面を削ぎ落とし、必要最低限の消費世界を作り上げるように思える。そうでなくとも、世帯収入は減少すると思われるので、別になくても良いと人々が考えれば、本当になくても良いことになる。となれば、経済は成長ではなく停滞へさらに後退へと向かうマイナススパイラルに陥る恐れがある。

 収入と支出と貯蓄からなる家計が今回の感染症を経てどのように変容していくのか、慎重に見極める必要があるといえよう。

会話控えめで、何が楽しいの(リモートで盛り上がるのはいつまで)

 話は変わるが、会食にはさまざまなスタイルがある。個人的な楽しみから会社接待まで、また政治家同士の接待もあるが、「会話は控えめに」でうまくいくのかしら。おそらく、最も難しいテーマと思われるが、「新しい生活様式」を強いられる飲食業の苦境については、あらかじめ共感しないと決めているかのような、無体などはいわないが相当に冷たい要請ではなかろうか。

 さらに、冠婚葬祭のうち、葬だけは控えめで結構だが、他は華やかにやりたいから大枚をつぎ込んでいる。そういえば、法事でも久しぶりの親類縁者集いあって日頃の無沙汰を思いっきりカバーしようと、大声になるさ。それのどこが悪いのか。グチグチいわれるぐらいならいっそやらないほうがいいとなるだろう。控えられると飲食業者やイベント業は立っていられない。

 距離を保ち、淡白に。大声で笑うなんてはしたない。飲み食い以外は必ずマスクを着用するように。また、女子会や井戸端会議は是非リモートで、ついでに録画しておきましょう。などなど、「新たな生活様式」の定着に向け、世の中ギグシャグしながら納まっていくのだろうか。生活様式などと偉そうに、と単純に嫌悪する自分に逆に自己嫌悪するのだが、感染防止のための生活習慣についてためになるアドバイスには感謝しながらも、専門家が提案している感染症対策は人々の自己責任に傾き過ぎているように思える。

 東京は知事選の最中であるが、目下の感染状況をいえば、焼けぼっくいが完全に消えていない不気味な風情といえる。すでに感染パターンがはっきりしているところ(繁華街など)への対応が、妙に腰が引けているように見えるが、ロックダウンの可能性に触れた323日のシャキット感はどこにいったのか。

マスクはコード、本質から離れていく

 また、疫学上の知見にもとづき求められる行動や対策が、効果的であるのかないのかについてさまざまな検討がなされていると思われるが、現実に人々がとる行動や対策が疫学上の効果を十分有しているのかというと必ずしもそうではなく、たとえばジョギング中のマスク着用のように、その効果性に疑問のあるケースも多く、マスク着用の効用が「十分気遣っています」あるいは「日頃から対策済みです」といった、安全性の表明の小道具として選択されているように思える。いわゆるコードとして扱われているので、「入店時には必ずマスクをおつけください」としっかり対策を求めているのではあるが、そのマスクが不織布抜きの布製でも無いよりましなのか、あるいは、もう何日も使った清潔性さえ保証しかねるものでも不問であったり、つまり本来の使用目的を完全にすっ飛ばした、結果的に「表象行為」にとどまっているケースもあるのではないか、と社会派風の分析を展開する向きも多い。要請した対策の効果性についての検証を第二波への備えのためにもしっかり行うべきである。

定着するか新生活様式マナー

 同様のこととして、歴史事件(感染症)の影響が残滓として食事作法に残っているといわれているが、もともと手づかみ(指先)が普通であったのが、ナイフとホークあるいは箸、さじなどが普及したのも過去の感染症の影響かもしれない。大皿ではなく個別皿でとか、今後どのような提案がでてくるのか、多少の好奇心がふくらむところである。

 また、対人物理距離の2メートル、またひとつ飛ばしの座席が当座の対策として採用されているが、いつまで続けるのか。やはり無理がある。しかし、恐怖は残るから、ぎこちない感覚は消えないし、対人距離が今回の感染症の残滓として人々を悩まし続けるかもしれない。落ち着くまでには長い時間がかかると思われる。

対人接触(濃厚接触)は減少か

 その点、対人接触は薄くなると思われる。そうでなくとも、秋からのインフルエンザ流行期には、握手やハグなどは頻度と密度を減らしている。

また、わが国あるいは東アジアではあまり見かけないが、頬ずりやキスといった親愛感の交換行為は激減するだろうが、逆に危険を犯しての表現行為の希少性を評価する流れが残るともいえる。立ち居振る舞いなどはどちらかといえば淡白な方に流れるのではないか。

 その他、透明樹脂板などの遮蔽器具は換気循環除菌装置などの構造対策に置き換わっていくと思われる。しかし、口角泡を飛ばす場面は嫌われるが、行きがかりの現象なので対応は難しい。総じて、接客業は対人サービスに付加価値があることから、大きな工夫がないと持続的営業は難しいといえる。

 会議や打ち合わせなどはリモート化され、在宅勤務とセットで効率化が図られるであろう。また、対面業務はPCを介しての応対に流れるものと、アクリル遮蔽板などシールドカーテンをはさんでの応対とに分かれると思われる。

 交番では、フェイスカバーでの応対が普通になり、落とし物はまず消毒してからの受付となるだろう。行政窓口なども同様で、非接触遮蔽型が主流となるであろう。

「三密」は天下の発明品だが、相当あいまいである

 「三密」はことばとして残るが、本来の役割が行動規制の基準を示すものであったのに、数値基準に結びつけられなかった点がイマイチということであろうか、漠然言葉の見本であり、よく出来ているだけに惜しい気がする。列車、航空機、船舶、乗用車など交通機関の対策あるいは基準は綿密に検討されるべきで、いつまでも「三密」と唱えていても前に進めない。

「行動変容」は言葉が難しいので消えていくと思われる。「新しい生活様式」と同じで大げさである。普通に手元に寄せられる言葉で十分なわけで、大上段に振りかぶってどうなるものでもないだろう。

 これらの標語は、関係者の苦心の作と思われるが、たとえば通勤電車はいずれ「三密」に帰っていくだろうし、それが正常化というものでしょう。

 今回の災厄を契機に在宅勤務などが普及し満員電車がなくなることになれば、ずいぶんと楽になる人が増えると思うが、そうなれば、通勤電車がガラガラで、都心のオフィスがガラガラで、運輸業や不動産業が悲惨なことになるというのは、心配のしすぎか。

 

 ところで、生活様式をうんぬんしてくれるのはいいが、行政の仕事ぶり(給付金業務など)はなんとかならないのか、と多くの国民は思っている。現場は精一杯苦労しているのだろうが、土台システマチックではないことから、作業がはかどっていない。アナログ大国の人海戦術。正直がっかりしている。本当に大丈夫か、この国は。国会でのキラキラしていた報告はどこの国のことだったのか。とても心配である。

 政権は場面転換のたびに、今様で、光っていて、聞こえの良いフレーズを吐き出すけれど、実態は中身がないので、うつろなものに聞こえる。こんな状況が何年も続いている。そんな「こだま」のような言葉はやめて、具体的な仕事手順がクリアになるプログラム言語を使ってほしいものだ。

 残念ながら、国民との会話が成立していないようだが、これはコミュニケーション能力の問題ではない、思考過程の問題であり、思考と表現様式の改善が待たれる。

 

飲食形態は文化そのもの、居酒屋は民衆の活力源

 飲食業の方々には同情を禁じ得ない。突然の災難の上に先行きの見通しが立たないところがつらい。また、外食は生活習慣だから、内食の固定化が気になる。在宅勤務、テレワーク、リモート○○の普及は飲食業にとっては死活問題であろう。飲食業のありようは食文化論を超えていて、極論だが、飲食形態は日本文化の動的表現であるといった方が当たっているのではないか。三か月も休業が続くようでは飲食業の再生は簡単ではないだろう。

悲惨のひとこと、緊急救済措置が必要である

 残念なことに、インバウンド4000万人は幻となってしまった。国内もあわせ壊滅的といえる。旅行業、宿泊業、観光業の痛手は計り知れないうえに、往時に復するには何年もかかるだろう。また、国民経済全体に与える影響も大きい。

 熱狂から覚めた時には、ある種のむなしさ、何かしらの喪失感を覚えるものだが、今年開かれなかったオリンピック・パラリンピックがもたらす喪失感はどんなものなのか見当もつかない。来年にしても、完全な形での開催は日々難しくなっている。呪われているとついいってしまった人がいたが、引導が先にでた感じで、正直ではあるが花がない。ついに花のない国になったのかと嘆く向きも多かろうが、もともと賛成でない人もいたわけで、コンパクト、エコそして復興と言葉選びに精を出し雰囲気を作ったけれど、見えてきたのは従来通りの金権資本主義で、本当のところ世論は賛成反対に分断されている。

 それにしても「新型コロナウイルス克服の象徴」とかよく思いつくものだ、確証もなしに。

年内雇用情勢の悪化、勤労所得のマイナスから、GDPのマイナスは動かない

 それにしても株式市場の歓声には驚かされる。もともと、経済の実態とは関係ないのか、金余りを餌にするモンスターか。

 年内の雇用見通しは良くない。しかし、それでも最悪期は脱したと、マイナス十がマイナス九になったと株どもは舞い上がる。苦しむ人にしてみれば嫌味でしかないだろう。

 失業は生活を直撃する。失業を免れても収入減は生活苦を生む。世界中で失業に苦しむ労働者が急増している。秋風が吹くころにはさらにひどくなっているだろう。さまざまな経済統計速報が示す近未来は灰色から黒色に近づいているように思われる。

 北半球に嵐が頻発するころ、経済にも大嵐が吹き荒れるであろう。人心も荒れる。人々が苦しみに打ちひしがれているときに、シャンパンを開けるな、打ち壊しにあうぞ。

 2020年の秋は荒れ模様ではない、暴風豪雨の大嵐である。こういう時には何が起こるかわからない。覚悟はしておこう。

◇アジサイは朽ちる時だけわれに似て

202073

加藤敏幸