遅牛早牛

時事雑考「新型コロナウイルス感染症がもたらす変化(政治分野)付録集」

 新型コロナウイルス感染症について5月ごろから書き溜めたものを今回付録集として10本掲載することにした。一体のものとしたかったが、少し脈絡に問題があることからゴロゴロと素材を並べただけの仕事になった。

 感染症そのものと、その対策が急流のように変わりゆく状況からそれも致し方ないと妙な納得をしている。2月、3月と労働関係の雑考を掲載してきたが、雇用や労使関係は感染症の直撃を受け、まさに変わりゆく途上にあるのでしばらく準備に時間がかかると思う。当面は、やはり政治と労働に焦点を絞った時事雑考を中心に進めていく予定になると思われる、COVID-19に罹患しなければ。

付録 1  感染症対策の基本構想があったのか

 

 本来、感染症対策は適切な法律を背景に、行政機構が正面に立ち、民間組織の参加を得ながら最終的に国民の協力をえることによって有効に働くものであるから、はじめに対策の全体像をできるだけ詳細に説明することが重要である。もちろん、感染症の特性によって強制力の扱いが違ってくるが、基本設計に当たる政策体系をどの程度まとめていたのかが行政評価にあたっての重大関心事である。

 

 

付録 2  思い込み感染リスク(バイヤス)の是正が必要

 

 生活地域にくらべ観光地のほうが、感染確率が高いとはいえない。また、自宅よりもホテルや旅館のほうが危険だとどうしていい切れるのだろうか。業者が生業を守るために真剣に感染対策に取り組んでいることは衆知のとおりであり、少なくとも都市の密集地よりもはるかにきめ細かく対応されているように思える。ということからここでの問題は、事実としての感染リスクと、人々が思い込んでいるリスクとの差が大きいところにある。つまり、リスクに対する認識のギャップ(バイヤス)があるわけで、いいかえれば、人々が思い込みで膨らませた感染リスクの虚像こそが、陰でいろいろな悪さをする要因といえる。また、人々が作り出した虚像が引き起こす不祥事は人間が背負うべきものであり、もともと起こるべきものではない。

 繰り返しになるが、山裾にそびえる瀟洒なリゾートホテルにたまたま滞在している数組の客(非感染者)にどれほどの感染リスクがあるのだろうか。同じことだが、ガラガラの新幹線を怖がる理由を見つけることはできないだろう。マスクを着け、適度な人間(じんかん)距離をとり、ときおり石鹸で手洗いをすれば、日常生活と同じ程度の感染リスクに抑えることができる。といった事実に基づいた現実的な議論が欠けているように思える。

付録 3  張り子のトラで自粛を求めているが、過剰な部分もある   

 4月7日の緊急事態宣言の発令以降さまざまな対策が国や都道府県によってとられたが、基本は強制力を脇に置き、協力要請を求めるもので、休業等による収入源への補償は協力金であり、大幅な減収に見舞われた企業に対しては雇用維持を前提に支給される雇用調整助成金などに限られるもので、加えて国民生活への助成として一人10万円を世帯単位に支給するものであった。

 本来、行政命令による休業には相当の補償を措置するのが妥当であると思われる。今日、四分の一の世帯は貯蓄ゼロであるといわれているが、その人たちはとりあえず現金が必要なのだ。感染防止のためには、人々の生活の実情を踏まえながらいろいろな工夫を凝らすのが血の通った政治だが、それが決断力を見せびらかす一見強硬策が横行し、それらの対策を評すれば、極端なたとえと思われるかもしれないが、「市内で食中毒が発生したので全市民に絶食を勧める」ごとき対応で、それでは経済活動は窒息せざるをえない、のである。感染症対策の名のもとに、鈍感な経済窒息政策が横行し、人々の雇用を奪っているのである。(3月から5月にかけて)

付録 4  被害を最小にする、政策の組み合わせ問題である

 当初、「命か経済か」との二者択一論が盛り上がったが、またたく間に消えていった。もともと、この二択は政策的に成立しない。それは、経済優先のため感染症対策を放置し自然免疫を待つとしても、急増する重症患者のために医療崩壊が発生し、人々の不安が極度に高まれば経済はとうぜんボロボロになる。また、命を守るためにと都市封鎖を強行し、経済活動を絞り込めば、窮乏のため多くの人の命が危機に瀕することから、この二項は循環しており、対立構造にはない。対立構造にないものを二択にするのは、メディアの悪しき商業主義である。ここは被害を最小にする政策の組み合わせ問題といえる。

付録 5  金余りで浮かれる株式市場、さらに資産格差が拡大

 ところで、昨今の世界の株式市場はそうとう好調のようで大いに盛り上がっている。もちろん、これがウイルスの功績であると考えている人は一人もいないであろう。歴史的な金あまり状態が浮力を着け、そのうえ市場参加者が下降よりも上昇に期待し、そう予想しているからで、あえていえば人間の心理にこそ原因なり責任があるのであって、この際ウイルスは関係ないといえる。決して、浮かれている株の世界を非難するものではないが、苦境にある人々にしてみれば、だれのための金なのかと恨み言の一つもいいたくなるだろう。いつものことながら、救済されるべき人が救済されないという政策の穴がクレバスのように横たわっているが、資産格差が待遇格差を決定しているこの世の不正義はまだまだ続きそうである。

 このように世間を見わたせば、ことほどさようにウイルスに何かしらの責任があるようないいまわしで、世に起きている困った事象についてあれこれ語られているが、いわせてもらえばそれらのほとんどは人為によるもので、ウイルスはたんなる脇役に過ぎない。ここでは、主役は私たち人間であって、困った事象は人間社会の歪から生じているのである。

付録 6  すべてがウイルスのせいではない

 

 恐るべきウイルス(SARS-CoV-2)にかこつけて、私たちは何かを感染させている。それは、不安と怖れ、隔離と排除、非難と攻撃である。つまり、私たちは不安から攻撃にいたる劣情ともいうべき心理を生産、増幅しているのである。

 そういえば、1月、2月ごろは「正しく恐れる」といわれていたが、いつの間にか「正しく」が抜け落ち、代わりに「やみくもに恐れ」だしたのではなかろうか。また、この半年間ウイルス感染症についてどれだけ正しい情報をえることができたであろうか。適確な動きをとれない政治と、自らの不安心理を抑制できない私たちの現実が、決してウイルスが原因とはいえない多くの災厄を引き起こしていることは否定のしようがないではないか。

 だから、医療従事者の子供が保育園から登園を断られた。原初的な防衛本能丸出しで、滑稽なところもあるが、漠然とした不安から感染への恐れが生じ、医療従事者の家族を隔離することを求め、しして隣接空間から排除するため保育園への非難と電話による攻撃へとエスカレートしていった模様で、ある意味典型的なパターンである。

 しかし、保育園に苦情の電話をしている「あなた」が感染したときに誰に看てもらうのか、医療従事者の子供が保育園に行けないことから人手不足が理由で、その病院が外来を閉鎖したとすれば、病院に行けない「あなた」がそのことで苦情の電話をしてみてもどうにもならないだろう。原因は「あなた」にあるのだから。そんな現象が世界中で発生したことから、今度は逆に、医療従事者への感謝を表す行動が広まりホッとした。世界は思う以上につながっている、みたいだ。

 そういったいい話もたくさん入ってくるが、それ以上に陰湿な嫌がらせが蔓延している。この蔓延具合は新型コロナウイルス感染症以上で、本当に残念なことである。SNSとか無言電話とか張り紙とか他県ナンバー車を凹ますとか、みんな匿名で、浜の真砂の数ほどやってはいけないことをやってしまっているではないか。

 

 これらの事象は自然現象ではない、すべて人間が生み出したものであり、人間が広めているもので、いいかえれば人間とその社会の歪が感染流行しているのである。

付録 7  政治の世界は、責任を頻発するが責任を取ることはない

 さて、新型コロナウイルス感染症がもたらす政治分野における変化を議論する前に、私たちには自身が背負うべき責任を突き詰める作業が残っていることを指摘したい。また、ここで「私たち」とすべての人を含みこんだいい方をしたが、連帯責任のような曖昧なくくりではなく、無言電話やSNSで実際に人を傷つけた人たちも含め、政治家はもちろん、専門家はじめ朝早くからテレビで煽ってくれた各業界の方々の功罪もふくめそれぞれの「責任」についてじっくり考える必要があることを提起したいのである。

 責任という言葉は、政治のあらゆる場面で盛んに使われている。それはまるで通貨のように求められたり、奮発されたり、値切られたり、知らぬ顔されたり、時に重々しくあるいは軽々しく流通している。そのような責任とはそもそも何であるのか、使われるほどには考えられていないことが、ある種の虚しさと不信を醸成しているように思えてならない。そこで、改めて政治における「責任」を常識的に整理してみる。

 責任の意の第一は、執行責任である。何事も成し遂げなければ始まらない。執行にあたり動員できる資源には限界がある。この限界は、政治の世界では議会が決める。議会が認めた予算の範囲内で目的を達成するのが、執行責任である。

 さらに、執行責任には、当然のことではあるが、遵法、最善策選択、専念義務などが付随しているが、一方で、目的のためには手段を選ばないといった、残念な玄人的意識も残っている。といいながら、成し遂げられないものも多い。はじめから、何を成し遂げるのかはっきりしないことが多く、いわばゴールを可変軸においているかのようである。有権者には良い格好をしたいが後日の責任追及からは逃れたいのが丸見えなのが今日の政治家主流の実態である。

 第二は、説明責任である。誰に対して説明しなければならないのか。それは、議会であり主権者たる国民である。この説明には原理原則がある。まず説明の時宜は、事前・途中・事後それぞれ速やかに行うこと。説明は事実に基づくか、真実を語らなければならない。だから、嘘では説明責任にはならない。また、人によって変わってはならない、時期によって変わってはならない。後世においても批判の対象でなければならない。まさに、がんじがらめの世界である。そのがんじがらめの鎖が解けたのはみんなで嘘をつくようになってからである。

 第三は、引受責任である。保険の世界では、契約上の金額(保険金)の支払いをもって責任が全うされる。支払事由が発生しなければ掛け金は、保険の引受手の収入となる。しかし、事由が発生すれば引受手が支払う。全て金銭のやり取りであるから、わかりやすい。

 一方、政治の世界では、政治家の出処進退をもって引受責任とみなす傾向があるが、最終責任は主権者たる国民が負うものである。だから、政治家の辞任などで簡単に清算できるものではない。失政がもたらす莫大な損失は国民の負担となる。

 世間ではいまだに、何かあると「国が、国が」と国に負担を求めれば万事すべて解決と思っている向きがあるが、国は付加価値を産まない、単純な消費経済体である。したがって固有の支払い能力はない。すべて国民の負担である。(外為特会からは益金の一部を一般会計に受け入れている)

 引受責任という文脈からいえば、引受手でない政治家には責任能力はない。残念ながらはじめから無いので、お詫びの印に辞任するだけである。そんな辞任よりも1円でも多く回収してもらったほうがいい。

 今日、政府は莫大な借金をし、中央銀行は異次元かつ禁じ手の金融緩和に勤しんでいるが、考えてみれば現役世代だけで背負えるものではない。また、出口あるいは結末についての説明もなされていない。後は野となれ山となれと何ら変わりない態度である。ここまで来れば後はMMT理論の正しからんことを祈るだけである。冗談半分ではあるが。

 さて、国民にとって重大な事実は、政治家の引受責任が免責状態にあるということであり、この点についてあまりにも能天気ではないか。総理大臣が何人辞めたって損失は補填できない、失政は戻せないのだから、無関心でいていいはずはない。国民はおまかせ民主政治に別れを告げ、主権者責任の原点に帰るべきである。

 第四は、転嫁責任である。別の表現をすれば責任の帰属である。とくに、組織体や法人が背負う責任は棚ざらしにされやすい。

 責任転嫁とは本来背負うべき者があれこれ理屈をつけて、最終的に他者の帰属にすり替えることを意味しているが、役職者が入れ替わることで責任転嫁が容易に発生する。これは、責任の真空化すなわち無責任の極みである。政治の世界における責任は時間とともに遷移しながら、すなわち責任転嫁を繰り返し、終には無責任にいたる。誰のせいとはいえないが、ただそこに転がっているだけの責任は数多ある。

 たとえば、選挙公約やマニフェストを転がすだけなら、やり方を変えたほうがいい。「百年安心年金」とは、制度が百年もつ意味で、国民生活がそれで安心できるかどうかは別問題だそうで、実にお見事、これからは消費者センターならぬ有権者センターが必要ではないか。

 もう一つのたとえが消えた年金問題である。ふつうに処理をしてくれていたら、つまりわが国にある民間企業の役員、管理職、社員が常識的に務める程度の責任感で仕事をこなしておいてくれたらこんなことにはならなかったのではと思った国民は多かったのではないか。莫大な後発費用を前に責任とは無責任の派生語ではないかと、はじめに責任があって反射的に無責任が発生するのではなく、はじめに無責任があって締まりが悪いので責任が発生したのではないかと、思ったものであった。

 さて、実際に使われている政治責任の意は広く、流動的である。ウイルスの遺伝子情報がコピーを繰り返すうちに変異していくのに似て、言葉として使えば使うほどに変異していくのであるから、意味が「とらえられなく」なることによって責任追及は薄まっていく。報道が使えば使うほどに意味は焦点をぼやかし、次第に形が見えなくなる。政治責任は希釈化され、最後は空気と同じぐらいの濃度になっているのではないか。

 政治家に責任を自覚させることがこんなに難しいこととは夢にも思わなかった。主権者たるものよほどしっかりしないといけない。

付録 8  新型ウイルスの登場と薬剤耐性菌の氾濫は続く  

 

 ポスト・コロナとかアフター・コロナあるいはウィス・コロナと入り口は争論状態であるが、出口と中身はぼやけている。議論が鮮明にならないのは、新型コロナウイルスとその感染症の全体像がまだまだ不明であり、予防策と治療法が確立していない上にワクチン開発のめどが立っていないからであろう。知らない敵を相手に作戦は立てられないということか。

 しかし、今日段階での予防策は完全とはいえないが、手洗い、消毒、マスク着用を基本に生活各面でのさまざまな対策が日々試行錯誤を重ね、また経済性との折り合いをつけながら徐々に洗練されていると思われる。

さらに、治療法についても臨床経験を重ねることにより重症化率や死亡率を漸進的に改善できていると思われる。

 したがって、数年のうちに感染者数と重症化率および死亡率が数分の一程度に低下するのではないかと、期待をこめて勝手に予想している。もちろん、ワクチンにも期待をしているが、ワクチンが完成しても高価かつ注射接種であれば、世界に普及するのは難しい。さらに、医学的に安全性と効果性が立証されても、そのワクチンが人々の信頼を勝ち得るには長い時間がかかると思われる。どんなものが開発されるのか今はわからないが、ほとんどのワクチンは開発国に囲われ、さらに安全保障・行政(社会インフラ)・医療などに優先給付されるので、2、3年は期待しないほうがいい。また、インフルエンザワクチンのように毎年型が変わると、1日数ドルで生きている人々に行き渡ることにはならない。

 ところで、感染症問題の肝は、何年かごとの新型ウイルスの登場と、細菌では薬剤耐性菌の氾濫である。人類にとって救世主であった抗生物質もいよいよ後がない状況に追い込まれつつある。すべての抗生物質が効かなくなると、忘れていた病原菌が人類にとって新たな脅威となり、新型コロナウイルス感染症を超える被害をもたらすであろう。ポスト・コロナ、アフター・コロナ、ウィス・コロナといった議論が吹っ飛び、今は懐かしい前世紀の伝染病との戦いに明け暮れることになる。

 ゲームは終わらない、振り出しに戻るだけである。ということで、パンデミックの災厄の中で人々は思索を重ね、たどり着いた結論は、政治の問題解決能力を疑う、という何とも陳腐なフレーズを提示することにはゲンナリするが、これはこれで仕方がないことである。

付録 9  はたして「命と生活を守る」政治なのか、本気度に疑問?

 

 何をやっているんだこの国はと心底で叫んでいる。「人々の命と生活を守る」はずの政治が大事なところで間が抜けているので、もともと守る気などないのではないかと疑い始めている。とくに、わが国では政治家の責任において強い規制法を設けるべきところを、要請とかでごまかし、人々が勝手に自粛を行った「日本モデル」の成果だとか、これじゃまるで子供だましではないかといいたいが、最近では子供に失礼といった語法があるそうで、もういい、最後通牒ではないが、「人々の命と生活を守る」ためにはまるっきり別の仕組みが必要ではないかと、本来なら革命でも起こすべく屋台で口角泡を吹く議論を始めなければならないのだが、この手の議論の結論は見えている。運転手が変わっても路線は変わらない、定員も増えない。

 だから、大事なことは新しい仕組みで、どうでもいいことは今のままで、と少し投げやりではあるが国民心理は動いているのではないか。

 そういえば、拉致問題も北方領土も解決できなかった。尖閣はくすぶっており、隣国は積み上げた石組みをまた崩す。少子化対策は芽のない球根か、エネルギー問題は民意が収斂せず、IT先進国はズルズルと順位を下げ、温暖化対策は依然パッとしない。といった閉塞状態を焦ることなく日常風景として冷静に受け入れている多くの国民にとって、今回の感染症騒動による最大の学習は、政治が機能しない場面があるということであり、それがこの世の現実であると強く認識したことではないか。そして、かつて多くの政治家や学者・評論家がやや直線的に振りかざした政権交代による政治の問題解決能力の再生という正統的な手段が現下の状況において決して有効ではないという真実に気付かされ、そのうえで、たおやかに政治システムの再構築に取りかかりつつあるステージといえるのではないだろうか。

付録 10  選挙が正統性の根幹である民主国家にとって最大の危機である

 

 今回のような感染症対策は民主国家にとってもっとも不得手な科目であって、良くて30点、正直点数をつけるのが気の毒な感じである。その根本原因は感染症対策と経済対策が短期間でみれば背反関係にあることに尽きる。前門の虎、後門の狼、選挙に気を遣わなければならない立場にすれば実に進退極まった窮地ではなかろうか。

 しかし、選挙は相対関係である。現在の与野党の力関係と連立構想さえ掲げられない野党の足元を考えれば、有権者に政権選択の途はないといえよう。このことも、国民をして、問題解決の新たな仕組み作りを発想せざるをえない「問題状況認識」を生みだしているといえる。

 おまけに、一国だけの救護策は成り立たない、つまり鎖国はできないというから、真実お手上げ状態にある。この何重もの閉塞感の中で道を拓いていかなければならない。困難である。しかし、光明はある。それは、国民一人一人が有権者としての責任に目覚め、信頼できる政治家を選挙で選ぶことである。この当たり前のことが、よくよく考えればできていなかった。結果論かもしれないが、信頼できない政治家を選ばざるをえなかったことには、有権者側の責任あるいは努力不足が大いにあったのではないか。選んでからボロクソにいうのではなく、選ぶ前にしっかり調査する、ダメなら信頼できる政治家を育成するぐらいの覚悟がなければ、これからの時代やっていけないでしょう。まず、有権者が本気にならなければ、選ばれる側の政治家が本気になることはなかなかないと思う。

◇葉をゆする音も聞こえぬ夏風は

 

加藤敏幸