遅牛早牛

時事雑考 「2020年真夏日からの政局」

◇ オリンピック・パラリンピック大会を失った「2020年8月」は遅い梅雨明けの後、酷暑の夏を迎えた。5月25日に緊急事態宣言は解除されたが、7月から増え始めた感染者が大都市では4月の水準を上回り、最高値を更新している。

 政府は死亡者数あるいは重症患者数を引き合いに事態の推移に余裕を見せているが、内心は薄氷を踏む思いであろう。一方、都道府県は緊急事態宣言が発令されない中で、独自の対応策を模索しているが、権限や予算の壁に苦労している。

 国も地方も閉塞しており、誰しも口にはしないが内心「失政」だと思っている。

◇ 「一強」と謳われた長期政権も落日を迎えている。そんなに遠い昔ではないが、いつしか国内政治での取りこぼしが多々見られるようになって、また国際環境が追い風から向かい風に変わり外交上の収穫が無いまま、今年に入り新型コロナウイルス感染症に襲われたが、それは落日の前の斜陽に似ている。

◇ 何か変わる兆しを感じるが、今のこの時点で政局を占うことは困難である。それは、感染症の収束はおろか第二波の襲来の予想すら立てられないでいること。また、米大統領選の行方が不透明であること。くわえて、米中関係の緊迫化の程度が不明であること。などの理由により、予測にあたっての前提がグラグラしている。

 外部環境が固まっていないのに内部が固まることはこの場合ありえないから、あくまで外が固まるのを待つしかないといえる。

 しかし、内には内の絡みあった事情があるので、それらを丁寧に解いていけば、想定されるシナリオのいくつかについてイメージを作ることは可能である。あくまで、条件つきではあるが。

◇ 衆議院選挙は来年10月までに行なわれる。自民党総裁選挙は予定としては来年9月であるが、現職が辞すれば早くなる。

 目下の焦点は、解散の有無と時期であろう。わが国の憲法は内閣不信任案が可決された場合に、対抗措置として衆議院の解散を認めているが、ほとんどのケースが第7条天皇の国事行為(衆議院の解散)にかこつけた「恣意的解散」あるいは「ご都合解散」である。

 この、いわゆる7条解散がいかにわが国の政治に大きなひずみをもたらせているかは、憲法学者や政治学者からさまざまな指摘がされている。しかし、解釈権を有する権力の自走性から止めることは事実上不可能となっている。すなわち、内閣総理大臣の専権事項とまで表現される「実態基準」(デファクトスタンダード)と理解されている。

 余談ではあるが、1994年、政治改革の一環として衆議院に小選挙区制を導入した時点で、7条解散は縛るべきであった。あまりにも、行政権力側に傾きすぎており、これが行政府と立法府の不均衡を助長したと思う。  

 たとえば、2014年と2017年の解散総選挙の結果、野党勢力は疲労困憊となって、政権交代への準備どころか日常活動さえおろそかになり、くわえて与党に対する官邸権力の支配が強まり、結果として一強政権の不祥事やわがままを許すことになったのではないか。憲政を支える立場から決していいことだったとは思えない。

 

◇ さて、直近の政局において7条解散はありうるのかについては、どう考えても理屈が立たないと答えざるをえない。しかし、理不尽なことはしばしば起こりえるから、確率ゼロではないだろう。ただ、感染症が収束の兆しさえ見せない中で、総選挙となれば「年寄りを殺す気か」という反発が起きるだろう。それも、感染症対策での失敗をさておいての解散総選挙であるから、どんなに野党が弱いからといっても選挙結果への影響は避けられないと思われる。

 また、来年のオリンピック・パラリンピックがどうなるのか、中止となれば政治責任の追求は避けられないし、その後の処理も大変であろう。さらに、11月の米大統領選挙の帰趨も重要であり、その結果の確定までに時間を要する恐れもこれありで、米国の方向が定まるのに時間がかかるかもしれない。つまり、米大統領選挙前にわが国が総選挙を実施する理由があるのか、ここは慎重に見定める必要があるだろう。とくに、米中関係の展開が致命的に重要であることを考えれば、再任か新任かいずれにしても米国の対中政策を見定めてから、わが国の政権担当者を選択するのが適切だと思われる。たまには国益を視野に入れた解散総選挙を企図してほしいものである。

◇ さらに、総裁4選を目指すのか。また、目指さない人に解散する権利があるのか。といった思惑に、野党の戦列の乱れが加わり、政局方程式が複雑化していくであろう。

 結論は、この人に4選を語る資格も気持ちもはない、ということで、したがって、現職による解散総選挙はない、と見るのが妥当なところであろう。

◇ 思えば失策の多い政権であった。それでも、メディア空間を制圧しているので思いのほか長続きしたのだろう。個人的には2015年の安保法制は多少評価するが、総じて中途半端なことが多かったと思う。また、日銀をして異次元の金融緩和に導いたことは功罪あい半ばで後世の評価を待たなければと思うが、功を消し去ることはできない。

 残念ながら外交は、結局段取りに終始し鏨(たがね)をうつまでには至らなかった。確かに運の悪さもあったが大きく得られたものは見当たらない。その中で、外国訪問が精力的に展開されたことは多とすべきであろう。(これは重要なことである)また、トランプ大統領との個人的交友は評価されるべきで、プラス面が多かったと思う。他方、交友を優先するあまり大事な議論がおろそかになったのではないかとも思うが、真相はわからない。

◇ せっかくの長期政権ではあったが、取り返しのつかない失敗と思われるのが通常国会の閉会である。わが国憲政史上最強の権力を掌握している内閣総理大臣が逃げ回ってどうするのよ。臨時国会召集要求が出されるのはわかっているのだから、80日間延長しておけば良かったのではないか。当分、海外日程も少ないだろうし、新型コロナウイルス感染症と真正面から戦う勇姿を国民に披露するいい機会であったと思うが、口先では国難といいながらそういう提言ができない取り巻きのことを君側の奸というのではないか、と愚痴りたい気分である。

 それに反して、今や都道府県知事がテレビ報道に現れない日はないではないか。内閣総理大臣はどこに行ったのか。と思っていたら、マスクを替えたことが話題になった。まるで隠居あつかいのようで、残念なことである。

 与党国会対策委員長が議論すべき法案のあるなしを国会招集の理由にあげるのはいささか見識に欠けるもので、憲法は条件を付けてないのに、何を考えているのかということである。与党の国対委員長は政府と国会の仲介役でディープな対話を支えるのが役割だと思っていたが、ずいぶん変わったものだ。国民から官邸の手先と思われてはいけませんぞ。それに、吊るされたままの議員立法が山のようにある。国会は国民のものである。傲岸にもほどがある。

◇ 2020年真夏日からの政局のキーワードは「潮待ち」。内訳は、感染症の収束待ち、米国大統領選挙待ち、野党の合流協議待ち。際どいところでは、辞任待ち。

つまり、待っている。これは停滞であり、受け身である。だから、だれかが笑っている、国内ではない。それにしても、意欲減退がひどすぎるのでは。与党も、野党も、ゆ党も。

 ところで、与党はどうして総理の足を引っ張らないのか。逃げ回る総理をかばう与党なんて史上初めてではないか。逃げ回る総大将は味方に殺されるのがオチで、それができない組織は、ネジが緩んでいるのではない、連結ピンが外れているのである。政界のエネルギーは下剋上にある。それが、新陳代謝を促す。また、諫言なき集団に明日はない。それにしても、ずいぶん変わってしまったものだ。今では青嵐会でさえ懐かしと思うわが身はずいぶん老いたのではないか、これこそ怪しいことである。国会議員諸君!闘え!

◇ 野党の合流協議は永久協議と思われていたが、堂々巡りを止めて流れに乗りはじめた。もともとがボタンの掛け違いもあってギグシャグしていたが、衆議院での共同会派の実績と安倍政権の失策の重なりがプラス効果を生みだしたのだろう、参議院はともかくそうとう滑らかになってきている。

 滑らかになったからといって基本問題が解決したわけではない。まず、合流については、何が焦点なのか外部からはわからない。合流して何が良くなるのか、つまり利益形成が判然としない。大きな固まりを作ったはいいけれど、有権者の支持が広がらなければ意味がないわけで、集まればなんとかなるアテがあるのか。そのあたりを支援者に聞いたのか。ともかく、強迫観念にとらわれた議員の勇み足でなければいいのだが、1+1が2以下では話にならない。

また、ワクワクしないのは相変わらずだが、もう少し組織活動を丁寧にやらないと、どんどん足腰が弱くなるのではないか。心配である。  

両党ともに有権者とは距離があることは確かで、おまけに思いがつながらない人たちの集まりだから、共感が広がらない。立派なのは経歴書と目線の高さ、それだけでは横にいる人を感動させられない、といった何ともいえないリベラルの冷たさ、そういった事が知られてしまった。

 維新、れいわ新選組にあって立憲、国民にないもの、それは浪花節と長屋のおせっかいである。そういった人の温もりのなさが支持率の低迷の原因の一つではないか。試験にだけ強いエリートさんを幾人も眺めてきたが、大概は無謬性の檻に閉じ込められ身動きがとれないでいる。考えるのは頭だけではない。ハートや肝(はら)でも考えろ。心が通わない人たちが一緒になって天下を動かせるのか。誰彼が悪いということではない。それなりに真剣なんだろうが、感動を呼べない、輪が広がらない、それだけのことである。応援したい気持ちは山々ではあるが、何か大切なことを忘れてはいませんか。

(ここまで書いた時点で、合流協議の顛末、異例の連合会長発言と矢継ぎ早に事態が動いた。事実確認に手間取り、筆が追いつかない。当面、成り行きを見守ることにし、この段落は中断し後日に。)

◇ 「金のかからない選挙」といわれた時代があったが、嘘である。否、無理である。金のかからない選挙こそが理想とばかりに、ながらく非現実的な論説が組み立てられたが、一般的な政治活動はもとより、選挙争点を広め議論を活性化させるためには相応の費用がかかることは当然であり、費用負担についての議論は残るが、いずれにしろ金はかかるのである。いわく民主政治は金と時間を費やすもので、議論の焦点を機会の公平性と手段の公正性の確保に移すべきである。

 また、「身を切る改革」は意味を鮮明にすべきで、国会議員の定数と歳費や経費を削減することが、どうして世の中の前進につながるのか評価軸を明らかにしてほしい。世にいう自虐的史観に強く反発するグループなのに、議員活動についてだけは妙に自虐的過ぎるのは誠にいただけない。「身を切る改革」の到達点が議会消滅ではないとすれば、あるべき基準を示してもらわないと、手段において全体主義との区別がつかなくなる、ことを危惧する。

 どんなに能率が悪いといっても議会は必要であるという根本を崩すことはできない。あるいは、公務員の倫理性や効率性と公共サービスのあり方を、もちろん交錯する部分があり議論を尽くすべきと考えるが、ごちゃ混ぜにした主張も同様でそれだけでは時代の要請に応えることにはならない。

たとえば、新型コロナウイルス感染症が保健所機能などの再評価の契機になりそうであるが、橋本行革以来の流れにあって、今日のように感染症が最重要課題になるから保健所の削減をやめよとの警告があったという記憶は無いが、「行政改革」の旗を振る側に非常事態への備え論があったとも思えない。つまり、発生が不確実な事象に対し、どの程度の余裕を準備すべきかは、膨大な借金を抱える国あるいは地方自治体にとっては頭の痛い課題であるが、避けて通ることはできない。それらは、執行責任の重要部分である。と同時に「行政改革」の旗を振ってきた人々は、その目的と手段をさらに掘り下げ鮮明にして欲しい。いわゆるバージョンアップである。

「金のかからない選挙」「身を切る改革」「行政改革」など、ある種の決め台詞に内在する虚構についてそろそろ開けた議論が必要で、使い慣れない言葉ではあるが、止揚が求められている。

(それにしても、広島県参議院選挙買収事案には驚いた。政党交付金を原資にしていないと思うが、いずれにせよ裁判の行方が注目される。税金を使っての買収となると総裁責任は免れないだろう。それぐらいひどい事件である、本当に。)

 

◇ 米中関係の動向は最重要項目であるが、喫緊の課題は日米関係について完全な合意形成を図ることである。

 完全な合意形成とは、民主国家としての手続き上の合意、国民の理解と支持に基づく合意、二国間関係の実態としての合意など安全保障体制に限定したものではなく、生活文化から経済体制あるいは政治価値にいたる各面において、普遍性をもつ価値体系を背景とした広範な共通感覚をもつ相互関係といったものである。

 また、緊張を増す米中関係にあってわが国として対中政策の基軸を再定義する必要に直面しているが、再定義とは事実上、日中関係の疎遠化であることからそれは中国の強い反発を呼ぶので、確かに気乗りがしないことはわかる。しかし、奥の部屋であれこれ悩んでいても仕方がないのでドライな気分で方向を固めるべきである。

◇ 現下の米中関係は貿易問題という枠組みを飛び越え、経済分野を主戦場とする国家対立にいたっている。もちろん、大統領選挙までとの解釈もありうるし、そういう側面を見せていることも事実であるが、いま米国が突きつけている具体策の鋭利さから背景にある問題意識がうかがえるもので、そこには根の深い米側の焦燥があり、不思議なことに共感しうる要素も少なからずあって、いってみれば理非曲直の世界から一歩離れた感情をも含む、共産党支配という奇異な仕組みを容認したまま市場経済への参加、資本・技術の交流を放任した結果が引き寄せた容易ならざる事態を、自責ではないが大きな後悔に近い思いで受け止めざるをえない複雑な心境ではなかろうか。ある部分、感情や情動に深く結びついた気持ちの積乱雲が米側の動機形成の主柱であるとしたら、これはわが国にとって容易ならざる事態といえるであろう。

◇ 確かに杞憂であることを願うわけであるが、1853年米国のペリー艦隊が浦賀沖に姿を現し開国を要求してから167年間、数多くの二国間問題に遭遇してきたが、率直にいえば、彼の国との交渉は彼の優柔なる時期になすべきで、それを逸すると日々強硬かつ強引になるのであって、交渉経過に限れば中国はかつてのわが国の轍を踏もうとして(あるいはすでに踏んでいる)いるように思えてならない。 

 対する中国も内憂を抱えるとき外に対し強硬になる。賢明な指導者は引き下がる口実を巧みに設け事態に備えるものだが、自らの統治力の支えに対外覇権主義を組み込んでいる習体制の場合には非常に難しい事態になる。昔は中華思想と語られたが、今はそんな甘っちょろいものではない、中華エゴイズムと共産党支配の正当化の合金体である。

◇ 全面的な軍事衝突などを予言するものではない。しかし、国家対立であることは間違いない。そして、事態は深刻化している。これは歴史が仕掛ける中国にとっての罠であろうか。それとも、米国の凋落の始まりなのか。ともかく、覇権をめぐる対立が解消されなければ、東アジアにとって波乱と困難の10年になると思われることから、早急にわが国として対中評価を明確にする必要があろう。でなければ、逆に悪しき誤解を生み、それが事態のさらなる悪化を生むと思われる。

 この際、対中評価の基軸は「すくなくとも中国は軍拡を中断すべきで、くわえて、その根っこにある覇権主義から自らを解放すべきである」との主張に代表されるもので、外交的にはそういったラインを設定すべきである。ここらあたりをあいまいにした論議では意味をなさない。

◇ 1989年の六四天安門事件を難じた先進国は中国への評価を切り下げ経済制裁を課したが、30年余後の今日、その時の評価を変更すべき何かがあったといえるのか、また何が改善されたのかという問いかけに改めて直面せざるを得ないのではないか。中国は偽装はするが、不変である。

 ふりかえれば、1989年7月の先進国首脳会議では、わが国は対中制裁に対しもっとも消極的であったし、また、1992年10月、天皇陛下の訪中が行なわれ、くわえて、対中投資再開の口火を切るなど国際社会においては抜きんでた親中政策を推し進めた。これらの一連の対中外交が国際社会における中国復活に途を開いたことは確かであり、事実その後の中国経済、社会の発展は目覚ましいものであった。

 さてそのうえで、今日ふりかえるべきテーマは、それら一連の判断を支えたわが国の政治哲学は何であったのかということであり、今日の米中対立の深層を直視したとき、わが国としていずれに与するのかといった功利的判断の枠ではなく、長期的視点に立ちながら、一体何を基準に判断すべきかといった議論の基盤設定をふくむ本格的な論議を始めなければと、焦燥を含む強い思いに駆り立てられるのである。

◇ 今思えば、「政経分離」とは方便に過ぎないのではないか、要は金儲け優先の「経高政低」に流されるだけではないか、といった疑問を残したままバスは発車した。見切り発車であった。結果、折からのグローバリゼーションの波に乗り中国経済は躍進を遂げ今日にいたっている。痩せた伏竜が膂力を増し今や天を駆け巡り、黒雲を呼び東シナ海あるいは南シナ海に波頭を立てている。巨竜は自らの力で天に登り、それは天命であると彼らは信じているから、他国から恩義を受けているとの認識は微塵もなく、受けたものはすべて朝貢であると信じて疑わない十億を超える民が居るのである。まさに、中華思想であり方法において中華エゴイズムである。

 この圧倒される現実感のなかで、米国に与するにあたっての基軸ラインをどうするのか、実に正念場であろう。過日弊欄で、現下の米中経済闘争において、米側として人権問題を回避していることを評価したが、懸念は現実化しており、いよいよ雲行きが怪しくなってきた。人権とは政治問題の核心である。中国にとって人権問題の源泉は中国共産党の統治者としての正統性にかかわることから、ことは簡単ではない。出口のない闘争に首を突っ込むことになるのではないか。したがって、米国に与するにあたって人権を主たるテーマとするのか、あるいは従としごまかすのか、これがわが国の立ち位置を定める上で最大の争点になるのではなかろうか。

◇ この闘争は長期化するが、決定的な衝突にはならない。双方にとって、被害、損失があまりにも大きすぎることから、どこかで止まる。また、止めなければならないが、隣国関係は永久に続くので、ある種の打算も必要であるからきれいなことにはならない。

 そして、わが国にとって最大のリスクが、これからのことであるが米国の戦略の生煮えや稚拙な外交に由来するであろうといささか訳知り風に予断するのであるが、とにかくやる以上はしっかりやってくれなければ困るのである。

 長くなるが、トランプ大統領の無茶振りに翻弄された2年半であったが、無茶ぶりにもかかわらず、対中国包囲網とはいわないが、曲がりなりにも対中国対応で複数の国が揃ったのは、各国そして議会が中国問題を現実感を持って認識していたからで、気持ちのどこかでトランプ大統領を支持する部分があったからではないか。ここが中国自身がいち早く気付かなければならない急所であったと思う。

◇ 米中関係というのは、放っておけばあれこれ話が大きく広がってついには手に負えなくなる。だから、対米関係においてそうならないように、問題とする領域を限定すること、すなわち米国に釘を刺すべきである。人権問題は重要であるから別のステージで処理するとして当面経済闘争に集中するべしと、そしてわが国が攻守同盟体であることを明確に表明することになるであろうし、わが国民も同様の認識に立っていることが求められるであろう。そのぐらい事態は深刻なのである。

 一般に、多国間紛争に巻き込まれることを危惧する論調があるが、この問題には中間地帯はない。理不尽と受け止め中立を志向する立場もありうるが、それは更に身を危うくする。対中関係における評価基軸を考える上で、看過できないことは彼の国の「国家動員法」と「国家情報法」および事実としての法執行である。法治を謳いながら、法治ではない。党独裁体制を国家統治の国際スタンダードに加えようとしているが、その本心は現在の共産党支配体制の統治上の瑕疵の隠蔽ではないか、いってみれば劣等感あるいはやましさの裏返しであって、同様の体制を取る国々を増殖することによる後付の正統性の確保ではないかとの疑念を禁じえない。

 という認識を持ちながら、現実的外交を進めながらも、中国が政治的攻勢を強めれば強めるほど、わが国として自由、民主、人権を強く押し出すことになる、あるいはならざるをえないのである。

 善隣外交は理想であり、悪隣外交は現実である。小さな小競り合いが大きな紛争を回避するのであれば、それはそれで意味があるとは思うが、どうであろうか。

◇ 北朝鮮のミサイル技術の進展が著しい。同列で論じるべきではないが、中国の軍事力の拡大が止まらない。両国の軍事力強化が東アジアの安全保障上の緊張を高めている現実を受け、にわかに相手国基地攻撃の議論が浮上している。もちろん、イージス・アショアの導入断念を防衛的に穴埋めするためではあるが、決して目新しいあるいは珍奇な議論ではない。

 このテーマが浮上する背景には、防衛能力の陳腐化すなわち相対的防衛力劣化が横たわっているのであって、戦術的方法論だけに閉じこもった議論では意味がないといえる。結論からいえば、米中間の緊張亢進にあって日米安保体制の役割を今日的に強化する必要があり、相手国基地攻撃もそれら全体構造の一部分としてとらえるのが適切であるといえよう。つまり、独立した戦術項目ではないということである。もちろん、抑止力の一部を支える項目であると表明する意義は大きいといえる。

 

◇ したがって、今日なお何をするのかわからない北朝鮮への牽制と考えるのが妥当であろうが、いずれのケースにおいても先制攻撃は事態を深刻化させるもので、どのような証拠を用意すれば正当化できるのか不明である。この点、報復攻撃のほうが明確である。同じ文脈で中国への牽制を議論するべきではない。なぜなら、中国からの先制攻撃は対米開戦を意味するものであるから、わが国の判断で行使する相手国基地攻撃とは本質的に範疇を違えるもので、全面戦争につながる、超超重たい話である。

 相手国基地攻撃は技術的側面からも20年前ならともかく現下の状況からは時代遅れの感じがする。

◇ それよりも、米中緊張がさらに高まれば当然わが国のシーレーンの確保が現実味を増してくることは必定であり、やたら「反原発」を旗振ることの意味があらためて問われるであろう。執政上の責任として国民生活に必要な物資等の安定的確保が大きく浮上することも予想される。「反原発」が票になるというのはひどい思い込みである。それは国際情勢に強く影響されるものであって、ともかく原発をベースロードにせざるをえない状況を排除することは現時点でできない。現実を直視できない政党は選挙で淘汰される。国民の意識はさらに大きく変わろうとしているのではないか。

◇ 米中関係、東アジアでの相手国基地攻撃の意味合いなどは、わが国の当面の政局からは遠く離れた話のようであるが、次回衆議院選挙では重要な選挙争点になると思うし、そうあるべきである。70年安保世代としては、右転向も甚だしいテーマの取り回しに、自身苦笑を禁じ得ないが、それでも「反戦平和」を声高に唱える主義者も真剣にその道を考えるべきである。もし、50年前の「反戦平和」の理屈が通用すると信じられるのであればそう主張すべきである。

 机上の空論と揶揄されようが、脳中の思考実験を繰り返してきた50年の経験からいえることは、対立から紛争、そして全面衝突への道筋は決して一部の狂信者たちの歴史における過ちではなく、ごくふつうの思考を煮詰めてしまった結果として起こりうるものであり、さらに回避の難しさは尋常ならざるものということである。ということから、不本意であっても備えることを備えてから、「反戦平和」を徹底的にやるべきであると。横にいた同世代たちの失敗は、備えることを放棄した上での「反戦平和」であったから、人々の支持、信頼を得られなかった。それだけのことであったと思う。

 次回の総選挙は人々を取り巻く数限りない脅威に対し真摯に立ち向かう姿勢が問われるのではないか。と久しぶりにいってみた。いってみたかったし。

  

◇ 秋先からの景気と雇用が心配である。おまけに台風シーズンの到来。収まらない感染症とあわせ人々の苦しみは幾重にも重なり悲惨な事態が想定される。これだけでも歴史的重大事態であろう。5月、6月の家計収入は幸いにも大きく増加している。特別給付金の効果である。ベタ褒めする気はないが、家計を支えていることは事実である。では、年末に向けてどうするのか、議論を開始すべきである。ウロウロして時間切れになるようなら消費税減免を時限措置すべきである。ここは、国民の生活が第一で、財政規律は先々復興税を考えればいいではないか。時限措置を前提に支持したい。

 今、人々の命と暮らしを守るためにまともな政治が必要である。口ばっかり、スローガン倒れのスタイリスト政治はもう要らない。

 

◇ 社会を維持するため必要不可欠の労働あるいはサービスにスポットライトがあたった。在宅勤務が可能な人とそうでない人。感染リスクに直面する人とそうでない人。感染リスクを犯して仕事にいっても仕事にならない人。豪邸のプールで泳いていても資産がどんどん増えていく人。人それぞれであるが、命に差があることもはっきりしたではないか。

 わが国の場合、米国ほど傷口が開いているわけではないが、詳しく見ると命に差があることは歴然としている。このことに、ごまかしではなく、正面から応えるべきである。正直に応えることが政治の誠実さである。資産に差がある以上、仕方がないと考えるならそういうべきである、はっきりと。

 でどうするかは一人ひとりの国民が判断することである。やっているふりしてごまかすことは政治家としては重罪である。

 今日の政局の核心テーマは、「逃げるな、ごまかすな」であると信ずる。

◇ 涼しさは 塀の向こうの ホースから 

加藤敏幸