遅牛早牛

時事雑考 「2020年秋、総裁選と代表選の競争」

◇ 自民党総裁選の真最中である。菅氏の当選が確実視されているので、むしろ論戦の展開とその含意に注目すべきであろう。多くの派閥が早い段階で菅氏支持を表明し勝ち馬に乗る雪崩現象が起こったが、多ければいいのかと深く考えれば菅氏にとって痛し痒しの現象であろう。まあ本心をうかがうことはできないが。

 選挙そのものは結果が見えている。が水面下では、安倍路線をどのように継承するのかという戦略と、派閥間の椅子取りゲームが交錯している。見どころは、菅氏がどこで匕首の刃面を見せるかで、それ次第で後々の政局が変わってくるであろう。

 その一つが、解散総選挙である。まず、何のためにやるのか、仮の話ではあるが、菅氏にとってはそれが最大の難問であろう。いわゆる救援投手に徹する覚悟なら、任された総裁任期1年を完投すればいいということになるが、本格政権すなわち総裁任期以降も総理大臣を続けるのであるなら、躊躇なく解散総選挙を選択するべしというのが一般論であるが、これが巷間いわれているほど簡単ではない。感染症の壁がある。また、安倍氏にはアンチも多かったが、それ以上にシンパが多かった。また、カリスマ性もあったし、いわゆる運の力もあった。

 しかし菅氏の場合、正直いって不確実性が高い。とくに、選挙でしくじるとそれで終わってしまう。また、アベ政治の継承だと強調すればするほど、アベの負の遺産を引き継ぐことになるから、いずれ引き算になる恐れがある。だから、そんな危ない橋を渡るよりも、得意の課題処理能力を活かし地道に実績を積み重ね、アベ継承といいながら中身の濃い菅政治を売り物にし、来年秋、満を持して任期満了選挙に臨むほうがいいのではないか。と、思案の最中かもしれない。

 そのように思うのは、アベ継承政権の最大の課題はいつどのようにアベ離れを果たすかで、その昔、中曽根政権が発足時に「田中曽根」と揶揄されたことがあったが、巧みな田中離れで結局長期政権を成し遂げた。

◇ 自民党総裁選と並行して、あまり目立たない合流新党(立憲民主党)の代表選が進行している。この選挙は、代表者と同時に党名も決めるようである。

 「大きな塊を作る」というアイデアを具現化する合流協議は2020年1月休止状態にいたったが、6月頃から、代表、幹事長レベルに絞りこみ静かに再開された。

 協議の経過については、ときおり報道ベースで伝えられたが、多くの支援者の立場からいえば情報の質も量も十分ではなかったといえる。筆者は、もともと連立政権構想と選挙協力に専念すべきとの考えであったから、大きな塊論については賛成ではなかった。その理由の一つは円満な合流の困難さであり、不完全な合流が生みだす新たな不協和音の発生とそれがもたらす弊害である。

◇ 8月11日の国民民主党役員会は1対2の比率で、提起された合流案に反対であったが、玉木代表の判断で合流受け入れとなり、近づく総選挙への不安を抱えるいわゆる比例復活組の希望が叶う途が開けた。思いやり分党である。この判断をめぐり激しい非難が、支援団体の一部から投げかけられているが、その非難が完全な外野からのものであれば静かに聞くことができるが、例えば合流協議の隣の部屋に陣取る立場からのものであればふつう怪訝に思うであろう。本来、2者協議であるべきものが、2プラス1の様相を呈していたのでは話にならない。

 ということから、両党は協議の経過内容を速やかに開示し質問に応じるべきであろう。協議は完了したわけだし、有権者としては知る必要がある。

 というのも、例えば綱領に原発ゼロ社会を目指すとの文案を挿入することの是非について最後まで紛糾したと報道されているが、この点についての具体的な議論などは多くの有権者が知りたいと思っているのではなかろうか。

 昔話になるが、似た議論が民進党を作るときに起こっており、今回も神津連合会長がかかる項目について「残念である」と見解を述べているが、国民民主党の中にはそれを受け入れることができない議員が複数居ることは何年も前から自明のことであるので、それを見越しての提起であったのか、逆にどのような説得策が議論されたのか、など丁寧に説明をしなければ大きな塊ができても大きな力にはつながらないのではないか。また、それを受け入れた国民民主党側の判断と責任はどうなのか、今回の協議の練度を推し量る上でも重要なポイントである。

 帷幄のやり取りはいずれ明らかになるのが健全な社会である。歴史(政策)検証を理由に政府に会議録の開示を要求する立場には敬意を払うものであるが、両党はこれらの疑問に誠実に対応するべきである。

◇ さて、今回の合流協議に対する支援団体である連合の対応であるが、とくに、首脳部の熱量が危機意識を反映してか、並々ならぬというより凄まじいものに感じられたが、それが正直いって分からない、腑に落ちないのである。   

 とくに、大きな塊を作ることの是非はおき、そのための手段、方法が逆効果ではないかと思ってしまうのであるが、とくに9月1日の連合会長記者会見が伝えられている内容の通りだとすると、産別組織として立っていられないところも出てくるのではないか。責任者としての使命感の頂点のような気もするが、それでも公党の代表者に対するくだりは余分ではなかったか、分党が不適切であるというなら、ではどういう結論が適切であったのか、丁寧な説明が必要ではなかったか、世間では強引あるいは上から目線といった負のイメージが流れているようで、残念である。

 また、労働運動の基本は現場ファーストであり、組織の力は現場から、組合風にいえば職場から生まれてくるものである。その職場の価値意識、とくに政治意識の多様化は近年著しいものがあり、労働組合役員の悩みはそこにあるといえよう。

 とくに、民主党政権崩壊以降、民進党への衣替え、2017年の分裂、2019年参議院選挙での摩擦など、職場にすれば全く理解できない事象が起こりすぎている。もうこれ以上民主党由来の野党に関わりたくないと思っている活動家も増えていて、もちろん政治への参加が大切であるとは思ってはいるが、そのためのルートがそういった政党に限られることに対し疑問が生じていることも事実であり、それが政治不信の原因の一つとなっている。職場で支援をしてきた政党が政治不信の原因となったのでは耐えられない。同時に、支援されてきた政党にとっては未曾有の危機といえる。

 といったことから、反動なのか、職場での与党支持率が上昇している。今回の一連の出来事はその流れをさらに加速させるであろう。職場集会では説明者自身が納得できていないのだから、たぶん、説明は省略されることが多くなると思われ、結局、運動の形骸化が進むであろう。

 職場が納得できないことは無理なのである。こういった現場の実態を考えれば、短兵急な対応は力を削ぐだけで得るものはないと忠告したいし、危惧しているところである。

◇ 総裁選と代表選、報道量は圧倒的に前者に傾いている。とくに、立候補者の政策や考え方を広く知ってもらう良い機会であるとの視点にたてば、合流新党(党名未定)の不利は否めない。

 筆者の周辺から、感想ベースではあるが総裁選に寄せられている声として、例えば「岸田さんの政策って働く者よりだね」とか「相変わらず石破さんの話は体系的で分かりやすい」あるいは「菅さんって、ずい分苦労人なんだね」といった肯定的なものが増えている感じがする。これは、安倍現首相とのギャップに由来するのではないかとも思うが、親和性が増していることは確かである。

 予断は控えなければならないが、このような総裁選にかかわる報道が続いていけば、職域(職場)における反自民あるいは非自民のエネルギーレベルが大幅に低下していくと思われる。その遠因が2009年をピークとした民主党支持のその後の転落にあることは確かで、これは植相と同じで、繁茂していたAという植物が急速に衰退するとその空きをついて、BやCが大幅に勢力を伸ばすのに似ている。

 こういった職域での陣取り競争を踏まえながら改めて2つの選挙を眺めるならば、残念ながら野党系代表選のほうがどうしても中身がうすく映るのである。それは現に政権を担当していないのだからやむを得ないと筆者は思うが、視聴者はそうは思わないであろう。つまり、総裁選と代表選も相互に競争関係にあり、競争は二重構造となっている。

◇ 代表選の方でいえば、枝野氏は自公政権への対抗を全面に、いわば横綱相撲の様相であるが、一方の泉氏は党内運営の改革を主張している。そういえば、党内から改革するためと立憲民主党に入党した議員がいたが、似た声を耳にすることが多くなった。せっかくの新党であるから国民に開かれた党としてさらなる洗練を期待したい。とはいえことは簡単ではないであろう。

 というのも、立憲民主党は2017年の希望の党騒動の中で、選別疎外されそうな議員のために、枝野氏がいわば救命ボートとして立党したもので、理屈抜きで氏の功績は大きい。まさに創業者であり、これが立憲民主党の聖なる伝説である。

 ここであえて辛口のコメントを述べれば、このような伝説をもつ政党において、運営の改革という問題提起が意味するものは創業者枝野氏のやり方の修正という新たな歴史の創生であり、創業者からの権限剥奪を部分的であれ伴うことになるやもしれないということである。いいかえればはたして新党はそういったハイリスクな事態に耐えられるのかということである。

 おそらく、そういった文脈を含みながらの新党結成であり代表選だと清澄にアナウンスされるのだろうが、海千山千とはいわないが浮かんでは消えまた浮かんでは消えゆく多くのメンバーの顔を思えば、新党だからと力んでみても枝野氏抜きでまとまっていけるのだろうかと危惧する。そう、まとめるためには枝野氏が必要であり、困難に遭遇すれば創業者のカリスが必須で、それでいてそれらに依存する限り国民政党へのレベルアップは難しくなるであろう。ここに立憲民主党そして合流新党のジレンマがあるといえる。

 さらに大きく発展するためにはこのジレンマを克服しなければと、おそらく立憲民主党の中心に居る関係者もそのように考えているのではないか。

 ベテラン中のベテランともいえる岡田氏(元民進党代表)が自らの投票について、代表は「枝野」党名は「民主党」と表明したのも、単なる折中ではなく、何かしら思いがあってのことであろう。

◇ 対抗すべき自民党は着々と支持を固めている。そんな中で大きな塊といいつつ、逆に限界政党に陥りつつあるのではないか、と心配である。やはり合流新党の敷居が高すぎた。それも特定の産別を狙い撃ちにした覇道選別の匂いがしないでもない。意趣返しではないと思いたいが、門戸は広げるもので、狭めるのなら開けなければ良かったのだ。8月11日事実上の合流が決定した折に、これで2、3年後に枝野内閣が実現するとの明るい見通しがかわされたと聞くが、それは全員参加でも相当に難易度の高い話であろう。天下を臨むのであれば丸呑み、すなわち与えることから始めなければならない。

 それにしても、参議院での信頼の醸成という最重要課題に正面から向き合おうとしなかったことが、将来の悔恨になると筆者は確信している。

◇ 一方の国民民主党は民主党以来の過剰討議体質を受け継いでいる。ことあるごとに党首、執行部批判が勃発し、党内署名活動が頻発する。小さい政党がますます小さくなっていくのね、とは地方の老齢の支援者のつぶやきであった。

 おそらく党内ガバナンスのひと言で片付かない何かがあるのだろうが、外部からは分からない。ただ、民進党ができたときも、さらに希望の党へ合流した時も、選挙への不安が大きな動力源になっていたと思われる。とくに、いわゆる比例復活議員が党内最大のグループとなり、当選確率を高めることが自己目的化し、外部からは理念・政策よりも選挙対応を優先していると受け止められたことが支持を失っていくマイナス・スパイラルを招いたのではないか。思い出すたびにほろ苦さを覚える。

 その議員たちも晴れて合流新党に結集し、新たな気分で挑戦できることは誠に慶賀の限りであるが、問題は有権者の支持がえられるかどうかである。それには、政権の非を打ち、追求することも大切な役割ではあるが、それだけでは自らの評価は高まらない。与党議員の数倍の努力を有権者との対話に注がなければならない。ただただ、健闘を祈るばかりである。

◇ 残された形になったが、改革中道の旗を守り、結果小さくなった国民民主党は初志貫徹の覚悟であろう。言葉は慎重に選びたいが蜘蛛の糸のように降りかかった障害をくぐり抜け、筋を通したことは評価されるべきと思うが、一方野党間協力の余地は広く残すべきであろう。そもそも大きな塊は誰がいい出したのか、これを忘れてはいけない。そのうえで闊達に活動していけばいいのではないか。

◇ 九州が剥がれる10号みな無事か

加藤敏幸