遅牛早牛

時事雑考「いっさいにきんさんとうしりごせい」

◇ 「困ります」といわれたので押し入れに入れっぱなしだった「いっさい、にきん、さんとう、しり、ごせい」がやはり気になるので引っぱりだすことにした。呪文ではない。「一再二金三党四理五政」すなわち「再選、資金、政党、理念、政策」のことである。

 「ほとんどの議員の頭の中はこの順番ね」と親しくしていた政党関係者に問いかけたところ、不機嫌そうに「そういうことをいわれると困ります」と返えされた。

◇ 「政治不信がひどくなりますから」ともいう。そうかもしれない。決して貶(おとし)める気はないのだが、そう受けとられても仕方がない。世間では、政治家である議員こそはいつも高尚な政治理念や政策を掲げ、その実現に向けて日夜奮闘邁進していると思っている、ことになっている。おもてむきの話であるが、みんながそう思っているだろうと思っている。

 しかし同時に、そうではないとも思っている。表と裏、それに虚実の二面性があると感じているのだが、おもてむきは「べき論」が優勢である。

 とはいっても「政治家ならそうだろう」ということをいつ、だれが決めたかはわからない。まあ、いってみれば勝手な決めつけだが、それがいつの間にか妖怪となり「政治家はこうあるべし」と、そういった言論空間が作られていく。本当にそうなのかという問いにはいっさい答えず、夜祭りの張りぼてのような仮想空間が安易に作られていくのだが、やがてそれが「ポリティカル・コレクトネス」という大妖怪に化けていくのだ。それにいまさら抵抗する気はないし、それはそれでいいのだが、やはりやり過ぎ感は否めない。政治家を窒息させて世の中良くなるのかと思うだけである。

◇ もう時代遅れになったのか「創造性」が行方しれずらしい。ひと昔前は子供たちが家の中であちらこちらにシールを貼りまくったものだが、それと同じくらい「創造性」をやたらくっつけまわった時代があった。であったのに今ではだれも気にとめないではないか。政治家には創造性は要らないのか。政治家が創造的でないのは、才能の欠如と縛りすぎにあると思う。

 「政治家ならそうあるべき」とたいした根拠もない、おまけにすごく曖昧なロープで、ぐるぐる巻きに縛りつけているのだが、それがリアルにきつい。だから、創造性も独創性も根絶やしになるのさ、政治家の場合は。創造的でない方が安全だし。

◇ はたしてどれだけの人が、選挙で選ばれることの意味をわかってくれるのだろうか。わかってくれるというのは、選挙で選ばれなかったときの悲痛、無念、後悔など本当に息をするのさえいやになる、どうしようもない脱力嫌悪感をほんの少しでも共感してほしいってことで、表だって声にはだせないことである。

 で、落選にもいろいろあるが、確実にトラウマとなって終世へばりついて離れない。そのうえ次の選挙に向かうのに恐怖となって立ちはだかるから、誇りとか矜持はいうにおよばず理念、政策をも質屋に入れてでも当選しなければと自らを脅迫するのだが、この心情を多少なりとも理解してもいいのではないか、わかってやってくださいと思う。

 といって政治家に同情は禁物、すぐ甘えるからね、連中は。選ぶ側と選ばれる側のかけひきは、まるで琵琶湖の波打ち際のような微妙なラインであって、この微妙さ加減が民主政治の神髄の一面ではなかろうか。

 

◇ といった再選を願う心情を少しなりとも察してもらったうえで、先ほどの「一に再選」を本格批判していくという手順ではダメかしら。もちろん、「一に再選」というのはあくまで議員の側の都合であって、勝手なことである。それでも間接民主制だから議員がいないことには始まらないのだから、議員の側の都合を一度じっくり聞いてもらっても、これからの政治のありかたを考えるうえで無駄にはならないだろう。

◇ 再選には金が要る。だから「二に資金」は現実であり、また頭痛の種でもある。政治も資本主義なので、動員できる資金量が選挙の勝敗を決することも多いはずであり、また日常活動を活発に行うには先立つものが要る。豊富な資金を持つものが圧倒的に有利である構造は変わらないし、世襲議員が増えていくのにも理由がある。

 さて金のない議員にとってその資金を支えてくれるのが「三党」の政党であり後援者である。ところが、再選よりも組織が優先される世界がある。それは強い縛りの政党である。政党の戦略・戦術のために議員の再選が潰されるケースがあるようだが、こうなると「一党、三再」であろう。

 ここで是非を論じる気はないが、選ぶ側にしてみればいつもの候補者が突然消え、知らない人に変わってしまう事態に納得がいかないこともあると思うが、もともと「選ぶ権利」とは「選ばれる」対象があってはじめて成立するもので、選ぶ選ばれるはいつもセットになっているのである。

 飛躍するが、選ぶ権利とは選ばれる側が豊かであってこそ光輝くもので、形式的に整えるだけでは十分とはいえない。どんぐりの背比べといってどんぐりを見下すのではなく、いかに多くの候補者が出ようとも同種同類ばかりではちっとも面白くない、それでいいのかといいたいのである。

 つまり、政党の力が強くなることが民主政治を豊かにするとは決していえないのではないか。政党の選考基準って巻物しか出てこない寿司屋のようで客には迷惑である。これからは選ぶ側と選ばれる側がともに豊かになっていくプロセスを考えなければと思う。

◇ さて、再選のためには政党を換えることにも理屈はある。「当選目的ではないか」と非難されても、堂々と「そうです。いっさいにきんさんとうしりごせいですから」といえばいいのだが、現実はそんなことにはならない。代わりに「四理、五政」を使って乗り換えの正当性をアッピールするであろう。

 こういう場面では、議員でなくなれば政治理念も政策もへったくれもないわけだから、理屈抜きで議席への執着があらわになる。とくに議員を取り巻く支援者の議席への執着が強ければどんな理屈であっても通用するであろう、もちろん議員近辺の限られた空間ではあるが。しかし、このことを直接咎(とが)めることはないと思う。

 なぜなら、ボールは選ぶ側にあるのだから、賛否は投票行動で示せばいい、ということであろう。

 だから、所属政党が変わったにもかかわらず、有権者の投票行動が変わらないとなると、それは人物に帰属した投票であって政党や政治理念あるいは政策が必ずしも尊重されていないということで、これも投票の自由である。逆に、政治理念や政策が真面目に提起されてきたのであろうか。選挙公約は真摯に守られたのであろうか。と自問すれば「四理五政」の順位は必ずしも高くはないということではないか。

 ということで、投票する側も一に本人、二にご利益、三党、四理、五政であるかもしれない。選ぶ側が政治理念や政策への関心が薄いとなれば、それは選ばれる側に直ちに伝染すると思われるので、理念や政策をめぐる論戦はどんどん後景に退くであろう。こうなるとこれ以上の理屈づけは無駄である。このように、有権者の投票行動は多様で複雑、しかも理屈をとび超えたところがあって、簡単ではない。

◇ さまざまな状況、条件のなかで候補者の選定がすすめられ選挙、投票にいたるのであるが理念や政策が投票行動にどのぐらい影響を与えているのか、これがよくわからない。本当のところが見えないのである。

 そういえばマニフェストが称揚された時代があったが、今はどこにいったのか。「どうせできもしないのに」と冷笑ぶくみのまなざしが余程こたえたのか、あの時の熱意が冷えている。応援してきた政党(民主党)にはすぐ挫(くじ)ける、諦(あきら)める悪い癖があって、根性がなかったというしかない。やはり根が浅かったのである。

 仮に、はじめに主義、主張があって、それに政治理念がつづき、後は政策で締めくくるという構成があるとして、本当に平仄(ひょうそく)のあった連関構造になっているのか、またそれが有権者をして「なるほど」とうならせるものであるのか、などいろいろ考えれば多くの政党において現状は決して満足のいくレベルではないといえる。つまり、主義、主張、理念、政策が決定打となっていないと思われる投票マーケットで一体何が投票の判断基準になっているのか、これがつかめない。とくにここ8年間、靄(もや)がかかったようで判然としない。

 ただ、これは提供する側つまり政党だけの問題ではなく、有権者の側の問題でもあるといえる。ひょっとして有権者は主義主張理念政策が嫌いなのかも、しれない。

 

◇ このように個々の投票行動が判然としないとしても、団体推薦はその理由を明確にしなければならないことは当然であろう。団体の設立趣意にそった推薦行為であるべきことはだれしも否定できないであろう。

 ということから、産業別労働組合の推薦は理念や政策を十分吟味した上で、かつ産業政策など重要関心政策について賛同し、推進する条件が付帯されるのは当然であり、あわせてそのことを文書化した政策協定が行われるはずであるが、新しい政党のまるごと推薦の場合、細部ではすり合わない政策や候補者がでてくる怖れもあることから、一般的な政策協定と個別政策協定が並立するケースが多くなる。

 一般的な政策協定は上部団体が担当し、個別政策協定は加盟団体が担当するのが常識的であろう。しかし、本当のところ理念や政策をめぐる選挙になるのだろうか、大いに心配である。

◇ 無理に結論づけることはない、選ぶ側も選ばれる側もどちらも人間なんだからいろいろあるさ、それを無理に縛ることはできないわけで、無理のない範囲でやれることをやるのが団体推薦の適切な道ではないだろうか。ここで正しい道といえないのは、選ぶ側としては限定された選択であって、直接候補者を作らない以上正しいといい切ることはできないからである。悪いが、今ひとつ気持ちが乗らないのは仕方がないではないか。もってまわったいい方で滅裂感が強くなってしまったが、ここは団体推薦の効用と限界をさらに深掘りしたうえで、改めて議論を整理する必要があるのではないかと思う。

◇ 菓子袋 落葉の川に 溺れゆく

  

 

加藤敏幸