遅牛早牛
時事雑考 「2020年を振り返り、2021年を想う」
コロナ禍にあっても人の性根は変わらずや
◇ 2020年はコロナに始まりコロナに終わりつつあるが、その影響は実に大きく深い。それにまだまだ続きそうだ。さてどう続いていくかは誰にもわからない。それにしてもワクチンはどの程度効くのか、いつごろ行き渡るのかなど新年もあれやこれやと感染症に翻弄されることは確かである。
また災厄にあってグローバリゼーションが持つ感染拡散力のすごさをあらためて痛感しているが、だからといってグローバリゼーションを止めることにはならない。残念ながら甘受せざるをえないことになる。まあこれも文明病と受けとめるべきなのか、沈鬱な思いの年の瀬である。
しかし、文明病と無為に受けとめる前に日常に浸潤しているさまざまなリスクを体系的に整理できていない私たち人類の科学性の欠如が気になる。科学の発展は人類の成果であり、大げさにいえば人類文明の精華である。しかし私たちはそれほど科学的ではない。
たとえば確率論、統計学、論理学などを習ってはいても身についているとはとてもいい難い。だから、感情が先立ち正しく怖れることができず多くの場合事態を甘くみるか過剰に怖がるかの極端に走りがちで、とどのつまり最適解には遠くおよばないのが現実である。
今回の災厄も、新型コロナウイルスが原因であることは間違いない。しかし、わくように起こっている被害の多くはむしろ科学性を欠いている私たちが生みだしている気がしてならないのだが、これも何年か後には整理がつき、ことの次第がはっきりすると思う。おそらく正しく怖れることは大変難しいことであったと、そいう結論になるのではないか。
科学は迷信ではないが、科学といわれる迷信が一人歩きして、余計な悪さをしている。それが被害を広げているともいえる。それにしても、確かなことは私たち人類は科学よりも迷信を好むということであり、さらに嘘と噂も大好きで、どうにもこうにも度しがたいものである、とは地球規模の話であるが人間の性根はそんな千年や二千年で変わるものではないだろう。
行く年も来る年も米中抗争、でこぼこ道に曲がりくねった道は続く
◇ トランプ大統領にも翻弄された年だった。とくに後半は理解を超える大統領選挙で、口から出るのは「よくやるわ」の一言。2021年1月20日正午からはバイデン大統領になるはずだが、でどうなるのか。上院の議席構成で決まるともいわれているが、世界は新政権の対中政策に注目している。が、昔から衆目の一致するところは真の焦点ではないといわれている。では真の焦点は何か、それは2024年の大統領選挙であり、それに向けての政治勢力の組み替えであろう。
積み木の組み替えではなく、社会構成の再定義による抜本組み替えである。どう考えても米国社会の政治構造を反映しているとは思えない共和党対民主党構造の疲弊がひどく、どちらが政権を担ってもいわくいいがたい不適応感が拭いきれない。敵味方が鮮明に識別できない戦闘不能状態になっているようで、これでは二大政党制がうまく働かない、無理に続ければさらに分断を深めるのではないか。貧しい白人労働者と貧しい移住労働者が反目しあう理由、これがなかなかうまく説明できないのだが、これを政治識別にしていては民主政治とはいえないだろう、といいたいのだが本当のところがわからない。
さらに、対外的には同盟関係の再構築が大きな課題で、その目的は中国に対する対抗勢力の再構築であろう。中国にとってはお門違いの迷惑千万かもしれないが、それくらいがちょうどいいのである。この事態は陰謀論などとは無関係で、歴史の上では単なる出会い頭の事故だと思うが、歴史は陰謀論を含みこむように動くのであろう、それゆえ誰かの陰謀としておいた方がわかりやすいのかもしれない。
出会い頭のぶつかり合いだとして、まあ鷲より竜の方が強そうだが、竜は空想であって実在しない。ぶつかり合っているのは現実だからこれからの運びつまり覇権抗争のパターンは単純だと思う。とはいっても出会い頭の戦闘つまり局地偶発戦が大戦につながった事例があまたあることから心配ではある。しかし、今回は熱戦でも冷戦でもない経済闘争であり、また電脳電網戦にとどまるのではないかと思うし、またそうあってほしいと願うばかりである。
ということは経済闘争と電脳電網戦については肯定することになるのではないか。この微妙ないいまわし、ほとんどレトリックで実体がないように思えるが、ある種の気分を表していると思う。本当に心配なのは、巨大船は動き出すと止められない、わかっていても数分後には岸壁に激突してしまうということで、だから経済闘争と電脳電網戦にとどめておいてほしいと。
となりの大国はどこに向かって行くのか、膨らむほどに不安定化
◇ Covid-19発生の国とほとんどの人が思っているその中国が軍拡に熱を上げている。情熱の嵐か、しかし何の得があるの、いやあると考えているのだろうか。中国の今日の経済発展は資本主義国からの投資とグローバリゼーションの賜物である。もちろん互恵効果もあるが、核心は中国単独の成果ではないことで、米国や欧州あるいは日本など自由主義国の経済体制に乗っかった成功ではないか。なにやら自由貿易の旗頭のような振る舞いが目につくが、中国のどこに自由があるのか、国内は不自由なだけである。これでは天下の笑いものではないか。それに国家資本主義、覇権主義の限界が露呈し始めている。
感染症対策での成功がひょっとして政治体制としても評価されているのではとの錯覚に陥っている雰囲気が伝えられているが、しかし評価されるには絶望的と思えるほどの壁があり、その壁を作っているのは政治体制だと多くの国が認識している。
建国から70年余、未だにその統治の原理が不明である。とくに人間にとっての自由とはどういうものであるべきかに対し衣食足りて礼節を知るという道徳観だけではどうにも対抗できないと思うし、さらにいえば1989年以降も本質は変わっていないとも思う。つまり足下の危うさは従前の通りで、公正な選挙で選ばれた政治権力こそが正統性をもつという人類の経験知の根太を腐らせようといくら画策しようが無理は無理であって、逆にその画策こそが語るに落ちるということで、きっと国家資本主義とうそぶく矛盾だらけのかの国の脆弱性の根源なんだろうと、グラス片手に妄想していて、ふと証拠もなしに不正選挙だと喚いている某大統領を思い出し、困ったことだ酒がまずくなるというのが2020年の主な印象なのかも知れない。
となりの大国は新王朝
◇ その米中ともに国際協調からかなり離れているが、バイデン大統領となれば少しは改善されるのではという中国の期待は裏切られるのか。ここは声をひそめながらそうあってほしいと思う向きが多いのも事実であろう。中国は大きすぎて全身を映す鏡が手に入らないのではないか。わが姿全体を把握しきれていないから適切なフィードバックが利かないのではと思ってしまう。今のままでは何かしら無理がある、それもとんでもない失敗に結びつくような無理がある、と思う。で沈思黙考、さすがに中国をヒールにするのはリスクが大きいので、一部の悪いところだけつまり身中の虫を追い出すことに焦点を絞り、そういった患部切除は本来親切なことではないかとどこかの国がへ理屈を押しつけるかもしれない。党国分離、こんな策謀は中国の長い長い歴史においては相当に陳腐なものといわれるだろうが、他国にとっては逆に新鮮であるかもしれない。などとどこまでいっても想像の世界であるからほどほどにと思うが、中国がさらなる繁栄を願うなら他を変えるのではなく自らを変えなければならないことだけは確かであろう。難しいと思うが。
秘書に騙されていたと前総理、それじゃ最長在任記録が泣いている
◇ さてわが国のことだが、2020年の最もみっともない話が桜を見る会前夜祭の費用補填問題であろう。簡単にいえば「私も騙されていたのです、すみません」というドジな話で、騙したのは第一秘書という構図になる。それに、政府主催の公式行事への招待と後援会主催(実質的な主催者は不明)の前夜祭が連動しているが、これはどう考えてもやり過ぎである。また、100回を超える答弁が嘘に基づく虚偽となったのは前首相の身内から出たさびで同情の余地はないし、同情してはいけない。政治家というのは騙すことがあっても、騙されてはいけないのだ。これはプロとしての矜持であろう。コロリと騙されるような人は不適格である。
さて野党が大問題だと構える気持ちはわからないでもない。と、やや消極的賛意にとどまっているのは問題が構造化されていないからで、直線的にいえば被害や損失を明確にする作業を野党が怠っているのが気に入らないのである。
内閣総理大臣が自らの議員身分にかかわる問題について国会で虚偽答弁を繰りかえしていたことが国民に対しどのような被害あるいは損失を与えているのか、問題構造を明らかにし多少概念的であっても民主政治に悪影響を与えているとか、国会審議に多くの時間を費やし本来の議論をやれなくしたとか、明瞭に言明しなければ国民にすれば嘘は良くないこと以外に何が問題なのかよくわからないのである。それに、道義的責任といった紙風船のような状態に浮かせているから問題がぼやけたままになっている。
そういったぼやけ感が、「きっと嘘だと思っていました」という多数の世間の声が「ほかにもあるじゃないですか、ほらモリとかカケとか。そういう人じゃないですか」と続き、だから辞任すべきだとまで大きく結晶化することを阻んでいるのではないか、追求はしているがぼやけは一向に解消しないというイライラ感が漂っている。そこで低迷著しい野党が改めて評価を受けるには問題を構造化してみせる知力を国民に示す以外にないわけで、それには被害の実証が必須だと思うが、現実は従前通り体よく収束させられてしまうのであろうか。
さようにうやむやにされたことが少なくとも三年は続いたわけで、このことがわが国の民主政治に取り返しのつかない被害を生んでいることについて見事な論陣を展開してこその議会ではなかろうか。
さらに、議員規範に照らし厳しく迫るのなら、政治資金規正法などの厳格化を議論し議員立法として提案し、自ら実践するという切れ味の良い物差しをかざして初めて効果が上がるのであって、国民の目線の中に与野党同じ穴の狢的俗論があるようにも思われるので、まずくっきりと違う属種であることを示す必要があると思う。
そういった議会でのぶつかり合いは大いに励んでもらうとして、下世話な話でいえば最長在任記録を誇る宰相にかかわる問題としては本当にみみっちく、みっともないことで、根は本人のキャラにあると思う。キャラを立てた答弁が反発と反撃を呼び込んでいるという面もあると思う。
で話を清算すると時間資源を浪費し国民生活に関する議論が手薄になったと考えれば国会の負けである。つまり野党の負け、表にでていないがそれ以上に負けたのは連立も含め与党ではないか。ここ何年の間、類似の出来事が多かったが前首相の身内のさびに国会まで染ってしまったのか、しっかりしろといいたい。マイナスイメージは早く払拭しなければ染みついてしまうもので、早く解散総選挙といきたいのだろうが、感染症が収まらないうちは無理であろう。これは身から出たさびである。
対中外交に技はいらない、愚直に筋を通すだけ
◇ 尖閣、竹島、北方領土いずれも前進がなかった、むしろ後退感の方が強い。拉致問題も動かなかった。難しい課題ではあることは誰もが承知しているのだが、とりわけ北方領土などの徒労感が強い。ということで今日きわめて厳しい環境にあるといえるが、中国からの風にはかすかな艶香が漂っている。これは対米関係の険悪化の補償行動、つまりささやかな保険のつもりなのか、しばし日中おたがい何食わぬ顔で様子見の刻が流れる。関係改善といっても尖閣が緩むことはないと思われる。
過日、1989年天安門事件を対象とする先進国会議の声明を巡るかけひきの詳細が外務省から開示された。中国の孤立化を避けたいわが国の意向もあってか、声明は最厳なものとはならなかった。また、1992年には対中投資が急速に回復するなど中国の対外関係は徐々に改善し、じ来30年近く、中国は世界第二位の経済大国となり今や近隣諸国や地域を圧倒している。くわえて軍備拡張の勢いは加速しており、その目標が米国を凌駕するところにあることを隠そうともしない。さらに、国家動員法、輸出管理法など運用次第で戦時下統制が可能な体制も整備されつつある。
さてさて、どうしましょうか、といってもわが国には主体的に状況を変えていく力はないから、早晩バイデン大統領と相談ということになるであろう、とここまでは小学生でも口にすると思うが、相談する前に決めなければならない。
戦術としての状況追随はあるとして、どうしたいのか、どうなることが一番いいと考えるのか、そしてそれはなぜか。これを考えるのが政治家の仕事である。この当たり前のことをやってほしい。対中関係の基本は筋を通すことに尽きる。人は過去を引きずっているが生きているのは現在であり、考えなければならないのは未来である。どんなに曲がりくねっていても川はかならず海にたどり着く、これが原理原則である。1989年当時の判断はかろうじて是としても、2021年の判断は燭光に輝くものでなければと思う。何を原理原則として臨むのか、正念場であることは間違いない。
どの国も皇帝の安寧が核心
◇ ロシアのプーチン大統領が12月22日に「退任した大統領の免責特権を拡大する法改正案」に署名し公表、同法が発効したと報道された。うらやましく思う人も多いだろうが、そのような法律が必要なほどロシアは尋常ならざる事態にあるのだろうか。そういえばお隣の韓国も退任後に訴追されることが多かった。トランプ大統領も恩赦を頻発しているようだし、本当は自身と家族の免責を求めていると聞く。
いってみれば法の前の不平等だから論外のことではあるが、想像を逞しくすれば、これは悲劇の序曲ではないか、と思う。かつてロシア皇帝一家は雪の中で惨殺されたといわれている。絶対権力を持つ皇帝でさえ惨劇に見舞われたのだから、これから先はおぞましすぎて(妄想こそがおぞましすぎるのだが)、書く気もしないが、ひょっとして本人に予感があるのかもしれない。
第二のプーチンが恐ろしく有能で冷酷であれば何をするだろうか、と思えばこその予防措置ではないか、それは予防措置としては完璧かもしれないが救いようのない愚策でもある。法をもって訴追できない者への報復は非合法手段に限られるのが世の常であるから、後にして思えば軽便なる訴追を受けたほうがまだましだったという悔恨に陥ることも、とずいぶん余計なことを考えてみたが、権力者の孤独と苦悩という意味では戯曲家にとって彼こそ理想的な政治家ではなかろうか。
権力者が専制を強めれば強めるほど逃げ道が閉ざされるのである。世界の政治小説家は中国王朝の皇帝の末路に強い関心を持っているに違いないが、悲劇が生じるかどうかはまだまだ先のことだ。しかし、退職準備プログラムとはいわないが、必ず訪れる老衰の危機への備えを怠ることはありえない。平和な中南海での暮らしを支えるために費やされる犠牲は想像を超えるものであろうことは確実であり、それが傾きの始まりとなるだろう。対中理解のベースコードは皇帝の安寧である。
国内政治は有権者に対抗する気概をもつ政党が必要
◇ 国内政治にはみるべきものはないが、食レク番組よりはましである。といいつつも、最も評価できるのは安定性であるといいたい。しかし逆説的に変化への低感度が揺るぎない安定をもたらせているといえる。とくに野党のアシスト力のすごさは芸術的でさえあり、実に見事であるといってみたところで内心は寂しいのである。これは何も野党の諸君がサボっているからではない。本当のところは有権者が野党を見限ったのであってこれは野党の責任ではないと思う。すべての有権者ではないにしても、それは一部の有権者の心変わりだとしてもその影響は激甚であった。だから野党はもはや責任など問われる立場にはないといえる、これも寂しいことである。
◇ 国内政治にみるべきものがないと突き放されるのは対抗していないからである。誰に対抗するのか、それは有権者に対抗していないからである。政治家の一番大切な任務は有権者に対応することですり寄ることではない。この国の与党はとっくの昔に有権者に対抗する気概を捨ててしまったのである。有権者は主権者、主権者はご主人さま、だからご主人さまが右を向けば右を向き、左を向けば左を向き、つねにその目線を追いながら気に入られようとする、けなげといえば実にけなげな使用人たち、しかし心の底ではご主人さまを軽蔑してはばからないのである。そうしないと感情の均衡がたもてないのであろう。よくあることだ。
とくに野党は反抗的でなければならない。無茶をいうようだが、有権者とぶつかって初めて野党の味わいが生まれるのであって、そうでなければ野党などいらないのである。今の不活性な雰囲気の源泉は野党のおもねる気持ちにある。なんとかして有権者の気を引きたい、一番の好みの色は何だろうか、といったつまらないやつに成り下がっているのだ。
与党に対抗する前に有権者に対抗せよ。力ずくで引き寄せろ。有権者にそんなことではダメだと堂々といえばいいのである。なぜそれがいえないのか。それともいうべき中身がないのか。それでは空っぽではないか。
また選挙が怖いのか。それは怖がるから怖くなるのだ。心底怖くてもファイティングポーズをとらなければ退場しなければならない。退場がいやなら戦いなさい、そして相手は有権者だ。
政治は有権者との対決構造から始まるという基本を理解しなければ、阿諛追従のポピュリズム劇場に堕してしまう。それは有権者にとって最大の不幸なのである。国民に対して「それは違う」といわなければリーダーシップの第一歩は踏み出せない、と思う。
2050年実質排出量ゼロ、早く工程表を。環境原理主義に注意
◇ 管首相は2050年までに温室効果ガスの排出量を実質ゼロにすると所信表明演説で宣言した。コロナ対策では何かと不人気ではあるが、環境対策としてはまだ宣言レベルではあるが意義深い第一歩だと思う。電源構成比率がどうなるのかなどの詳細はこれからということだが、輸送機器の電動化とあわせ大きく動き出すことを期待したい。
同時に、関連する多くの課題について体系的あるいは俯瞰的視野で調和のとれた政策展開を求めたい。国連が進めるSDGsは17のゴールを設定している。それぞれに優劣があるものではないが、たとえば感染症対策のようにそのときの状況が求めてくるものもあり全体として均衡のとれた前進は容易ではないだろう。
しかし、避けて通れるものではない。いずれも早晩対応せざるをえない課題である。とくに環境対策は喫緊中の喫緊というべきもので、世代間の意識に大きな差があるようだが、2050年を生きる世代の意見を重視、尊重する必要があるのではないか。そう考えれば、社会、政治体制のあり方についても大きく変革していく必要があると思われる。環境政策の多くは制限であり重しであるが、その条件下で経済とくに生産と消費をどう構成するのか、地球規模での経済計画の導入は異例中の異例で人類にとって初めての挑戦といえる。
ここで気をつけなければならないのは、パリ協定とSDGsとを並べ置き無批判に並走させることである。それはパリ協定がもつ喫緊性をSDGsが借用し動力源とすることである。私には借用ではなく盗用であると感じられるが、ここらあたりが国際官僚のたちの悪さで、大いに気をつける必要があると思う。
◇ 気候変動問題に限れば、平均気温の上昇を摂氏2度以内に抑制できなければ、たとえば3度以上になったときにこの地球表面が生物の生存に対しどの程度悪化するのか想像がつかないということだから、生き物すべてが絶滅危惧種となり、もちろん生きのびる種もあるとは思うが、生命界は絶滅ステージということであるから、ここは是非を争うのではなく方法を争わなければならない、となる。
さて、そのような肯定的方法論と同時に、あえて指摘しなければならないのは否定的方法論への対応である。否定的方法論などと未成熟も甚だしい言葉を引いてみたものの、十分把握できていないので表現が難しいが、あえていえば邪悪な方法論の発生とその始末である。
気候変動への本格的な対応は私たちの社会を大きく変えるものである。また大きく変えるものでなければ効果的とはいえない。
今こそ人類がこぞって主体的に変革の第一歩を踏み出すという、背筋に戦慄を覚えるほどの一大事業であるのだが、このようなときに限って悪魔がささやく気がするというか、私たち一人ひとりの内心に巣くう悪しき情動が静かに励起し合って悪魔の住む闇の帝国への道を開くのではないかと、ある意味病的な想念にとらわれるのであるが、これは心配のしすぎであろうか。
それが心配のしすぎであるとしても、気候変動へのさまざまな対策を熱心に、また多くの障害を取り除きながら進められていくうちに、何が何でも環境対策といったよくある至上主義が頭を持ち上げ、気候変動第一といいながらとんでもなく原理主義化してくのではないかと密かに心配しているのである。
少なくともアベ時代は現状優先であった。環境政策を前面に打ち出し全面的に展開をはかる必要性はそれなりに理解をしていたが、同時に今足を置いている現状を維持する必要性も当然政治圧力として十分受け止めていたこともあって、なんとなくバランスがとれて中途半端ではあるが均衡が維持されていたのが、それが崩れたのである。崩れたというより破られたのである。現状バランス派の大敗であった。という感慨を持ちえない政治家は早々に退場されたがいいと思う。均衡が破れた後は敗退であるが、それは潰走に近い。潰走とはどこまでもどこまでも敗走しとどまるところがないことをいう。
このような政治力学でのちょっとしたほころびが生みだす劇的な大変化は日常的に発生している。つまり、拮抗する政治勢力間にあって実力以上に負けてしまう勢力があることは実力以上に勝ってしまう勢力があることを意味する。そして実力以上に勝った勢力が度を外すのである。実力相応の均衡点にとどまらず勢い余って状況を劇的に変えてしまうのであるが、そこで悲劇が起こる。あるべき均衡点に振り子が戻ってくるまでの短い時間の中で必要ないことも強行されることが悲劇を生むのである。
私たち人類の今日の文明はエネルギーの乱費によって支えられているとの認識は正しい。ゆえにその是正も当然正しい。しかし、仮にそうであったとしてもたったの30年で実質排出量ゼロを達成するというのはあまりにも大胆すぎやしないか。達成できないといっているのではない。達成できるできないにかかわらず大きな犠牲が出るのではないかと危惧しているのである。簡単にいえば、目的論で成功し方法論で失敗するケースではないかと心配している。
◇ 議論であるから多少の飛躍や強調つまりデフォルメは許容願うとして、環境政策を推進する声は「現状を放置すればいずれ取り返しのつかない事態を招きそのときの被害たるやゼロエミッション達成に付随する被害の何十倍にもなるのではないか」というもので確かにそうであるのかも知れない。そうなることが自明なくらい確かなのにそれを放置することは未必の故意ではないかとにじり寄られれば大いに気持ちも動くだろう、まさにそれが人情というものだと思うが、だから同意したい気持ちもあるが、しかし原理主義の暴走も大きな破壊をともない、それが相当な確率で起こりえると思うから簡単に同意することはできない。原理主義の暴走を抑えるには確かなテクノロジーの進展を道程にすることで、そのためには科学的実証主義を表舞台にあげることが必要であろう。環境原理主義の跋扈を抑制することなしにパリ協定が目指す大業が達成されるとは思えない、のである。
欧州には原理主義を育む土壌があるようだが
◇ そういえば欧州から発せられる理念の多くに原理主義が抱卵されていることが多いと日頃感じているのだが、とくに理想が生まれたときにそれに反発するように逆の何か、その理想を打ち砕くような何かが生まれ、かつその誕生を知ったとき理想を奉じる側が逆上するといった相対運動を生む思想土壌が欧州にはあるのではないか。
2015年に生まれたSDGsも素晴らしく出来のいいスローガンで、言葉でいえば感服の一語であるが、現実とのギャップをどのように受けとめればいいのかなど結構漏れまくっているので、支持するにしてもこれは決して後味のいいものではない。その理由の一つが、世界の富の偏在、格差をどう定義するのかについて何も語っていないことで、これこそが持続可能なることの本質、つまり一番大事なところをパスすることによってのみ普遍的であると評価される一群の役立たずのこと、ではないかとのキツい嫌みが寄せられていること。第二が、個人の自由、政治参加が宙に浮いていること。第三が、今現に世界にある不都合な具体的な事実に向き合っていないことなどであるが、祝杯に水を差すようなことは差し控えたいが、誰にとっての持続可能性なのか、問わずとも見えてくるあふれんばかりの現状追認臭もっと厳しくいえば今の富の所有関係に正当性を与えることばかりが際立つ富裕層にとってありがたくも優しい理念構造が、腐臭をともなった悪い後味を生みだしている。
SDGsは精美なスローガンではあるが、怪しい興行の匂いも
◇ もちろん、パリ協定にしてもSDGsにしても、少なくともこのややこしい国際関係において立派にたなびく旗を掲げた英知と努力には最大限の敬意と賞賛を贈るものであるが、同時にその裏側にある大国のエゴと打算そして不寛容丸出しの自国主義に今に始まったことではないが照準の合わせようのない憤懣を覚えてしまう。
ついでにいえば、国連活動(SDGs)に企業を巻きこむ原理はどういう構造になっているのか、そのうえSDGsにそった良い投資と、従前の悪い投資との区分けはどういうことであろうか。お気楽に発信しお気楽に受け止めている企業経営者が多いようだが、資本の利潤追求性に手錠を掛けるのか、経済活動の最重要行為である投資に法以外の価値観を導入するのか、そしてそれがもたらす不都合な事象の責任を誰がとるのか。少なくとも国際官僚がとることはないであろう、彼らは指南するだけである。山ほど「いいね!」をもらっても不効率な投資は不効率であり、いずれ破綻するであろう。いま私たちが直面している資本主義の課題は投資ではなく分配であり富の格差、偏在である。巧妙な的のすり替え、逆立ちした論理、なにかしらいかがわしい興行の匂いを感じるのだが。
◇ さて、ここ(SDGs)でいうゴールとはサッカー試合のゴールとは異なり、おそらく達成できないだろうという含意を含むもので、いってみればそれらしく見せる祭の飾り物に近いとはいいすぎであろうか。
こういったほとんど愚痴に近い、聞き様によっては愚痴そのものと自分でも思うが、さらにこういった近親批判は間違いなく自傷行為になるとキツく自覚したうえで、なおくどく紙幅を重ねるのは、ひとえに欧州独特の理念原理主義がはびこるのではないかと強く危惧するからである。
「精美なスローガンに酔うでない」それは永遠の目標、決して到達できるとは誰も思っていない、超大国も大国もいずれの国々も表向きはともかく裏向きでは知らぬふりを決めこむ、この国家間に漂う不健康で不道徳な旋律が奏でるどうしようもない後味の悪さに、私は悶絶している。
必要悪などといわないが、しぶとくしたたかに生き残る国際官僚たちの新しくはあるが結構古くさいビジネス流儀にうまく巻き込まれていくずるさが新年のテーマの一つであろうか。
新年は東京オリンピック・パラリンピックが焦点
◇ 新年7月予定の東京オリンピック、パラリンピックがどうなるのか、日本政府の強い確信はそのままに現実は漂流している。引いたときは大吉であったが、今よく見ると大凶と刻印されている。ワクチンに希望を見いだす気持ちは痛いほどわかるが、事態は厳しい。さしあたって、バイデン大統領が何というのか、注目されるところであるが、誰しも引導を渡す役はやりたくないだろう。誰が決断するのか、政治的膠着が続く可能性が高い。宝くじが貧乏くじになってしまうのか。新年の政治は荒れ模様ではなく、大荒れである、と思う。
◇ 大雪が来るというのに松飾り
(去る12月27日、参議院議員羽田雄一郎さんが急逝されました。謹んで哀悼の意を表します。このホームページにもご出稿いただいていました。思えば現在のわが国に真に必要な方でした。本当に残念でなりません。ご冥福を祈ります。)
加藤敏幸
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