遅牛早牛

時事雑考「2021年はとても憂鬱で気ぜわしく不安で大声を出したくなる年です」

◇ 2021年、改まったという実感が乏しい年明けとなった。やはり新型コロナウイルス感染症の影響は甚大である。相次ぐワクチン開発に一時はホッとし経済も回復傾向を見せていたが再び世界を暗雲が覆っている。年が変わっても事態の深刻さは寸分も緩んではいない。わが国のコロナ禍はまだまだ続く。波乱ではなく大波乱の年となるであろう。

◇ 一昨日、二回目の緊急事態宣言が発出された。が、「後手後手ではないか」というのが世間の評価で、管政権の支持率も下がっている。昨年12月10日付けの本欄にて 「他方、医療崩壊への不安も高く、国民生活の諸処にストレスが高まりつつ、また蓄積されていく。これを軽んじてはならない。直接の責任がなくとも、往々にして怨嗟の的になるのが権力者であろう。(省略)政治的直感であるが、舟が覆る予感がしてならない。」 と記述したが、さらなる宣言の発出となるとストレートに首相の責任が問われてくる。また、飲食業中心に規制が強まれば倒産失業が増加することから、管首相が怨嗟の的になる可能性が高い。 

 そもそも昨年初めからの政府の対策がいわゆる俯瞰性を欠いた泥縄対応で体系性や総合性に問題があった。そういった前政権からの場当たり体質が現在も引きつがれており、なんとも戦略性を欠く政府の感染症対策への国民の評価はきわめて低い。すでに国会は二回も開かれているにもかかわらず、医療崩壊を食い止める総合的な医療体制整備は手つかずのまま第三波の感染拡大を迎えたことはまさに政治責任そのものではないか。またGO TOなどの政府の施策は感染拡大を助長したのではないかとやや感情的ではあるが人々は疑問と怒りをもち、さらに家族や介護親などとともにさまざまな不安を抱いている。しかも貧困層の窮状は一段と厳しさを増しているのである。

 今後、重症者の急増による不安と医療現場の逼迫や医療施設外での死亡などにより政権批判のボルテージは急速に高まると予想されることから、政権運営はいっそう苦しくなるだろう。場合によっては、党内からも批判がでてくるかも知れない。

 くわえて経済が良くない。また、18日から予定されている通常国会では目玉としていたIT庁の設置やグリーン成長政策などがどの程度脚光を浴びるのか、まだまだ読みきれず結局実績作りに苦しむのではないか。そのうえ、4月25日のダブル補選や東京オリンピック・パラリンピック大会開催の見通しなど難題がめじろおしですこぶる難渋しそうである。そうなるといよいよ尻拭い政権としての性格が強まるばかりで、こと志とは大いに違って短命、つなぎに終わるかも知れない。感染症対策については事態を甘くみたことと初手の躓(つまづき)き、また科学的知見の欠如など複合的であるがそれもこれもひっくるめて清算の日が近づいている。

 (舟が覆る予感とは、政変のことである。理論も理屈も何もない、ただの勘である。)

 

◇ 永田町では未だに解散総選挙の声があると聞くがどこまで脳天気なんだとあきれるばかりである。本当に悪い癖がついたものだ。いい加減にそういった党利党略思考から脱却して、国民の身になって考えろよ、といいたい。さらに三度目の安倍氏登板をという声があるらしいが冗談ではない根太が腐っているのではないか。安倍政治の本質の一つは説明責任の欠落でとても民主政治とはいえない。説明は不十分で納得できないと多くの国民は答えている。再々登板して永遠のモリカケサクラ押し問答をやられたのではたまらない、まっぴらごめんである。

 だから、継承したのが良くなかった。しかし、継承しなければ総理の椅子には座れなかったわけで、ここに管総理の限界線が引かれている。番頭の立場で身上を譲り受けたので看板を掛けかえるわけにはいかないということだろう。これからも負のアベ遺産に苦しむ日が続くのではないか。

 昔のことだが自民党内で40日抗争があったが、国民生活や外交を思えばとんでもないことで、現職にはもう少し頑張ってほしいとも思うが、どうなるのだろうか心配ではある。(ここでなんで自民党の心配をせなあかんのだ、これを政党政治の劣化というべきか、ともかく困ったものである。)

◇ 世上、「文句いい」と烙印を押されてしまった立憲民主党であるが、大きく跳躍するにはまだまだ時間がかかるのだろうか。烙印がキツすぎて少し気の毒な気もしないではないが、なにかしら埋没感に浸っている感じがしてならない。

 「政権批判だけではちょっと」というのが若者の声らしいが、であるならまともな政権構想をだせば、ということになる。とにかく頭のいい人たちの集まりだからもうできているのではと思う。しかし意気があがらないうえに足が遅い。小選挙区での選挙調整が進んでいるので次回は議席増だと誰しも思っている。たぶん誰かが票を入れるだろうと。現状を考えれば最低50議席贈ぐらいは当然だと思えるのだが、どうして政党支持率が低いのか、これがわからない。わからないことが多い政党である。

◇ 世界中から注目をあびたジョージア州上院議員選挙の決選投票が民主党二議席に固まりつつある。この二議席の帰趨(きすう)が米国の政治の基調色を決める。やっと青色ランプが点灯したが、これで飛ばしすぎると事故るからね、なにしろ分断の深さは並のものではない、民主党内も。

 大統領選の当選者を確認する上下院合同会議と同じタイミングでのトランプ支持者による連邦議会議事堂突入はさすがにやり過ぎで、共和党にとってプラスはゼロ、マイナスは山ほどということではないか。やり過ぎて自滅、まさにトランピズムの真骨頂である。いやになるほどわかりやすいことが人を動かし真実を隠す、とまとめるのは簡単であるが、まとめたからといって何かが解決するわけではないだろう。ペンス副大統領も鉛を飲み込んだような表情であったが、一方の民主党も背負うべきものは同じである。

 さしもの大統領閣下も大失態に気がつき世論に媚(こ)びるようにようやく円滑な政権委譲を表明したが、ではこの事件がなければ何が起こっていたのか、好奇心よりも恐怖心を覚える。何事も引き際が肝心なんだが、まあ通じないか。

◇ 引き際といえばプーチン、トランプそしてアベ(以上敬称略)三氏のうち最後の人が一番安全であろう。一番前の人は免責特権を手に入れた。問題は中程の人である。他国のことなので詳しくはわからないが、犬笛ならぬSNSでそそのかしたようにも見えるが、まあ大統領のすることではないだろう。これでは擁護者を失い退任後に訴追リスクを抱えることになりかねない。この脆弱性の政治的意味は重いが、本人は身からでた錆だから甘受すればいい、しかし支持者はどうするのだろうか。トランプドグマを抱え込んだまま漂流するのであれば悲しい物語になるだろう。

◇ ところで、英国の「出EU」が過去完了形となった。これは英国の問題であるが、英国だけの問題ではない、EUの問題でもある。EUとは欧州連合の英語名称の略称なのでこれからどうするのかしらといった他愛のないことはさておき、ちょっと口幅ったいが、加盟国にくすぶる不満をいかに解消していくかが団体加盟方式をとる組織においては大変重要で、さような不満は各国政府の任務だからといって突き放していては問題の解消にはつながらない。不満の根源がEUにある以上格段の配慮と対応が必要ではないか。もちろんそのためにも欧州議員がいて欧州議会があるのだが、逆に、であるのになぜこうなったのかという疑問が残る。おそらくこれからもこの疑問は残るであろう。

◇ 1992年6月にECからの招待を受け労働省、日経連、連合の政労使3名が、10日余りブリュッセルを中心に現地視察の機会をえた。当時連合に派遣されていた関係から参加することになったが大変ていねいなプログラムでマーストリヒト条約を始め歴史経過などさまざまな話が聞けて大変有意義であったと記憶している。ということで大いに親近感を持っていることを前置し話を進める。

 もう戦争が起こらない、あるいは起こせない仕組みとしての国家関係、また同一市場を形成して人物金の自由化をはかり経済繁栄を目指すなど、ヨーロッパの理想を実現するための取り組みは、東アジアから見れば輝かしくまぶしいものであったし、同時に少なくない疑問と猜疑をふくむものであった。しかし、そういった東アジア的政治センスを置き去りにするほどの速度でことは進行し通貨統合にまでいたったことを見れば大成功であったと思う。

 だから英国の離脱は残念の一言に尽きるのであるが、一体何が気に入らなかったのか、負担金の重圧感と移民政策への嫌悪感が主な動機といわれているがいずれも感であって理ではない。理由なき反抗ではあるまいし、老獪(ろうかい)と思われている英国民の判断にしては大いにお粗末で、離脱による利得宣伝にフェイクがあったとか後日さまざまな解説が出まわったが、結局腑に落ちるものではなかった。残念なことに未だによくわからない、合理的に説明できないのである。

 こういったことは英国だけに限ったことではなく一般的に人は時として合理性を欠く、ではなく往々にして否ほとんどのケースで合理性を欠いているのではないか。つまり政治判断において合理性を欠くことの方が常態であると。

 経済活動における私たちの個別の判断には経済合理性を欠くことが多々あるとは行動経済学者が指摘するところであるが、政治判断においても同様であると思われる。

◇ ちかごろ民主主義の危機といわれることが多くなった。とくに民主政治についてさまざまな論評があふれている。ここで普通選挙の正しさとその意義について改めて述べる必要はないと思うが、有権者がそれぞれよく考えて投票すれば必ず正しいとはいわないが少なくとも最適正の結論に達するという不動の杭があってこその民主政治であると何も考えずにそう思っていたことが、そうではないケースがあるというドンデン返しが起こっているのか。やはりそうなのである。

 投票がそのときの感情や情動によって強く動かされているとしても何万何十万という大きな数だからその投票結果が指し示す方向はなお正しいとどうしていえるのだろうか。さらに投票の仕組みが大きなブラックボックスで結局インとアウトにはつながりがないすなわち不正であると有権者が思い込んでしまったら、そしてそれは誤解だ勘違いだとていねいに説得してもその説得こそを陰謀だと非難されてしまったら、だれしも途方に暮れるであろうし、いいようのない無力感に苛(さいな)まれるであろう。英国と米国でそれに近いことが生じたと思っている。皮肉ではなく両国はさように先進的であるのだ。

◇ もっとも、英国のEU離脱については国民投票ではなく規模の大きな間接投票であれば状況が違っていたかも知れない。二段階方式である。もともと人を選ぶ投票とものごとを決める投票は同じ選挙と表現されるが本質的に違うものだと思う。人を選ぶ場合その人の実存がすべてであり嘘偽(うそいつわ)りのない限り意図どおりに選ぶことができる上に任期と寿命がある。しかし、ものごとを決める投票は何について賛否を問うのか、これがとても重要で大切な選択であればあるほど問うことの記述が難しいのである。離脱か残留かという設問は付随する条件と判断の根拠をあわせて聞かない限り結局肝心なことは何も聞いていないことになるのではないか。よく国会で「イエスかノーかで答えてください」と質問する議員を見受けるが、答えられないことの方が多いのが世の常識ではないか。

 国民投票を最終決着を図る手段として否定する気はない、つまり出口としての判断という意味ではありうると思うが、他国との交渉を後においての国民投票は大きなリスクを抱えることになると思う。とくに僅差であればなおのこと、高い確率で生じると予想される対立と分断を克服できるほどかの国の民主政治は成熟しているのかと羨望まじりに自問してみるが、なかなか難しい課題である。

 わが国では、大阪での都構想への住民投票が二回行われ、二回否定された。いずれも僅差であった。また、憲法改正にともなう国民投票が考えられるが、国会の発議がどうなるのか、文案や形式などこれからの議論であるが僅差の決定が産みだす問題の政治性にも着目する必要がありそうである。

◇ 国民投票において正しい判断を求めたいと思うなら、議会で何百時間とはいわないが十分な議論を行い国民に問うべき要点をまとめるべきである。議会でまとまる、議会が結論を出せるならばそれはもはや国民に問う必要がないといえるであろうから、国民投票の結果が新たな政治問題を引き起こすことにはならないであろう。おそらく大差の決定と思われる。

 そうではなく議会が結論を出せないのであればそのようなことをさらに国民に問うても、僅差の決定となるだろうから、たとえ結論を得ても実質的にその答えは執行不能で役に立たないものになるのではないだろうか。民主政治を大切に思うなら議会で決められないことをつまりきわどいことを国民に聞くなということではないか。

◇ 直接民主制の短所は広く知られているはずであるが、何かしらの拍子に国民投票とか全員投票がより好ましい評決法であると多くが勘違いしてしまうことがある。国民投票あるいは全員投票は、民主政治においてはなおさら絶対化しやすいので一度確定してしまうと変更が利かず場合によっては取り返しのつかない事態を招くおそれがある。もちろん内容次第であるが、少なくない反対者がいたとしてもその権威性が徒(あだ)となりおそらく超法規的に事態は動くであろう。このような危険性は民主制の両隣が全体主義という寓意に通じているもので現に歴史の教えるところである。

 

◇ 厚みのある中間層の存在が政治の安定を支えていることはその通りだと思う。そこで、中間層が薄くなってしまった場合どうすればいいのか、これこそ今日のテーマであろう。中間層が薄くなることは二極化と同時並行であるから、どんどん富んでいく富裕層とさらに貧しくなっていく貧困層との分断深化を食い止める方法があるのか、と議論は現代の核心へと移っていく。が、食い止めることだけでは十分とはいえまい。分断を融解してこそ解決につながるというもので、このためには富の分配構造の改革に着手する以外に手はないと断言せざるをえない。

 なぜ労働への分配が金融財や情報財への配当より少ないのか。そしてそれは妥当であるのか。正義にかなっているのか。この問いかけに対し誰が答えるのか。新型コロナウイルス感染症対策としてあふれるほどの通貨が垂れ流され堤防を越えるほどの金融緩和がなされているが、それでも貧困者はさらに惨めな状況に追いやられているではないか。この状況は貧しきものが政府をいかようにも攻撃しても免責されることを導くものなのか。無策で無能な政府を守らなければならない義務が困窮する者に課せられるのか、政治家はこの問いに迅速真摯に答えるべきである。まあ答える前に直ちに与えるべきであるのだが。

◇ 私は予言者ではない。しかし、富裕者は自主的に富の分配構造の変更を願い出るべきである。そう嘆願すべきである。そうしないとすべてを失うかもしれない。自分で運べるだけの金塊でいいではないか。感染症がもたらし、さらに悪化させているのは貧富の絶望的な格差であり生活や人の限界の破壊である。これはおとぎ話ではない、現職の大統領が何かをあおり、その結果連邦議会が数時間占拠された。この事態が再発しないという保証は今は誰にもできない。またその向きがいずれを刺そうとするのかなど、またそのような事態がどう具現化されるのかまったく予見できない。想像を超える物騒なことが突然出現するのがこの世ではないか。

◇ あえて予見するならば、それは米国民主党の政策が格差是正に大きく向かわざるをえないであろうということだけで、もしそれらの政策が労働の価値を高めるものであれば政治状況は多少安定化すると思うが漂流するトランプドグマ信奉者たちがそれをどう受けとめるのかに状況は左右されるであろう。

 それにしても、苦しむ人々を傍目に株高だとか暗号資産だとかみっともない花見宴会をしているがそれがどうして許されるのか。発火温度がずいぶんと下がっているのに、火を点けるとはまったく信じがたいことである。

 この状況でどんなに経済的合理性を説いていい訳に走ってもそのポケットからあふれている札束を見る限り、人々は納得しないであろう。今は早く喜捨したが身のためだと忠告するほかないのである。

◇木枯らしが赤き襟巻き強く引き 

 

加藤敏幸